第9話 向いてないかもしれない
ご覧いただきありがとうございます!
今回は、いよいよミュリエルが“初めての仕事”に挑戦するお話です。
慣れない環境、冷たい視線、それでも前に進もうとする姿――
新たな一歩を踏み出した彼女を、そっと見守っていただけたら嬉しいです。
朝、食堂で出されたパンをかじりながら、私は革袋の中をそっと確認した。
銀貨があと七枚。銅貨はそこそこ残っているけれど、宿代と食費を引けば、長くはもたない。
(……働かないと、本当にまずい)
昨日の市場で感じた「知らない世界」の空気。
そして、マルレーネさんの言葉。
“この町じゃ、世間知らずは目立つのよ。”
あれは、単なる忠告ではなかったのかもしれない。
「――働きたい?」
食器を片づけようと立ち上がった瞬間、マルレーネさんが声をかけてきた。
何かを見透かすような目で、私を見ている。
「……はい。仕事を探しています。何か、私でもできることがあれば」
「ふぅん。じゃあ、ひとつ当てがあるわ。市場の外れにある乾物屋。
今、帳簿つけと整理ができる子を探してるって。元貴族なら、数字くらい読めるでしょ?」
「……はい、読み書きはできます」
「じゃあ紹介状を書いてあげる。店主は口うるさいけど、腕は確かよ。
あんたがどれだけやれるか、ちょっと見てくるといいわ」
その口ぶりは軽かったけれど、私は思わず頭を下げた。
「ありがとうございます、マルレーネさん」
「お礼は要らない。どうせ、“このままじゃ潰れる”って思ってたところだしね。
あんたに潰されても、まぁ、いい見ものになるわ」
――冗談とも本気ともつかないその言葉に、少し背筋が伸びた。
⸻
そうして私は、乾物屋『カーディス商店』で働き始めることになった。
帳簿の整理、伝票の照らし合わせ、在庫棚の分類……。
一見すると難しくなさそうな仕事だった。
けれど、現実は甘くなかった。
「ほら、指止まってるよ。帳簿の数字、サボっても減りゃしないよ?」
ピリッとした声に肩が跳ねる。
店主の女性は背が低く、小柄ながらも威圧感がある。
「……すみません」
市場の乾物屋で働き始めて、まだ三日目。
宿の女将・マルレーネさんの紹介だったから、断られはしなかったけど――
実際のところ、私は歓迎されているとは言い難かった。
「丁寧すぎて気持ち悪いって、また言われてたよ」
店の若い弟子が、わざとらしく私の前を通りながら呟いた。
(わざとじゃない……でも、どうすればいいの?)
なるべく控えめに、柔らかく、上からにならないように。
それでも私は、言葉づかいや所作の一つひとつで“浮いている”のだった。
「――ってか、なんであんな女、雇ってるんだろ」
耳に入ってしまった言葉に、胸がざわつく。
それでも顔には出さないようにして、帳簿に目を落とした。
けれど、数字が滲んで見えた。
(向いてない。私は、やっぱり――)
「……あれ?」
ふと、記入済みの数字の並びに違和感を覚えた。
手元の伝票と照らし合わせて、一行を見直す。
(この在庫、先週の倍になってる? でも入荷記録がない……)
「失礼します。この、乾燥トマトの在庫……昨日と数字が変わってますけど、何か仕入れがありましたか?」
主人にそう尋ねると、彼女は不思議そうに眉をひそめた。
「いや、仕入れてないわよ? えっ……ちょっと、それ見せて」
数秒の沈黙のあと、主人が低く唸った。
「……あの子ったら、また写し間違えたのね……。助かったわ」
そう言って、ふと私に向かって表情をやわらげる。
「ありがとう、ミュリエルさん。細かいとこ、よく見てるのね。助かったわ」
「いえ……」
ほんの少しだけ、胸があたたかくなる。
「へえ、やるじゃん」
嫌味を言っていた弟子が、ぽつりと呟いた。
⸻
仕事が終わるころ、外はすっかり夕暮れだった。
宿に戻ると、マルレーネさんが食堂の椅子に座っていた。
私をちらりと見て、ニヤリと笑う。
「“できない”って顔してた割に、悪くないじゃない?」
「……でも、ずっと空気は重かったです。あの場にいていいのか、わからなくて」
「当たり前よ。あんた、まだ“異物”なんだから」
その言葉に、私はぎゅっと唇を噛んだ。
「けどね、“異物”ってのは、排除されるだけじゃない。
ときに、空気を変える存在にもなれるのよ」
マルレーネさんは席を立ち、私の肩をぽん、と叩いた。
「あんたがこの町で生きていくっていうなら、それなりの覚悟と武器を見つけなさい。
礼儀でも、観察眼でも、“強み”は無駄にならない。磨きようによってはね」
目が合う。
その視線の奥に、私への期待と試すような気配が混ざっていた。
私は、ゆっくりとうなずいた。
(逃げずに、続けてみよう。――まずは、それから)
自分の中で、何かが少しだけ動いた気がした。
最後までお読みいただきありがとうございました。
うまくいかない現実に直面しながらも、自分の“強み”を見つけ始めたミュリエル。
小さな成長が、やがて彼女の大きな転機につながっていきます。
次回は、この町での暮らしに少しずつなじんでいく彼女の姿と、
それを見守る“大人たち”とのやりとりが描かれる予定です。どうぞお楽しみに!