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第8話 市場と女将と、価値の違い

ご覧いただきありがとうございます!

今回は、ミュリエルが初めて“庶民の世界”に足を踏み入れる回です。


市場の空気、物価、他人の視線……すべてが初体験。

慣れない日常の中で、少しずつ彼女が何を感じていくのか、見守っていただけたら嬉しいです。

朝、目を覚ますと、少しだけ世界が静かに見えた。


昨日、家を出た。

もう戻ることはない――そう思っていたけれど、実感はまだない。

まるで、自分だけ別の場所に浮かんでいるような、不思議な感覚。


けれど、空腹は現実だった。

枕元に置いてあった小さな革袋を手に取って、私は宿の食堂へと向かった。


「おはよう。よく眠れた?」


明るい声が飛んできた。

宿の女将――マルレーネさん。

ふくよかな体型に、くるんと巻いた茶色の髪。

ぱっと見は朗らかそのものだけれど、目だけはよく動いていて、何もかも見抜かれそうな気がした。


「はい、ありがとうございます」


「それは結構。初日の朝食はサービスよ。旅の疲れ、まずは癒してもらわなきゃ」


そう言って出されたのは、焼きたてのパンと野菜スープ、リンゴの薄切り。


「明日からはしっかり払ってもらうけどね? ここ、“元お嬢様の保養所”じゃないから」


ウインクとともに笑われて、私は思わず小さく笑った。



食後、マルレーネさんに教えてもらった通り、私は市場へ向かった。


通りに出た瞬間、空気が変わった。

香辛料の匂い、焼き立てのパン、干した魚と、土と、人の体温と――すべてがごちゃまぜになって漂っていた。


活気。熱気。生の音。


(すごい……)


この世界に来てから六年になるけれど、社交界や屋敷の中しか知らなかった私にとって、これは衝撃だった。

あちこちから飛び交う声、笑い、怒鳴り、値切り合う声。


その真ん中に立つ自分が、あまりにも異質な存在に思えた。


(……どうしよう。何から見たらいいのかもわからない)


立ち止まってしまった私に、ふと誰かがぶつかった。


「どけよ、姉ちゃん!」


「っ……す、すみません」


小柄な少年に軽く肩を押され、私は慌てて通路の端に退いた。


(……この町では、“誰かのために”譲ってもらえるほど甘くはない)


それでも何とか一軒の果物屋に近づき、私はリンゴを見つめた。

赤くてツヤツヤしている。美味しそう。少し、値札を探す。


「3クラだよ」


売り子の若い青年が答える。

私は、そっと財布を開いた。


(……金貨しかない)


慌てて銀貨を探し、差し出そうとしたとき――


「あんた、冗談じゃないだろ? これ、たったの3クラだよ? 銀貨で買うやつなんかいないよ」


周囲の目が、少しだけ集まる。

恥ずかしさと、居心地の悪さが胸に広がる。


「……すみません」


何も買わずに、その場を離れた。


(“持ってる”ってだけで浮く。誰も“育ち”なんて気にしてない)


銅貨を持たなかった私の無知。

今まで、使用人任せにしてきた日常。

それが、ここでは通用しない。


どこかで小さく笑われたような気がして、私はうつむいた。



「財布の紐、見えすぎ」


突然背後から声がして、私は肩を跳ね上げた。


振り向くと、そこにはマルレーネさんがいた。


「街の真ん中でそんな持ち方してたら、スられるわよ。

 それとも、金持ちアピールかしら?」


「いえっ……そんなつもりは……!」


「冗談よ。けど、気をつけなさい。そういうの、ここじゃ命取りよ」


目が笑っていない。

その瞬間、私はこの人が本当に“ただの宿の女将”じゃないと、直感で思った。


「“貴族の娘”って、見れば大体わかるの。言葉づかい、目線、仕草――全部ね」


言われて、私は言葉に詰まった。


「でもね、黙ってるからって、それが悪いわけじゃないの。

 あんたみたいなのが、ここでどう生きるか。私は興味あるわよ」


それだけ言って、マルレーネさんはひらりと手を振り、歩き去っていった。


(……私を、試してるの?)


だけど、どこか不思議だった。

その後ろ姿が、まるで“逃げ場”じゃなく、“居場所”に見えた。


私は、もう一度しっかり財布をしまって、息を整えた。


(この町の空気を、ちゃんと吸えるようにならなきゃ)


その足で、私はもう一度市場を歩き始めた。

最後までお読みくださりありがとうございました。

まだ何も始まっていない、でも確実に前には進んでいる――

そんなミュリエルの一歩を、今回は丁寧に描いてみました。


次回は、いよいよ“初めての仕事”と、ちょっとした戸惑いのお話です。

引き続き、よろしくお願いします!

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