第8話 市場と女将と、価値の違い
ご覧いただきありがとうございます!
今回は、ミュリエルが初めて“庶民の世界”に足を踏み入れる回です。
市場の空気、物価、他人の視線……すべてが初体験。
慣れない日常の中で、少しずつ彼女が何を感じていくのか、見守っていただけたら嬉しいです。
朝、目を覚ますと、少しだけ世界が静かに見えた。
昨日、家を出た。
もう戻ることはない――そう思っていたけれど、実感はまだない。
まるで、自分だけ別の場所に浮かんでいるような、不思議な感覚。
けれど、空腹は現実だった。
枕元に置いてあった小さな革袋を手に取って、私は宿の食堂へと向かった。
「おはよう。よく眠れた?」
明るい声が飛んできた。
宿の女将――マルレーネさん。
ふくよかな体型に、くるんと巻いた茶色の髪。
ぱっと見は朗らかそのものだけれど、目だけはよく動いていて、何もかも見抜かれそうな気がした。
「はい、ありがとうございます」
「それは結構。初日の朝食はサービスよ。旅の疲れ、まずは癒してもらわなきゃ」
そう言って出されたのは、焼きたてのパンと野菜スープ、リンゴの薄切り。
「明日からはしっかり払ってもらうけどね? ここ、“元お嬢様の保養所”じゃないから」
ウインクとともに笑われて、私は思わず小さく笑った。
*
食後、マルレーネさんに教えてもらった通り、私は市場へ向かった。
通りに出た瞬間、空気が変わった。
香辛料の匂い、焼き立てのパン、干した魚と、土と、人の体温と――すべてがごちゃまぜになって漂っていた。
活気。熱気。生の音。
(すごい……)
この世界に来てから六年になるけれど、社交界や屋敷の中しか知らなかった私にとって、これは衝撃だった。
あちこちから飛び交う声、笑い、怒鳴り、値切り合う声。
その真ん中に立つ自分が、あまりにも異質な存在に思えた。
(……どうしよう。何から見たらいいのかもわからない)
立ち止まってしまった私に、ふと誰かがぶつかった。
「どけよ、姉ちゃん!」
「っ……す、すみません」
小柄な少年に軽く肩を押され、私は慌てて通路の端に退いた。
(……この町では、“誰かのために”譲ってもらえるほど甘くはない)
それでも何とか一軒の果物屋に近づき、私はリンゴを見つめた。
赤くてツヤツヤしている。美味しそう。少し、値札を探す。
「3クラだよ」
売り子の若い青年が答える。
私は、そっと財布を開いた。
(……金貨しかない)
慌てて銀貨を探し、差し出そうとしたとき――
「あんた、冗談じゃないだろ? これ、たったの3クラだよ? 銀貨で買うやつなんかいないよ」
周囲の目が、少しだけ集まる。
恥ずかしさと、居心地の悪さが胸に広がる。
「……すみません」
何も買わずに、その場を離れた。
(“持ってる”ってだけで浮く。誰も“育ち”なんて気にしてない)
銅貨を持たなかった私の無知。
今まで、使用人任せにしてきた日常。
それが、ここでは通用しない。
どこかで小さく笑われたような気がして、私はうつむいた。
*
「財布の紐、見えすぎ」
突然背後から声がして、私は肩を跳ね上げた。
振り向くと、そこにはマルレーネさんがいた。
「街の真ん中でそんな持ち方してたら、スられるわよ。
それとも、金持ちアピールかしら?」
「いえっ……そんなつもりは……!」
「冗談よ。けど、気をつけなさい。そういうの、ここじゃ命取りよ」
目が笑っていない。
その瞬間、私はこの人が本当に“ただの宿の女将”じゃないと、直感で思った。
「“貴族の娘”って、見れば大体わかるの。言葉づかい、目線、仕草――全部ね」
言われて、私は言葉に詰まった。
「でもね、黙ってるからって、それが悪いわけじゃないの。
あんたみたいなのが、ここでどう生きるか。私は興味あるわよ」
それだけ言って、マルレーネさんはひらりと手を振り、歩き去っていった。
(……私を、試してるの?)
だけど、どこか不思議だった。
その後ろ姿が、まるで“逃げ場”じゃなく、“居場所”に見えた。
私は、もう一度しっかり財布をしまって、息を整えた。
(この町の空気を、ちゃんと吸えるようにならなきゃ)
その足で、私はもう一度市場を歩き始めた。
最後までお読みくださりありがとうございました。
まだ何も始まっていない、でも確実に前には進んでいる――
そんなミュリエルの一歩を、今回は丁寧に描いてみました。
次回は、いよいよ“初めての仕事”と、ちょっとした戸惑いのお話です。
引き続き、よろしくお願いします!