第7話 見知らぬ街で、生きるために
お読みいただきありがとうございます。
家を離れたミュリエルが、新たな土地で“生きる”ことに向き合い始めます。
傷が癒えるには時間がかかる。でも、前を向くための最初の一歩を。
馬車の車輪が石畳を叩く音だけが、耳に残っていた。
私は、窓の外をぼんやりと見つめながら、心の奥にたまった何かをずっと押し殺していた。
家を出てから、まだ一日も経っていない。
なのに、まるで世界がまったく違ってしまったような気がした。
父の冷たい言葉。母の無表情な横顔。
リディアの、あの微笑。
(どうして、あんなふうに……)
感情はまだ整理がつかない。
胸の奥がずっと重くて、怒りと悲しみが混ざったまま、冷えたような気持ちになっていた。
けれど、泣くこともできなかった。
(泣いたって、戻る場所なんてない)
(なら、どうするの?)
私は、ふと自分に問いかける。
(生きるしか、ないんだよ)
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馬車は、領地の外れにある小さな街――“ベルガリア”に到着した。
商人と旅人の町。治安は悪くないが、貴族の姿は見当たらない。
まるで、別世界。
用意された宿は、街外れの古びた小さな建物だった。
けれど、贅沢は言えない。
「こちらが部屋になります。ご滞在の間、ご自由にお使いください」
宿の主人は丁寧な口調で接してくれたが、どこか事務的で――私は「ありがとうございます」とだけ小さく返した。
部屋に入ると、少しだけ陽の差す窓と、シンプルな机とベッドがあるだけだった。
けれど、今の私には十分すぎる空間だった。
私はようやく、鞄の中を開いた。
父から渡された小さな革袋には、金貨が二枚。
それと銀貨が十五枚、銅貨がいくらか。
(……思ったより、少ない)
でも、“貴族の家から出された娘”にしては、まだある方なのかもしれない。
捨てられるように出てきたことを思えば、もらえただけでも――
(違う、感謝する必要なんてない)
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引き出しの底に、小さな包みが忍ばせてあるのを見つけた。
そっと開いてみると、そこには古い本と、刺繍入りの布ハンカチが入っていた。
それを見たとき、不意に胸が熱くなった。
(……あのとき、荷物をまとめてくれた侍女さん……)
私に長く仕えてくれていた一人の侍女が、何も言わずに荷物に入れてくれたのだろう。
私の名前を刺繍したハンカチ。
それは、私が十四歳でこの世界に来て間もないころ、泣いてばかりいた私に、彼女が贈ってくれたものだった。
(大丈夫。あなたなら、ちゃんとやっていける)
当時、そう言って笑ってくれたあの優しい声を、今でも覚えている。
(……そうだね。やっていくしかないよね)
私は小さく息を吐いて、革袋の中身を改めて確認する。
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この国の通貨は、金貨、銀貨、銅貨の三種類で構成されている。
1ゴルドは100セリル、1セリルは100クラ。
つまり、私が持っているのは、金貨2枚と銀貨15枚――合計215セリル相当。
そこに銅貨を合わせても、数日間の宿代と食費で消えてしまう程度だろう。
「貴族だった頃の金銭感覚じゃ、あっという間に破綻しそう……」
ぽつりと呟いた言葉が、自分の中に落ちていく。
この町で生きるには、私も“庶民”として現実を知る必要がある。
「まずは……仕事を探さなきゃ、だよね」
声に出してみると、ほんの少しだけ気持ちが動いた。
まだ怖い。
不安もある。
でも、何もしなければ、何も変わらない。
私は立ち上がって、窓を開けた。
初めての街の風は、思ったよりも優しかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
不安と孤独の中でも、「生きるために動こう」とするミュリエルの姿を描きました。
次回はいよいよ、新天地での出会いと、ちょっとした波乱が……?
どうぞ、引き続き見守っていただけたら嬉しいです。