第5話「仕組まれた優しさ」
前回までお読みいただきありがとうございます。
少しずつ元気を取り戻そうとするミュリエルの姿を描きました。
でも、そんなときほど、不意に訪れる試練があるのかもしれません。
あの日から、一ヶ月が経った。
リディアの笑み、両親の背中、誰も何も言わなかったあの舞踏会。
それが夢だったらよかったのにと、何度も思った。
けれど、朝起きても現実は何も変わっていなかった。
私は部屋にこもっていた。
何もする気が起きず、出された食事にもほとんど手をつけられなかった。
使用人たちの視線が、かつてとは変わっているのを感じていた。
まるで、腫れ物を見るような、そんな目。
一度、リディアが訪ねてきたことがあった。
「お姉さま、元気出してください。みんな、心配してますよ」
彼女は優しげに微笑んでいた。
でも、その笑顔の奥にある何かに、私は目を逸らしてしまった。
結局、あのとき私は、ただ「……ありがとう」とだけ返して、何もできなかった。
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季節が少し進んで、春の気配が濃くなった頃。
ようやく私は、少しだけ外の空気を吸おうと思えた。
部屋のカーテンを開けると、やわらかな日差しが差し込んだ。
それだけで、ほんの少しだけ心がほぐれる気がした。
机にあった古びた日記帳を手に取る。
何ページも白紙のままになっていたそこに、震える手でペンを走らせる。
「今日は、少しだけ気分が良い」
たった一行。それでも私にとっては大きな一歩だった。
視線を横に移すと、棚の隅に置かれていた小さな鉢植えが目に入った。
ミントの鉢。以前、リディアと一緒に選んで植えたものだ。
水やりもせずに放置していたのに、小さな芽がまだ生きていた。
「……ごめんね、ありがとう」
そう呟いて、水を与える。
その緑を見ていると、自分の心にも小さな灯がともったような気がした。
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昼食後、食堂から出ようとしたところで、母が声をかけてきた。
「ミュリエル、一緒にお茶でもどう?」
驚いた。けれど、それ以上に嬉しかった。
「……はい、ぜひ」
私は、久しぶりに笑って答えた。
自室に戻り、使い慣れたハーブポーチを手に取る。
カモミール、レモンバーム、少しのミント。
穏やかで落ち着く香りのブレンド。
――ふと、背後に気配を感じて振り返る。
誰もいない。ただ、扉がわずかに開いていた気がした。
すぐに閉めに行ったけれど、その違和感は胸に引っかかっていた。
お湯を注ぎ、香りを確認し、トレイに載せる。
この一杯で、母ともう一度、ちゃんと話ができるかもしれない。
そんなささやかな期待を胸に、部屋を後にした。
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母は静かにティーカップを受け取り、口をつけて微笑んだ。
「優しい味ね。あなたらしいわ」
「そう言っていただけて、嬉しいです」
短いやり取り。でも、それが本当に嬉しかった。
私は、ようやくこの家でまた一歩、前に進めた気がしていた。
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だが、その穏やかな時間は、ほんの数時間で壊れた。
「奥様が倒れられました!」
使用人の悲鳴に、私は凍りついた。
慌てて駆けつけた母の寝室。
そこには顔色の悪い母と、取り囲む侍女たち、呼び寄せられた医師の姿。
「急激な眩暈と吐き気……これは、何かの中毒症状かもしれません」
「お召し上がりになったものは?」
「……お茶だけかと。ミュリエル様が淹れたものです」
その瞬間、全員の視線が私に集中した。
「な……そんな、私……!」
信じられないという気持ちで、ただ立ち尽くす。
「娘がそんなことをするはずがない。……なあ、ミュリエル?」
父の声に、思わず縋りたくなる。
けれどすぐに、使用人の一人が私のハーブポーチを差し出した。
「念のため確認したところ、“スルリナ”が混ざっていました」
「そんなはずありません! 私は絶対に、そんなもの使ってません!」
その葉は見覚えのないものだった。
でも、たしかに私のポーチの中に入っていた。
「スルリナは、体質によっては毒になります。今回の症状とも一致します」
医師の言葉に、誰も何も言い返せなかった。
「わたし、信じて……本当に……!」
必死に訴える私の声が、虚しく空気に溶けていく。
そのときだった。
「お父様、お母様……お願いです。お姉さまを、疑わないでください」
リディアが泣きながら、私の前に立った。
「お姉さまが、そんなことをするはずありません。私は、信じています……!」
その涙声に、周囲の空気が揺らぐのを感じた。
誰かが小さく息を呑み、視線を交わし合う気配が伝わってくる。
私はその光景を、ただ黙って見ていた。
(……ありがとう、リディア)
口に出せなかったその言葉が、胸の内に沈んでいく。
でも、どうしてだろう。
その「ありがとう」には、不思議なほど実感が伴わなかった。
私の声はかき消され、訴えは届かず、
ただリディアの涙だけが、あの場を静かに染め上げていく。
父は何も言えずに口を閉ざし、
母は意識のないまま、寝台の上で浅く息をしていた。
誰も何も言わない部屋の中で、
私はひとり、罪の重みを背負わされたような気持ちで立ち尽くしていた。
(……信じてくれると思っていたのに)
(私は、なにもしていないのに)
震える指先が、どうしようもなく冷たかった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
一歩踏み出そうとした先に待っていたのは、思いがけない“罠”でした。
次回、第6話では、その疑いが大きく膨らみ、家族との関係にも変化が――
どうぞ引き続きお付き合いください。