第3話「帰る場所、帰れない心」
ご覧いただきありがとうございます。
今回は婚約破棄の翌朝、妹との対面と実家への帰還が描かれます。
安心できる場所に戻ったはずなのに、どこか噛み合わない――そんな違和感がじわじわ広がっていく回です。
「……お姉さま、起きていらっしゃいますか……?」
扉越しの声に、私はまぶたを閉じたまま返事をしなかった。
ノックの音。ゆっくりと開かれる扉。
一歩、また一歩。近づいてくる足音。
ベッドの脇で気配が止まる。
「……あの……ごめんなさい……」
小さな声。震えていた。
リディアだった。誰より私を知っている、妹。
「本当に、私……どうしたらよかったのかわからなくて。セシル様が、突然あんなこと……」
声がかすれている。泣いているのがわかる。
嘘じゃない。演技でもない。
でも、それでも。私の感情は、何も動かなかった。
「……お姉さまは、ずっと努力してたのに。わたし、知ってたのに……」
ごめんなさい、ともう一度彼女はつぶやく。
けれど、私は背を向けたまま、何も言えなかった。
リディアはしばらく黙っていたが、やがて気配が離れていき、静かにドアが閉まる音がした。
* * *
馬車の中、リディアは私の隣に座っていた。
けれど互いに言葉はなく、気配だけが重く沈んでいた。
私はただ、眠ったふりをしながら、ゆっくりと呼吸を整える。
この空気の中で、何かを話す余裕はなかった。
やがて実家の門が見えたとき、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
――帰ってきた。けれど、私は何を持って帰ったのだろう。
「ミュリエル!」
母が玄関口に立っていた。目には涙が浮かんでいる。
そのまま駆け寄って、私を強く抱きしめた。
「よかった……無事で、本当によかった……!」
「……ただいま、母様……」
声を出した瞬間、涙がこぼれた。
どれだけ張りつめていたのか、自分でも驚くくらいだった。
父も近づいてきて、私の肩にそっと手を置く。
「大丈夫だ。おまえの味方は、ちゃんとここにいる」
その言葉に、胸がいっぱいになった。
やっと、少しだけ、呼吸が楽になった気がした。
けれど――その安心感は、長くは続かなかった。
「少し休んだら、今後のことも考えないとね」
母がそう言ったのは、家に上がってお茶を飲んでいたときだった。
「……今後、ですか?」
「そう。たとえばお見合いとか。何件かお話もいただいてるのよ。魔力の有無を気にしない方もいてね」
一瞬、時が止まった気がした。
「ちょ、ちょっと待ってください。私は……まだ昨日、あんなことがあったばかりで……!」
「ええ、もちろん。今すぐとは言わないわ。ただ……」
「“ただ”、じゃありません!」
声が大きくなった。自分でも驚いた。
「私、まだ心の整理もついてないのに、もう次の相手を探せって……そんなふうに、簡単に割り切れるわけがないじゃないですか!」
母は少し驚いた顔をしたが、すぐに静かに言った。
「……ごめんなさい。ただ、あなたに幸せになってほしくて」
「私は“誰かに選ばれてる状態”じゃないと幸せじゃないんですか?」
しばし沈黙が流れた。
父が口を開く。
「ミュリエル、おまえが傷ついていることはわかってる。だが、社交界での立場というのも現実としてあるんだ」
「立場……」
私は苦笑した。
「じゃあ、私は“魔力がない伯爵令嬢”として、次の“条件のいい相手”を探すしかないんですね」
「そんなふうに言ってるわけじゃ……!」
母の声が少しだけ強くなったが、私はもう何も返せなかった。
「ごめんなさい。少し……ひとりにさせてください」
そう言って席を立ち、自室に向かう。
廊下を歩きながら、胸の奥がじんじんと痛んだ。
期待していたわけじゃない。
でも、ほんの少しだけ、“元に戻れる”って、思ってしまった。
自室に戻り、扉を閉める。
ベッドの端に腰を下ろし、天井を見上げる。
(私は……どこにも、帰れないのかもしれない)
そう思ったとき、また涙がこぼれた。
*
その夜、リディアは屋敷の廊下の窓辺に立っていた。
月明かりの下、静かに息をつく。
「……やっぱり、私が間違ってたのかな……」
誰に向けるでもない独り言。
けれど、その顔は伏せられていて、表情まではわからない。
風がカーテンを揺らす音だけが、廊下に残った。
お読みいただき、ありがとうございます。
うまく言葉にできない感情や、心の中に残るざらついた何か。
そんな“静かな揺れ”のような回でした。
少しずつ、物語が動き始めています。
また次回、お会いできたら嬉しいです。