第12話 現実を数える指先
いつもお読みいただきありがとうございます!
今回はミュリエルが「今のままじゃ届かない現実」と向き合い、
自分にできることを見つけようとするエピソードです。
小さな試みが、やがて彼女の未来を変えていく――
そんな第一歩を見届けていただけたら嬉しいです。
「……やっぱり、足りない」
私は帳簿の片隅に書き込んだ数字を見て、小さくため息をついた。
乾物屋でもらえる給金は、銀貨五枚と少し。
宿代と食費を引けば、毎月手元に残るのは銀貨二枚程度。
一年で銀貨三〇〇枚を貯めるなんて、とても現実的じゃなかった。
(十二ヶ月で三〇〇枚ってことは……ひと月二十五枚?)
私は指を折りながらざっと計算する。
現状では、目標の一割にも満たない。
「地道に働けば何とかなる、なんて甘かったな……」
だけど、それでも諦めたくはなかった。
学院で学びたい。
この世界のことを、自分の目で見て、頭で考えて、知識として身につけたい。
そうすれば――自分の価値を、自分で作っていける気がするから。
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「……ってことで、あんたが今のまま働き続けても、銀貨三〇〇枚はたぶん無理」
マルレーネさんは、机に肘をつきながら言った。
「副業でもする? 手を出すなら早いほうがいい」
「副業……何か、私にできること、ありますか?」
「読み書きできる、算術できる、礼儀作法とお茶の知識もある。
そうね……その辺、町の商家の子らに教えれば少しにはなるわよ。
あと、あんた、前に香草ティーに詳しいって言ってなかった?」
「はい。前の世界――いえ、前に住んでた場所では、よく飲んでいました」
私は大学時代、カフェでアルバイトをしていたことを思い出していた。
お客様に合わせたブレンドを考えるのは楽しかったし、
それを「おいしかったよ」と言われるのが、何より嬉しかった。
「ふーん。じゃあ、自分で作って売ってみたら?
珍しいブレンドとか、“落ち着く香りの茶”ってのは、この辺じゃまだ珍しいし」
私は少し考えてから、うなずいた。
「……やってみます。材料が少しあれば、試作品くらいは」
「よし。どうせ余ってる香草あるから、台所から好きに持ってきな。
味覚は貴族仕込みで洗練されてんでしょ? ほら、やってみなさいよ」
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夜、台所の端で、マルレーネさんが使わないという香草の束を借りて、小さなティーパックを作った。
――カモミール、ラベンダー、ローズヒップに近い風味の赤い実。
これとこれを混ぜれば、少しフルーティで落ち着く香りになるはず。
乾いた布で包んだ即席のパックを、熱湯を注いだカップに沈める。
ふわりと香りが立ち上り、私は深く息を吸った。
「……懐かしい。こんな香り、こっちでは嗅いだことなかった」
マルレーネさんに試飲してもらうと、彼女は無言で一口飲み、
「悪くないわね」とだけ言った。
それだけの言葉だったけれど、私は心の底でふわりと嬉しくなった。
「調子に乗るんじゃないわよ。あたしの舌には合ってただけかもしれないんだから」
そう言いながらも、マルレーネさんはもう一口、静かに飲んでくれた。
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次の日、宿の他の宿泊客にも飲んでもらった。
「なんだか落ち着く」「よく眠れた気がする」と好評だった。
ひとり、旅商人風の女性が私に話しかけてきた。
「このお茶、名前あるの? ほんのり甘くて、気分が和らぐのよねぇ」
「えっと……まだ決めていませんが、“心をほどく香り”という感じで考えていました」
「へぇ。いい名前。もし売り物にするなら、私、また買いたいわ」
もちろん、お金はもらっていない。
でも、誰かが自分の作ったものに“良かった”と言ってくれることが、
こんなにも心を軽くするものなんだと知った。
(……これが、仕事になるかもしれない)
まだ分量も不安定で、香りも毎回ちょっと違う。
でも、改良していけば、ちゃんとした商品になるかもしれない。
私は空き瓶にブレンドを詰めて、ラベル代わりの布を巻いた。
小さく「心をほどく香り」とだけ書いた紙を添えて。
そして、自分の部屋に戻ると、紙とペンを取り出してこう書いた。
――銀貨三〇〇枚。
目標。未来。私自身の価値。
私は、その紙を壁に貼り、静かに拳を握った。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ミュリエルが選んだのは、“今ある知識”を活かすという道。
それは不安定で、誰にも保証されない挑戦かもしれません。
それでも、少しずつ手応えを感じ始めた彼女の前に、次回、
「商売の世界のリアル」が立ちはだかります。お楽しみに!




