4話 「生気」
父がいないことをよく同年代のやつらに揶揄われた。悔しくなって八つ当たりのように母に父について尋ねたことがある。母は困ったように淋しそうに消えそうな程小さな声でごめんねと言って笑うだけだった。
普段は風に吹かれれば消えてしまいそうなほどに儚げだった母だが、踊りを披露する時だけは凛としていた。楽し気で、陽気で、晴れ晴れとしていた…踊り子にとって舞うことは息をするのにも等しいのだ。
チュッ…ちゅぅっとやけに耳に響くリップ音で目が覚めた。気分は最悪だ。
「っ!!?おまえ!!!」
「リーフだよ。」
「くそっ!リーフ!!!お前がキス魔の変態だろうが、殺戮の変人だろうが、犯罪者だろうが構わない!けど、俺に危害が及ぶとなったら別だ!!!」
「…ひどい言われようだね。」
リーフは気の抜けたような笑みを溢した。
『癪に障る男だ。誘拐するなり伴侶になれと言った。普通の人間だったら一発食らわせて逃げれるが、こいつ相手にはそうもいかねぇ。』
「でも、ここは空気が薄くて人間が生きるには厳しい環境なんだよ。シエがこの部屋から一歩でも外へ出たら死んじゃうよ?」
「シエって呼ぶな…。どういう状況なんだよ…。」
「この部屋は、君が生きられるように人間にとって最低限の空気と温度を保つ魔法をかけてあるんだ。」
「…ここはどこなんだ?」
「竜の里にある僕の住処の一室?」
「…。」
誘拐されてからどれほどの時間が経ったかはわからない。思っているよりも状況は最悪なのかもしれない。一度落ち着いて部屋を見回した。時計はない。目の前の男のような白と銀と紫を基調とした、簡素だが質の良い家具が揃っている。ベッドは男二人が居てもなお余白のある大きさで、枕やクッションが適度に置かれている。ふと自分の格好が目に入った。シルク生地だろうか…滑らかな肌触りの見たことのない真っ白な民族衣装に首には首輪のようなやや重めのネックレスが飾られている。
「何だこれ…。おい!俺の衣装はどこだ?」
「衣装?君が身に着けていた布切れのこと?」
布切れとは大層な物言いだとシェグレは反抗心を覚えた。舞いの衣装は母が生前にあつらえてくれた一張羅である。知り合いの踊り子や酒場の店主から譲り受けた手や足についていた飾りも全てはずされていた。唯一残されたのは母が気に入っていた耳飾りのみ。
「…お前にとってはボロッちい服に見えるかもしれないが、俺にとっては大切なものだ。返してくれ。」
「気を悪くしたならごめんね?一応捨ててはいないけど、あんなに薄い布だとここじゃ寒いんじゃないかな?飾りもサイズが大きかったり小さかったりで不格好だったから外しちゃった…。君の耳飾りだけはセンスが良かったから外さなかったけど…」
「…あの服に防寒の機能性は求めるな。あれは踊るための服だ。」
「踊り?君は踊れるの?」
「…俺は踊り子だ。」
「踊り子…。ねぇ、踊って見せてよ!!!」
どんな相手だろうと踊って見せろと言われたら踊りで魅了したくなるのが踊り子だ。何の役にも立たない性だが、少なくとも俺はそうだ。踊りたいと体が疼いたが、今の自分の体はまるで自由が利かない。
「…いいぜ。と言いたいが、無理だ。」
「なぜ?」
「体が…思うように動かない。」
「あぁ!君が嫌がるからあんまりしないようにしていたけど、踊ってくれるというならいいよね?」
「何がだ?」
シェグレの問いに答えが返ってくることなどなかった。返事の代わりに齎されたものは濃厚な口づけだった。いつものように反抗を許さないリーフの強い力がシェグレを拘束した。
『この変態キス魔が!!!』
5分、10分…時計がないからわからない。どれほど時間が経ったのだろうか…。何となく様子が気になって、ふと閉じていた眼を開けてみると、紫の瞳がこちらをじっくりと見つめていた。
「っ!?」
『こいつ…ずっと俺を見てたのか!?』
ちゅっちゅ、ちゅっちゅと絶え間ない水音が急に気になりだした。落ち着かない…かと言ってもう一度目を閉じるのも何か違う気がする。
シェグレの動揺さえも楽しむようにリーフは瞳を細めた。そしてまた、口づけが途絶えることなく時間が経っていく。シェグレはリーフの瞳に捉えられてからずっとおかしな気分になっていた。心が焦燥するような、緊張するような、気まずいような…とにかく落ち着かなくなっていた。そして何より、自分では認めたくない欲望が溜まっていった。
「ちゅ…くちゅっ…っあ!…ちゅ…」
『こいつ…なんでこんなにうまいんだよ!!』
気持ちがいい、この欲に身を委ねては相手の思い通りな気がしてならない。だが、思考は溶けていく…。
「んぁっ!…あっ…」
やがて理性も欲に溶かされる。シェグレの抵抗の手はとうに止まり、力なく縋りつくための手となっていた。漏れる声に歓喜したリーフはさらにシェグレを攻め立てた。シェグレの体は刺激を求め、そして享受し、さらに高みを望んだ。
『なんだこれ、体がおかしいっ!』
シェグレの心は未知の感覚に恐怖し、体は素直に喜んだ。ぞくぞくと体が震える。何が起こっているのかなどもはや重要ではない。これから何が起こるのか、ただそれだけを知りたかった。知らないことが起こるのはいつだって怖いものだ。
「っぁ!やっ!…んんっ!」
恐怖から抵抗を見せたシェグレにリーフは諫めるようにシェグレの頭を固定した。逃げることは許さないと拘束が強まる。
リーフの指先がシェグレの背中をするりと撫でた。
「っっん!?ぁぷあっ!!…はぁあ…あっ…あ…はぁ…あぁ…。」
「ふふ、存外可愛いものだね。」
「なっ!?」
「僕のキスは君を満足させてあげられたみたいだ。」
「っ…。」
リーフの言葉通りシェグレの体は今まで味わったことのない快感に酔いしれていた。しかし、肯定するにはシェグレのプライドが許さなかった。
「さぁ、もう動けるはずだよ?僕の体の一部を摂取すればこの環境にも馴染めるからね…。まずはお風呂に入ろうか?」
「…む…むぃだっ…っ。」
「なぜ?」
「…っ!」
シェグレの体からは確かに倦怠感は抜けていたが、代わりにリーフから齎された快楽に溺れていた。体は熱を帯び、力を入れようにもふるふると震えるだけだった。そんなシェグレの様子をじっと観察していたリーフは合点がいったように言葉を発した。
「あぁ!気持ちよくなりすぎて力が入らないのか!」
「っ!!!?」
『くそっ!!!しね!!!』
シェグレはリーフの全てに毒づいた。