#82 死掴の洞窟烏賊その十二
「すうっ・・すぅっ・・・」
必死に自宅から離れていく二人。そしてその片方に抱きかかえられた赤ん坊は、疲労が限界だったのか、今はすやすやと寝息を立てて眠っている。
「この状態で寝られるとは・・はは、肝が据わってるなぁ・・・」
「将来はきっと大物ね・・・それであなた、ここからどうするの・・・?」
なんとか一時的には危機を乗り越えたものの、まだ安心することはできない。
今頃、先程気絶させた男たちが目を覚ましているところだろうか。奴らは誰かの指示を受けて襲撃を行っていた様子だったので、後ろから追いかけられていても何らおかしくない。更に、奴ら二人だけではない。向こう側の新しい戦力の想定もしておいた方が無難だ。
それでも、今この状況での勝利条件が、『敵から逃げ切る』ことであることには変わりはない。
無理に全員を倒そうとするのはあまりにも無謀だ。それに、キキョウもユカリも戦闘能力自体は全然である。
それゆえにユカリは敵の妨害、自分とムラメの防御に徹していたのだ。
キキョウも同様。独自の技術で統合したスキルの重ね掛けにより、一時的に身体能力を底上げしていただけにすぎず、その効果も限界に近付いている。再戦は厳しいだろう。
なので逃げる。このまま走り続ける。だが、キキョウも闇雲にただ遠く遠くへと走っているわけではない。
「・・・・・私に考えがある・・というより、当て・・いや、その情報に確証はない。だけど、信頼に値する・・・はずだ・・・!」
「・・・なんだかすごく曖昧だけど・・・本当に大丈夫?」
「分からない・・・だけど、これ以外に道はない・・・!」
キキョウはある老婆を信じ、二人を連れて街の西に向かって走り続けた。
「・・・ここって・・?」
「間違いない・・ここが西の果ての獣道・・・」
幸い、まだ追ってはここまで迫ってはおらず、怪しげな人影も見当たらなかった。
一安心にはまだ早いが、ひとまず安堵のため息を吐き、街から外れ、辺りは一面の森先の見えない獣道を再び見やる。
「すぅっ・・すぅっ・・・」
「・・・この先には・・何があるの・・・?」
ユカリはキキョウに若干の恐怖が入り混じった声でそう問う。
それもそのはず。キキョウたちの暮らしていた街は、小国アマテラスの最西端にあるのだ。その先に何があるのかは、一般的にこの国で用いられる地図には一切記載されていない。
調べるためには過去の古い資料を洗いざらい調べなければならないが、それらも厳重に国が保管しており、閲覧はまず叶わない。つまり、この先の景色を知る者は、おそらく、この国には誰もいない。
キキョウは、危険を承知で最も生存率の高いであろう道を選んだつもりだ。一切の迷いもない目をユカリに向け、そして微笑む。
「大丈夫。二人は必ず私が・・ゴフッ・・・!」
「あなた!?」
「・・・急ごう。時間が無いかもしれない・・・」
キキョウは気持ちだけを胸の中に受け取り、自身の事には目もくれずに獣道を進む。
枝分かれしておらず。まっすぐな一本道。だが決して人間が拓いたとも思えないそれは、二人に意味深な何かを感じさせる。
二人は不安を感じながらも奥へと進んでいく。それしか道がないから。もう後戻りは出来そうにないから。
キキョウの頭の中では、ある一言が自然と浮かぶ。「理不尽だ。」と。
しかし人生。時には理不尽なことだって起こりうるだろう。しかし、今回のこれは、彼にとってあまりにも悔しい事であった。
キキョウは魔法の可能性を示し、国の更なる発展を願っていた。変わりつつある時代の先駆者になろうとしたのだ。なりたかったのだ。
しかしこれが現実。理不尽なほど思い通りにいかない。国を変えるということは、こんなにも難しい。
当たり前だということなど分かっているが、キキョウはそれに本気で取り組んできたのだ。その結果がこれだ。藪医者扱いされ、妖術がなんだと言われ、挙句の果てに家族まで危険にさらしてしまった。
「畜生・・・畜生・・・」
これまでの努力も、人に尽くしてきた時間も、全てが水泡に帰した。
もう、キキョウの心は、修復に修復を重ねたそれは、とうとう折れてしまった。しかし最後の強がりなのか、キキョウはユカリとムラメには見えないように、背を向けてその涙を流す。
「あうー、ぱー」
「・・・!?ムラメ・・・」
キキョウの背中に小さな手を当てるムラメ。その手からは、確かな暖かさと、彼女が内に秘めた何かを感じた。
少し視線を上にすれば、ユカリがキキョウを見て優しく微笑んでいる。今の彼にその笑顔は、あまりにも眩しいものであった。
「正直、これからどうなっちゃうのかなって思ってる。けど、三人なら、絶対大丈夫っていう確信があるの。だから、アマテラスの医者のキキョウはもうおしまい。医者の妻の私も、医者の娘のムラメもおしまい。あなたも、私も、そしてこの子も、変わらなくちゃいけない・・・進みましょう。新しい自分と、迷わずに。」
「・・・・・本当に、私は幸せ者だな・・・」
「ふふっ。私はどこまでもついていくわよ?外国でも、世界の果てでも、地獄でも。」
「ははは、ありがとう。でも、流石に地獄までは勘弁してくれ。ムラメもいるしね。」
「・・えぇ。それもそうね。」
「うあー」
どこまでも明るい。そんな表現が相応しい言葉は、彼の心に深々と突き刺さる。刺さったそれはじんわりと解れていき、彼の心を包むかのようだった。
その後も三人は獣道をどんどんまっすぐ進む。
追ってはもう諦めたのだろうか。それとも見失ったのだろうか。結局ここまで姿は一向に見えなかった。
「もう、獣道が終わるわね。」
「あぁ・・・そしてここは・・・山の麓・・・か?」
獣道を踏破し、森を抜けると、目の前に広がっていたのは石の山脈と表現するのが適切であろう光景。辺りに連なる灰色のそれは、ここまで全く気付かなかったのにも関わらず、急にその存在感を強くする。
そして景色の奥で動くものがあった。それは、人影。
「誰ッ・・・!?」
「・・・いや、あれは・・・・・ツテコ・・さん・・・?」
現れたのは、キキョウのよく知る。ある意味で予想通りの人物。キキョウをここへと導いた張本人。ツテコその人であった。
「来おったか。キキョウ先生・・・いや、紫一族のキキョウよ。」
だが、纏う雰囲気は、やはりいつものツテコではない。纏うのはさながら猛者の風格。強者のオーラ。病院に来る必要など微塵もないのではと思わざるを得ない程の迫力。普通の老人のそれとは明らかに違う。
「貴方は一体・・・何者・・なんですか・・・?」
「・・・それを知る必要はない。だが、いつか知るときが来るのかもしれんな。わしは伝え、託す者。とだけ、今は言っておこうか。」
その言葉の意味は、二人は真に理解することはできなかった。
「ツテコさん。覚悟は決まっています。家族のために・・私は咎人となる・・・!」
「・・・うむ。その覚悟、どうやら本物のようだ。」
何を見透かしたのか。ツテコはキキョウの覚悟をあっさりと認める。とはいえ、キキョウ、そしてユカリの覚悟は間違いなく嘘偽りのないものである。
「・・・お前たちが生き残る方法は一つだけ存在する・・・これからお前たちを、エンゲージフィールド地下洞窟。洞窟居住民の元へと転移させる。あそこであればお前たちを匿ってくれるだろう。だが、行くにあったって大きなデメリットも存在する。」
「デメリット・・・?」
キキョウはツテコにそう聞き返す。
エンゲージフィールド、洞窟居住民、聞きなれない単語ばかりだが、焦りからであろうか。なりふり構っている時間すらその時は惜しかった。
「そうだ・・・水も食料も必要のない肉体となる。それすなわち、普通の人間ではもういられないということ。更に、考え直すには十分な点が他にも二つある。」
「・・・それは・・どういった・・・?」
「まず一つ。もう二度と日の光を拝めなくなる。死ぬまで洞窟で暮らすこととなる。慣れれば平和な暮らしだろうが、すぐには厳しかろう。元の生活に戻りたいと思うことも少なくない筈だ。次に二つ目。バケモンの存在だ・・・」
「化け物・・?」
「うむ。グラーケンと呼ばれるその場所の主。勝ち目の一切ない怪物の隣でひっそりと暮らすこととなる。最後に聞こう。わしが言ったのはあくまでも最終手段だ。魔法の研究をやめれば、元の生活に戻れる可能性もあるかもしれん。無理にとは言わん。」
キキョウとユカリは一瞬見つめ合い考える。そして二人はムラメを見やってから、ツテコの方へと向き直る。
「・・・・・いえ。私は・・私たちはこの国を出ます。職も、財産も、全て捨てて逃げてきたんです。後戻りなど考えていません。」
「ツテコ様。どうか、お願いいたします・・・夫と、そしてこの子と、どうしても生きたいんです・・・成長したムラメには、さぞ罵詈雑言を浴びせられるでしょうが・・・それでも、明日を生きていたいです・・・!」
ツテコは一瞬黙り込み、二人を、そして小さな命を見つめる。そして感じた。この家族は強いと。
「・・・分かった。では、お前たちの新しい人生がより良いものになることを、心から願っておるよ。」
ツテコは三人にそう言い、魔法発動の構えを取る。
「・・・カァッ!!『現世界之転送』!!!」
「・・・ッ!うぉ・・・!」
ツテコが唱えると、キキョウら三人の足元に、巨大な魔法陣が展開される。
それはキキョウが見たことも無いような、解読不可能な複雑な構築式であり、美しい水色のそれには、感動のあまり言葉が漏れる。
だが三人の意識は、ついにそこで途切れた。
キキョウよ、お前の背負う代償は取り除いた。くれぐれも、今後はあのような無茶をするでないぞ。
・・・・・七年後、英雄の雛が訪れる。どうか、その助けとなっておくれ―――
そして、次に目を覚ましたのは、辺り全てが岩の世界。広い広い洞窟だった。