#79 死掴の洞窟烏賊その九
キキョウは夜の街を必死に走る。
職業柄運動することがほとんどないので、彼の体力は一般人にも劣る。足の筋肉は痛みを感じ始め、冬の冷たい空気を必死に取り入れる肺はとうの前に悲鳴を上げている。
だがそんなものは、この状況では何の言い訳にもならない。思ったように進まない自分の体に鞭を打ち、血気迫る表情でひたすら、ただひたすらわが家へと駆ける。
「もう・・この後どうなったっていい・・・!」
彼が決心したことは、自分のある魔法を使うことだった。
この魔法は理論上、己から疲れを消し去り、身体能力、体力を一時的に急上昇させるというもの。
なぜそのようなものを最初から発動させなかったかというと、この魔法は疲れを消し去ったように感じさせるものであり、実際に体力が全回復するわけではない。言うなれば、一種のドーピングなのである。
そしてもう一つ。まだキキョウは、この魔法を一度も発動したことがない。
それゆえに、本当に使用可能なのか、効果はどれほどの者なのだろうか、そして、副作用がどの程度なのかを把握できていない不完全なもので、下手をすればかなり危険な魔法の可能性もある。
魔法の構築式というものは高度な魔法ほどそれは複雑になり、その分発動難易度も上がってくる。
通常であれば、魔法の開発は相当なテストを繰り返して完成まで至るのだが、今回のこれはぶっつけ本番。だがキキョウには迷いはなかった。これがただの自分の早とちりであったのならばそれでも構わない。だが、家族にもしも、万が一のことがあってからでは、悔やみに悔やみきれないのだ。
「ハァァ・・ハァッ・・・!ハァッ・・!『身体能力上昇』・・『持久力微回復』・・『幻覚付与』統合・・・!『強制覚醒』・・・!」
幸いなことに、無事に魔法は発動された。
その魔法はキキョウの理論通りの効果を発揮し、一時的に脳のリミッターが少し外れる。先ほどまで感じていた体の痛みはどこかへ消え、頭が冴える感覚があった。心なしか気分もいい。
だが、魔法の効果に浸っている場合ではないのだ。当初の目的はまだ一つも達成していない。もし自分が捕まったとしても、家族に迷惑だけはかけたくない。そう心から願うキキョウは、魔法発動時の高揚感にのまれることなく全力で加速する。
今日は雪が降っているからだろうか。街を行き交う人は誰もおらず、その妙な静けさは、キキョウの不安をあおり、焦りを産む。
焦って良いことなど一つもないことを知っているキキョウは己の心を律し、そこからは何も考えずにただ目的の場所へと走り続けた。
―――キキョウが治療所を出る数十分前。
ユカリはムラメのおしめを変えた後、いつものように台所へと立ち、夕飯の献立をその場で考える。家にある食材と数分間のにらめっこをしたのち、決心が固まったのか、きりっとした表情を見せる。
「今日は、あの人の好きなもの作りましょうか。最近いろいろ悩んでるみたいだし、ここらで元気づけてあげましょうか!」
「あうー」
そう一人で呟くと、彼女はキキョウの好物作りに取り掛かった。
まず、鍋にいつも同様に米を入れ、更に水を入れて研いでいく。
何度か水を入れ替えながら米を洗っていき、そこから一度水を切って、新しい水を鍋に入れて浸しておく。
次にユカリが手に取ったのはサツマイモ。よく洗ったそれの両端を切り落としてから一センチほどの角切りにする。
鍋のコメに塩を加えて溶かし、サツマイモをその上から鍋に入れて蓋をする。
「あとはいつも通り炊くだけ・・・っと!」
「うあー」
「ふへへ・・我が天使・・・」
もはや顔がふにゃふにゃしているユカリは、飯を炊き始めるとすぐさまムラメに駆け寄り。抱きかかえて容赦なく頬ずりする。
言わなくても分かるが、ユカリがせっせと作っていたキキョウの好物はずばり、さつまいもご飯である。以外にもしっかりとした塩気とさつまいもの甘さが、それ単体だけでもどんどん箸を進める一品だ。
ただ流石にこれだけでは少し寂しいので、余っていた漬物と、お味噌汁でも付け足しましょうか。そう考えるユカリだったが、今の彼女はそれどころではない。
「まー」
「はっ・・!?いまママって言った!?この子天才かしら!いえ、そうに違いないわ!」
「あうー」
そこにあったのは、キャー!、と言わんばかりのテンションで娘を抱きかかえてはしゃぐ母の姿であった。
どこまでも愛おしい。目に入れても痛くない。そう心から感じた。
愛しの夫が働いている間に、こっそりと人生最高の幸せをかみしめていたユカリだったが、その幸福はそう長くは続かなかった。
ダァァァァン!!!!!
「ううー!」
「何!?」
突如玄関の方から、何やら大きな音が聞こえた。それは普段では絶対に聞くことのないような、扉をけ破る音。
この家の玄関扉は引き戸なので、蝶番で固定されている片開きタイプとは違い、破られればそのまま戸は地面へと倒れ、衝撃音を響かせる。
「邪魔するぜぇ?藪医者家族の皆様ぁ?」
「恨むんなら、妖術で人を騙してたあの医者を恨むんだな!」
「うぇぇ!うぇぇぇ!」
「・・・・・貴様ら・・・」
入って来たのは、二人組。明らかにならず者の雰囲気を醸し出している男たちだった。
片方は赤髪の長身。やせ細っており、明らかに下種の顔をしている。自分と同じくらいの長さの槍を構えており、舐め腐っているのか、その表情はニヤついている。
対してもう片方は緑色の髪の巨漢。太っているようにしか見えないその肉体からは、なぜか戦闘者のオーラが感じられる。想像できないが、それでも鍛えているのだろうか?
こちらはその体格に不釣り合いな小太刀を一本右手で握りしめており、インパクトはないものの、その切れ味は本物であることは遠目からでも十分に伝わるほどの鋭さを放っている。
だがユカリにとっては、二人の存在や、家に無理矢理入り込んできたことなどどうでもよかった。
ユカリは、抱きかかえているムラメを見る。
先ほどまで穏やかな笑顔を振りまいていたムラメだったが、今は先ほどの音にびっくりしたのか、その顔は涙で濡れている。
この突然の襲撃がなければ、自分の可愛い娘が泣くことも無かった。幸せな空間に突如現れた邪悪。自分から幸せをほんの少し盗んだ極悪非道。ムラメを溺愛する彼女の沸点は、ムラメの泣く様を見た瞬間に一気に限界値を超える。
「よくも・・よくも・・・・・」
「よくも、なんだよ?」
「あーあ、ガキが泣いてらぁ。うるっせぇな、先に殺っちまうかぁ・・グホォァア・・・!?」
赤髪の見るからに貧弱な顔面に、ユカリはムラメを抱きかかえたまま飛び蹴りをお見舞いする。
吹っ飛ばされた赤髪は、鼻血をぽたぽたと床に落としながらユカリを睨みつける。その視線は先ほどまでとは違い、明らかな殺意を含んでいた。
「よくもうちの可愛い娘を泣かせたな!!」
「クッ・・・このアマ!!串刺しにしてやろうか!!!」
「やれるものならやってみなさい!この子だけは何があっても守り抜く!母親の力見せてあげるんだから!なったばかりだけど!!」
「ふざけてんのか!?テメェら親子の首を、あの化け狸野郎に見せてやるよ!!」
「タヌキはあんたでしょうが!どっからどう見ても!うちの旦那の方が何億倍もいい男だね!!」
「「このアマ絶対ぶっ殺す・・・!!!」」
無意識に男たちの逆鱗を容赦なく撫でまわしたユカリは、そんなことを知る由もない。
ただ、娘を怖がらせた二人への怒りだけが彼女を突き動かしている。
「ムラメ、ごめんなさい。ちょっとだけ我慢してね・・・疑似長期魔力蓄積!」
アマテラスで魔法を使うのは、なにもキキョウだけではない。ユカリはムラメを抱きかかえたまま、自身の魔力炉をエネルギーで満たしていく。