#76 死掴の洞窟烏賊その六
「そういえば、ご近所さんから良い緑茶を頂いたの。食後にどう?」
「ありがとう。いただくよ。」
ユカリはその返事を聞くと、待ってましたといわんばかりに台所へと向かい、せっせと準備を始める。あの様子だと、よほど飲むのを楽しみにしていたらしい。それをわざわざ自分のために待っていてくれたのだ。
少しすると、お盆の上に湯飲み二つと急須を乗せてこちらへと運んでくる。少し離れていてもふわりと香ってくる緑茶の香りは、仕事で強張った体を少しずつほぐすかのようだった。
湯飲みに注がれる鮮やかな緑は、目を休ませ、心を落ち着かせてくれる。それを口に運べば、適度な渋み、苦みの後に、確かな旨味が感じられる。
「ふぅ・・・・・」
「・・美味しい。どう?悩み事もちょっとは落ち着いたかしら?」
「あぁ、とっても・・って・・・どうして悩み事があるってわかったんだい?」
「分かるわよ。あなたの事くらい。」
表情にも出したつもりはなかったのだが、とても敵わないなと思わざるを得ない。私の隠し事など、すぐに見抜いてしまうのだから。
「で、今回は何があったんですか?キキョウ先生?」
「ははは・・・最近、私が藪医者という噂が出てきているらしくてね。まだアマテラスの国民の中には、魔法の事を良く思ってはいない人がいるらしい。」
キキョウはユカリに、今日老婆から聞いた噂のことを話した。もちろん今考えればそれが真実なのかも分からないが、そういった紺替えを持つ者は間違いなくいるだろう。
この小国アマテラスでは、他国との繋がりを持つことと共に、魔法を他国の文化と認定し、それを妖術と呼んで使用禁止行為としていた。
だがしかし、魔法というのは外国の文化でも特権でもない。この世界の人々全員に平等に与えられた権利なのだ。
学び、努力すればこの国の人々の人智など軽く超えるような力が手に入る。
畑の作物の成長速度を上げたり、一瞬で釜の火を起こしたり、自分のように怪我を直したりなど、多種多様な使い方で、生活を更に豊かにすることが可能であるというのに、なぜ皆は魔法を忌み嫌うのだろうか。
全員が全員そのような考え方ではないが、そういったこの国の歴史は、どんどん変えていくべきだと自分は思っている。過去にいつまでもとらわれていてはいけないのだ。
「これだけあなたが人のために頑張ってるのに・・それに、これまでも大勢の人を助けたんでしょ?何で今更そんな噂が・・・」
「ひどい話さ。今までの頑張りを全て妖術でだましているなんて言われるんだからね。でもこればかりはどうしようもないとも思っているよ。人は誰しも、『未知の力』が怖いからね。」
人は空を飛べる。不老不死である。物語の主人公のように奇跡を起こすことができる。
人という生き物は、そういった現実的に考えられない、ありえない物は真っ向から否定することが少なくない。
この国の人達にとって、それは魔法も同じことなのである。
魔法を普及させようとしているのではなく、無意識に拒んでいるのだ。自分たちの理解の範疇にない物事を。
なので、すべてを変えるのは今すぐには無理だ。だが、少しずつ。ほんの少しずつならば、希望はまだ残っているはずだ。
「私は、人々を助けながら、この国を変えていきたい。皆に魔法の可能性を理解してもらうんだ。」
「本当にお人好しなんだから。でも、無理しちゃだめよ。悩みだって、あまり溜めすぎると、体にも毒なのよ?」
「うん、そうだね。ありがとう。」
自分の隣で支えてくれる人がいる。それがどんなに幸せな事か。世間的に見れば結婚したばかりのような夫婦だが、それでもその喜びを今誰よりも噛みしめている。本当に常々思う。自分は幸せ者だと。
「あうー」
そうユカリと話していると、クーファンの中で眠っていたムラメが突然目を覚まし、何やらこちらに目で訴えかけてくる。
まだ少し眠いのか、目は半開きで、瞬きの回数もかなりのものだ。二人で少しの間ムラメを見つめていると、小さなお腹から可愛らしい音が響く。
「あら?ムラメ、おっぱいはもう飲んだでしょ?飲み足りなかったのかしら?じゃあ・・・お父さんの目の前で飲みましょうか?」
ユカリはこちらをニヤニヤと見ながらムラメにそう言った。
その間に彼女は、自分の服の襟をわざと少しはだけさせ、こちらに己の肌色を見せつけてくる。
「ッ・・!?わ、私は今日の勉強をしないとっ・・・!」
「うふふっ。本当にいつまでたっても、こういう所は初心なんだから。」
・・・本当に敵わない。面白がって笑うユカリに気を取られることなく、キキョウはそのまま自室へと向かったのだった。
―――数日後。
それは、いつものように治療所で業務を行っている時だった。
「たのもう。ここが紫の一族の者の治療所か?」
「は、はい。本日は同様なご用件で?」
やって来たのは患者ではなく、この街の奉行の者だった。
腰には十手と刀を身に着け、とてもじゃないが診察を受けに来たようには見えない。男は強張った表情を崩すことなくその口を開く。
「お前も自分に関する噂は知っておろうに。怪しげな妖術を使って荒稼ぎしとるようじゃないか?」
その言葉にキキョウの表情も険しいものとなる。聞き捨てならなかったキキョウは、男にすぐさま反論する。
「私が施しているのは怪しげな妖術ではない。魔法だ!それに、魔法を使わずとも、私は医師免許を所持しているし、薬の処方の技術も有している。一体何の問題があるのですか!?」
「そう声を荒げるな・・・少し試してやろうと思ってな・・・ふんっ!!!」
「なっ・・・!?」
奉行の男は、十手を腰から抜き、己の左腕に思いっきり振り下ろす。その一撃で骨にひびが入ったようで、あっという間に幹部が腫れ上がっていた。
「い・・一体何を!?」
「簡単さ、確かめるんだよ。お前の治療がどんなもんかをな。しっかり治ったんならちゃんと金は払うさ。本当に治ったんなら、な。」
「・・・いいでしょう。でも、治療した後は、もうここへは来ないでください。」
キキョウは、男の幹部に手を翳し、魔力を込める。たちまち緑色の光は傷を癒していき、男の腕は元通りに修復される。
「・・・ほぅ・・・確かに治ってやがる。痛みも感じない・・・」
「これで分かったでしょう。魔法は私たちのまだ知らない可能性、力を持っている。それは妖の術などではなく、全ての者に与えられたまだ見ぬ力。神からの贈り物なのです。私はそれを信じて、これからもこの手腕を人々のために振るう・・・!用は済んだでしょう。代金はもういりません。速やかにお引き取り願います。」
「・・・フン。せいぜい励むんだな。」
そう言い残すと、男は治療所を後にするのだった。
「・・・何だったんだ?今のは?」
だがキキョウはまだ知らない。この一件が、これから大きな嵐を呼び、彼に大きな牙をむくことを・・・