様々な計算違い
※復習:
かつて岸信介は、上司である小林一三商工大臣によって失脚していた。
企画院事件である。
「企業目的を利潤から生産目的に転換すべき」という企画院の考えを
「企業の存在意義はあくまでも利潤の追求である」という財界の大物、阪急グループ会長の小林一三らが危険視した。
企画院職員の何人かは「共産主義者」として治安維持法違反で逮捕され、岸は辞任に追い込まれた。
岸信介にとって、議会政治も大政翼賛政治も手段でしかない。
彼は手段が目的になってしまう人が多いこの時代において、正当な「目的の為には手段を選ばない」人間であった。
彼の目的は統制経済の実現である。
統制経済はこの時代の一個のトレンドであった。
右から(財界寄り指導者)の統制経済はナチズムとかファシズムと呼ばれる。
左から(労働者の代表という名目)の統制経済は共産主義と呼ばれる。
どちらも自由気ままに生産や資源の確保をさせず、必要な量の生産を指示し、その為の資源を割り当てる事に変わりはない。
イギリスとて戦時経済は、配給制といい軍需中心といい、統制経済を敷いている。
岸も既存の資本主義の限界を目の当たりにし、このままでは将来は無いと考えた者の一人である。
彼はポスト資本主義として統制経済こそその方策だと考えていた。
岸信介は東京帝国大学法学部から、あえて農商務省に入省した。
一流官庁とされる内務省、大蔵省ではなく、二流官庁と看做された農商務省である。
同郷の先輩からは叱責されたりもしたが、
「これからは産業」
と岸は言い、その道に進む。
これは彼の最終目標が日本の頂点、天皇や皇族という家系的になれない別格を除いた中での最高位を目指している事を示している。
その為に、今後の日本を支えるものとして産業に目をつけた。
産業の第一人者となれば、頂点に上れるものと見る。
その産業の管理の手段として統制経済を行う。
資本主義に限界が見えた以上、効率的に日本の産業を発展させるには統制するしかないと考えた。
岸の大学時代は二つの思想に触れて、影響を受けていた。
まず社会主義に関心を持ち、マルクス「資本論」やマルクスとフリードリヒ・エンゲルスとの往復書簡などを読んだりしていた。
その後、北一輝と大川周明の国粋主義的な思想の方に魅了される。
故に彼は、秩序派にも経済派にも共産主義に近い左派グループにも顔が利く。
統制経済は、共産主義と相当に近い。
故に岸も参加した企画院が考えた統制経済を使った国家運営方針は、「赤化思想」「国体と相容れないもの」と財界人によって批判され、職員が多く検挙された。
この企画院事件の責任を取って、岸は商工次官を辞任に追い込まれる。
これが岸が復権後に、特高警察を抑え込んだ理由である。
統制経済実現の為には、かつての同志である企画院のメンバーの協力を得たい。
更に北米大陸消滅後に始まった気候変動対策で、科学者グループからの知見も得たい。
彼等は左翼活動に参加した事があったり、今現在マルクス主義にかぶれていたりする。
彼等の協力の為にも、特高を抑え込み、政党政治を復活させる等の方策が必要だったのだ。
これがコミンテルンに通じている者への監視も弱体化させてしまった事は、岸はある程度は仕方無いと考えていた。
気候変動対策はソ連も巻き込んで考えるべきものである。
岸は悪意には敏感だ。
だからこそ、コミンテルンに通じる者たちの善意には鈍感である。
彼等は心の底から日本の事を考え、その為には共産革命が必要だと思い込み、それを自分たちでは実現出来ないからソ連の手を使って軍・警察・財界・大地主の複合体を壊滅させようと目論んでいた。
故に、共産主義に近い統制経済施策への参加は、望むところであり、熱心に協力もした。
気候変動対策も、日本に巣食う特権集団と暴力装置を壊滅させる事とは切り離し、日本の人民の為に必死で研究し、提言をしていた。
そこに悪意は無かったのだ。
悪意が無いと言えば、亜細亜主義者たちもそうである。
彼等は純粋に「亜細亜人の為の亜細亜、欧米列強の植民地支配から解放せよ」と考えている。
その過程で日本人が亜細亜全人種の上に立つ事に疑問を持っていない。
日本人が教導せねば、彼等は近代国家の何たるかを知らないまま、また不完全な国を作って欧米の植民地に逆戻りしてしまう、と考えていた。
まあ、もう米は無いが単語としては。
これは白人たちの「キリスト教も現代の契約も知らない野蛮人に国を治める力は無い」という主張の従兄弟のような考えなのだが、それを指摘すると刃物を振り回して「撤回せよ」と怒鳴る。
真実、右も左も自分の善意を信じて疑わず、異論を唱える者を敵と看做す点で共通していた。
日本を一回リセットしたい左翼勢力、亜細亜を日本の指導で解放したい右翼勢力、ともにイギリスに対し日本をぶつけようと考えていた。
この勢力が、ただの野の政治団体なら無視するか、弾圧すれば事足る。
問題なのは既に政治権力と結びついていた事だった。
反英派の大物として、徳川義親貴族院議員がいる。
幕末四賢侯として知られた松平春嶽の子で、尾張徳川家の養子に入り、第十九代当主となった人物である。
大川周明と関係が深く、二・二六事件の際は決起将校の宮中参内の取次ぎを申し出たりした。
昭和十三年(1938年)には自身が会長、大川周明を幹事とした大和倶楽部を結成して、排英運動を始める。
このように「革新派華族」として目立ってはいたものの、宮中や政府中枢に通じる有力なブレーンを持たず、実際の政治に対する影響力は弱かった。
しかし、ここに来て彼を神輿に反英勢力が結集をし始める。
尾張徳川家の当主様は金払いが良い。
「パトロンがいちいち口を出したら、当人もやりきれまい」
という方針で、極めて鷹揚である。
右翼団体の神武会、明倫会、日本の特務機関が立てた傀儡政権の冀東防共自治政府、更にクーデター計画であった三月事件においてもポンと大金を支援している。
神輿兼パトロンとして、これ程理想的な人物も居ない。
徳川義親は、イギリスに他意が有った訳ではなく、日中戦争における蔣介石軍打倒の為、これを支援するイギリスをアジアから排除すべきだという考えに過ぎなかった。
しかし、前歴が前歴である。
一号作戦で蔣介石が屈服し、イギリスが日本との協調路線を採っている今、排英の必要は無かった。
だが、神輿に担がれてしまうと、そんな事は言えなくなる。
殿様は、彼を担ぐ者たちの為に動かざるを得ない。
徳川義親は貴族院や華族の繋がりを使い、イギリス排除とアジアの解放に賛同するよう工作を始める。
没落したり、経済的困窮状態になった華族の中には、徳川義親からの支援で立て直しに成功した者もいる為、恩人の彼に対し表立って異論を言えるものでもなかった。
貴族院の方に徳川義親からの働きかけがあり、衆議院議員に対しては陸軍若手将校が直接談判を行う。
如何に政党政治を復活させたとはいえ、ちょっと前には大政翼賛会による議会があったのだ。
党人政治家として、国の承認無しでも当選出来る者は圧力に屈する事が無いが、全員そうな訳ではない。
大政翼賛会推薦で当選し、その後の政党政治復活に伴い、各党に引き抜かれた者は転びやすかった。
かくして政党の中に陸軍の若手将校に与する、或いは従う者が現れ、党は内部から変容した。
そして貴族院、衆議院ともに反英的にいつの間にかなっていた。
一度は御前会議で対英協調、ドイツに過度な肩入れをしない事が確認されたのに、その後の「では再開した欧州大戦にどう対応すべきか」を話し合う次の御前会議でひっくり返る。
急に反英の意見が増えていたのだ。
天皇は
(これは一体何とした事なのか?)
と訝り、総理大臣と陸軍大臣と参謀総長の兼務で多忙を極めていた東條英機も
(自分がちょっと目を離している間に何が起こった?)
と事態を把握出来ていなかった。
どうも組織化、煽動という面でマニュアルでもあるかのように、反英勢力は効果的に物事を進めてしまっていた。
(なにかがおかしい)
岸信介もそう考える。
ただ、徹頭徹尾「統制経済を敷いて、その第一人者の自分が権力の頂点に立つ」「自分が権力を握った後は、上手く統制を行って日本を発展させる」のが目的である岸は、マキャベリストでもあった。
別に反英でそれが成し遂げられるなら、それでもかまわない。
岸は様子見に転じた。
この辺りの日本は、独裁よりももっと質が悪い。
衆愚政治と大衆人気取政治と事なかれ主義と責任者不在体質が相まって、何となく「ドイツに味方し、イギリスをアジアから追い出す」という方針に流れていってしまった。
こうなると、本来恐ろしい程の権力を持っている筈の総理大臣兼陸軍大臣兼参謀総長・東條英機ですら反対出来なくなる。
こんな中、立憲政治を遵守すべく政治に口出しするのは慎もうと心に決めていた天皇が、自身の決意に反する事だが、最後の制止を行った。
「卿たちの申す通り、帝国はドイツ国と同盟関係にある。
だが英国と帝国も同盟関係にある。
卿たちの意見は一考に値するものなれど、友誼・同盟を破棄するには足りぬ。
現に英国は帝国に対し、資源を優先的に供給しておる。
また昨今の気候変動において、手を取り合い対策する相手である。
ドイツに対するように、英国へも対するべきであろう。
熟考が必要ではないだろうか」
天皇ですらこのような言い回ししか出来ない。
一つの理由は天皇自らが「立憲政治、あまり臣下の意見に口を出さないように」と自重している事である。
今一つの理由は、木戸幸一ら側近から
「あまり反対を露骨に口にされますと、反対派が陛下を押し込め、弟宮もしくは東宮(皇太子)を即位させる事になりましょう」
と釘を刺された事だ。
天皇は最初その不遜な者たちに激怒するも、仮に自分が上皇として譲位させられ、そのまま幽閉され、軍国的な弟や十一歳の東宮を擁立された日には歯止めがいよいよ利かなくなる。
天皇は、最後の歯止めとしてその座に居続けねばならなくなった。
この歯止めの発言は、本人の意図とは別の解釈をされる。
「陛下の仰りよう、真実御尤もであります。
左様、開戦に至るにはまだ足らぬようです。
開戦するに足る理由を探しましょう」
「如何でしょう、馬来、インドの独立を要求しては。
素直に英国がこれを認めれば、戦う必要も無く亜細亜解放の一歩目となります。
拒めばそれを理由にしましょうぞ」
「名案である。
これならば英国が要求を呑めば、あえて戦争の必要も無い。
陛下の御心にも沿っていましょう」
(否、然様に非ざるなり)
一般人の口調なら「いや、そうじゃなくてな」となる。
勝手な解釈で更に悪い方に動きそうな予感がし、天皇は人知れず頭を抱えていた。
用語説明:
冀東防共自治政府:三国志でいう冀州(河北省)の東で冀東。
満州国に隣接した地域なので、非武装地帯として関東軍が勢力下に置いたもの。
22県人口約600万人を統治した。
この冀東防共自治政府麾下の保安隊が通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃・殺害した事件が「通州事件」である。
三月事件:政党政府である浜口雄幸内閣を打倒し、軍事政権を敷こうとしたクーデター計画。
政党政治が行き詰まり、浜口内閣の為に金融恐慌が発生して民が苦しんだ。
そこで政党政治の打倒と軍部独裁政権樹立を目的として、若手将校と大川周明が手を組んだもの。
首班になる予定の宇垣一成陸相が躊躇した為、実行されなかった。
既に浜口雄幸が右翼青年に狙撃されていて、辞職間近であり、クーデターの必要も無かった。
なお、計画で「民衆1万人を動員」とか言っていたが、根拠も具体的にどうするかも決まっておらず。
かなり雑なものだった。