第二次通遼会戦
※戦車砲の性能について
T-34(1943年型)の装甲:車体前面45mm(傾斜角60度)、側面45mm(傾斜角50度)、後面45mm(傾斜 47度)、砲塔70mm(曲面)
傾斜角60度だと、装甲厚は×2換算。
計算後だと車体前面90mm、側面約70mm、後面67mm、砲塔(60度として)140mm
日本の砲の貫通力
・九七式五糎七戦車砲(57mm短砲身):
45mで30.4mm、350mで25.7mm、1400mで20.5mm、1800mで17.5mm
・一式三十七粍戦車砲(37mm長砲身)
200mで55mm、500mで46mm、1000mで34mm、1500mで26mm(第一種防弾鋼板)
・一式四十七粍戦車砲(47mm長砲身)(タングステン弾使用):
0mで約85mm、200mで79mm、500mで70mm、1000mで56mm、1500mで45mm
・九九式七糎半戦車砲(75mm、23.9口径)
100mで50mm、500mで46mm、1000mで43mm
・英製17ポンド砲(徹甲弾使用)
100mで147mm、500mで137mm、1000mで126mm
・独製88mm砲 FlaK 37(タングステン弾使用)
100mで165mm、1000mで137mm
シラムレン戦線の攻防戦で、最大の激戦がこの第二次通遼会戦である。
戦闘は日本軍をナメてかかったソ連軍が、待ち伏せ攻撃を受けて始まった。
日本軍歩兵の自爆攻撃に対抗する為、ソ連軍の車両は通遼県に迫ると戦車に貼り付いていた歩兵を下し、周囲を警戒させる。
彼等はあっさりと、布をかぶり、雪や草木を被せて隠れている存在を発見する。
だがそれは、歩兵とは違い大きい。
「戦車だ」
歩兵たちは慌てる。
だが、戦車兵たちは
「はいはい、豆鉄砲、豆鉄砲」
と余裕であった。
これまで日本の戦車砲が、T-34中戦車の装甲をまともに貫通した事は無い。
200m以内の距離で、背後から長砲身砲が良い角度で当たった時くらいである。
当たり所が悪いと照準器や履帯、覗き窓等が破壊されて中の人が負傷はするが、所詮その程度だ。
どの距離に居ようが、日本の戦車なんて物の数ではない。
生き残りの戦車兵は述懐する。
「そんなふうに考えていた時期が俺にもありました」
まさかの88mm砲や17ポンド砲である。
しかも油断していた為、50~200mと接近し過ぎていた。
猛烈な砲火により、これまで日本軍を蹂躙し続けていたT-34中戦車が大量に撃破される。
ソ連軍戦車の問題点として、無線機の少なさがある。
ドイツとの戦いでも、この無線機の少なさから来る連携不足で大きな被害を出した。
ソ連はイギリスとは同盟関係に無く、アメリカ合衆国は消滅して存在しない。
優秀な無線機を大量に供与してくれる相手がいない。
現状でも無線機は小隊長車にしか無かったりする。
その小隊長車が真っ先に撃破されると、後続の部隊は何が起きているか把握出来なくなる。
前方に見える黒煙めがけて後続の戦車部隊が殺到する。
日本軍は、理屈こそ分からないが、戦いの経験で何となく「あれが隊長車かな?」と目星をつけられるようになっていた。
そして隊長車を真っ先に倒せば、相手は混乱するという事も。
これまで「決死」の者が躍り出て、隊長車に取り付いて自爆する。
その混乱の間に生き残りが後退するというような戦闘を繰り返していた。
自爆した兵士の数に比例して、隊長車を見抜く精度が上がって来ていた。
「砲撃によって破壊出来るなど、何とも愉快な事だ」
今までは誰かの自爆によらないと、ソ連戦車に何らかの打撃を与えられずにいた。
しかも対応され続け、最終的には数分の足止め程度にまで効果が低下していたのだ。
ようやく敵を正攻法で倒せる。
二度、三度までは敵の戦車隊を待ち伏せによる近距離射撃で撃破する。
しかしそれ以降は、走って逃げ延びたソ連軍歩兵が、強力な対戦車砲の存在を伝えた為、不用心な接近をしなくなった。
「攻撃機が来たぞ!」
Il-2襲撃機が地上攻撃に飛来する。
日本軍の貴重な車両が、上空からの攻撃で破壊される。
だが彼等は無傷では帰れない。
五式二号戦闘機、愛称「グリフォン飛燕」が迎撃に来る。
航続距離が短く、操縦性がピーキーな機体だが、前面防御が硬く高速で火力も高い。
前面の防御が硬いという事は、Il-2の後方機銃を気にせずに接近出来るという事である。
あっという間に距離を詰め、強力なマウザー砲をお見舞いする。
各戦線で、少数の日本軍車両の犠牲と引き換えに、大量のIl-2が撃墜される。
次第に飛来するIl-2が少なくなった事を確認し、日本陸軍機甲軍司令部は反撃を下命。
だが今度は日本軍の方が敵を甘く見るという愚策を犯す。
確かに今までにない程、正攻法でソ連戦車を撃破出来ていた。
それは待ち伏せが成功し、しかも近距離でイギリス製やドイツ製の対戦車砲を打ち込めたからである。
確かにこれまで、日本陸軍機甲軍の戦車兵たちは猛訓練をし、劣る性能の戦車でソ連戦車に立ち向かった精鋭であった。
しかしソ連の機甲部隊は、3年に渡りドイツ機甲軍団と戦い続けて来たのだ。
大規模戦車戦のペーパードライバーが、実戦を嫌と言う程経験したベテランに勝てる道理が無い。
大体日本の三式中戦車等は、ようやく数年前のT-34にやや劣る性能となったに過ぎない。
攻撃力は互角に近くなったが、防御力がまるで違う。
ドイツ軍を苦しめた傾斜装甲に、今度は日本軍が苦しめられる。
ソ連戦車兵たちは、徐々に油断をしなくなっていった。
日本の戦車部隊を、雑魚ではなく対等の敵と認識した。
これもまた理屈ではなく、全戦線大体同時にその認識を持つ。
こうなると経験の差が出て来る。
迂闊に近づいてなんか来ない。
起伏が有れば、窪地に車体を隠し、砲塔だけを覗かせる。
日本戦車に相対する時は、斜めに車体を置いて相対する。
平地では、撃ったらすぐにその場から急発進し、無線も無い中で敵を包囲しようと延翼運動を行う。
日本の戦車も、以前のように全く歯が立たないという事は無いが、彼我損害比率は明らかに不利であった。
輸入兵器の日本改造版で、役に立たないものもあった。
ドイツの対戦車ロケット擲弾発射器パンツァーシュレックをコピーした四式七糎噴進砲である。
コピーでない、輸入品のパンツァーシュレックは、T-34に損害を与えているのだから、日本が勝手に手を加えて改悪したのである。
対戦車ロケット弾は、運動エネルギーを以って装甲を打ち破るものではない。
擂鉢状に成型された火薬の燃焼から起こるモンロー/ノイマン効果を使って装甲を打ち破るものだ。
ドイツのパンツァーシュレックやパンツァーファウスト、イギリスのPIAT全て同じ構造である。
四式噴進砲もこの効果を使う弾頭を発射するが、ここに余計な事をしてしまった。
普通の大砲と同じように、砲弾をジャイロ回転させたのである。
これはモンロー/ノイマン効果による超高速の金属の噴流の足しにならない。
それどころか、ロケット弾の回転によって、傾斜装甲や曲面装甲を上を滑ってしまい、密着していないと効果が無いこの砲弾の長所を殺してしまっていた。
折角の日本機甲軍は、戦車も対戦車部隊も次第に損害を増やして行き、一旦は押し返した戦線を、再び通遼県手前まで追い込まれてしまう。
この通遼県手前の戦線で、ソ連機甲軍はまた日本兵の変態攻撃に悩まされる。
T-34と言えど、全ての面で完璧な防御を持っているのではない。
戦車の上面はどうしても薄くせざるを得ない。
故に航空機からの大口径機関砲には弱い。
だが、この戦線でそれを狙った二式複座戦闘機「屠龍改」37mm砲搭載型は、ソ連の戦闘機の襲撃によってそれ程の戦果を挙げられずにいた。
グリフォン飛燕をもってしても、雲霞のようなソ連機全てを撃墜は出来ない。
やって来る敵の襲撃機を撃墜するのと、味方を護衛して守り抜くのは話が違う。
基本的に攻撃する方が有利であり、多数の護衛機をつけたIl-2襲撃機がグリフォン飛燕に撃墜されまくったように、日本が護衛機をつけていても屠龍改は攻撃を食らう。
多数の屠龍改が、ソ連戦車攻撃前に撃墜されてしまった。
では戦車の上面から攻撃するのは何か?
日本の秘匿兵器・九八式臼砲であった。
この弾体と発射台だけで砲身が無い火砲は、330mmの大口径砲を打ち上げ、上から降らせる。
臼砲という火砲は短砲身で、砲撃精度は良くなく、射程も短かい。
故に面を制圧する目的で使用される。
これを更に扱いやすくしたのが迫撃砲である。
日本兵は、この臼砲を使って曲射狙撃という変態攻撃をして来た。
さしものT-34も、上面装甲は20mmに過ぎない。
そこに330mm砲弾を食らったら一溜まりも無い。
ノモンハン事件も含め、これまで完全に秘匿されていた(持ち運びが困難なのもあるが)兵器にソ連兵は度肝を抜かれる。
通遼県前面の防御陣地に攻め寄せたソ連戦車隊に限らず、通常の部隊も謎の大口径砲によって打撃を受けていた。
しかし、ロケット砲も迫撃砲も別に日本陸軍だけのものではない。
ソ連軍ザバイカル戦線は、新京や奉天という都市を破壊する為、野戦では使っていなかったБМ-8自走式多連装ロケット砲、通称「カチューシャ砲」を通遼県の戦いに投入した。
こちらは正しい運用、面の制圧によって小癪な臼砲を黙らせようというものだ。
鉄火の暴風が、後方の通遼県も含む戦場一帯に叩きつけられる。
このロケットの豪雨の中では、歩兵の近接自爆攻撃も出来ない。
塹壕に籠って、爆発の嵐をやり過ごす他に手は無い。
だが、この攻撃は止む事が無い。
呼吸も出来なくなる程、全戦線で爆風と火炎が吹き荒れる。
カチューシャ砲は敵を破壊する命中精度よりも、頭上からの雨あられの如き攻撃で敵に心理的ダメージを負わせる事を目的としていた。
さしもの日本兵の心も折れかかる。
遥か彼方から聞こえる地獄のオルガンの演奏に、手も足も出ない。
せめて接近してくれれば……。
だが、突如鉄の暴風が止む。
いよいよ総攻撃か?
いや、航空隊の偵察によるとソ連軍は撤退を始めている。
何故か?
答えは北方にあった。
遥か北方、シベリア鉄道に沿って繞回進撃をしていた山下奉文将軍率いる第二方面軍が、ネルチンスクまで到達した。
一方、関東軍隷下第一方面軍が、大興安嶺山脈でソ連軍第二極東戦線に横撃をかけている。
第一方面軍の攻撃には得意の陣地戦で対応していた第二極東戦線だったが、ネルチンスク陥落には衝撃を受けた。
この先はシベリア鉄道の重要駅の一つ、チタⅡ駅が在る。
ここを破壊されたら、第二極東戦線の補給が止まる。
これまでも空襲を受けてはいたが、損害は微々たるものだった。
だが陸上部隊に占領されたらたまったものではない。
第二極東戦線は関東軍第四軍攻撃を止め、急ぎチタⅡ駅の防衛と、ネルチンスクの山下将軍攻撃に戻った。
息を吹き返した第四軍は、半減どころか六割を失っていながら追撃を敢行。
撤退するソ連第二極東戦線に打撃は与えられなかったが、念願のフルンボイル奪還に成功する。
まあ、ソ連が捨てていったものを拾っただけなのだが。
第一方面軍はそのまま大興安嶺山脈に沿って迂回を続行。
今度はザバイカル戦線を側面から攻撃しようとしていた。
この情報を偵察で知ったザバイカル戦線司令部では
「無理をする事は無い。
また攻めれば良いのだ。
大祖国戦争の時も、ドイツ軍が優勢ならば我が軍は守り、ドイツ軍が衰えたなら我等が攻めた。
それと同じだ。
焦って失敗するより、確実に勝とう」
そう判断し、さっさと撤退をしたのである。
この判断材料の中には、粘り強く持ち堪えた日本軍の為に、弾薬の消耗が限界に達しつつあった事もある。
楽勝だと思って攻めた。
一気に新京と奉天を落とすつもりであった。
しかし、思わぬ反撃に遭い、戦車とロケット砲弾を思った以上に失ってしまう。
それにIl-2襲撃機も、日本軍機らしからぬシルエットの戦闘機によって大量に失われた。
一旦後方に下がって、補給を万全にし、次は用心して攻めよう。
こうしてシリンゴル盟まで撤退したソ連軍ザバイカル戦線を追撃する力は、支那派遣軍には全く無かった。
鬼神の如く活躍したグリフォン飛燕戦闘機隊も、出撃が度重なり過ぎ、再編を必要としている。
支那派遣軍は、傷ついた部隊を鼓舞し、どうにかシラムレン川の線まで進出して再度防御陣を構築する。
だが、次の攻勢には耐えられそうには無かった。
かくして日本軍は、会戦に負けながらも攻勢に耐え切って、「ソ連軍の新京・奉天攻撃を食い止める」という目的は達成出来たようだった。
おまけ:
この一連の戦闘で、加藤建夫率いる飛行第六十四戦隊は、七度の感状を得る奮闘をし
「加藤グリフォン戦闘隊」として名を轟かす。
ただし加藤隊長は、戦闘終了直前にソ連軍襲撃機と相打ちになって戦死した。
加藤大佐(死後昇進)を討ち取ったのはIl-2ではない。
形はよく似ているが、後部機銃が20mm機関砲になった後継機Il-10であった。




