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シラムレン絶対防御線の攻防

爆撃機性能表:

陸軍 四式重爆撃機  最高速度535km/h 航続距離3800km 爆弾800kg×1 防御20mm×1、12.7mm×4

陸軍 百式重爆撃機  最高速度492km/h 航続距離2000km 爆弾1000kg  防御20mm×1、7.9mm×5

陸軍 九七式重爆撃機 最高速度478km/h 航続距離2700km 爆弾1000kg  防御12.7mm×1 7.7mm×5

陸軍 九九式軽爆撃機 最高速度505km/h 航続距離2400km 爆弾500kg   防御7.7mm×3

海軍 銀河      最高速度546km/h 航続距離1920km 爆弾500kg×2 防御20mm×2

海軍 一式陸上攻撃機 最高速度437kg/h 航続距離2500km 爆弾800kg×1 防御20mm×2、7.7mm×3


1500km先を爆撃して帰って来られる機種は四式重爆のみ……。

だが、900km程先の爆撃ならば……。

 東シベリアにおけるソ連の防空体制は次第に整っていった。

 斉斉哈爾からイルクーツクまで1500kmを飛行し、護衛の零戦がたった数分しか空戦が出来ない状態に、四式重爆の被害は増していった。

 そこで日本軍はイルクーツクから、シベリア鉄道本線とザバイカリスク支線の分岐であるチタⅡ駅への攻撃に切り替える。

 バイカル湖南岸の線路は何度か破壊し、冬季には復旧工事も難航するだろう。

 斉斉哈爾からチタまで約913km。

 これなら零戦二一型に頼らずとも、零戦三二型甲や陸軍の四式戦闘機、更には空冷飛燕(後に五式戦闘機として制式採用される)を護衛機として使える。

 また爆撃機も、陸軍の四式重爆だけでなく、海軍の一式陸上攻撃機や新型爆撃機「銀河」も攻撃に加わった。


 こうして攻撃目標をチタやタルスカヤに変更している間に、ソ連はイルクーツクからの輸送問題を解決させていた。

 確かに酷寒の中、バイカル湖南岸の山岳地帯で、破壊された路線の復旧は難航している。

 だがここはソ連、彼等には日本人の想像を超えた方法が有った。

 それは、凍結したバイカル湖の湖面に線路を引く事である。

 冬季しか使えないが、これはかつてバイカル湖南岸の架線工事が終わっていない時期にやっていた手法で、昨日今日思いついたものではない。

 なお、氷が融けたなら、バイカル湖連絡船で湖を渡る列車の運搬方法も使えるのだ。


 日本軍の想定より早くシベリア鉄道を繋げたソ連は、前線への兵器輸送を活発化させる。

 更にソ連は、これまで予定していた工事の建設予定を早める。

 日本が無警戒のウラン・ウデ駅。

 ここからモンゴルの首都ウランバートルを経由し、中蒙国境であるエレンホトまで繋がるモンゴル縦貫鉄道の建設工事を始めた。

 予定では1947年から建設だったが、ザバイカリスク支線へ日本が空襲を加えている以上、別な迂回路線建設を早めようと考えるのは自然な事であった。

 またイルクーツクの西にあるタイシェト駅からバイカル湖北岸を通る第2シベリア鉄道も計画され始めた。

 日本軍のイルクーツク空襲は、ソ連の心理に思いの外衝撃を与え、結果シベリア開発を加速させる効果を生んでしまった。


 それらの路線の完成はまだ先の事である。

 これを知れば、軍需次官の松岡や浦賀船渠の堀などは「やはり戦争が長引けば長引く程不利になる」と自身の思考が正しかったと確信する事だろう。

 今は、凍結したバイカル湖を使った輸送で、主にザバイカル戦線の兵力増強を図っている。

 第二極東戦線には現状維持が命令される。

 関東軍を山岳地帯に拘束し、ザバイカル戦線で柔らかい満州の脇腹を抉るのだ。

 そのまま満州の中枢を西から衝けば、北で抗戦を続ける関東軍との戦線も、既に奪われた沿海州も、全て取り返す事が出来るだろう。

 1945年1月22日より、ソ連陸軍ザバイカル戦線は戦線全域で攻勢に出た。

 シラムレン攻防戦の始まりである。



 普通、河川は敵の侵攻を足止めし、防御に適した障壁となる。

 しかし大陸北部では、冬季にはその常識は当てはまらない。

 凍結する為、陸上兵器がそのまま渡って来られるのである。

 更にソ連軍は、独ソ戦の際にドイツ戦車の暖気装置をコピーし、冬季も問題無く稼働する車両を多数用意していた。

 この物量により、日本陸軍支那派遣軍が担当するシラムレン戦線は、各地が打ち破られた。

 シラムレン川と新開河の線は突破され、支那派遣軍各部隊は西遼河の線まで後退する。

 だがソ連軍は、前線の残された日本軍によって思わぬ損害を被る。


 日本には「戦陣訓」と呼ばれる、昭和十六年に東條英機陸軍大臣が出した陸訓一号という訓令があった。

「生きて虜囚の辱を受けず」として知られるものである。

 実際にはもっと長いし、特に拘束力があるものではない。

 この戦陣訓は、対蒋介石軍においては有効である。

 蔣介石軍が日本への敵愾心を煽っていたのと、当時の中華民国軍の質の低さから、捕虜になれば残忍な拷問を受けて、惨殺されてしまう。

 辱めを受けて殺されるよりは、捕虜となる前に自殺した方が良い。

 もしも1940年にアメリカ合衆国が消滅せず、その時想定していた対米戦が発生したなら、これは逆効果になっただろう。

 捕虜にならずに自殺するか、最後まで抵抗を続ける軍相手に、敵は味方の損害を減らす為、もっと残忍に殺すようになる。

 敵を捕らえる段階で、素直に降らずに反撃して来るとあらば、自ら投降しない限り攻撃を加え続けなければならない。

 そして捕虜となった者は、ここで「恥ずべき者」となった事で開き直ってしまい、自軍の機密をペラペラ話すようになってしまう。

 この「戦陣訓」が正しいかどうかは相手に依るのだ。


 ソ連軍はどうであろう?

 ソ連軍は蔣介石軍寄りである。

 特に前線で戦う部隊の中には、犯罪者を使った懲罰部隊があったりして、それらはかなり質が悪い。

 ソ連兵によって残忍に殺された同胞の話を知ると、日本兵は死兵と化した。

 これは運が悪かったのかもしれない。

 もっと質が良い部隊が捕虜を取ったなら、日本軍残党の対応も変わっただろう。


 包囲し、猫が鼠を弄ぶかのように攻め寄せたソ連軍は、窮鼠に思いっきり噛みつかれる。

 死体だと思っていた日本人が、手榴弾を身につけたまま抱き着いて来て自爆する。

 撃たれても、顔が半分吹っ飛ばされても、心臓に銃弾を食らっても、一人一殺で迫って来る。

 ソ連兵に油をまき散らし、自分諸共火の海とする。

 士気が萎えていない部隊が、死兵となった上に、狂気に取りつかれてしまった為、ソ連軍も閉口する。

 ただ、気がおかしいのはソ連兵も同じである。

 日本兵が「如何に死ぬか」という発想で狂っているのに対し、ソ連兵は「如何に惨たらしく殺してやるか」という方に狂っている。

 日本人は死に狂いで、ソ連人は猟奇殺人者。

 戦場は悲惨な事になる。

 狂気が狂気を呼び、戦いというより、殺し合い、戦略的にも戦術的にも全く意味が無い殺人の現場が数多く発生してしまった。

 こうして「激しく殺されたい捨て(がまり)」を「殺したくて仕方ない異常者」が一々構ってしまい、目標の通遼県までやって来る兵力が減ってしまった。

 まあこれはソ連軍を責められない。

 放っておけば後ろから撃って来るのだ。

 降伏して来ない残党は、狩りつくさねば安心出来ない。

 ソ連軍は兵力が減り、日本軍は各地から敗残兵が集まった為に兵力集中が成される。

 不利を察したソ連軍ザバイカル戦線の前衛は、威力偵察的に3日程激しく攻めると、兵を引いた。

 第一次通遼会戦と呼ばれる戦いは、形としては日本の守り勝ちとなる。

 だがソ連軍にとって、この戦いに大した意味は無い。

 敵の守りや地形を確認出来たから、成果としては十分である。

 あとはこちらも戦力を集中させるべきである。

 特に戦車や砲を集めて、じっくり攻めれば良い。


 この判断が日本に時間を与えた。

 開戦から半年以上過ぎ、日本の新型戦車や輸入した高性能砲も続々と満州国に入っていたのだが、これまでは各地に分散して送っていた為、戦場に与えるインパクトは低かった。

 この戦車、砲戦車(ドイツ風に言えば駆逐戦車)、対戦車砲を急ぎ援軍と共に通遼県に送る。

 満州は関東軍の管轄、中国から北上して満蒙国境付近で戦っていたのは支那派遣軍で、司令部が異なる組織だが、この際そんな事を言っている場合ではない。

「貴様たちは現地司令部の指揮に入れ。

 ここを落とされたら満州国全体が危うい」

 通遼県から延びる街道を、東に行けば満州国首都・新京、南東に行けば奉天である。

 ここが本当の絶対防衛線である。

 絶対に抜かせてはならない。


 こうして日本の戦闘車両としては大口径の75mm以上の砲を搭載した車両が揃った。

 三式中戦車が120両、一式砲戦車改が130両、三式砲戦車が100両、17ポンドHV砲搭載砲戦車「ホタル」が30両、88mm砲搭載砲戦車が18両である。

 その他に17ポンド砲、88mm砲が多数設置された。

 ソ連軍T-34中戦車は、1945年の今は85mm砲搭載型が生産されていた。

 だが極東に来ているのは前期型の76mm砲タイプである。

 この前期型でも3万両近く生産されていた。

 これら全てをぶつけたなら、全部で400両にも届かない通遼県の日本軍など本来問題にならない。

 だが実際には、対日戦全体で戦車・自走砲は1000両程、その他車両が6400両以上と多いが、ザバイカル戦線に配備されている戦車・自走砲は300両程であった。

 この戦車のほとんどを運用するソ連第6親衛戦車軍と、日本陸軍機甲軍が衝突する事になる。

 この戦役初の大規模な戦車戦であった。


 機甲軍とは兵種の名前ではなくそういう部隊名で、関東軍隷下の戦車第一師団と戦車第二師団を合わせたものである。

 一旦解散していたが、シラムレン戦線が壊滅しそうだという事で急遽各地に分散していた戦車連隊を呼び戻し、集中運用を行う為に再結成をした。

 この時に消耗を補う形で、本土から送られて来た新型車両に乗り換えている。

 これと、支那派遣軍に配属されていた戦車第三師団を合わせ、日本陸軍の中では最強の機甲部隊となっていた。

 戦車第三師団は、九七式中戦車や九五式軽戦車主体として中国戦線で戦っていた為、精強なソ連軍に歯が立たず壊滅状態であったが、それでもまだ多少の戦車と、生き残りの戦車兵が居た為、機甲軍に組み込んで引き続き戦って貰う。


 ソ連軍ザバイカル戦線は、日本軍を余りにナメていた。

 実際ここまでの間、豆鉄砲にブリキの装甲と評する日本戦車は、苦もなくT-34の餌食とされ破壊されている。

 日本軍で怖いのは、自殺願望としか思えない自爆歩兵くらいである。

 こいつらは、戦車のハッチを開けて中に飛び込み、そこで自爆するから正直脅威である。

 ハッチを閉めて警備を厳重にすると、今度は履帯に踏み潰されるようにして自爆し、走行不能にしてしまう。

 一々、車載随伴歩兵(タンクデサント)を下して、一人用塹壕(タコツボ)に籠る日本の自爆伏兵を掃討しながら進撃するのは、遅れが出て苛ついてしまう。

 だが、それだけだ。

 遅れが出るだけで、戦局全体にはまるで影響が無い。

 ソ連人は気が長い。

 独裁者も、戦場の場面場面で口を出す事はしなくなった。

 ドイツとの戦争で、それが悪影響だと学習したのである。

 スターリンは

「多少予定より遅れても構わん。

 欲しいのは成果である。

 日本野郎(ヤポンスキー)を駆逐し、満州(マンチュリア)を制圧するのだ」

 と理解がある事を言っていた。

 部隊を整え、日本軍を反包囲し、じっくりかつ暴風のように攻めてやろう。


 ソ連軍は西の豊田鎮、南の育新鎮、北の遼河鎮の三方から通遼県を攻める。

 十分な時間を与えられた日本軍は、まだ新型戦車や砲戦車に不慣れなのが不安ではあるが、待ち伏せの準備はしっかりと出来ていた。

 ここに第二次通遼会戦が始まった。

おまけ:

ソ連軍ザバイカル戦線司令部より指示が出されました。

「捕虜を取ったら、後送するように。

 彼等は大事な(シベリア鉄道保線労働をさせる)客人なのだから」


兵士「えー? なんで殺しちゃダメなのさ」

こういう軍隊です。

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― 新着の感想 ―
[一言] 日本兵の破れかぶれさはともかくソ連兵の残虐性もよく描けていると思います。 彼らがベルリンになだれ込んだときの惨状は米兵も目に余るものだったようです。 キャパの写真やその他、8(16)ミリカメ…
[良い点] 久しぶりに濃厚な地獄の陸戦譚を堪能しました! >日本人は死に狂いで、ソ連人は猟奇殺人者。 >戦場は悲惨な事になる。 これですよこれ。凶気でしか摂取出来ない栄養素があります。
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