日本の一番苦手な部分
昨年、昭和十九年(1944年)十二月、熊野灘を震源とした巨大地震が発生した。
遠州沖大地震、後に「1944年東南海地震」と呼ばれる地震である。
この被害は、現在まで多発している各地の水害同様、政府による情報統制で特にソ連に惨状が伝わらないようにしていた。
だが、国土開発省・異常気象対策本部の松岡は詳細が知らされている。
ただでさえ、軍需産業の発電兼防災用のダム建設や、インフラ確保用の土木工事でいっぱいいっぱいなのに……。
「えーっと、これは軍事省次官としての方の松岡さんへの報告ですが……」
「後にしてくれない?」
「いえ、地震とも関係した話でして。
海軍が三菱に発注していた新型戦闘機の工場が壊滅したそうです」
十七試艦上戦闘機「烈風」の事だ。
だが
「悪いが、それは軍需省よりも海軍の方に言って。
工場も重要だけど、他の被害はどうなの?」
こんな感じで忙しい中、松岡はカウンターパートの英大使館員ジョージ・サンソムから会談の申し込みを受けていたのであった。
『……既に述べたように、日本は変化を出来る国である。
それは良い方にも悪い方にも変わる。
1930年代後半、上辺だけの親英的態度から、更に感情が悪化し連合王国を敵視するに至った。
穏健派も居るには居たが、それは急進派と「如何に日本が世界の主導権を握るか」という目的については何も変わらない。
その方法論として、国粋主義で行かずに協調路線を採るべきだとしていたに過ぎない。
何れにせよ彼等は少数派で影響力は限られていた。
ところがあの北米大陸消滅事変が発生し、日本はまた変わろうとしていた。
世界の主導権という途方も無い理想を捨て、現実的に日本が生き残る道を模索し始めた。
現実を見るにつけ、上辺だけの友好でもなく、感情的な否定でもなく、
真摯に世界と向き合う者が現れるようになった……』
在日イギリス大使館付商務参事官サー・ジョージ・ベイリー・サンソムは、とある料亭に居た。
外交官と同時に歴史家でもある彼は、1904年、21歳の時に初代駐日英国大使クロード・マクドナルドの私設秘書として日本に着任して以来、日本の変化をその目で見続けて来た。
待ち人が来るまでの間、彼は黙々日本についての論文を考え、草稿を書き記していた。
「お連れ様がいらっしゃいました。
あー……ユア・ゲスト・カムヒアー……」
「大丈夫デスヨ、私、日本語チョト分カリマス」
松岡が室内に入って来る。
以下は英語でのやり取りとなる。
「まさか、イギリス人から料亭に呼ばれるとは思わなかった」
「落ち着いてじっくり話せるのは、日本だとこういう場所になるからね」
松岡は、着て来た外套を女将に預ける。
昭和二十年(1945年)一月、日本は温暖化しているとはいえ、この時期は上着が必要だ。
東京はめっきり雪が降らなくなったので、風情が無くなり寂しい。
松岡に続いて、大蔵省の宮澤という若い官僚が入って来る。
松岡は、イギリスとの関係が深く、それ故に常に一人では対等交渉相手のジョージ・サンソムと会わないよう気を使っていた。
随伴者も含めて癒着関係とならないよう、毎回随伴者は代えていた。
ある時は海軍省から、ある時は内務省から、ある時は外務省からというように、正直英語が分かって、秘密の取引をしている事を会話から見抜けるような力量であれば誰でも良かった。
松岡は松岡で、兎角井の中の蛙に成り易い官僚に、癖の強い腹黒紳士の毒気を吸わせて、国内限定で高くなった鼻をへし折ってみる思惑があった。
サンソム氏も、若い日本人をおちょくって遊んで楽しんでいる部分があった。
たまたま今日は、英語が恐ろしい程に堪能、暇さえあれば英字新聞を読んでいるというこの若手大蔵官僚が抜擢されたに過ぎない。
宮澤は後に
『松岡さんの監視役として同行しろと言われた時は、
「なんでそんな特高警察の真似事をしなければならないのだ』
と大いに不満に思ったものです。
しかし私は運が良かった。
あの場に居合わせた事は、私の人生を大いに変える事になりました」
と回想する。
昭和二十年に話を戻す。
「離任されると聞きました」
ジョージ・サンソムは長年の駐日イギリス大使館商務参事官の任から解かれ、帰国する事になった。
「そうなのだよ。
君に会えなくなると寂しいよ、My Friend」
「……前から聞きたい事が有ったのですがね」
「何だね?」
「イギリス英語で"Friend"は『都合良く扱える奴』って意味を持ってませんかね?」
「ほお、よく分かったね」
「は?」
「ハハハ、皮肉も上手くなったようだが、まだまだ英国紳士相手には足りないね。
我々は上手く返せるのだよ」
(やはり腹黒紳士だな)
「まあ、実際はそういう意味は持っていないよ。
で、私の友達に今日は、ジョージ・サンソムという個人として、
どうしても話しておきたい事が有って、来て貰ったのだよ」
「伺いましょう」
(やはり、この爺さんは曲者だな)
自分より二十歳以上年上の老獪な歴史家に、軍需次官という顕官の松岡は、まだ翻弄されている。
「日本はどう戦争を終わらせる気かね?
君は総力戦研究所に出向し、世界大戦をシミュレートしたのだろう?
そんな知識があり、今は政府の意思決定に一部とは言え関わる者が、何も考えないのはよろしくない」
「なるほど……」
ふと考えたが、この老歴史家かつ狡猾な外交官に、直球な回答は軽蔑されるだろう。
「自分にも腹案は有りますが。
さて、日本だけで何かやって、それで通じますかね?
相手が思う通りに動いてくれないのは、ヒトラー総統を相手にしている貴国もご存知でしょう?」
「ほほお、中々言うようになって来たねえ」
サンソム氏は機嫌良く笑った。
確かに、ヒトラーもスターリンも、インドのボースも、予測通りに動いてはくれない。
全てが予測通りなら、ネヴィル・チェンバレンは第二次世界大戦を防いでいただろう。
逆にチャーチルもヒトラーからは思考が読めないだろう。
世界は曲者だらけで、それに比べれば日本の指導者は素直で、逆に調子が狂う。
故に、これはこれで行動が読みづらい。
「さっきも言ったが、今日はジョージ・サンソムという個人として、私の友達に話しているつもりだ。
だから、私にしては率直に話しているつもりだよ。
そのつもりで聞いて欲しいのだが。
日本はイギリスと世界の枠組みについて話す気は無いかね?」
「世界の枠組みを……話す??」
「折角海で繋がった隣国になったのだ。
バミューダ島辺りで首脳会談とかどうですかね?
まあ、アメリカ合衆国のように消滅してしまうのが怖かったら来れないかもしれないが」
率直に話しつつも、所々皮肉というかブラックな事を挟んで来るのは、英国紳士の嗜みだろうか。
ただ、腹芸でなくても、言いたい事は理解出来た。
随行員で、大学を卒業して数年の若造の宮澤にも分かるくらいだ。
「講和をする為にはイギリスと協調せよ」
そう言っている。
だが、これは英国政府の、チャーチル首相の意向を反映しているのだろうか?
それについてどう聞こうか考え始めた時、サンソム氏が先回りする。
「これは私の意見だよ。
チャーチルは何も知らん。
だから、日本政府の方からチャーチルを動かす必要がある。
チャーチルの方から声を掛けて来るなんて、考えない方が良い。
声を掛けて来る時は、何らかの思惑を持っている時だけだ」
「なるほど。
英国の方が、必ず自国の利益を最大限に考え、その上で親切な事を仰るのはよく知っていますよ。
貴方以外にも、北極で色々とお会いしましたのでね。
どんなに親切でも、絶対自分たちが最大の利益を得られるようになっていますな」
松岡は、かつての北極出張でケインズとかハリファックス子爵とかと会った。
彼等は日本がどうすればこの先、困窮する事無く生き残れるかを懇切丁寧に説明した。
それは究極のところ「イギリスの経済に組み込まれよ」という事であった。
確かに日本は救われるだろう。
だが一旦イギリスの下に置かれたなら、その後日本はイギリスに国の命運を握られかねない。
日本の為ではある。
だが、一番得をするのはイギリスなのだ。
一方で松岡は、イギリス人のとある特徴を見ている。
彼等は変人なのだ。
鼻持ちならない高慢ちきで、差別主義者で、「教えてやるよ」という態度を取って来る。
しかし、それで主人と従者のような関係になってしまうと、詰まらないという態度になる。
だから彼等からすれば、要求すれば反論もせずに受け容れ、ならばと要求を更に上乗せしても受け入れ、更に上乗せしようとすると
「最早これまで!」
とブチ切れる日本人は理解し難いものがあった。
こんな逸話がある。
ある時、日本人がイギリスのパブに入った。
客から
「おい、サムライが入って来た」
「サムライに飲ませる酒はねえぞ」
そう冷やかしの声が上がる。
日本人は怒ったりせず、股間のイチモツを握ると
「刀が見えていたのか」
と話した。
するとパブの中は大爆笑。
「よしサムライ、俺がおごるぜ!」
と和んだ雰囲気になったという。
これはイギリスの下流階級の話だが、上流階級でも似たようなものだ。
何か言い返して来るのを期待する。
それが自分の意表をついたもの程、彼等は喜ぶのだ。
変人だから。
「……イギリスを利用せよ。
その為には自分から動け。
意表をついて、主導権を握らないと、イギリスに良いように利用される。
貴方はそう言いたいのですな」
「Good!」
「それはチャーチル首相にも通じますか?」
「分からん。
だが、やってみない事には何もならない。
友人として言いたい事は、いつまでも戦争を続けるような無策でいてはいけないという事だ」
始める時は、何となくで始めてしまう。
誰かが引いた引き金により、なし崩し的に「仕方ないか」となってしまう。
終わらせる時は、責任者が居ない。
というか、いつ終わらせるか考えもしない。
何となく終わるだろう、てな姿勢だ。
ジョージ・サンソムが指摘するまで、松岡も宮澤も「如何に戦争を終わらせるか」を考えはしなかった。
その立場に自分は居ないと思っていた。
だが、たまたまこの場に居た宮澤とは違い、松岡は総力戦研究所に出向し、対ソ戦争の推移を研究していた。
長引けば日本必敗。
北米大陸消滅により、その予測は修正が必要ではあったが、ソ連の秘密主義により具体的なソ連の不利は分からない、いや認識もしていない為、以前の推移詳細予測に則って考えるべきであろう。
これを知っていながら何もしないのは無責任、松岡はそう突き付けられた気がした。
(戦争を終わらせるべく、手を打とう)
松岡はそう決意する。
その内心の変化を読み取ったのか、サンソム氏は満足そうだった。
「ところで、帰国後に貴方は何をなさるのですか、卿」
「かねてから執筆していた日本についての歴史書を完成させようと思う」
サンソムは10年前辺りから『西欧世界と日本』という本を書いていた。
それ以前にもチャールズ・エリオット大使(当時)と共著で『日本の仏教』を出版している。
1931年には『日本文化史』を著述した。
39年もの長きに渡り日本で外交官生活を送ったサンソムは、商務参事官という職務において確かにイギリスの代理人ではあったが、基本的には日本を愛していた。
それ故に、職務から離れたところで、どうにか日本が生き残れる事を願っていた。
だが同時に、自分がそれを「やってやる」事は無いと考えていた。
死ぬも生きるも日本人が「選択」する事である。
それが開国以降、西洋世界を見て衝撃を受け、そして自己変容をしていった日本を見て来たイギリス人の心境であった。
故に、日本を生き残らせる事を託せる日本人を知った事で、彼は喜んだ。
出来れば自分で気づくまで待っていたかったが、そう時間は無い。
離任前に、彼は自分の思いを、オブラート10枚くらいに包んで伝えた。
彼もまた変人である。
そうして話した事が伝わったようで、それが嬉しい。
「期待しているぞ、我が若きmarvellous friendよ」
サンソム氏はそう言って別れた。
松岡は、随行の宮澤に聞いてみる。
「marvellous friendって……」
「いえ、僕もアメリカ英語の方が得意なので、英国英語はそれ程でもないのですが……」
どうやら、単なるフレンドではない、「素晴らしき」という修飾語を付けた友人という事のようだ。
これは、交渉相手としてやり合ってはいたが、個人的に友誼を結んでいたわけではない松岡に、好意や親愛から言った言葉ではないだろう。
立場、能力、知見から彼は託されたのだ。
その期待込みの表現であろう。
松岡は気が引き締まる感を覚える。
戦争を長引かせず、イギリスを利用して終わらせる。
その為に行動をしよう。
だが、戦況はこの年も予断を許さない。
新年早々、シベリアの日本軍は苦境を迎えていた。
まずはこれを乗り切らない事に、講和も何もないだろう。
おまけ:
サンソム氏との会談を終えた直後の松岡を、田中角栄が訪ねて来た。
「松岡さん、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
お、そこの若いの、初めまして、よろしくな!
ところで松岡さん、まあ見て下さいよ、これを。
無学な自分ですが、書き初めがてら人まねで揮毫ってのをやってみましてね」
そう言って書を持って来た。
それを見た、「若造」呼ばわりでムカついていた宮澤は、首を傾げて一言呟く。
「それは一体、文字と言えるものなのでしょうか?」
これ以降、田中角栄と宮澤は、同じ目的の為に奔走しつつも不俱戴天の敵となっていった。