右フックの打ち合い
日本海軍台南航空隊。
その輝かしい歴史の中でも特に「最強」と呼ばれ、
無敗を誇った10年に1人の空戦の天才が5人同時にいた世代は「キセキの世代」と呼ばれている。
笹井醇一
福本繁夫
西沢広義
太田敏夫
坂井三郎
だが、「キセキの世代」についてはこのように言われている。
「台南航空隊って、確かに凄いけど、それって同じ隊に纏まっているからだな。
あれくらいの力量なら、海軍にはまだまだ他に居るよ」
「陸軍にだって、撃墜王は結構いるからね」
「なにが台南航空隊だバカヤロウ!
あんな機体も壊れないようなぬるい操縦のどこが天才だ、バカヤロウ!
俺よりちょっと先輩なだけじゃないか、バカヤロウ、コノヤロウ!」
ついにハバロフスクが降伏した。
朝鮮半島から攻め上がって来た新手の日本軍は、ウラジオストクとナホトカを占領し、線路沿いにハバロフスクへ攻め寄せ、包囲する。
戦闘機以外は手持ち無沙汰であった海軍の機動部隊も、日本海海上から急降下爆撃機や攻撃機を飛ばし、空襲を行う。
空母機動部隊搭載の新型攻撃機「天山」(昭和十八年に命名規則変更)は、爆弾搭載量が四式重爆と同じ800kgである。
海上からの約500kmの飛行は、優しいものではないが、かつてアメリカ合衆国との戦争を想定していた時はそれくらいの距離は想定していた為、特に問題も無い。
機動部隊だけでなく、陸軍も満州及び占領した沿海州の仮設飛行場から空襲を行う。
シベリア鉄道を断たれ、補給が尽きた上に、首都からも「そこで死ね」と言われていた第1極東戦線は各地で敗れ、次第に降伏する者が相次ぐようになる。
ドイツよりも日本の方が捕虜に対して人道的である、その噂が広まった為であった。
日本とドイツではロシア人に対する考え方が違う。
ソビエト連邦という「国」に対しては、両国とも共産主義という害毒をまき散らす迷惑な国という考えが完全に一致していた。
実際にコミンテルンは、ドイツと日本を次の共産革命の対象として工作していたし、日本の方は内部に大量のマルクス主義共感者が居て、情報を何度も何度もソ連に流していた。
だが、人というもので見れば、態度が全く異なる。
ドイツ人というか、ヒトラー総統はロシア人、スラブ民族を劣等人種とし、彼等を奴隷化して東方にゲルマン民族アーリア人の生存圏を拡げる考えであった。
捕虜は強制労働の対象だし、場合によってはユダヤ人と同じ「処理」も行う。
一方、日本の先鋭化した右翼思想では「経済で世界支配するイギリス人と、世界の大地主ロシア人は打倒すべき!」とか言っていたが、基本的には言われなくても五族協和の考えを持っている。
確かに二等国民とか土人とか言って馬鹿にする風潮はあるが、正直ドイツ人はおろか、イギリス人よりも遥かに差別としては弱い。
「お前たちは劣っているから、神が主人になる権利を与えたもうた我々に従うのだ」
という白人たちの差別感情に対し、
「お前たちは劣っているから、我々が教えてやるので必死に勉強し、早く一人前になれ」
という態度である。
だから
「怠けるな、嘘を吐くな、盗むな、人を殺して食うな!」
と口うるさいが、学校は作る、自治をさせる、法を叩き込むと近代化に必要な行為を行っている。
イギリス等は
「植民地人なんて馬鹿な方が良いのに、何をおかしな事をしているのか」
と日本の支配に疑問を持っている。
これはオランダですら同様で、蘭印の支配というのは凄まじいものがある。
だから日本人は、ロシア人の捕虜に対して世界基準から見て、かなり寛大であった。
まあ図体のでかいロシア人を、日本人の体格に合わせた施設や食糧で扱っているから、その辺はもしもアメリカ人なら「虐待だ」と言っただろう。
ロシア人にしたら、ソ連軍に居る時よりマシな方だったりする。
領土に関する考えも日独は異なる。
ドイツは第一次世界大戦で領土を失ったトラウマ克服からか、兎に角旧領回復に拘り、更に生存圏拡大というナチス党の方針に沿って、国民が動いていた。
名将と呼ばれるグデーリアン将軍も、占領したポーランドで土地を買い占めたりしている。
一方日本は、防衛思想の延長で、どんどん大陸に攻めていたに過ぎない。
「日本を大陸国家の脅威から守るには、朝鮮半島が必要である。
朝鮮半島を守るには満州が必要である。
満州を守るには……」
となったわけだ。
故に、沿海州やシベリアを領土として欲しいか?と聞かれたら
「そこって米取れます?
米が取れないなら、特に不要です」
といった具合で、基本的に戦国時代や江戸時代と変わらない。
まだ資源が多いならともかく、資源が無い、人口も疎らとあれば「荒れ地は要らん」となる。
この点、やはり土地というものに執着するロシア人とも異なる。
ロシア人は、母国の土地を奪われるとなれば、死に物狂いで戦う。
ナポレオンに対してもそうだった。
ナチス・ドイツともそうして戦い続け、大祖国戦争に勝利(共産党発表)したのだ。
故に第1極東戦線も、辺境とはいえ祖国を守る為に戦っていた。
だが日本には、こんな場所を領土に組み込む気が全くない。
満州を守る為に、敵地でなければそれで良い。
そこで、かつてロシア革命後に満州に逃げ込んだ白系ロシア人を招き、こう打診した。
「またソビエト連邦に対抗する国家を作ってくれないか?」
白系ロシア人の白は、共産主義の赤に対し、帝政を表す白から来ていて、反共産主義者であった。
必ずしも帝政ロシア復興希望者ばかりではなく、ウクライナ人やポーランド人、ユダヤ教徒も居たし、ボリシェヴィキとの権力闘争に敗れたメンシェヴィキやエスエルなどの他党派出身者も居た。
こうした者たちがソ連から亡命し、各地に逃げ住んだ。
満州にも多くが住み着く。
関東軍には白系露人事務局という白系ロシア人移民の保護を行う部門がある。
また、浅野部隊という、満州国軍内の白系ロシア人部隊もあった。
こういった組織の者が、
「日本や満州国は、ロシアの大地を冒す気は無い。
ソビエト連邦に反発しているだけだ。
もしもこの地に正教会を信じる真のロシア人国家が出来るなら、それを応援する」
と宣伝を行った。
実際ロシア革命後、極東に緑ウクライナという国が出来たが、日本はそれを攻めなかった。
ソ連・ボリシェヴィキが極東共和国という緩衝国を置き、この緑ウクライナはそれとの対立後に崩壊したが、日本はそこからの亡命を受け入れている。
こういった宣伝が効果を発揮し始め、戦闘能力が低下する一途の第1極東戦線では投降者が増えていった。
そして志願者は浅野部隊に組み込まれ、沿海州の占領地の警備に当たり、給料も支給される。
ヨーロッパロシアやウクライナの寒冷化に伴い、農民を名目兵士として移送していた。
その家族には、寒冷化した土地を捨てて、自力で極東まで来た人たちもいる。
こうなるとソ連に留まる必要も無く、家族ごと日本傀儡のロシア人国家に入って、新しい生活を始めても良い。
これがハバロフスクの降伏に繋がった。
兵士の士気が下がりまくり、政治将校を逆に吊し上げる始末である。
補給も途絶え、毎日のように繰り返される空襲、これには耐えられるが、
「死ぬまでそこで耐えろ、ただし補給は約束出来ない」
なんて言われたら士気も萎える。
その上、同胞から
「共産主義ではない、神の教えを信じられる国に参加して欲しい」
と言われると、何の為に戦うのか次第に揺らぎ出す。
(もう抗戦不可能だ)
内側からの崩壊が進むのを見て、ハバロフスクに籠っていた第1極東戦線司令部は日本軍に降伏の使者を送った。
その後、降伏した事を大っぴらにはされたくない司令官が、降伏調印式をしないで欲しいとごねたり、公開するくらいなら抗戦を続けると後出しで色々言い始めたが、山下将軍の
「ДаかНетか?」
という一喝に大人しくなった。
こうして沿海州での戦いを終息させた日本軍は、そのまま軍を西に向ける。
関東軍隷下第一方面軍は大興安嶺山脈の南及び山脈を縦走して、第四軍救援に向かう。
山下将軍の第二方面軍(沿海州攻略担当)は山脈の北側から西行する。
北を向く日本軍を人に例えると、右フックを繰り出す形となった。
逆に南を向くソ連軍も右フックを、日本軍の脇腹深くに叩き込んでいた。
ザバイカル戦線及びモンゴル軍は、日本陸軍支那派遣軍を何度も打ち破っている。
精鋭と見られていた支那派遣軍だったが、所詮は蔣介石軍相手に勝ち続けた軍に過ぎなかった。
馬鹿の一つ覚えのように、包囲を行おうと機動し、戦車による反撃を受けて、逆に包囲されてしまう。
海から物資を陸揚げして輸送する日本軍の中で、この方面が最も遠い。
逆にソ連軍にとって、シベリア鉄道オトポール支線から最も近いザバイカル戦線は、3つある極東の軍の中で一番精強であり、今も増強されていた。
この猛攻が息切れしたのは、日本軍の奇策であるイルクーツク空襲が功を奏し、ザバイカル戦線から兵を割いて後方を守れという命令が出されたからである。
また、ウランバートルも空襲を受け、モンゴル軍の士気にも影響が出た。
イルクーツク空襲は、打撃少なく負担が大きい作戦だが、戦局に与えた影響は決して小さくは無かったようだ。
支那派遣軍は一息つけたものの、既に砂漠地帯から追い出され、通遼県に司令部を置き、西拉木倫川を防御線としてどうにか戦線を支えている苦境に変わりはない。
ここを突破されると、満州国の首都・新京や重要拠点・奉天まで突き抜けられる。
関東軍も援軍を送り、シラムレン絶対防御線を守り抜く覚悟である。
「ここで守っていれば、第一、第二方面軍がソ連軍の背後を衝く。
大包囲が完成し、ソ連軍を撃破出来る!」
その掛け声で、押し込まれている支那派遣軍は必死の抵抗を続けていた。
……決して、包囲に成功したからと言って、その中でソ連軍が持ち堪えて、逆襲して来る可能性を指摘してはならない。
奉天会戦でもそうだったが、包囲したら勝てる、そう信じているのだから。
関東軍及び東京の参謀本部は、確かに「右フック」でソ連軍の背後を脅かし、打撃を与える事を作戦としている。
だが、彼等はもう少し現実を見ていた。
この「右フック」は、フルンボイル地方奪還が目的である。
ここの飛行場が使えないと、航空隊の負担が大き過ぎるのだ。
航空攻撃でシベリア鉄道の輸送能力を削り、相手が万全にならない内に、日本本国から最新兵器や新戦力を送り込む。
航空攻撃がどうしても必要なのだ。
精強なザバイカル戦線と戦って勝てるとは限らない。
まずはフルンボイルを奪い返す。
かくして日ソ戦争は、日本の右ロングフックが炸裂するか、それともソ連の右ショートフックの連発に日本がダウンするか、という状況となった。
コミンテルンはまだ解散していません。
この世界ではまだ必要があるからです。