国家の方針策定の事前会議
気候変動に伴い、ライン川とエルベ川という北に流れる川は、気候変動前のオビ川やエニセイ川のようになる。
年の全期間で凍結はしないが、10月から翌4月頃にかけて凍結し、特に河口の港湾が使用不能となる。
ヤンガードリアス期レベルの寒冷化で、恐らくこの先も全期間の凍結は無い。
そして東方に流れ、より南側にあるドナウ川は凍結しない。
しないが、ここには大きな工業都市は無く……。
そしてオビ川、レナ川、エニセイ川は夏季にたまに解氷するだけの凍った川と化す。
解氷時はほぼ洪水。
「例の陸軍の研究機関の人ね、無事に救助されたそうですヨ」
岸大臣が松岡次官に話す。
ドイツからの帰路、インド洋でサイクロンに遭って消息不明となっていたが、無事だったようだ。
「船が難破してたんですか?」
「そのようですネ。
イギリスの哨戒機が発見したそうです」
チャーター船はサイクロンにぶつかり、機関と電気系統が故障し、漂流していた。
「アンダマン諸島北センチネル島の沖合に居たところを発見。
急ぎ修理を行い、シンガポールまで回航されました。
駐在武官はシンガポールから空路、帰国するそうです」
危ないところであった。
あと少し発見が遅れ、北センチネル島に漂着していたなら…………。
「その彼が戻って来た後で、御前会議前の関係者会合が有ります」
「分かりました。
資料を纏めておきます」
「何言ってるんですか?
君も出席するんですヨ」
松岡は目の前がクラクラした。
一事務次官に過ぎない自分が、そんな重要な会議に出席しろと?
「既に帰朝報告で色んな人の前で発表会したでしょう?
そして時間です。
君は既にそういう場に顔を出さなければならない立場なのですヨ」
言われてみればそうかもしれない。
総力戦研究所からは現所長が出席するが、松岡は「留年」と言いつつ総力戦研究所には余り顔を出していなかった。
商工省事務次官という重職にあった他、もう一つの職の方が忙しかったのだ。
もう一つの職、それは異常気象対策研究会の幹事である。
商工省の他、内務省、農林省、逓信省、拓務省、鉄道省、陸海軍、そして複数の土建業者から担当者を集めて「どのように国土を強化していくか」を話し合う組織である。
話し合うといっても研究や報告会ではない。
どの案件を先に行う、それに当たって欲しい機能は無いか伝えて貰う、その場合の管轄はどこになるか、予算はどれくらいになるか、工期はどれくらいが予想されるか、費用対効果はどんなものかを話すものだ。
ダムの件で言えば、どの河川のダムを先に作るか、そこに発電や農業用水利用機能を付加するか、その場合は内務省が電気事業申請をどの団体に認めるか、作業人員の規模と工期と予算を策定して国会に提出するが、それは誰の名前で行うかを決める。
この場には土木業者の他、意外な人物も顔を見せていた。
国家総動員法により特殊法人日本発送電会社が設立され、電気事業が国の管理下に置かれた為に引退した実業家・松永安左エ門である。
官僚嫌いでもあり、軍人に追従する官僚を「人間のクズ」と罵倒して大問題となった事がある。
官僚と事業者の癒着の場であるこの研究会なんか、本来見向きもしない筈だ。
だが、チャーチル発表を聞いた彼は、真っ先に
「官僚どもは真っ先に水利事業をするだろう。
それくらいは勉強しか出来ん奴等でも考え付く。
多少頭が回る奴が、同時に堰堤を使った水力発電を思いつく筈だ。
その電力事業を、官僚任せにしてたまるか!
もしも水力発電所の併設も思いつかないような低能だったら、わしが教えてやるわい」
いう思考をする。
松永は「戦争に訴えなくとも日本は生きていける」という思想である。
チャーチル発表によって知られた気候変動。
(これは好機かも知れない)
日本はこれから戦争どころではない状態になる。
それを上手く舵取りすれば、戦争をせずとも国が立ち行く事の証明にもなろう。
大体、予想される国家改造工事には、大量の人員が必要となる。
工兵や歩兵という非生産的な仕事で、手に腕がある者たちを遊ばせておくのは勿体無い。
そんな事もあり、大嫌いな官僚たちの中に入り、電力事業や国家の方針について説得を行っていた。
この会合には、若造かつ企業の規模も小さいのに、田中角栄も混ざっている。
耳が早かった彼は、チャーチル発表の前に気象変動について知り、先んじて土木事業計画を纏めていたのだ。
社員たちからは
「こんなのうちの会社じゃ手に負えませんよ。
国がやるような事業ですよ。
社長の大風呂敷も大概なものですな」
等と笑われていたが、その大風呂敷故に日本全土はおろか、台湾、朝鮮半島、南洋諸島まで見据えた大規模かつ各業種横断的な計画を立てていたのである。
これはチャーチル発表を知った後で調査を始めた官僚や事業者より、一歩どころか十歩以上先に行っているものだ。
最初は理研財閥の大河内と、幹事である松岡の推薦という事で
(権力に取り入った抜け目の無い若造が)
と非好意的に見ていた者たちも、その調査力、発想力、現実的な計画に落とし込む能力を知って評価を改めていた。
いつしか田中角栄は、誇り高く事務能力は高いが創造性には欠ける官僚、一応国家の為に働くものの行動原理は金儲けな大企業、国家の危機なのは分かっているが軍事力の削減には応じたくない軍部、ここぞとばかり持論を展開する有識者らを調整し、意見を取り入れられるものは取り込み、既に計画済みなものであればすり合わせをする、その下準備の根回し役として松岡の右腕に成り上がっていた。
そして不思議というか当然というか、この若造が重要な役割を担っている事に、口うるさい連中も、それが自然であるかのように扱っていた。
松岡としても、田中角栄が秘書的な、副官的な役割をしてくれる事は有り難かった。
彼には公的に、商工省官僚の秘書が3人付いているが、彼らは彼らでスケジュール調整や書類仕事で多忙であった。
人と人とを上手く繋げる政治家のような仕事が得意かと言えば、分からない。
松岡自身は商工次官として、産業に必要な資源の確保や外貨を稼ぐ輸出に関する業務で忙しい。
彼は、イギリスとは絶対に対立してはならないと考えている。
彼は軍人ではないが、官庁に居る以上日本の状況を知る立場にある。
ソ連が兵力を極東に戻している。
単なる配置転換かもしれず、外務省は
「中立条約の有効期限内の戦争は無い」
とソ連の主張を鵜呑みにした答弁をしていた。
軍人でも外交官でも無い以上、松岡はどちらとも判断出来ない。
判断出来ないが、北にソ連、南にイギリス連邦やイギリス植民地、遥か遠くに同盟国ドイツという情勢なのは理解出来る。
陸軍はソ連が攻めて来たら、満州を守って戦う気である。
戦争になる。
その時、イギリスと南方で戦っていたら、経済がもたない。
陸軍軍人は
「一ヶ月もあれば、馬来や蘭印から敵を駆逐してみせる」
と早期勝利に自信を見せるが、それが本当かは分からない。
もっともその参謀は
「ではあっても、現在我が国に敵対しておらず、禁輸もしていない相手とわざわざ事を構える必要も無い。
勝てるが、占領し続ける準備が出来ていない」
とも言っていた。
松岡や、その近い集団からすれば、大アジア主義というのは自己満足でしかない。
総力戦研究所も、秋丸機関も、短期決戦でイギリスをインド以東から排除可能という結論は出している。
確かに勝てる、それは確かだ。
だが現在、彼の知り合いの陸軍参謀が言ったように、イギリスとオランダは、日本に対して敵対行為をしていないのだ。
そんな中、アジアの解放を訴えて戦争をする意味があるのか?
資源の確保が出来ている以上、戦争目的は植民地からの解放と独立国設立となるのか?
他人の為の。
確かにアジアの解放というのは良い事なんだろう。
その解放したアジアが、すぐに取引相手になるのか? という疑問が残る。
現地人はこれまで政府を持った事が無い。
現地人がトップの商社等もほとんど聞いた事が無い。
国として政治をし、経済を動かせるようになるまで、日本が指導するのか?
独立させてやって、軍事力はどうする?
他人任せで独立したら、再奪取に来る白人国家に対し、また日本が戦わなければならないのでは?
自分たちで独立を勝ち取らない限り、他人任せ、日本任せになりかねない。
それを望んでいる官僚や軍人も居て、それは主人を白人国家から日本に代え、植民地総督府を傀儡政府にするだけのものだ。
それを「八紘一宇」をスローガンにしている連中は望むのか?
話が逸れたが、要は南でイギリスを追い出して、十年以上かかるかもしれない東南アジア諸国が国として機能するまでの期間、ソ連が待ってくれるかどうか分からない。
東南アジア諸国に傀儡国家を作るにしても、その為の資金は日本の持ち出しになるのか?
台湾と朝鮮半島の経営にも、どれだけ資金が掛かった事か。
台湾は黒字化だが、あの規模でも十年程度の時間を必要とした。
だから
「大アジア主義を悪いとは言わないが、
それを理由に、北にソ連の脅威が有る中、敵対もしていない相手に戦争を仕掛けるのは反対だ」
これが松岡の考えである。
一方で松岡は、イギリスに依存する危険も承知していた。
彼は経済学者との交流で、独占という経済状態の危険さを学んだ。
一方的に価格決定権が有る相手は、自分の利益だけを考えて、最適化した行動を取る。
今は日本を敵に回さないのが最大の利だから気を使っているだけだろう。
日本がイギリスと付き合う以外の選択肢を消してしまったら、日本はイギリスの都合に振り回される立場に落ちてしまう。
そうなると
(競争相手としてのソ連やドイツというのは必要だろう)
そうも考える。
資源調達においては親英派、というかそれ以外無いと考える。
これは大アジア主義の秩序派からは敵視されるだろう。
民間の過激秩序派は弾圧を食らったが、軍部にはまだまだ隠れ秩序派、過激な政治団体や会合には参加していないだけで、思想的には秩序派そのものな将校もいて、迂闊な言動は危険であろう。
一方、商工の彼我の関係を考えると、イギリス一本被りは良くないと考える。
では親独派になるのか?
そうとも言い切れない。
要は国に対し「こうすべきである」という意見等持っていないのだ。
考えろと言われても迷ってしまう。
資源確保の側面と、経済の上下関係という側面で、イギリスに対する意見が彼の中で相反しているのだ。
だから、報告書を出して、岸大臣にその辺を委ねようと考えていたのに……
(そうはさせませんヨ)
岸の笑顔の奥の、笑っていない目がそう伝えている。
(なるようにしかならん!)
開き直って、彼はその重要な会議への参加を承知した。
もっとも、断る権利は彼には無いのだが。
そして数日後、事前会議が始まった。
次話は18時にアップします。