ドイツの継戦能力
ドイツを流れる主な河川
1.ドナウ川:流入先は黒海 流域の都市としてウィーン、ブダペストがある
2.ライン川:流入先は北海 流域の都市としてストラスブール、カールスルーエ、ボン、ケルン、デュッセルドルフ、デュースブルク、ロッテルダムがある
3.エルベ川:流入先は北海 流域の都市としてプラハ、ドレスデン、マクデブルク、ハンブルクがある
4.オーデル川:流入先はバルト海 流域の都市としてアイゼンヒュッテンシュタット、フランクフルトがある
日本には悪い癖がある。
似たような目的の研究機関、委員会、会議を連携させる事なく、それぞれがてんでんばらばらに立ち上げてしまう事だ。
1940年、北米大陸消滅以前は日米戦争が起こればどうなるかが一大課題であった。
将来の戦争は総力戦となると予測されていた。
その為に総力戦研究所が立ち上がったのは既に述べた通りである。
また、岸信介も参加した企画院も、日米開戦における計画経済について研究をしていた。
現在、その「最終戦争論」がアジア主義者に利用されているが、石原莞爾も日満財政経済研究会も民間のシンクタンクとして総力戦を研究していた。
そして陸軍が立ち上げた陸軍省戦争経済研究班、通称「秋丸機関」も同様の研究機関であった。
秋丸機関は、秋丸次朗陸軍中佐が経済学者、満鉄調査部員、さらに各省の少壮有能官僚を纏めて
「仮想敵国の経済戦力を詳細に分析して最弱点を把握」
「同様に同盟国の経済戦力も分析して最弱点を把握」
「これを踏まえて日本の経済戦力の持久度を見極める」
研究を行っていた。
そんな中、北米大陸が消滅してしまう。
とりあえず仮想敵国をイギリス、そしてソ連にしたまま研究を続けた。
秋丸機関が出した結論は
「イギリス相手にアジアでなら勝てる」
「イギリスと全世界規模で戦うのは無理。
そもそも日本軍はそういう兵站を持っていない」
「講和をせずに長引けば、資源確保に問題が出る。
戦争は2年を目途に終わらせる(備蓄出来るのもそれくらいが限界)」
「イギリスと講和をするには、輸入に頼るイギリス経済を締め上げれば良い。
それにはドイツの協力が必要」
「ドイツが勝てないなら、イギリスと戦うメリットは余り無い」
というものであった。
国際情勢は混沌としている。
何が起こるか分からない。
秋丸機関は、一番の鍵となるドイツの経済戦力を調べる必要があると断じた。
これが他の研究機関と違う部分である。
同盟国ドイツの経済について、徹底的に調べたのはこの機関だけである。
何故なら、同盟関係を利用して陸軍はドイツの資料を大量に入手している他に、駐在武官として調査員も派遣しているからだ。
他の研究機関とは、ドイツとの距離で差が出てしまう。
秋丸機関のドイツ研究は、チャーチル発表以前の知識を前提としていた。
ドイツが長期の世界大戦に耐える条件として、ソ連の生産力を利用出来るようになる事を挙げた。
␣←不要? 何かの残骸?
それは人民という労働力、ウクライナの農産物、バクー油田、マンガン、石綿、リン鉱という資源である。
対ソ戦が二ヶ月くらいの短期戦で終了し、直ちにソ連の生産力が利用可能となればドイツは世界に覇を唱えられる。
一方、長期戦になれば1942年より次第に経済力は低下していく。
これが予測であり、現実は長期戦となった。
イギリスとは休戦状態だが、もし次にイギリスと戦争する時は、1941年の開戦時期よりも落ちた国力で戦わざるを得ないだろう。
これは兵士の数、兵器の性能を意味しない。
戦う事で開戦から数年後のドイツ軍は、より精鋭部隊を持ち、より進歩した兵器を有するだろう。
だが国内経済は疲弊し、使える資源は目減りしている。
特に石油において深刻化しているだろう。
また、ドイツは銅やクロムにおいて不足しているが、それは南アフリカ及び周辺の英植民地に存在する為、イギリスが有利となる。
タングステン、錫、ゴムについてもアジア南方に植民地を持たないドイツは、日本がこれらの地域を占領した後で優先的に回さないと生産に支障を来す。
仮に日本がドイツ側で参戦し、これらの地域を接収したとしても、ドイツがスエズ運河を抑えていない限り、航路上の不利で本国までろくに届かない可能性が高い。
インド洋の制海権までは日本が何とか出来るが、喜望峰を回って大西洋に出てしまえば、もうそこはイギリスの庭である。
ドイツ潜水艦部隊同様、イギリス潜水艦部隊もドイツ商船を海の底に沈めてしまうだろう。
北米大陸消滅前の知識でこうだ。
この論は、日本が積極的にドイツ側に立って参戦し、インド洋から中東地域までを協力して支配下に置き、あとはドイツに頑張ってスエズ運河と地中海を抑えて貰えれば、今次大戦はドイツがイギリスに勝利する。
逆にイギリス側に立って参戦、もしくは中立を守れば、ドイツ海軍にインド洋まで抑えられる戦力は無いし、ドイツはジリ貧でイギリスに敗北となる。
日本が大戦の勝敗における鍵を握っている、という考えに繋がる。
陸軍の慎重派にも、強硬派にも、過激派にも嬉しい結論だ。
「日本が鍵を握っている。
だからこそ今後の世界を見据えた上で行動すべきだ」
「日本次第でドイツが勝つ。
だからこそ積極的にドイツに味方して、共に世界を支配しよう」
「日本次第でイギリスが勝つ。
恩を売って、今後の資源獲得上有利にしよう」
「日本が鍵を握っている。
ギリギリまでドイツとイギリスを焦らし、もっとも良い条件を提示した側に味方しよう」
「日本次第ではないか。
だったら上手くやって日本が世界に覇を唱えよう」
どの考えにも適用出来る。
だが、秋丸機関も流石に優秀な人材の集合である。
北米大陸消滅以後は、もっと大きな問題が起こるのではないか、と予測した。
これには先んじてイギリスが気象変動について疑い、対策しているという情報が岸信介からもたらされた事も関係している。
総力戦研究所の松岡成十郎がイギリスに目をつけられ、様々な情報を与えられている。
その松岡の上司が岸である。
岸が現在は大臣を勤める商工省からも、秋丸機関への出向者は居る。
こういう経路で、イギリスが疑う「氷河期到来」が、チャーチル発表以前から秋丸機関にも伝わっていた。
そこで秋丸機関からドイツに調査員が派遣された。
1941年秋の事である。
この年は日本各地で高温や豪雨災害が相次ぎ、異常が目に見え出していた。
秋丸機関は、その存在が目立たないようにされていた。
ここの研究員は、怪しまれる事もなく、当時休戦状態のイギリス船、ドイツ船と乗り継いで、駐在武官や商社駐在員としてドイツに赴いた。
これまで過去形で語っていたのは理由がある。
独ソが休戦、ドイツがイギリスと再戦、ドイツがイタリア侵攻という数年前は予想出来なかった情勢の変化に対応すべく、あちこちに在る研究機関を総力戦研究所に一本化させる事が決まったからだ。
件の秋丸機関に所属するドイツ駐在武官も、英独開戦に伴い帰国命令が出た。
だが、帰路は大変である。
ドイツに来た時はドイツとイギリスは休戦状態で、航路は安全だった。
だが今は戦争状態。
中立国の船でも、ドイツ潜水艦部隊は攻撃するという事は、第一次世界大戦からも分かっている。
ドイツ船籍の客船は、逆にイギリスから攻撃されかねない。
シベリア鉄道を使って陸路から帰ろうとしたが、ソ連から拒否されてしまう。
彼には、どうしても帰って報告しなければならない、ドイツ最大の問題事項が有った。
それは、やはりドイツまで来て、数年過ごさねば気付かなかっただろう。
ドイツの生命線、ライン川が凍結するようになったのだ。
ライン川流域には、ドイツの工業地帯が存在する。
ドイツ最大の重工業地帯・ルール工業地帯もこの流域に在る。
ライン川は河口から上流のシャフハウゼンまで、水量も多い上に滝が全く無い事から、そこまでの全域で船舶の航行が可能であった。
河口のロッテルダム港やアムステルダム港、アントワープ港で陸揚げされ、あるいは内陸から港湾に運ばれる河川輸送がドイツの流通において重要であった。
そのライン川が冬季に凍結し出した。
水量が多く、河川全体が凍る事は無いが、表面や港湾は氷に閉ざされ船舶の運航に支障が出始めていた。
現在はまだ、船底が傷つくのを覚悟で、強引に進めば何とかなる。
だが1942年の冬から春にかけてより、1943年の方が結氷期間は長く、損傷する船も増えている。
ドイツの重要河川にはライン川の他にエルベ川も在るが、これも凍結する。
こちらは以前から河口付近が結氷する事もあったのだが、上流まで氷が張るのは異常だ。
エルベ川流域にはドレスデンが在り、やはりドイツ経済を支えている。
「ドイツの経済戦力は、氷によって壊滅する」
これが秋丸機関の派遣調査員が出した結論であった。
だが、これを今まで日本本国に伝えられていなかった。
同盟国とはいえ、ドイツからドイツの欠点を電話や電報で送れば、盗聴している秘密警察に踏み込まれる恐れがある。
それに駐独日本大使館にはドイツシンパが多い。
迂闊な事は、大使館内でも口に出来ない。
それに、もう少し長く調査してから報告する予定でもあった。
たった2年ちょっとの調査では確実にそうだと言い切れない。
夏は解氷して河川輸送も復活するわけだし。
しかし帰国命令が出たし、これ以上の調査もしづらい。
日本はドイツ・イギリス両方と同盟を結んでいる。
そんな日本人が、河川を眺めて船の動向を観察しているのを、平時ならともかく戦時は好まれないだろう。
今までに分かった事を、何としても伝えなければならない。
焦りもあったのだろう。
彼はすぐに旅の手配をし、ヨーロッパを離れた。
鉄道を乗り継ぎ、ドイツ勢力圏を突っ切ってギリシャに、そこからトルコに渡る。
そこからイギリスの船をチャーターし、シンガポールに向かった。
ここで行き違いが発生する。
少し待っていれば、日本政府が避難船を派遣するという連絡を聞けたのだ。
派遣されるのは軽巡洋艦で、日本を発したばかりだから到着まで時間は掛かる。
だが、堂々と掲げられた旭日旗を攻撃する蛮勇は、ドイツにもイギリスにも無い。
まして相手は軍艦なのだし。
彼がもっと手続きに手間取り、1日ベルリンに居たなら、この報を受けて安全に帰国出来ただろう。
しかし早くヨーロッパを離れなければという焦りから、乗り継ぎが多いながらもドイツ勢力圏を行ける鉄道移動を選択し、早々と手続きを終えてベルリンから離れてしまったのが災いした。
電報を使って引き返すように連絡するが、南欧はドイツ勢力圏とは言え戦地、軍事以外の電報はやや遅れてしまい、ついに届かなかった。
そして、その調査員を乗せた船が、定刻にシンガポールに着かない。
インド洋で発生したサイクロンによって消息を絶っていた。
沈没したのか、それともどこかに避難しただけなのか?
彼の到着と報告は、日本の針路を決めるに当たり重要なものであった。
ここの回も分岐点の一つです。
この駐在武官が無事に帰国出来るかどうかで、本国が得られる生の情報に差が出ますので。
ライン川凍結の細かい話は、次話の前書きで書きます。
次話は23日17時にアップします。