五・二六事件
この回より、IFの分岐を始めます。
一旦終わってから、別パターンをこの「五・二六事件」から始めます。
(何パターン書くかは、作者の気力次第です。
2パターンは書く予定です)
(思い悩む事は無い。
吾輩らしく行動あるのみだ!)
辻政信は件の盛岡中学校出身の士官を連れて走り出す。
向かった先は憲兵司令部。
陸軍管轄の憲兵には、新聞が書き立てた「支那事変を終わらせた男」「重慶攻略の英雄」の名声がものを言う。
憲兵司令部に事態の重大さから緊張感が漲る。
「出来るだけ穏便に済ませろ。
海軍に恩を売る形にしろ。
折角支那事変勝利への貢献で、陸海軍の関係が良くなっているのだ。
余計な波風を立てる必要は無い」
相手の方が階級は上なのだが、辻が命令を出す。
いや、憲兵に対する命令権など彼には無いのだが、この男は大体こんな感じなのだ。
応対した憲兵隊長は大佐であり、ムッとはしているが、確かに彼では判断に困る事案である。
官僚である憲兵大佐は上司である憲兵司令官に報告を入れるが、その際に辻中佐の言伝として言われた事を話す。
憲兵司令官である大木繁中将も、事態が差し迫っている事と、海軍との関係を拗らせたくない事は理解出来た。
彼は「ではどうしたら良いのだろう?」で済ませられる立場ではない。
辻と話をし、彼の名で命令を出す。
「米内予備役海軍大将閣下の身辺を警護せよ。
中国憲兵隊司令部には出動待機命令。
あとは私が海軍に話す。
穏便に、で良いな中佐」
大木憲兵司令官から連絡を受けた嶋田繁太郎海相は、配慮に感謝し、内々に事を運ぶ。
これで陸軍に借りが出来たのは確かだ。
だが、大事になって海軍の体面を損ねるより遥かにマシである。
嶋田海相から古賀峯一横須賀鎮守府司令長官、野村直邦呉鎮守府司令長官、そして当事者の山本五十六連合艦隊司令長官及び井上成美海軍兵学校校長に連絡が入れられる。
古賀峯一も思想的に山本、井上に近い。
直ちに信頼の置ける部下を使い、決起部隊が移動を行う前に拘束する。
海軍省勤務の者も同様に、行動を起こす前に抑えられた。
呉や江田島にも、決起部隊の同志はいる。
決起部隊の人数は十数人で、東京と横須賀の十三人は、最初の数人から芋ずる式に捕縛出来たが、最初から広島に居る者は、一体何人居るかすら把握出来ていない。
「別に殺すなら、やってみるが良い」
と豪快な事を言った山本と井上ではあるが、周囲が説得し、厳重な警備をつける。
もっとも二人とも曲者だから、弱気を見せない為、周囲が制止するのを承知で芝居をした可能性もある。
とにかく厳重な警備態勢が取られ、その中で山本五十六は神戸沖での観艦式に参加し、井上成美も兵学校の行事を終えた。
その背後で海軍は特務機関を編成。
高官暗殺を企てた士官・下士官の洗い出しを行う。
水面下で危険分子を捕縛、拘禁していく。
実行部隊は三十人に満たない人数であったが、その同志や同様の思想を持った者たちは少なくは無かった。
海軍にとって、表に騒動が出る事無く片付けられたのは大きかった。
正直「蜥蜴の尻尾切り」である。
主流派が守りたい提督や、上層部に責任が及ぶ事は無かった。
代わりに山本や井上を失脚に追いやる事も出来ない。
何故なら海軍で問題は
「何も無かった」
からだ。
何も無いのに連合艦隊司令長官と海軍兵学校校長に責任を負わせるわけにもいかない。
そして海軍は陸軍に借りを作ってしまった。
「辻中佐にしては、随分と上出来ではないか。
彼だったら、勝手な行動をして全てを台無しにしてもおかしくなかったのに」
「左様左様。
上を上とも思っておらん男だからな。
海軍の面目を潰す形で大事にしたかもしれん」
「いやいや、自ら憲兵を指揮して決起部隊に殴り込んでもおかしくは無かったぞ」
参謀本部では辻中佐の意外過ぎる「穏当にして礼儀正しい」行動を不思議がり、冗談にして笑った。
「陸海軍で戦争をしている」
と以前は噂されるような不仲な軍であったが、陸軍が海軍に貸しを作った形でしばらくはやっていけるだろう。
陸軍は艦隊削減に賛成である。
彼等も重砲や戦車製造に鉄を利用するが、その使用量は海軍の比ではない。
ソ連との戦争が近いかもしれない。
ロシア帝国軍からの流れでソ連軍というのは砲兵重視の軍である。
関東軍もソ連との戦いに備え、砲も航空機も準備をして来た。
だが、ノモンハン事件のような短期での戦いになるとは限らない。
数年に渡る総力戦が考えられる。
日本の悪い癖で、同じような組織を何個も立ち上げてしまうというのがある。
総力戦研究所が日米開戦を見据えて創設され、正式に立ち上がる前にアメリカ合衆国そのものが消えて無くなる珍事に遭遇してしまった。
これと同様に、総力戦をどう戦うべきか、どのような推移をするかは関東軍も研究していた。
彼等はきちんと、短期決戦で終わらない場合を想定していたのだ。
この場合、砲や戦車の消耗は激しいから、常に生産して補充しなければならない。
その際にネックとなるのが、海軍との資源の奪い合いである。
政治的な場で対決、とも考えていたのに海軍が自ら艦隊を削減し、建艦計画を凍結するなら願ったりかなったりだ。
陸軍は全力で山本五十六路線を支持する。
海軍内の秩序派粛清は、艦隊派の責任問題には発展していない。
艦隊派は山本や井上を嫌っていたし、
「殺してやろうか」
と脅したりはしたが、本気でそんな内ゲバをやって立場を悪くするつもりは無かったからだ。
若手の暴走、という形にする一方で、彼等を過激な思想に誘導した者には責任を負って貰いたい。
公式には「何も無かった」。
未遂では無い、そもそもテロ行為は存在すらしていなかったのだ。
だから、秩序派の会合で海軍の若手将校が危険な思想に誘導された、という事実も存在しない。
全ては無かった事になる。
秩序派のそういう会合も無かったのだ。
会合そのものが無かった事になるのだ。
表向き、岸信介が特高警察を無力化している。
事件は「無かった」以上、憲兵も表立っては動かない。
海軍の特務機関は、その存在自体が表には出て来ていない。
表に出ていないだけで、裏は陰惨であった。
辻から参謀本部、参謀本部から東條陸相、そして政府内と話として内務大臣が秘密捜査の許可を出す。
(そろそろ切り時ですネ)
岸は秩序派とも経済派とも、付かず離れずの距離を維持していた。
両方に顔が利く一方、両方に深入りもしていない。
石原莞爾辺りは良いが、大川周明や井上日召は危険である。
国家社会主義者として統制経済に協力的なのは良いが、やはりヒステリックにイギリスやソ連を敵視するのは国家の進路の舵取りをする者には迷惑だ。
気に食わないからといって、一々刺客を送られる昭和一桁年を繰り返したくも無い。
特高警察という猟犬は、久々に餌を与えられ、喜んで仕事に臨む。
勝手が違うのは、今までは左狩りを大々的に行っていたのに、今度のは右の者を密かに捕えるよう命じられた事である。
だが、特高以外にも様々な機関が暗躍している為、彼等も遅れを取ってはならないと張り切る。
それは正しく「右のゾルゲ事件」であった。
如何に水面下で弾圧を行っていても、どこかからは漏れ伝わるものである。
その場では騒がないが、夜密かに治安関係者と思しき何者かが、誰かを連行して行く姿を見られているのだ。
市民は関わり合いになるまいと、その場では目を逸らす。
しかし、しっかり見ていないから訳が分からないまま、断片だけを
「ここだけの話だけどね」
と話してしまう。
職場では大人しく、口数が少ない人付き合いが苦手なだけと思われていた者が、ある日急に仕事に来なくなる。
理由を聞くと、上の者は
「急な一身上の都合で彼は退職となった。
詳しい事は聞くな。
何も言えないのだ」
と逃げてしまう。
こうして「どうも過激な国家主義者が捕まっているようだ」と、密かに囁かれるようになった。
この状況を、今まで弾圧をされていた左翼思想に近い学生や学者たちは
喜んでいた。
国家による弾圧が復活したら、いずれは自分たちにそれが向けられるかもしれない、そう思う者は少なかった。
秘密警察の復活なのに、自分に矛先が向かないと分かると、むしろ歓迎する。
弾圧され続けた者が望む事は、立場が入れ替わって、自分たちを弾圧していた者たちが同じ目に遭う事である。
決して弾圧が無くなる事を願う訳ではない。
自分たちは間違っていない、自分たちこそ正義であると思う者たち程、
「不正に正義を弾圧をしていた悪は滅びて当然。
正当な報いを受けて貰わねば!」
こんな風に考えてしまう。
彼等は冷笑しながら、右翼活動家が密かに逮捕・連行されるのを見ていた。
この「右のゾルゲ事件」は本家ゾルゲ事件と同じ場所に着地する。
連行し、空き家を家宅捜査している内に、一部の者はコミンテルンと繋がっている事実を突き止めてしまった。
正しく瓢箪から駒が出たようなものだ。
アジア主義を主張し、日本によるアジア解放を声高に叫び、イギリスへの憎悪を煽っていた者が、実は共産主義者の手下であった。
人付き合いが苦手で、いつもボソボソと喋っているような者は、本当に右翼思想に染まっている。
そういう者は、
「お国の為に奸賊を刺す」
実行犯の予備軍であった。
そうでなく、口で声高に日本は神国であると叫び
「蔣介石はまだ生きている。
陸軍も生温い。
叩き潰して支那全土を制圧して第二の満州国とすべきだ」
とか
「イギリスもソ連も油断がならない。
ドイツがイギリスと戦っている今、日本は南進して資源を得るべきだ」
とか言って来た者こそが、実はコミンテルンの手下であった。
これはゾルゲ事件の主犯の一人・尾崎秀美が軍部とも繋がりを持ち、近衛文麿のブレーンとして日中戦争の拡大を訴え
「敵対勢力として立ち向うものの存在する限り、これを完全に打倒してから事を考えるべきである」
「今後日本の進むべき道は、結局勝つ為にまっしぐらに進む以外はない」
と論説していた事と構図としてよく似ている。
強硬論は、結局国の方針決定から柔軟性を失わせ、一定の方向に誘導出来てしまうのだ。
「右かと思わせておいて、その本体はアカだったのか……」
特高を始め、水面下で動いていた機関は、その事実に愕然とする。
この事は、当然上に報告される。
「やはり共産主義者は油断がならない」
上層部にその気分が醸し出される。
そして新聞や雑誌は、コロっと今までの軍国的な論調から
「白人をいたずらに敵視する事なく、冷静に見極めるべきである」
「南方における資源獲得は、火事場泥棒的なやり方であってはならない」
といったものに変わっていた。
今までの過激な論調など、全く無かったかのように……。
このパターンでは綺麗な辻政信が穏当判断をした場合でした。
いつもの辻政信のパターンは別に書く予定です。
他の人物は、行動原理、今までの思考や行動、学んだ事や見て来た事で大体の行動が予想出来ます。
勝手な想像かもしれませんが、何となく思考の範囲が絞れます。
辻政信はトリックスターなので、良い事も悪い事も、結構な成功も派手な失敗もするので、動かしやすいので使いました。
(コメントで「歴史の十字路ってとこですか。辻だけに」ってのがあって、超秀逸でしたので紹介しました)
18時に次話アップします。
↑
19時って書いたの間違いでした。
すみません。




