分岐点
日本と中華民国の戦争は、宣戦布告が無かった為に「戦争」と公式には呼んでいない。
昭和十二年7月11日に日本政府は「北支事変」と呼称を決めた。
9月2日に「支那事変」と変更される。
その後の呼称変更は、この世界では起きていない。
明治三十八年(1905年)5月27日から28日にかけて、日本海軍連合艦隊はロシア帝国バルチック艦隊を対馬沖を皮切りに、日本海各所で撃破した。
日本海海戦である。
この海戦の起きた5月27日は海軍記念日となった。
海軍記念日には式典が行われる。
昭和十九年(1944年)は海戦から39年目である。
来年、昭和二十年(1945年)は日本海海戦40周年になる為、大々的な式典が企画されている。
昨年は、支那事変を戦っていた事もあって大々的なものは行わなかった。
今年もそれ程大きな式典にはしないが、
「大国の大海軍を国際社会に誇示すべき意味でも、少しは見栄えのする方が良い」
「蒋介石も降ったのだし、勝利を国民と祝うべきだ」
とする意見が出て、神戸沖の観艦式をメインイベントで行う事になった。
連合艦隊司令長官も海軍兵学校校長もこれに参加する。
連合艦隊は27日早朝に呉を出港し、昼からの観艦式に向かう。
山本五十六はその時、派遣艦隊旗艦に座乗し艦橋に立つ。
戦艦「大和」と「武蔵」は存在自体秘密なので、観艦式には戦艦「陸奥」で向かうそうだ。
まあ普段乗っている「武蔵」にせよ「陸奥」にせよ、潜り込む事は困難である。
一方、井上成美海軍兵学校校長は、江田島で学生たちに訓示を行う。
その後、記念行事として関係者観覧の漕艇競争や棒倒しも行うようだ。
来賓多数で、井上校長の隣に座る為、巻き添えにする危険性が高い。
気に食わない者ならそれでも良いが、明らかに艦隊維持派の味方も来訪する為、その者に危害は加えられない。
このように式典の行事中に彼等を狙う事は困難だ。
だが、この前日には確実に任地に居る事も確かである。
出張として東京に行く事も無いし、準備も忙しいから、料亭か何か知らないが予想外の場所に行っている事も無いだろう。
それに、普段は横須賀や東京の海軍省にいる者たちも、疑われる事なく呉まで移動出来る。
実行すれば、翌日の式典に影響が出て、恐らくは中止になるだろう。
海軍軍人としては忸怩たるものがある。
だが、40周年の記念すべき行事を穢すよりは今年実行した方が良い。
「決行は5月26日早朝!」
「おお!」
「五・二六か!
五・一五事件と二・二六事件を合わせたようなものだな。
豪儀だね」
「馬鹿野郎!
それはどちらも失敗したのだぞ!」
一瞬静まり返る。
だが
「失敗?
恐れるに足りん!
五・一五の時は犬養を、二・二六の時は高橋是清や斎藤実を殺れたではないか。
我々の行動の成果自体はどうでも良い。
決起する事自体に意味がある。
山本と井上、その二人を始末すれば良い。
仮に失敗しても、将校に命を狙われる者が顕職に居られようか!
どの道奴等は職を解かれる。
その後は、伏見宮殿下がどうにかしてくれる」
「そうだ。
後先考えていたら行動など出来ん!」
「五・二六事件、真に結構!
成否に関わらず、我々が捨て石になって帝国海軍の栄光を守るのだ!」
こうして海軍若手将校の山本五十六、井上成美襲撃は5月26日と決まる。
更に可能ならば、山本や井上に会った者で有害な者も殺してしまおう。
だが勝手な行動を取ろうとする若手将校の中から、更に同志にも秘密で勝手に動く者が現れた。
その者は
(米内光政もついでに始末した方が良いのではないか?)
と考えた。
かつて二・二六事件の時、クーデター部隊を「反乱軍」として制圧に動いたのが、当時横須賀鎮守府司令官の米内光政と参謀長の井上成美であった。
また昭和十四年の日独伊三国同盟締結かどうかの話が起きた時も、当時の米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長が猛反対して、この時は成立しなかった。
同じ穴のムジナである。
総理大臣就任時に自ら予備役に入り、現在は海軍にそれ程の影響力は持たない。
しかし、殺れる時に殺っておいた方が良いだろう。
海軍には左派と呼ばれる人たちがいる。
ただ、正直「主流派でない」人をそう分類しているように見える。
決してマルクス主義者の事ではない。
艦隊派、漸減邀撃戦略派、日独伊三国同盟賛成派で無ければ左派に分類されている。
条約派という括りでは、山本五十六が外れ、古賀峯一横須賀鎮守府長官が入る。
航空主兵論では大西瀧治郎や源田実という軍人も含まれる。
対独同盟反対、親英派では大井篤という人物もいる。
だが、こう言った人たちはそれ程敵視されず、米内・山本・井上が主に狙われていた。
やはり政治的な行動をしたのが鼻についたのだろう。
山本と井上を始末するなら、米内も、という思考に彼は行き着いた。
だがその士官は、決行当日は広島入りしている。
東京の米内を暗殺は出来ない。
仮に出発前に暗殺でもしたら、そこから計画が露見しかねない。
故に誰か信頼出来る者に頼む事になる。
彼は秩序派の会合で知り合った陸軍士官に米内暗殺を相談する。
その陸軍士官は協力を約束した。
喜んだ暗殺者は、知っている事をベラベラと喋ってしまう。
彼は知らない事がある。
話している陸軍士官は盛岡中学校出身、つまり米内の後輩なのだった。
盛岡中学校の先輩・後輩の絆は強い。
海軍左派の米内光政と陸軍で満州事変を起こした板垣征四郎は立場も思想も全く違い、本来なら対立関係な筈だが、同じ中学の先輩後輩として公務の外では極めて仲が良い。
「銭形平次」の作者・野村胡堂や言語学者の金田一京助も、盛岡中学校で同じ恩師に学んだ者として、米内や板垣と会ったりする。
こういう同窓の絆が強い学校の卒業生と知らず、全てを話してしまったのだ。
その士官は聞くだけ聞き出し、米内を暗殺すると約束すると、この情報を上司である辻政信に伝える。
辻政信は独断専行をするし、上級指揮官には無礼な口も利くが、目下の者には極めて優しい。
部下からの人望は極めて篤い。
辻が一号作戦を勝手に指揮した事は不問とされたが、元々作戦切り上げを伝える役割だった為、東京に呼び戻されていた。
その陸軍士官は、単に米内暗殺だけなら自分の責任でどうにか出来るが、思いもかけず海軍の跳ね上がりが起こそうとしているテロ計画を知ってしまい、これは手に余ってしまった。
故に信頼する上司・辻政信に相談する。
辻も相談されて困った。
陸軍の事なら分かる。
独断専行をして得になるか、単なる独り善がりのものなのか、寧ろ損害を与えるものなのかを判断出来る。
だが、海軍の事になるとよく分からない。
よく分からない以上、簡単には判断が出来ない。
「その海軍士官はどう言っていたのか?」
「海軍の敵だ、海軍の伝統を損ねるだの、艦隊を削る事で国に仇為すだの言っていました。
決して許してはならない、と」
「貴官はその意見について、どう考える?」
「小官には海軍の事は分かりません」
「それは吾輩もだ。
その上で聞きたいのだ」
「では、私見を申し上げます。
正直、海軍の省益でしか物を語っていないように聞こえました。
確かに名前が挙がった者は親英派ですが、襲撃を企てておる者はそちらではなく、艦隊を削減される事に憎しみを覚えているように見えます。
小官はアジアを植民地支配する英国は嫌いであります。
アジア解放という大義の為の蜂起なら理解出来ますが、どうもそのようには見えません」
「ふむ……」
確かに海軍にはそういう部分がある。
省益最優先な部分が。
正直辻は、艦隊は適正な規模に減らせば良いと考えている。
アメリカ合衆国と違い、イギリスは世界各地に植民地を持っている。
更に近距離に敵性国家が存在する。
アジア方面に回せる艦隊等たかが知れていよう。
そしてソ連の極東艦隊も大した事は無い。
ならば、アメリカ合衆国太平洋艦隊を想定した現在の連合艦隊は、規模が過大だと言わざるを得ない。
だが、軍人として兵器を常に維持しておきたい気持ちはよく理解出来る。
この思いに陸軍、海軍の差は無い。
彼は中国で一号作戦を実施した時、海軍の支那方面艦隊に多大な協力をして貰った。
お国の為に勝ちたい、貢献したいという気持ちは一緒である。
協力をしてくれた礼の為には、決起部隊を寧ろ励ました方が良いのではないだろうか?
「それで、決起は何時だと言っていた?」
「明後日です。
明日には決起部隊は広島入りします。
だから本日相談に参ったのであります」
「時間が無いな……」
「はい」
辻には大きく分けて、三つの選択肢がある。
一つ目は、この事を上に通報し、海軍若手将校の決起を防ぐ事である。
二つ目は、この事を無視して決起部隊の好きにやらせる事である。
三つ目は、この事を奇貨とし、むしろ決起部隊に協力して東京で海軍左派を一掃する事である。
更に一つ目にも細かい選択肢がある。
陸軍参謀本部に通報するか、憲兵隊に通報するか、海軍省に通報するか、個人的な縁を使って政府に通報するか。
参謀本部に通報し、陸軍部隊を動かして決起を阻止すると、陸海軍の対立を招いてしまう。
憲兵も陸軍の管轄だから、同様に陸海軍の対立を招きかねない。
海軍に通報すると、信用して貰えず、結局決起が成功してしまう可能性がある。
では東條陸相を頼って政府を動かすか?
繰り返すが、辻には艦隊削減か維持か、その是非は分からない。
何となく「減らした方が経済的だけど、軍縮しろって言われたら吾輩だって怒る」という程度にしか理解出来ていない。
辻は頭脳明晰な部類だが、北米大陸消滅後の世界について考えるのは陸軍の事だけで精一杯であり、海軍戦略を考えるというのは想定外だし、職務外の事であった。
じっくり考えればそれなりの答えも出せるが、さっさと決断をして動かねば手遅れになってしまう。
時間が無い。
辻は知らず知らず、歴史の分岐点における、進路変更の操作桿を握っていた。
選択によっては、理性的な判断より情緒的な行動が重んじられ、反対派は暗殺される世になるだろう。
もしくは秩序派の頭が抑えられ、理性的な国家運営になるか。
ただ、海軍若手将校の決起を妨害出来ても、即航空主兵となるかは分からない。
艦隊維持派と削減派の抗争が激しくなる事も予想される。
だが今現在、辻政信の判断に日本の歴史が委ねられていた。
自覚すれば興奮するような辻政信も、今はまだその事に全く気付いていなかった。
この先、どの選択かで物語が変わります。
まずは正伝的にストーリーを書いて、第二次世界大戦後半戦を終わらせてから
異伝的なストーリーも書いていこうかと思います。
1944年前半の章は短めで、ここで終わります。
次話は20日17時から、1944年後半の章としてアップします。