大日本帝国海軍分裂
※日露戦争時の装甲巡洋艦の調達価格が分からなかったので……
ドイツ帝国装甲巡洋艦「ローン」級(1902年)の建造費約1530万マルクから推測。
2790マルクで1キログラムの純金と等価。
よって「ローン」級の建造費は純金5483.87キログラム相当。
金1オンス(約28.3495グラム)=3ポンド17シリング10ペンス
「ローン」級の建造費は約60万ポンド。
1ポンド=10円のレートで、建造費は600万円と仮定。
(「出雲」等の正確な調達価格知ってたら教えて下さい)
大日本帝国海軍は困っていた。
これまで帝国海軍には明確な計画者がいて、その者が編制について指導していた。
明治時代では、山本権兵衛という名大臣がそれに当たる。
彼は軍務局長だった時に、大量の人員整理をする。
知識の古い将官、佐官を大量に予備役入りさせ、その中には現役の軍令部長や同郷の先輩、親しい友人も含まれていた。
そして当時の上司である西郷従道海相をレクチャーし、戦艦六隻、装甲巡洋艦六隻という「六六艦隊」を政府に承認させ、対ロシア戦に備えた。
戦艦よりも劣る装甲巡洋艦を戦艦と同数調達し、旧式戦艦や格下の艦種には対抗、新型戦艦からは退避という運用を想定する。
当時の日本の経済力から、戦艦12隻という体制は不可能である。
戦艦「三笠」の建造費は、艦体が88万英ポンド、兵器が32万英ポンドで、日本円で総額約1200万円。
装甲巡洋艦が、当時ロシア側だったドイツに発注したのは割高になったが、大体600万円。
「三笠」が調達された明治三十年(1897年)からの第二期拡張計画は、戦艦3隻+装甲巡洋艦4隻を含むもので、総額約1億1300万円。
もしも戦艦3隻+装甲巡洋艦4隻でなく、全部戦艦で7隻を調達するなら、それだけで8400万円。
戦艦3隻+装甲巡洋艦4隻だと総額約6000万円。
戦艦2隻分の節約となる。
第二期拡張計画では他に三等巡洋艦2隻、駆逐艦4隻、水雷艇24隻が予定されていた為、主力艦調達にかける比率が5割程度なのが妥当といえよう。
なお、これでも国家予算的にはかなりの圧迫であった。
しかし、この艦隊を持つ事で
・ロシアが持つ大型戦艦でないと対抗不可能だが、それはスエズ運河を通航出来ず、
アフリカ喜望峰回りでないと極東に来られない
・大型艦を回航してもドックが無いから造らねばならず、ロシアにも負担を強いる事が出来る
という利点があった。
以降の海軍は、この山本権兵衛のやり方を踏襲する。
仮想敵国をアメリカに切り替えた後は、スエズ運河ではなくパナマ運河の通過に切り替え、どれくらいの戦力ならば勝てるかを考える。
この山本権兵衛型思考とは別な考え、いや経済と相談という意味では同じ考えで海軍の軍備について考えたのが加藤友三郎である。
日本海海戦で連合艦隊参謀長を務めた加藤は、膨張し続ける海軍の建艦費が国を食い潰すと考えた。
そこで彼は、日米英の主力艦(戦艦、巡洋戦艦)の保有数を制限する軍縮条約を締結する。
多くの反対があった中で断行した。
加藤友三郎は、戦艦八隻、巡洋戦艦八隻を主軸とした一大海軍増強計画「八八艦隊」の推進者である。
その彼が経済や世界情勢を分析し
「むしろアメリカの戦艦保有数に箍を嵌められる」
として軍縮に踏み切った。
以後、山本権兵衛式の「国庫に負担をかけてでも艦隊を整備する必要がある」とする流れが「艦隊派」、加藤友三郎式の「過大な建艦費は国を亡ぼす」とする流れが「条約派」という海軍内の派閥に繋がる。
両者は加藤友三郎存命下で行われたワシントン軍縮会議の時は、加藤の人徳や実績、更に日本海海戦の英雄で海軍重鎮の東郷平八郎が加藤の考えに賛同した事から、深刻な対立には至らなかった。
次のロンドン海軍軍縮会議で決定的に対立する。
結局第一次ロンドン条約は締結されるが、これに関わった者たちは艦隊派の要求に屈した大角岑生海相によって予備役に編入される。
いわゆる「大角人事」であり、堀悌吉はこれで海軍を追われた。
また、犬養毅や鳩山一郎、伊東巳代治や金子堅太郎といった政治家が
「兵力量について、陛下の裁可無く決めたのは憲法に定める統帥権違反だ」
という統帥権干犯問題を引き起こす。
ロンドン条約当時の濱口内閣蔵相井上準之助が緊縮財政により、海軍の予算を大きく削った事も問題視され、井上準之助は血盟団によって暗殺されるに至る。
山本権兵衛は自らが薩摩藩閥に属する上に、藩閥の超大物・西郷従道が後ろ盾となっていた。
加藤友三郎は日本海海戦の連合艦隊参謀長で、実績において誰も文句が言えない。
こういう睨みが利く人物が亡くなり、海軍で全員を有無を言わさず従えられる者不在となる。
海軍は政治を動かしたがらない。
この辺は政治好きな陸軍と違う部分だが、やはり政治と無縁ではいられない。
統帥権干犯問題、世間の艦隊維持志向と右翼組織による反対派暗殺など、海軍も十分に政治問題に関わる存在であった。
この海軍に、ポスト北米大陸消滅戦略を立案出来る者が居なかった。
いや、居るには居る。
海軍兵学校校長となった井上成美が、徹底した航空主兵論を唱えている。
だが彼は、山本権兵衛のような後ろ盾も、加藤友三郎のような実績も持っていない。
彼は無視されている。
上手い事美味しいどこ取りで海軍の構造改革をしようとしているのが山本五十六であった。
彼はロンドン軍縮会議では、大筋で条約締結賛成ながら、対米英七割の戦力保持を譲らず、代表を困らせた事もある。
彼は対独同盟で反対派だったが、艦隊については艦隊派・条約派では割り切れないところがある。
構想も相当に航空主兵論者であるが、空母保有や戦艦も「2隻有って良い」と言う等、井上成美程に徹底してはいない。
彼は、空母の集中運用による機動部隊を構想していた。
「翔鶴」級大型空母2隻と「蒼龍」級中型空母1隻に、護衛兼指揮艦として高速戦艦1隻、護衛兼偵察部隊として巡洋艦と駆逐艦を付ける。
この機動部隊は、島嶼に展開する航空艦隊(艦隊というが基地航空隊)と連携し、防衛に当たる。
決戦戦力としての第一艦隊は縮小し、連合艦隊司令部部隊として通信と指揮、そして防御に徹する。
夜戦部隊である第二艦隊は温存する。
機動部隊は夜間は使用出来ないからだ。
司令部艦隊である第一艦隊、夜戦部隊である第二艦隊、そして空母機動部隊をもって連合艦隊とし、その他方面艦隊は警備専念で縮小する。
何かあれば、高速の空母機動部隊と巡洋艦艦隊である第二艦隊が急行し、基地と合同して叩く。
こういう思考で、艦隊が重要という部分では従来と変わらない。
故に井上成美は
「戦艦を空母に置き換え、漸減邀撃戦法を空母による遠海迎撃に換えただけの、従来型戦闘法だ。
これでは大して変わらない」
と批判する。
彼の構想は
「離島には基地航空隊を置く。
あとは水上交易路を守る護衛艦艦隊が有れば良い。
空母航空隊は陸上機を運用する基地航空隊に及ばない。
主力艦隊での決戦はこの先起こらない。
故に連合艦隊そのものが不要だ。
航空機で賄い切れない部分が有るのも確かである。
それは駆逐艦程度の大きさの艦による航路防衛や海域警備で良い。
攻撃の主力は航空機か潜水艦になる。
大型艦は不要なのだ。
山本さんが言う旗艦としての戦艦も不要。
必要なら陸上から指揮をすれば良い。
戦艦が如何に大きくても、陸上の司令部に比べれば狭いのだから」
こういうものであった。
言っていて井上成美は思う。
(俺の考えは正しい。
しかし、人は山本さんの中途半端な方を支持するだろう。
まあ、どちらかというと、という比較に過ぎないが)
彼は自分の上や同僚からの人望の無さは承知していた。
山本五十六のような、どっちつかずの態度で、両方に配慮した案を出した方が良い。
(それを出来ないのが俺なのだが)
自嘲して笑う。
山本の艦隊構想は、やはり反対が多い。
戦艦至上主義者は確かに存在する。
だが、多くの海軍将官は、欠陥戦艦の「扶桑」「山城」(設計上、主砲の配置に問題がある)、主力艦としては砲が時代遅れの「伊勢」「日向」、そして日露戦争以来保有していて補助艦として使っている旧式艦を廃艦とし、それを産業用の鉄材に回す事を半ば認めていた。
代艦をどう求めるか、が問題となる。
「金剛」級高速戦艦はその価値を認めているから当分運用を続け、同様の能力を持つ代艦完成後に順次退役、スクラップにする事も良いだろう。
重巡洋艦大量削減には文句が有る。
日露戦争以来、20cm砲搭載の巡洋艦は海戦の主役であった。
山本の構想では、重巡洋艦よりも軽巡洋艦を増やし、大正時代の軽巡洋艦も全て退役させ、新型の夜戦用軽巡洋艦に切り替えていく。
消滅前のアメリカ合衆国は重巡洋艦の整備計画もあったが、現在のイギリスは重巡洋艦を建造せず、軽巡洋艦主体の艦隊整備を行っている。
まあ主砲のサイズは問題ではなく、艦体を小型軽量化する事で鉄材を節約するのが目的だ。
その考えに基づくと、④計画によって建造された「阿賀野」級軽巡洋艦ですら
「大き過ぎる。
5000トン級で、より機能的な巡洋艦を造れないか?」
と山本は言い、井上成美に至っては
「海上護衛部隊の旗艦として使えるから軽巡洋艦は必要だが、
3000トン級にして武装よりも航洋能力と索敵能力、居住性重視。
敵機や敵潜水艦の廃除は、旗艦が指示して駆逐艦にさせれば良い」
と言っている。
水雷戦隊の人間に言わせれば
「それは水雷屋の経験の無い飛行機屋の戯言に過ぎない。
従来の規模では狭くて指揮が難しくなったから、7700トン級になったのだ。
その経緯を無視して、理屈だけで語るな!」
となる。
細部では文句が多々あるが、井上はともかく山本は聞く耳がある。
ならば山本の軍備案については本論賛成、詳細反対で個別に話をしていけば良い、となるのだろうがそうも行かない。
山本への不満は、装備調達以外にあった。
彼は大角人事で追放された条約派の人間を呼び戻している。
流石に海軍軍人には出来ないが、艦隊の編制については、軍艦や航空機の仕様策定等で、私的に意見を聞いている。
追放した筈の者の顔を、呉や横須賀でよく見るようになり、艦隊派の者は不満を覚える。
そういう感情的な部分で、山本の構想に対して反対し続けていた。
人間が居る以上派閥が出来て、違う派閥に対しては攻撃的になるのは仕方の無い事かもしれない。
連合艦隊総旗艦・戦艦「武蔵」の司令長官室や、江田島の海軍兵学校に、堀悌吉、下村正助といった面々が出入りしている。
皇太子の教育係として学習院長となった山梨勝之進、第三次近衛内閣で商工大臣を勤めた左近司政三、東久邇宮内閣で乞われて逓信大臣となった寺島健といった顔ぶれも、山本の構想を支持して活発に行動し始めた。
海軍は艦隊派が主流で、条約派の多くは大角人事で予備役入りさせられた。
それが今、条約派が復活しようとしている。
そのように見える。
条約派による艦隊派への報復人事が行われないか?
追放した側は、逆に自分が追放される側に回ってしまう悪夢に付き纏われる。
そういう不安を、司令長官、参謀長。艦長級で口にする者が居て、話は下の者にも伝わっていく。
そして行動を起こすのは、立場がある者ではなく、若手になる。
彼等は、自分が勤務している艦が廃棄されるかもしれない事への義憤と、信頼する上官が報復されるかもしれないという錯覚から、過激な思考に至ってしまった。
やられる前にやってしまえ。
どこかで山本や井上に連なる人間を一網打尽に出来ないか?
山本五十六、井上成美の二人は、柱島と江田島という近い場所、広島県西部で仕事をしている。
山本の座乗する戦艦「武蔵」は柱島に居るが、山本はしょっちゅう料亭で人と会う為に上陸している。
江田島も離島ではあるが、軍艦内に居られるよりはずっと狙いやすい。
海軍の中の短慮な者が、広島県西部で事を起こそうとしていた。
次話は18時にアップします。