ソ連軍の東進と日本国内の事情
イタリア対ドイツ戦。
イタリアのDa75/18榴弾砲等、75mm口径の砲はどの距離でもドイツのティーガー重戦車の正面装甲100mmを撃ち抜けずにいた。
そこでイタリア軍もドイツ軍やソ連軍と同じ事をする。
Da90/53高射砲を対戦車砲として使用した。
この90mm口径の砲は、500メートルの距離で109mm、100メートルでは126mmの装甲を撃ち抜ける為、ドイツ戦車に対抗出来る。
だが、数が足りない。
もっとドイツ戦車に対する有効な砲が欲しい。
それはスペインも同様であった。
両国に援軍を送っているイギリスは、距離2000メートルで105mm、500メートルだと175mmの装甲を貫ける優秀な砲17ポンド砲を送り出した。
山岳戦とこの砲が行き渡った事で、ドイツ軍の足も止まる。
そして17ポンド砲やDa90/53高射砲の破壊力は、中立国の立場で(ドイツからは自国側で参戦しろと外交ルートで要請がされているが)観戦していた日本の武官の目にも止まっていた。
ソ連の首都モスクワから極東のウラジオストクまで、全長9千kmを超えるシベリア鉄道が走っている。
シベリア鉄道は1944年現在、複線化されている。
独ソ戦開戦前に、スターリンが政治犯を強制労働させて、開通させたのだ。
この鉄道を使い、兵員が極東に大量輸送されている。
本来、ヨーロッパロシアを離れてシベリアを通過し、遠い極東まで行く事を喜ぶ兵士は居ない。
居なかった。
だが、今は違う。
学の無いソ連兵だから、チャーチル発表の事はよく分からない。
英語が分かる者は少ないし、戦場にラジオも持ち込んでいない。
ソ連全体でも情報統制の一環で、チャーチル発表をロシア語訳とかしていないし、情報漏洩は今や楽園送りとなりつつある東シベリア送りではなく、神の御許という楽園送りとされた。
それでも感覚的なもので「ヨーロッパロシアはもう寒くて、シベリア以上の地獄である」事と、それに比べてハバロフスク以東は天国のような場所(ソ連国内比)であると気付いていた。
むしろ志願者も出る程で、ぎゅうぎゅう詰めに人が押し込まれた貨物列車が東に向かっていた。
人の輸送が主であり、戦車や野砲の輸送は後回しになっている。
その理由として、モスクワ放棄があった。
ドイツのロンメル将軍の奇策で一度モスクワが陥落する。
奪い返しはしたが、シベリア鉄道の西の始発駅は破壊されて使い物にならなくなっていた。
駅舎がではない。
駅の貨物関係の設備が、である。
人間は自分から勝手に乗り込めるが、機械はそんなに都合がよくない。
物資の集積基地も破壊されているし、元通りになるまでは人の輸送を先に行う。
ソ連の優秀な戦車、T34中戦車はウクライナのハリコフで生産されている。
KV-1重戦車及びその車体を流用したSU-152自走砲はチェリャビンスクでの生産だ。
モスクワを経由して極東に向かうのだが、ハリコフ~モスクワ間と、チェリャビンスク~モスクワ間の鉄道が独ソ戦のせいで破壊されていた。
1943年12月の停戦からまだ日が浅く、しかも冬は作業が出来なかったので、修復が終わっていない。
そんなこんなで、大軍が移動してはいるが武器はモスクワに留まっている。
早く戦車や砲を輸送したいところだ。
だが、この兵員移動には満州に居る日本軍も感づく。
元々関東軍は対ソ連戦を想定していた。
如何に2人につき1丁の銃しかない状態とは言え、毎日のように鉄道を使って大量の兵が東シベリアや沿海州に送られているとなれば、警戒もするというものだ。
一号作戦を終えた支那派遣軍と合わせ、百万近い日本陸軍が戦闘準備を始める。
その事も逆にソ連に伝わる。
外交ルートで
「満州で日本軍が我々に対する警戒態勢に入っている。
我々に戦争の意思は無く、単にドイツとの戦争が終わったから元の配置に戻しているだけだ。
それなのに何故戦闘態勢に入るのか?
日本は戦争を望むのか?
日ソ中立条約を、日本は守る意思が有るのか?」
と責任転嫁するような事を言って恍けて見せるが、それも何時まで通じるやら。
「日本の準備が整わない内に、先制攻撃を仕掛けた方が良いのではないか?」
そんな意見も出ている。
温暖化による、農業生産の増大は大いに期待出来る。
人口増加により、工業都市化も可能だろう。
だが、今はまだ途上である。
極東に送られている「人」は兵士だけではなく、工場建築関係者や労働者もであった。
その他、ウクライナや白ロシア地域で家を失った農民には「徒歩で」極東地域まで移動する許可を出した。
シベリア鉄道も代金を払えば乗車出来るが、戦争で焼け出された農民にそんな金など無い。
中には、親戚一同から金をかき集めて、一発逆転を狙い一人に極東に鉄道で行き、後で親戚を呼び寄せる程稼ごうとする者もいたが、全体から見て少数であった。
ハバロフスクやウラジオストクを、戦車や航空機を生産可能な都市にし、後方の拠点として動くようになるまで日本とは開戦したくない。
だが、それを待っていると日本も準備を終えてしまう。
待つべきか、先制攻撃的に開戦すべきか。
そんなソ連軍だが、とある情報から攻撃はしない事と決められた。
それは
「日本の中で反英主義を掲げている集団がいる。
それらは反ソ感情もあり、両方を敵に回して勝てると思っている阿呆どもだ。
ソビエトが被害を少なくするならば、彼等が暴発して日本とイギリスが戦争を起こすのを待つべきである。
そうすれば中国に居る日本軍も南下するし、日本海、オホーツク海を守る日本海軍も手薄になる。
日英共倒れの後に、易々と満州、中国、そして日本を攻略すれば良い」
という情報である。
それは日本国内の同志からのコミンテルン経由でもたらされた。
共産主義第三インターナショナルことコミンテルンの日本人協力者は、経済派・秩序派の双方に紛れ込んでいる。
対立し、敵対しているように見えて、お互いの陣営の情報を交換し合っていた。
こういった者たちが、日本における反英感情の高まりを報告している。
否、彼等こそ熱心に、日英を分断するように煽っているのだ。
日本をイギリスと戦わせたい。
すると当然資源の輸入が途絶え、国内では失業が相次ぐ。
がら空きになった背後からソ連軍に襲って貰い、日本政府を敗北させる。
国民から失望され、軍隊という暴力装置を失った現在の日本政府は、支持基盤である資本家階層と共に滅亡するだろう。
そして新しい政府が生まれるのだ。
ついでにイギリスも共倒れとなれば、資本主義からの社会進化は加速するだろう。
そう考え、彼等は日本を滅亡させる方に全力を尽くす。
何故ここまで日本の中に熱心なコミンテルンの協力者が居るのか?
何故そこまで日本の敗北を願うのか?
それはマルクス主義こそ未来を築く思想だと、信仰に近い思いを持っていたからである。
日本の知識人はヨーロッパの学問をよく学び、信奉する。
古い時代から、自国よりも進んだ外国を尊び、心の中で日本人をやめてしまう者は存在した。
それが中国から西洋に変わっただけだ。
夏目漱石は小説「坊ちゃん」の中で、西洋かぶれの赤シャツをネタにしたように、昭和以前から過度の西洋崇拝者は目立っている。
日露戦争の英雄・大山巌陸軍元帥も、相当な西洋かぶれであった事だし。
昭和の今、知識人や学生たちはマルクス主義研究こそ最先端のもので、インテリの証だと信じている。
その始まりは帝国大学に入学した辺りからであろう。
(早稲田大学、慶応大学、東京商科大学ではマルクス主義は流行らなかった)
帝大の学生たちは、まず哲学に熱狂した。
デカルト、カント、ショーペンハウアーを纏めて「デカンショ」と呼び、その本は必読書だった。
哲学ではドイツ哲学の思索的で、禁欲的で、理想主義的なものが流行った。
学生たちはドイツ哲学にかぶれ、現在の日本の在り方からの超克を志した。
一方、経済学はイギリスのものを受け容れた。
アダム・スミスの「国富論」、デヴィッド・リカードの「労働価値説」、ジョン・スチュアート・ミルの「経済学原理」、そしてアルフレッド・マーシャルの「経済学原理」。
古典派、新古典派と呼ばれるイギリス経済学者は労働によって生じる財というものを考えた。
いち早く産業革命を成し遂げたイギリスは、社会構造が大きく変化した。
その変化の中で産まれた「資本家」と「労働者」。
そして古くから存在する「地主」という階級を合わせ、経済はどうあるべきかを体系化したのがこの学問である。
そして社会主義思想はフランスのものである。
社会主義という概念を考えた「サン・シモン主義」、労働組合至上主義である「サンディカリスム」、労働拒否権を謳った「怠ける権利」といったものがある。
こうした学問を統合する、行き詰まりつつある資本主義という現在を超克し、労働者やその権利を守る労働組合による価値創造経済を系統的に考え、高みを目指す、それが「マルクス主義」であった。
実際マルクスは、ドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義をある学び、ある部分を継承し、ある部分を否定しながら共産主義をまとめている。
1929年、アメリカ合衆国発の世界恐慌で、日本経済は大打撃を受ける。
翌年は豊作による米価下落で農業恐慌が発生。
当時の蔵相・井上準之助が起こした金本位制復帰に伴うデフレにより、物価が下落。
売っても大した儲けが得られない。
農村や中小企業は没落する。
一方で財閥系企業は、日本の金本位制復帰とイギリスの金本位制離脱という状況から、大量の円売り・ドル買いを行う。
国民の苦境を他所に、大儲けをした。
こうして日本では貧富の差が拡大し、財閥は「国賊」「非国民」として批難されるようになる。
学生にも不況は襲い掛かった。
大学・専門学校卒業生の約3分の1が職に就けない。
彼等はこういう事態を招いた財閥や、それを後押ししているように見える政府を憎んだ。
学士だけでなく、多くの者が「このままでは困る」と考えるようになる。
こうした日本に対し、ある者たちは宗教にかぶれ、ある者たちは国粋主義思想にはまる、ある者たちは過激な思想に基づき実力行使で社会変革すべくテロ行為を行い、またある者たちはアジアに打って出て解決しようとした。
多くの者たちが様々な道を模索した時代であった。
その中で理屈が好きな知識層は、貧富の差はやがて階級闘争によって超克される、それをソ連という現実の形で見せたマルクス主義に熱狂する。
だが、階級闘争・社会の変革を唱える彼等は、国からは睨まれる。
治安維持法による弾圧の対象であった。
それ故、世界革命の実現を目指し、革命を支援するとしたコミンテルンに期待をかけたのだ。
コミンテルンの方も共産主義化の目標として日本、ドイツ、ポーランドを狙っている。
いきなり資本主義・帝国主義の総本山アメリカ、イギリス、フランスを狙うより、社会が発達しつつ、一方で資本の蓄積に乏しく、高度な労働者を持ちながら彼等が社会の状況に苦しめられている国が狙い目であった。
日本の「現在の閉塞した社会をどうにかしたい」知識層はコミンテルンに取り込まれていく。
日本がドイツと防共協定を結んだ裏には、確かに共産主義革命を目論む者の脅威も有ったのだ。
マルクス主義の影響は極めて大きい。
岸たちの統制経済派にもマルクス主義者はいたし、柴田敬たち経済学者も古典経済学と共にマルクス経済学も学んでいた。
この時代の経済学上の課題は「財閥に集中した独占・寡占状態をどう解決するのか」と「行き詰まりつつある資本主義の次を考える」であった。
関東軍は対ソ戦の準備を行っている。
彼等は、今この時は日本国内の通敵者によって、ソ連軍がすぐに満州に攻め入らない判断をしているとは知らない。
ノモンハン事件での大損害から、北進論者、対ソ強硬派の力は弱くなったのだが、向こうから攻めて来るとなれば話は変わる。
いつ攻めて来るか分からない。
だから、いつ攻められても迎え撃てるよう、総司令部(昭和十七年に軍から総軍に昇格)は好戦的な空気に包まれている。
「それで、東京はどう言っている?」
「相変わらずだ。
日ソ中立条約は昭和二十一年(1946年)4月まで有効だから、それまではこちらから手を出すな。
せめて条約を更新するかの回答期限である来年までは待て。
そう言っておる」
「判断が甘過ぎる。
東條閣下も一体何をしておられるのか!」
「どうだろう。
先にこちらから打って出て、浦塩を落とすというのは」
「先に仕掛けるかどうかは別にして、検討した方が良いな」
そして
「浦塩を先に攻めると、ソ連は満蒙国境付近から侵攻して挟撃を図るだろう。
戦車も通行は出来ないが、大興安嶺山脈北方のソ連軍にも注意せねばなるまい。
我々は三方に敵を抱えている。
どの方面にも対応出来るよう、守備部隊を残しておかねばならない。
そうなると出せる兵力は限られる。
三方の敵を二方に減らせるなら、浦塩攻略はやるべきだが、出来るだけ早期に勝たねばなるまい。
浦塩やハバロフスクの敵も多いから、勝つには海軍の協力が必要だな」
こう考えた。
ウラジオストクは軍港であり、海からの攻撃も有った方が良い。
出せる兵力で敵を下回るなら、敵よりも圧倒的に強力な海軍を使い、その砲撃力や空襲による支援も有れば勝算はグッと高くなる。
「で、その海軍はどうなんだ?
支那では随分と協力的だったようで、真に結構な事だが」
「さてなあ。
俺は海軍が今何を考えているかまでは知らんよ」
関東軍総司令部でこのような会話がされている頃、本国では海軍が揉めていた。
海軍の内紛は、やがて日本の針路にも影響を与える。
次話は17日17時にアップします。