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一号作戦の後始末

日本は中華民国と戦争だけしていたのではない。

台湾総督府の水利技術者八田與一は、中華民国福建省の陳儀主席から開発について相談を受けた事もあった。

今回、蔣介石と和睦が成る見通しで、さらに汪兆銘政権は既に日本と関係良好である事もあり、再度八田に対し治水について対策を聞こうとしている。

その八田は、内地以上に熱帯化が進む台湾において

「以前の灌漑用ダムとは違う、防災に必要なダムを整備する必要がある!」

と訴えているが、予算は中々承認されずにいた。

八田の訴えは総督府も本国も理解はしている。

八田は年明けにも一度、東京に戻る予定である。

 一号作戦をどう評価するか、東京では評価が割れた。

 命令違反は許し難い。

 しかし、曲がりなりにも蒋介石からの休戦申し込みを勝ち得た。

「爾後、国民政府ヲ対手トセズ」

 つまり蔣介石を交渉相手として認めない。

 その政府発表をした近衛文麿は失脚している。

 人気取り政治(ポピュリスト)が去り、今は天皇に忖度しまくる政権に代わった。

 その気であれば近衛の発表を無視し、蔣介石と和平交渉に入れる。


 天皇の意向に忖度する。

 しかし、その天皇も困っていた。

 国難に在りながら命令違反をした、その罪は重い。

 だが天皇は、余りにも政府が自分の顔色を窺い過ぎるのを気にしていた。

 恐らく天皇が「処罰せよ」と言ったら、多くの血が流されるだろう。

 それは上の者だけでなく、命令に従っただけの者にまで及ぶ。

「朕の顔色を窺った、阿り政治を止めよ」

 という事は無視する忖度政治。

 天皇は思いを現す事を止めている。


 一方で天皇は、休戦であれ停戦であれ、日中戦争が終わる事は喜んでいた。

 勝った形なら陸軍の名誉を損なう事無く終わらせられる。

 それに、陸軍は既に発動寸前まで準備を進めていた。

 急な停止命令に従わないのも理解は可能だ。

 大体、政府は明確な作戦中止命令を出していなかった。

「しばし作戦発動を見合わせよ」

 という曖昧な指示で、百武侍従長も

「これでは独断専行をするでしょう。

 もっと厳しく作戦全面中止、命に従わざれば処断す、くらいは言う必要がありました」

 と言う。

 そして

「ただ、お上はそこまではお望みでは無かったのでしょう?」

 とも言う。

 余りに自分の意向に寄り添い過ぎる政府の為、天皇は次第に自分の心を露わにしないよう自重するようになった。

 意外に短気な天皇が感情を現せば、多くの者が死ぬ。

「それでも今回は、作戦を止めよ、と言えば良かったやもしれぬ。

 多くの兵士の命が失われる事が無かった。

 だが、作戦成功で和平となれば、この先に流れる国民の血を止める事にもなった。

 さて、一体どう評価したら良いものか?」

 天皇の悩みは、忖度政府の迷走にも直結した。


 一方、陸軍参謀本部である。

 ここは方針を決めていた。

 処罰はする。

 昇進と名誉職への栄転、数年後には退役勧告もしくは予備役編入である。

 軍法会議は開かない。

 とりあえずは戦争目的を果たしたのだ。

 勝った将を裁くなど有ってはならない。

 栄転先の選定と後任人事を進める。


 海軍は逆に処罰の方針であった。

 彼等のやった事の意味はよく分かる。

 海軍の利益になる為に動いた、その気持ちは分かる。

 だから寛大な処分を、そう言う者も多い。

 しかし海軍は陸軍以上に命令違反に対して厳しい。

 命令違反をしても生き延びられる可能性が高い陸上に対し、例えば潜水艦で命令違反をした場合、それで乗員全てが死ぬ事態を招いてしまう。

 艦隊派、省益優先派ですら厳罰に納得していた。


 十二月の作戦終了を待たず、海軍は支那方面艦隊に調査員を派遣。

 作戦終了をもって即刻軍法会議を開く。

 ほとんど結果ありきの軍法会議で、それはそれで問題でもあった。

 形式的に一回自己弁護の機会が与えられただけで、あとは一切主張を考慮せず、死刑判決を出す。

 助命を陸軍が申し出た時には、既に刑は執行し終えていた。


 日本国内は戦勝に沸き立つ。

 そんな中で、勝利に貢献した海軍の現地部隊担当者が死刑になった事が報道され、国民は義憤に駆られる。

 新聞はこぞって、処罰覚悟で陸軍の為に短艇を動かし、輸送を手伝った海軍担当者というお涙頂戴な美談記事に書き、売上を伸ばす。

 国民が怒りを覚えたのは、吉田善吾支那方面艦隊司令長官は無罪であった事だった。

 吉田大将は部下の統率が出来ていないとされ、正確には無罪ではなく処罰されている。

 しかし、参謀によって急遽内地への帰還の用を入れられ、本人不在の状態で軍を動かされた為、減給と鎮守府司令官転任だけで済まされたのだ。

 司令長官不在として責任者を外し、その命令と称して勝手に部隊を動かした参謀たちは相当に悪質であった為、吉田の罪はそれ程問われなかった。

 だが新聞報道しか情報が無い国民には、罪を部下に被せてのうのうと暮らす高級軍人にしか見えない。

 同様に書類偽造で巧みに現場から遠ざけられ、本人不在の状態を作られた支那方面艦隊参謀長の田結穣少将も、国民の目の仇とされる。

 そして、イジメやテロというのは、常に弱い者を標的とする。

 何の罪も無い田結少将の子息は、海軍兵学校を卒業したばかりだというのに、親に代わって責任を取れという斬奸状を残されて殺害されてしまった。


「大東亜新秩序研究超党派会合」の参加者及び同調者は略して秩序派と呼ばれる。

 この新秩序派には過激な思想を持ち、暗殺を平然と行う者たちが入っていた。

 日中戦争がほぼ勝利、その事が彼等を一層勢いづけている。

 彼等は言う、「正義だから勝ったのだ」と。

 だから彼等は自分たちの正義を疑わない。

 自分たちの正義から見て、曲がった存在を許さないのだ。

 暗殺が再び増加し始める。



 田中角栄は「新日本経済派」、略して経済派に属している。

 一号作戦を巡って、経済派と秩序派は大きく対立した。

 経済派からしたら、どれだけの食糧・燃料・鉄材を無駄にしたか、大問題である。

 秩序派には「経済なんてもので大義を量るな」となる。

 松岡成十郎は商工次官という顕職で、経済派の首魁と目されていた。

 上司の岸信介が「妖怪の総大将(ぬらりひょん)」で正体を掴めない為、自然と松岡の方に目がいく。

 その松岡は東條陸相のお気に入りであり、護衛もついているし狙いづらい。

 なにより、こういう官僚は殺すより、言論で屈服させてやろうと思う者もいる。

 故にイジメやテロは弱い者を狙う。

 標的にされたのが、理研財閥や松岡商工次官の所に出入りし、中小企業なのに巨大な公共事業を受注してその采配を振るう田中角栄であった。

 彼は「政商」「理研の腰巾着」と罵られる。


 ある時、飯田橋の田中建築事務所、自宅兼用に銃を持った者が押し入る。

 角栄はダム工事の手配で官庁に急な呼び出しを受けて不在、この時間は居ると下調べをしていた犯人は肩透かしを食う。

 だがその者は、身重のはな夫人を人質に、角栄の帰りを待った。

 帰宅し、夫人を人質に銃を突き付ける男を見た角栄は、腰を抜かすより先にキレた。


「女子供を人質にするとは何事だ!

 金か?

 金が欲しいならくれてやる。

 もし俺に何か用事があるなら、はなを離しやがれ!

 人質取るような薄汚え野郎に、大義なんて語る資格は無えと知れ!」


 その剣幕と、確かに女子供を人質にするのは壮士のする事では無いと思ったのか、思わず男は銃を離して夫人を解放した。

 夫人は一歳の長男を抱いたまま、急いで離れる。


 角栄はずかずかと男に近づく。

 気を呑まれて動けない男の肩を叩くと、ニコっと笑い

「まあ飲もうや。

 新潟のいい酒があるんだよ。

 殺すのはそれからでもいいだろ」

 と言った。


 もうこの時点で角栄の勝ちだろう。

 角栄という人たらしは、この男の論を一々否定しない。

 うんうんと、黙って聞き続ける。

 そして言葉が途切れると、やっと語り始めた。


「あんた、東京の人って言ってたよな。

 ありがとうよ、俺たちみたいな田舎の者が苦しむ世を変えたいなんて考えてくれてさ」

「ま、まあ、当然の事だ」

「俺たちは貧しいんだよ。

 だからさ、馬車馬みたいに働き続けてるんだ」

「その世の中を変える為に我々は、大川先生の仰る大義の世に……」

「なあ、俺たちに仕事をさせてくれよ。

 俺たち、仕事しなかったら、明日のおまんまも食えねえんだよ」

「…………」

「俺もさ、死んだら社員たちに給料渡せなくなってしまうし、困ったもんだよな。

 あ、そうだ。

 あんたさ、俺を殺したら、あんたがここの社長やりなよ」

「は?」

「俺が死んでもさ、うちのカミさんと子供、そして社員が食っていけたら問題ねえ。

 あんたが代わりに食わせてやってくれよ」


 角栄は、こういう大義を掲げて暗殺とかに来る連中に、実務能力が全く無いのを知っている。

 実務能力があったら、とっくにどこかの企業の上の方になっている。

 自分の実務能力の無さ、人付き合いの下手さ、単純な実力の無さを誤魔化す為に「社会が悪い」と現実逃避しているだけで、いざ「会社をやるよ、お前さんが経営してみな」と言われると尻込みする事くらいお見通しだ。

 だが、それをおくびにも出さない。


「なあ、やってくれねえか。

 俺が死んで、多くの者が露頭に迷ったら可哀想でならねえ」

 これを大豪邸で言ったなら説得力は無かっただろう。

 だが、田中建築事務所は小さく、角栄の着ている服だって暗殺者の服と大して変わらない安物だ。

 役所に行っていた時は一張羅で見栄えは良かったが、こうして酒を一緒に飲んでいる時の服は、コットンの穴が空いたヨレヨレのシャツである。


「国賊を殺そうと思ったが、あんたが死ぬと貧しい者が困るようだ。

 やめにするよ。

 奥さんや社員を大事にしろよ」


 その男はそう言って帰っていった。

 男が去ってから、角栄はガタガタと震え出す。

「怖かった~~」


 角栄は、嫌な形で秩序派と経済派の対立を体験してしまった。

 だがこれで怯えて退くような人間でも無い。


(ああいう手合いはどこから情報を集めるのか?

 俺と同じように、先生と呼ばれる頭の良い人たちから話を聞いて来る。

 それを信じてしまったなら、もうどうしようもない。

 だが、そこまでいかない人たちは?

 世の中に不満が有るが、それをどうにも出来なくて鬱屈としている人たち。

 そっちの方が多いんだろうな。

 戦争でもないのに、人を殺せる神経の者なんてそんなに多くは無い。

 そういう手合いも、誰それ先生が仰ったからと、他人のせいにしているしな。

 よし、不満があって、それをどうしたら良いか分からん人たちに職を与えよう。

 どうしたら良いか、目の前に工事現場が有るのを見せて考えて貰おう。

 その為には……)


 暗殺未遂事件の翌日、また角栄はあちこちに動き回る。

 そして昭和十八年の年末には新聞社を一個買収してしまった。


「来年から俺っちの会社として経営だ。

 経済派だの秩序派だの、小さいとこで言い争っていても意味が無い。

 煽る事無く、やってる事をきちんと伝えさせよう!」

「……社長、どっからこの買収する金を持って来たんですか?」

「大河内先生から借金したよ。

 はっはっはっ!

 俺が経済派だって?

 こんな借金塗れの『経済派』がどこにいるって言うんだい!」


 昭和十八年十二月は終わる。

 まだあと三ヶ月あるが、田中建築事務所の昭和十八年度収支報告は大赤字であろう。

次話は8日17時にアップします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 角栄の描写上手いですね。 しかし理解力がまだ有る暗殺者で良かった。 「問答無用!」で殺される可能性はあったわけだ。 [一言] 新秩序派とマスコミ。早くどうにかしないと史実再現になりそう。
[良い点] 更新お疲れ様です。 [一言] ・あー、如何にも角さんならやりそうな(笑)。 ・幾ら借金があって帳簿上は赤字でも、現金が有って支払いができる間は倒産はありませんねぇ。
[良い点] あれ? ( ゜д゜) (つд⊂)ゴシゴシ (;゜д゜) (つд⊂)ゴシゴシ   , . (;゜ Д゜) …?! (つд⊂)ゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシ (  д ) (; …
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