帰朝報告
松岡は千島列島北の幌筵まで戻った。
そこから軍の飛行機に乗って北海道に。
そして札幌から大日本航空の旅客機に乗って羽田の東京飛行場に降り立った。
「行きもこれが良かったなあ」
出発時と帰還時では、気候変動に対する危機感が変わっていた。
松岡が出向していた総力戦研究所は、松岡が帰国した時には二期生に入れ替わっていた。
一期生は1942年3月末で卒業。
対英戦は「インドまで足を伸ばさねば日本勝利」、対ソ戦は「必敗」の結論を出し、陸海軍から共に嫌がられる結果となった。
だが、それが出した結果なのだから仕方が無い。
二期生は、一期生の結果と最新の情勢を踏まえた上で、
「どうやったら勝てるのか?」
や、一期の時は不確定過ぎて条件から外した「双方の同盟国の動向」を要素に加えて研究する。
「私は留年ってわけですか?」
自嘲気味に話す松岡に、三代目総力戦研究所所長・遠藤喜一海軍中将も苦笑いする。
他の者に任せられないから北極海まで行って貰った。
だが、確かに彼だけ「卒業論文」を出していないのも事実である。
もっとも、これから彼は研究生として考察する事より、教官として起きている現象を説明する側に回る事になるのだが。
北米大陸の消滅は、サンフランシスコとマニラ間に引かれた太平洋横断ケーブル、アイルランド領とカナダのニューファンドランド島の間に引かれた大西洋横断ケーブルの断線も意味していた。
北極海に行った松岡は、中間報告で電報で送る事が出来なかった。
松岡の報告はある部分は予測通り、ある部分は予想を超えていて、ある部分は想像の範囲外のものであった。
何にしても、初めて聞く話であり、総力戦研究所での報告会には観覧申し込みが殺到していた。
「ご苦労様でしたネ」
岸が松岡を労う。
「岸さんも、大臣就任おめでとうございます」
「めでたくはないネ。
僕の力量には相応しいと思うけど、それは普通の時の時だヨ。
非常事態だし、中々大変な仕事ですヨ。
あ、それ報告書?」
商工大臣の岸は、報告会に先駆けて報告書を見る事が出来る。
松岡が船内で書き上げた、一部は清書無しのラフ(主に図表の説明文)という出来立てほやほやの資料を、岸は恐ろしい速さで読んでいく。
そして
「え? ケインズ先生に会ったの?」
と驚いた顔で松岡を眺める。
「はい、会って色々レクチャーを受けましたよ」
「ああー、僕も行くんだった!
ケインズ先生の経済政策は、僕も色々と参考にしていたんですヨ」
岸の研究している統制経済には、通貨発行量の制限や金融取引の制御というのも含まれる。
更に、計画経済とまでは行かないが、公共事業による経済活性化を考えている。
著作や論文を読んではいたが、本人に会えるなら会ってみたかった。
読み進めていき、岸は松岡の顔を見て尋ねた。
「イギリス人、どう思いました?」
「圧倒されました」
「それにしては、報告書にイギリス贔屓な記述が無いのが大したものです。
相手に呑まれてしまうと、相手を賞賛して、数値からして相手の言い分鵜呑みにしてしまうのですがネ」
松岡は、貰ったデータはそのまま添付した上で、別紙に「要調査」や「統計ノ取リ方ガ恣意的」という朱書きを入れている。
「君はイギリスと組むべきだと思う?」
「その判断は……」
「いいから、ここだけの話。
誰にも言わないヨ」
「はあ、では……。
組むべきとかではなく、組まざるを得ないのではないでしょうか?
ここで報告した通商の数値は別にして」
「理由は?」
「ヨーロッパの寒冷化です。
氷河期が起こるかもしれません。
その時、海外に領土を持っていないドイツは、下手をしたら滅亡します。
ソ連は、東に目を向けるのではないでしょうか?」
「東……、つまりは満州だネ」
「はい。
東洋は温暖化、西洋は寒冷化。
イギリスは海外の植民地に移民させて国を守るでしょう。
ソ連は恐らく、満州から支那までを領土として得ようとするかと」
「考えられますね」
その後、松岡は言って良いのかどうか迷った表情となる。
「何かまだ思う所が有るのですか?
言ってみて下さい。
ここには君と私しかいませんからネ」
岸が松岡の表情を読んで、そう促す。
「私自身結論が全く出ていない事ですが……」
前置きして話す。
経済的に、ありとあらゆる数値から「イギリスと組むべし」と理解出来る。
普通の状態であれば、ドイツが勝つとか、ソ連と戦わないという選択肢もあるだろう。
しかし、彼等の領土は北半球にしか無い。
ドイツは恐らく生き残る事自体難しい状態になる。
生存圏拡大の戦争は、東方ではなく南方に向かうだろう。
一方のソ連は極東に軸足を変える。
日本との衝突は必至。
昨年の総力戦研究所の対ソ戦模公開擬演習の場に松岡は居なかった。
だが、直前まで研究に加わっていたので、大体どうなるかの考えは共有出来ている。
単独でも苦戦し、海を防壁として守らざるを得ないのに、この上イギリスまで敵には回せない。
そこまで分かる。
そして、それをイギリス側も読んでいる。
故に彼等は自信を持ってこう言ってのける。
「君たち、イギリスの衛星国になりなさい」
と。
イギリスは、恐らく日本を植民地化までは考えていない。
そうするには日本は大きくなり過ぎた。
軍事的にも、イギリスは日本を敵に回したくないと考えるくらいには恐れている。
ソ連にしてもそうだが、戦って勝てるという自信と、敵に回すと面倒という用心は共存出来る。
日本を完全に屈服させるという事は、イギリスも困難で割に合わないと考えている。
だからこそ、経済や流通において下流国として組み込みたい。
その方が楽だし、安上がりに極東で番犬を飼う事が出来る。
「ありとあらゆる数字がイギリスと組むべし、そう訴えています。
しかし、イギリスと組む事で我が国はイギリスに全てを依存する二等国になり下がりませんか?
円の発行量もイギリスとの協議で決める。
協議というより、実際には指示でしょう。
自国の通貨すら自由にならないのは、あの江戸時代の不平等条約を結んだ時と同じように苦しむ事になるのではないでしょうか?」
「ふむ…………」
岸は考え込む。
(少し東條さんに近づき過ぎているかな?
愛国心が見え隠れする)
岸にも愛国心はある。
だが、長州出身者であるが、岸の愛国心は松下村塾系のそれとは違う。
(所謂「愛国心」という名の誇大妄想に囚われて国の行く末を誤るより、
現実的にどこかの下流になろうとも、国が栄える方がマシである。
まあ、植民地となる事は絶対にさせんが)
というような考えであった。
幕末の長州藩でも、尊王攘夷に熱狂したのは下の方だ。
意思決定に近い方は、尊王攘夷は方便であると考えていた。
長州人は、イギリス留学をした伊藤博文や井上馨のように、そっちに利があると考えると、コロッと「売国奴」的な意見に変わる。
芯には「日本を滅亡させない」というのがあるが、所謂「愛国者」「国士」には見えず、ただ外国に媚びを売るような者に見えてしまう。
岸は、どちらかというと「〇〇なんて方便さ」と考える側の政治家である。
統制経済も軍国主義も、全ては方便に過ぎない。
(孤高を気取って貧乏国に落ちぶれるより、
英国の下流国に成り下がっても、国が残って、豊かな暮らしが出来るならそれで良いではないか)
とすぐに思ってしまった。
(それに通貨統合はケインズ先生も主張していた事だしな)
とはいえ、目の前の松岡も、知る限り下手な「愛国心」にかぶれるような官僚ではない。
十分に仮面を被れる男だ。
無理にと言って意見を言わせたし、本人も思考が固まっていないと言っている。
(もし本当に愛国心が刺激されたのなら、それは交渉相手にそういう態度があったかもしれない。
あるいは、僕にも気を許さずに芝居してみせているか)
まあ良い。
意思決定するのは政治家の領分だ。
松岡はイギリスべったりがもたらす事を指摘しただけで良しとしよう。
「しかし、経済の指標については色々と注釈を入れているのに、
科学的な事は鵜呑みにしているのですか?」
わざと意地悪く聞いてみた。
松岡の回答は
「鵜吞みにはしていません。
ただ、これは自分の専門外です。
だから、肯定も否定もせず、渡された数値をそのまま載せました」
「そうですか。
ならよろしいです」
そう言って岸は松岡を下がらせた。
特に周囲に見せて、命を狙われるような内容も無い。
海軍にとっては、北極海が引き続き航行に適さない海である事は都合悪いかもしれない。
だが、その程度だ。
ソ連が危険な相手で、共産主義が国体を損ねる思想である事も分かり切っている。
偶発的だが、ソ連が旧アメリカ領の孤島を攻めたのは、良い宣伝となるだろう。
そんな情報を仕入れただけでお手柄だろう。
翌日、国が接収した丸の内三丁目の帝国劇場で行われた報告会には、多数の観覧希望者が訪れた。
ここは内閣情報局が局舎として利用している。
そこに、宇多博士の関係者、教え子、研究仲間もやって来る。
世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的に作られた情報局の局舎に、中には左翼思想でマークされている科学者も訪れるというのだから、おかしなものだ。
それ程、無関心な者にはとことん興味が無くても、知る人には身の危険を顧みずに聞くだけの価値がある情報と言えた。
松岡は淡々と、彼が見聞きした事を、感情を交えずに語る。
それだけで十分だった。
どこかの国士サマのように、声を張り上げずとも、受け止める側には衝撃的であった。
陸軍の将校で、ソ連の大地のヨーロッパ側が寒冷化、極東は温暖化というのが何を意味するか分からない愚鈍な者はいない。
そして実際に旧アメリカ領接収に動いたという「事実」を重大に受け止める。
海軍には、北極海は航路として使い物にならないというのが、衝撃でもあり、安心でもあった。
予算確保の為に、ソ連海軍はかつてのロシア帝国海軍のような強力な軍で居て欲しい。
しかし、一方で担当海域が広くなり過ぎるのを警戒する向きもあった。
海洋学者、農学者には薄々感じていた気候変動が、ヨーロッパではずっと深刻であると知る。
この時期、あるいはもっと後年もだが、ヨーロッパの研究結果というのは彼等の金科玉条的な部分がある。
高層気象学や海流学で、日本はヨーロッパ各国を上回る国なのだが、そう思っていない節がある。
先進的なヨーロッパの科学者の「極東は高温化、ヨーロッパは氷河期」という説に、彼等は愕然とした。
初めて重大で深刻であると受け止めた。
農林水産・土木・交通運輸関係の官僚は頭を抱える。
計画は前提から見直しになってしまった。
豪雨豪雪災害、台風被害が甚大となれば、食糧調達計画、護岸や治水、道路や橋やトンネルの保全等対策せねばならない事が目白押しである。
経済、金融、流通、産業、通商部門の人間は、ある程度予測してはいたものの、具体的な数字で見せられて言葉を失う。
彼等はアメリカ合衆国消滅で甚大な損害が出ると予測していた。
日本は未曾有の不景気に突入するだろう。
だが、金本位制を保証する金の世界の8割をアメリカが持ち去ってしまい、世界は金本位制に戻れないという事実に、考え方を改めねばならない。
いや、予想はしていたが「考えたくなかった」ものだったが、もう現実を直視せねば、であろう。
外交官は大混乱である。
アメリカ合衆国消滅だけで国際関係の変化が急に起こって戸惑っている。
ずっと米英に敵対視されていたから、外交の軸はドイツ、保険でソ連に移っていた。
その状況が変わる。
どう対応したら良いか?
産官学全てが、淡々と論評抜きでされた発表に衝撃を受けたのであった。
18時に解説を一本アップします。