1942年秋季攻勢
スターリングラードにて。
フルシチョフ「ドイツ軍来ないな」
エリョーメンコ大将「別な何かが来る予感がするんですが……。
もっと厄介な何かが……」
1942年9月、ノヴゴルドに首都を移したばかりのスターリンは、すぐに自身の名を冠した町・スターリングラードに政治中枢を移した。
モスクワの時はあれ程頑強に抵抗したのに、ノヴゴルドには落ち着く事すらしない。
何故??
アドルフ・ヒトラーとヨシフ・スターリンは共に独裁者である。
自我が強く、軍部の作戦案や戦略方針に度々口出しをし、それが敗北に繋がったりもした。
だが、ヒトラーに比べれば、スターリンの方が専門家に対し腰が低い。
ヒトラーはプロの軍人に対し
「諸君たちは戦争を知らない!」
と喧嘩を売ってしまう時がある。
1年以内でのベルリン侵攻を口にしたスターリンは、ジューコフ将軍の理路整然とした説明に納得したりと、運命の分岐点では他者の意見に耳を傾ける柔軟さがあった。
ノヴゴルドからの移転もそれである。
あるいは、まだしも温暖なドイツから一歩も出ないヒトラーと、やむを得ないとは言え兵士たちと共にモスクワを出たスターリンの、体感の差だったかもしれない。
スターリンは肌で
(何かおかしい)
と感じた。
昨年の戦闘を経験した兵士たちの中に入って話を聞き、実はその前の1940年からおかしな兆候はあった事を知らされる。
(私の耳に入れなかった怠け者は、シベリア送りだ!)
そうは思うが、科学的に確証も無いのに、兆候の段階で今の事態を説明したら
「流言を飛ばし、人民を不安に陥れるファシストの手先」
と言われて、やはりシベリア送りだっただろう。
ともかくスターリンは政府、司令部、党本部全てを南下させる。
今でもイギリスが焦っている「北半球の氷河期到来」なんて頭に無いが、9月になっての異常で
(今年の冬も凄まじい寒さになるかもしれない)
と感じたのだ。
そして、こういう時に独裁者の強みも出る。
ソ連の人民全てに南下命令を出した。
財産を捨てて、直ちに南下せよ、と。
ソ連人民に名目上財産なんてものは無い。
全ては国有物であり、私物というものは存在しない。
実際には家財道具とかの私物は存在する。
それさえ持って行けば良い。
というか、それくらいしか持ち出せない。
愚図愚図していたら、秘密警察に強引に追い出される。
こうして人民の南下が始まった。
ドイツの急降下爆撃機Ju-87スツーカは、この移動する民を襲撃し、爆撃し機銃掃射を行う。
相当数の犠牲者を出す。
だが、百万人を超す民間人の損害も、この冬の惨禍を防いだという意味では少なくて済んだと言えよう。
冬の惨禍を迎える前に、ソ連軍はモスクワ奪還作戦を発動した。
既にモスクワにあえて置き去りになった部隊が市街戦を仕掛けている。
機動戦至上主義のドイツ陸軍は、一部屋毎の奪い合いの戦闘に苦戦する。
如何に「ドイツの技術力は世界一ぃぃぃ」と叫ぼうが、窓から投げ込まれる手榴弾や、ドア影から繰り出されるナイフに、急降下爆撃機も機動力抜群の戦車も意味を為さない。
「使い勝手の良い短機関銃を!」
技術力はここに注力して欲しいようだ。
そして困った総統命令が出ている。
「モスクワを維持せよ。
一歩たりとも撤退は許さない」
ヒトラーは戦争において経済を重要項目と考える。
ただ敵軍を撃滅すれば良い、重要地を占領すれば良いという陸軍参謀本部に対し、広域でも穀倉地帯や油田地帯を占領、もしくは破壊して敵の継戦能力を奪えば勝てるという思考をする。
その実現性について、しばしば参謀本部の人間と口論になった。
ヒトラーが正しいか参謀本部が妥当なのかの是非は置いておく。
問題なのは、その合理的判断と相反する感情である。
占領地の放棄を認めない、敵に些かでも勝たせる事を好まないのだ。
特に、スターリンには勝ち誇らせたくない。
「ソ連戦勝利の証である。
ソ連人民の士気を挫く為にも、モスクワは維持し続けろ」
その一方で
「ウクライナ、カフカスを占領せよ」
と軍主力はソ連軍を追撃させて、南に向けて進軍させていた。
モスクワはソ連という国の中心である。
様々な道が四方八方に走っている。
南下したソ連軍を追撃しているドイツ軍を避けて、あらゆる道から別働ソ連軍はモスクワに進入し、市街戦を続ける。
そして南下するドイツ軍も弱っていた。
戦線の展開状態を無視し、モスクワまで急進した事で補給線が延び切った他に、モスクワに異常な突出部が出来てしまた。
ソ連軍はこの補給線の分断に掛かり、それを撃退するドイツ軍は一層疲弊してしまう。
「いっそ、分断させてやろう」
そう言い出したのは西方電撃戦の立案者・エーリッヒ・フォン・マンシュタイン将軍であった。
「我が軍は、精鋭部隊が南下し、二線級の軍が留守部隊としてモスクワを守備している。
これを入れ替えよう。
南下するのは二線級の部隊で、精鋭はモスクワを守らせる。
しかし、出来るだけ戦闘を控え、鋭気を養っておくのだ」
「それでは補給線を分断されるだけでなく、包囲されてしまいます」
「それが目的だよ」
「は?」
「包囲されたら打って出てソ連軍を撃破して、元居た戦線まで後退しよう。
その為には、モスクワの軍が精強である必要がある。
また、本格的な冬の到来前に、ソ連軍を釣り出さねばならぬ」
「つまり、モスクワを奪還する為に出て来たソ連軍を撃破してからモスクワを放棄するのですね」
「そういう事だ」
「ですが、総統は何と言いますやら」
「総統の事はこの際気にするな。
責任を負うのは私一人で良い。
勝つ事だけを考えよう。
それでは、すぐにでも南下し始めた軍を呼び戻したまえ。
もっと先に進まれたら、作戦がバレてしまう」
「死守せよ」という命令に、彼は「一個軍を失うより、一都市を放棄する方がましだ」という回答をしたのだった。
まずマンシュタインは、密かに南下し始めた中央軍と、モスクワ防衛軍を入れ替える。
この作戦を「ロシャーデ」、英語で言うチェスの王将入城と名付けた。
市街戦を諦め、城外に布陣し、陣地防御を固める。
抵抗が弱まった事を良い事に、ソ連軍はスモレンスクとモスクワを結ぶ連絡線を遮断。
モスクワのドイツ軍は孤立してしまう。
この弱ったドイツ軍を包囲しようとした。
既にカレンダーは10月を過ぎ、雪が両軍に降り積もっていた。
「諸君、今しか無いぞ。
これ以上モスクワに居れば、雪によって大損害を出す。
全力で包囲するソ連軍を撃破し、この地を脱出するのだ!」
マンシュタインは、余力がある上に、戦闘経験豊富な精鋭部隊に檄を飛ばす。
ただでさえ精強な軍である。
かなり疲労はしているが、帰れるとなれば勇気を振り絞り、全力で戦う事が出来る。
それに、逃げ損ねれば凍死する。
それは背水の陣ならぬ、背雪の陣であった。
完全に包囲される前に、余力がある内に、内側から猛攻を掛けて来るドイツ軍にソ連軍は散々に打ち破られた。
油断も有った。
補給を断ち、敵軍を包囲しつつあった。
情報では、ドイツ中央軍主力がウクライナに向かったと聞いていた。
ここに居る軍は二軍。
モスクワ奪還の為には全力を出せるが、モスクワを脱出した軍とはぶつかりたくない。
自分たちは攻める側だと思っていたのに、反対に攻められている。
こういうのが積み重なり、ソ連軍はまたしても大損害を出して敗退した。
ヒトラーはモスクワを勝手に放棄したマンシュタインに出頭命令を出し、尋問するも、兎にも角にも彼がソ連軍を撃破した上で、冬本番前に安全地帯に部隊を逃した事は事実であり、それは無視出来なかった。
とりあえずヒトラーは、マンシュタインをフランス警備軍司令官に左遷するに留める。
スターリンは度重なった敗北に激怒した。
だが彼も戦争継続を諦めてはいない。
モスクワはとりあえず奪還した。
威容を誇ったクレムリンも、赤の広場の聖ワシリー寺院もカザン聖堂も瓦礫の山と化していた。
だがモスクワがこんな目に遭うのは、ナポレオン以来の事で130年ぶり五度目である。
最初の一回なら歴史的不名誉なのかもしれないが、既にモンゴル帝国(1238年)、キプチャク・ハン国(1382年)、ポーランド・リトアニア共和国(1610年)と落城の経験があり、不名誉ではあっても程度は低い。
大体、キプチャク・ハン国もポーランド・リトアニア共和国もフランス帝国も、最後には滅亡させてモスクワの仇は取っている。
ドイツ第三帝国も同じ目に遭わせてやれば良い。
かくして二ヶ月程でモスクワを奪還したスターリンであったが、モスクワに戻ろうとはしない。
「同志スターリン、首都をモスクワに戻しませんと、折角戦った兵士の活躍を無為にします」
「首都はモスクワである。
そのように布告せよ。
だが、私はスターリングラードを動かん」
「どうしてですか?」
「君は凍死したいのかね?」
そう、モスクワは市街戦と、マンシュタインの撤退時の破壊活動で暖をろくに取れない状態になっていた。
そんな都市に戻ったら、戦争指揮以前に凍死してしまう。
「では、クレムリンの再建をさせませんと」
「そうだな。
そのようにし給え」
「では工兵を動員し……」
「君は何を言っているのかね?
工兵はドイツ野郎との戦いの為、防御陣を作る任務が有るのだぞ」
「分かりました。
では人民を動員し……」
「君は何を言っているのかね?
折角避難させた大事な大事な労働力を、また極寒の地に戻すというのかね?」
「では、どうやって再建させるのでしょう?」
「捕えたドイツ人の捕虜がいるだろう。
我々も多くの兵を失ったが、その分捕らえたドイツ人も数十万人いる。
奴等に労働させろ。
あ、もちろん蕎麦粥一杯、黒パン一かけらとて与えてはならぬ」
「同志、それでは捕虜は餓死してしまいます」
「それのどこが問題なのかね?」
かくして各戦線で出た数十万のドイツ人捕虜はモスクワに集められ、都市再建に従事させられた。
彼等に待っているのは、過労死か餓死か凍死かであった。
スターリンは嘯く。
「無駄飯食いが減った上に、モスクワの再建も出来る。
このように計画的に人は使っていかねばならないのだよ」
今年中にソ連の大地からドイツ軍を叩き出す事には失敗したが、スターリンは新たな反攻作戦を立てて、今度こそは軍に計画を遵守させようと考えていた。
18時に次話アップします。