親英か対英か
英独戦争中の話。
宥和政策に失敗したチェンバレン内閣が辞職した後、チェンバレンはハリファックス子爵に首相就任を要請した。
国王もそれを望んでいたとされる。
だが、ハリファックス子爵エドワード・ウッドは拒絶し、こう言った。
「後甲板を好き勝手に走りまわるチャーチルを制御出来ませんので」
松岡成十郎は官僚である。
科学的な事は専門外で「分からん」が通じるが、政治関係でそれは出来ない。
例え外交の事でも、外国のVIPの名前くらいは分かっていないとならない。
まして通商畑の人間で「ハリファックス卿」の名前を聞いて「前イギリス外相」と分からねば、次期次官候補になんかなれない。
(なんだってそんな大物と、私がサシで会談するんだ?)
事態についていけない松岡である。
如何に次期次官として名が挙がっていても、今はまだ局長級でしかない。
松岡の混乱を他所に、ハリファックス卿エドワード・ウッドは語り始める。
「私は、ドイツとも宥和を求めていた。
チャーチル卿はあくまでもドイツと対決する意向だったから、私は辞任するつもりだった。
だが、あの1940年9月で全てが変わった。
まあ私は結局、外相を辞任したがね」
「はあ……」
「何故か分かるかね?」
「自由な立場でドイツと交渉出来るように、でしょうか?」
「ふむ……。
君たちは自国の重さを分かっていないようだ。
無論、ドイツとの交渉も受け持っている。
だが、ここに私が居るという事は、対日本でも交渉を担っているのだよ」
「閣下。
であるなら東京で相応の者とお話し下さい。
私は一介の官吏、それも外交ではなく商工関係の局長に過ぎません。
私に何か話しても、何の意味も有りませんよ」
だがハリファックス卿は笑みを浮かべたまま、語り続ける。
「君自身、君の価値を分かっていないのか、
それとも駆け引きでそう言っているのか。
まあどちらでも良いよ。
それで、君は私と会話をするのは嫌なのかね?」
(そういう言われ方をして、断れる訳が無いじゃないか!)
松岡は非常に困った。
だが、彼も腹芸をちょっとくらいは出来る。
彼も笑みを浮かべながら
「いえ閣下、失礼しました。
茶飲み話にお付き合いいたしましょう」
と返す。
東京でサンソム氏に付き纏われた時、何となくイギリス人との付き合い方も学習出来ていた。
クソ真面目に応対すると、上手くあしらわれてペースを握られてしまうのだ。
「ではお若いの、茶飲み話に付き合って貰うよ」
そう言って北極海の孤島で熱い茶を啜る。
「本音を言うと、日本ではなくアメリカ合衆国が最適だった。
日本が嫌いとかそんなのではなく、海を挟んだ隣国が当時はアメリカ合衆国だったのだから。
海を挟んだ対岸の国同士、貿易相手、運命共同体として他の選択肢は無い」
「カナダはどうなのですか?
メキシコは?」
「君、カナダなんて身内に過ぎないんだよ。
対等の交渉相手、というか油断ならない相手ではない。
家族みたいなもので、本国の要求を呑ますのは簡単だった。
メキシコは……そうだねえ、メキシコ湾流だけあれば後は用は無いかな」
(ひでえ!)
イギリス人にはナチュラルにこう毒を吐く癖がある。
「ところがアメリカ合衆国がどこかへ行ってしまった。
知っての通り、第一次世界大戦では、あの200万人の田舎者に大いに助けられた。
物資も相当量を供給して貰えたが、あれは対価を払っているからなあ。
そうそう、日本にもその節は大いに助けられたよ。
その後、自国産のものに復帰可能な物を輸出してくれて、大いに助かったよ」
日本に対しても毒を吐いている。
日本は第一次世界大戦時、ヨーロッパに大量輸出をして大儲けをした。
この時、日本製品の質が良ければ、以降も市場で存在感を示せただろう。
だが工業製品の質が低かった為、日本製品はヨーロッパ各国の生産が復活すると、あっという間に市場から駆逐されていった。
大戦で儲けた「成金」と呼ばれた者たち程、日本にとっての戦後不況で一気に没落した。
「その後どうかね?
日本の商品は我が国に売って、恥ずかしくない品質になったのかね?」
(痛い所をチクチクチクチク衝いて来るなあ)
そう思いながら、紅茶片手に
「まあ、御期待には沿えると思ってます」
と答える。
「そうか。
それなら期待させて貰いましょう」
ハリファックス卿も茶を飲む。
そして受け皿にカップを戻すと、話を続けた。
「君たちの、実に優れた品質の商品だが、高値で買ってくれるのは我が国だけだと思うぞ。
ソビエトは自国産の物を流通させるよう管理しているし、
ドイツという技術オタクの国に君たちの商品が売れると思ったら大間違いだろう」
ドイツ製というのは高品質の代名詞である。
兵器においても「そこまでするのか?」というレベルで磨き抜かれている。
その分量産能力にやや欠けるが、この当時のバラつきが酷い日本製なら、選抜して最高品質の物のみ持って行かないと相手にもされないだろう。
「それと、ドイツに物を売るとして、どこの商社のどこの船を使うのかね?」
ドイツも商社は持っている。
ドイツ籍の商船だって太平洋まで来ている。
だが、そういう次元の話をしているのではない事くらい、松岡は理解出来る。
(流通量が違う)
今は大分比率を減らしたとは言え、20世紀初頭は世界の商船の総トン数で見て、半分がイギリス籍の船だった。
昭和十四年(1939年)商船の保有数(100トン以上の船のみ)は、イギリス6,722隻、アメリカ合衆国で2,853隻、ドイツは2,459隻、日本2,337隻だった。
搭載量で見れば、イギリスが船腹総トン数で1789万1000トンなのに対し、ドイツは448万3000トン、ドイツより隻数が少ない日本の方が563万トンであった。
続いて海運の保険で見ると、イギリスがほぼ独占しており、ドイツは話にならない。
それにドイツの主な市場はヨーロッパ域内となる。
海外に植民地を持つイギリスとそこが違う。
ヒトラーにしても、生存圏拡大を訴えるも、基本陸続きでしか考えていない。
彼も経済をよく知っている部類だが、彼には汎ヨーロッパ経済圏が頭に有るのであって、汎地球規模経済は考えていない。
大体彼は、「劣った民族」の安い製品が自国に入って来て、自国の産業を脅かす事を望まない。
この辺、如何に相手を「劣等で、迷信を信じる、愚劣で臭い」と罵倒しながらも、そこの物資を流通させるように考えるチャーチルは、典型的な海洋貿易国家イギリスの政治家と言えた。
(つまり、仮に高品質の商品を売っても、ドイツは締め出し、イギリスは買う、そう言いたいのか)
高品質製品は、ドイツだとライバルになる。
もっとも、昭和十七年時点の日本製品はライバルになるだけの物を作れないが。
イギリスは量が欲しい場合があり、その時品質には目を瞑る。
また、ヨーロッパ域内が市場のドイツと、世界規模で植民地を持つイギリスでは、商品に対する五月蝿さが異なる。
貿易総額に占める割合も、英独では比較にならない。
1939年の、北米消滅前の大蔵省のデータであるが
・対英貿易:2.79%
・対英領香港貿易:3.82%
・対英領インド貿易:6.88%
・対オーストラリア貿易:2.55%
・対エジプト貿易:1.25%
・対南アフリカ貿易:0.33%
消滅したカナダを除く英領及び英連邦合計で全体の17.62%
・対独貿易:0.70%
イギリス、ドイツ共にヨーロッパの本土だけで見れば、どちらを増やすかというのは匙加減一つで決まる。
だが、香港、インド、オーストラリアの価値は高い。
それでも対満州国が貿易総額に占める割合14.98%、対関東州(中国)が21.14%とヨーロッパ全体との貿易よりも比率が高く、「対英か、対独か等誤差の問題だろう」と数字だけならそう言える。
だが品目で見るなら、満州からの輸入は相当量を大豆が占め、他は綿、石炭、鉄である。
イギリスの場合、錫、生ゴム、石油となる。
イギリスが保有する南方からの物資は、比率は低くても侮る事は出来ない。
日本の対英貿易は赤字である。
上記工業用資源の購入費に、綿製品輸出で稼いだ資金が費やされてしまうからだ。
これを安価に手に入れる事が出来れば……。
こうなると、南方進出論が魅力的に見えてしまう。
奪い取って自領にしてしまえば、輸入の必要が無くなる。
この誘惑に対するイギリスの回答が
「そうやって他者から奪い、作った製品を、どこが買うのですか?」
という問いかけであった。
満州に売りつけるというのが一個の回答だ。
それにもイギリスは手札を用意している。
それがインドの市場開放。
(流石に一筋縄ではいかぬ国だな……)
彼等の話を聞いていれば、ドイツやソ連等無視して、イギリス及びその植民地と貿易していれば、薔薇色の未来が見えてくるように感じる。
(だが、油断はならない)
松岡は知っている。
彼等は決して損をしない。
何かしら自分たちの得となる事を考えている。
それを見抜けずに口車に乗ると、後で手痛い目に遭うだろ。
松岡は一個、気になってもいたし、イギリスの罠はここに在るのではないか、と疑っている事をぶつけてみた。
「それで、我が国と貴国の決済はどのようになりますか?」
「無論、スターリング・ポンドだよ」
「では、我が国もポンドの下に組み込まれろ、と?」
「悪い事ではあるまい」
「そうでしょうか?」
「そうだよ。
なにせ、もう米ドルは無いのだよ、その発行元を含めてね」
「つまり、国際決済通貨はポンドのみになる。
日本も早い内からポンド経済を受け入れろ、そういう事ですね?」
「理解が早いね。
その通りだ。
先程も言ったが、悪い事ではあるまい?」
「決済通貨がポンドしか無い以上、ポンドは幾らでも発行出来る。
ドルが無い以上、値下がりもしない。
ポンドと固定相場にすれば、円も同様の効果を期待出来る、と?」
「分かっているではないか。
否やはあるまい?」
「ありますよ。
その決済通貨には大いに問題があります」
「それは何かね?」
「世界恐慌前、世界は金本位制で動いていました。
今も金本位制は無くなってはいない。
大量に発行し過ぎたポンドは信用を喪失する危険性がある。
その時世界は、金に回帰するのではないか?」
ハリファックス子爵は笑みを浮かべた。
面白い。
こういう言い返して来るような相手じゃないと、彼程の政治家が足を運ぶ意味等無い。
経済の事は専門外だが、彼は少壮気鋭のスタッフを何人か連れて来ていた。
「場を変えて話しましょう。
ここは科学者先生たちのサロンだ。
我々のような社会学に属する者は、違う場所で、違う資料を見ながら討議しましょう。
まあ、お焦りになるな」
北極海の島で、戦争とは違う鍔迫り合いが始まった。
次は8月6日17時になります。