北米消滅の衝撃は世界を駆ける
海水面は約3メートル下がった。
海面積が約6.7%増加した。
表面積約2400万平方kmの北米大陸が海底深くまで消滅すると、海水面は200メートル程後退する。
つまり、北米大陸はその上だけが何処かに行ってしまった。
北米大陸が在った場所には平均水深50メートルの浅海が広がっている。
これを元北米浅海域と呼ぶ。
商工省に戻った松岡は、先程イギリス大使館から伝えられた情報を小林一三商工大臣に伝える。
だが、この商工大臣は、お飾りとまでは言わないが、財界代表として大臣職に奉職する事になった者。
実際の権限は、次官である岸信介に有った。
岸信介、東京帝国大学法学部卒業で、内務省ではなく当時二流と言われた農商務省にあえて入省。
農商務省が商工省と農林省に分割されると、商工省に配属。
昭和十一年(1936年)に満州に渡り、「産業開発5ヶ年計画」を実施した。
軍・財・官界に跨る広範な人脈を持っている。
岸はキレ者であると共に、軍部やアヘン業者とも繋がりを持つ、ある種の胡散臭さも有った。
だが、非常事態ではこれくらいの方が良いのかもしれない。
小林大臣に陪席して松岡の報告を受けた岸は、大臣とは違って狼狽えた表情を見せない。
(大した肝っ玉だ)
報告する側でありながら狼狽したままだった松岡も、岸を見ている内に冷静さを取り戻す。
岸は内心は驚いていたが、それ以上に今後の事で脳をフル回転させている。
そして
「イギリスの言い分だけじゃ分からんよ。
彼等が我々を騙しただけかも知れんしねえ。
海軍さんに言って、我々でも調べましょうよ。
それまでは何もするな。
それで良いでしょう? 小林サン」
と言ってのけた。
「何もしない、ですか?」
「そうだ。
何もするな。
これ以上は君如きが口を挟む事ではない。
下がりなさい」
松岡は不満だったが、黙って大臣室を退出した。
だが、すぐに岸次官から呼び出しを受ける。
……料亭に。
「君は暫く動かない方が良いネ」
松岡に酒を注ぎながら、長州訛りで岸が話す。
上司から注いで貰い、緊張する松岡だが、その意を確認する。
「君と英外交官との席に、特高も居ただろう?
相手外交官の調査と共に、君も監視対象に入ったって事なのさ」
「は?
私は、私の身の潔白の為に特高に見張らせたと思っていました。
違うのですか?」
「彼等にそんな理屈は通じないよ。
疑ってかかるのが彼等の仕事だからね。
じゃから君は、暫くは動かない方が良いネ。
君の潔白は僕がしてみせるから、それまでは大人しくしてい給え」
岸は満州赴任時に、東條英機という人物と知己を得た。
彼は当時関東軍参謀長をしていて、現在は陸軍大臣をしている。
その彼の威光を使って、特別高等警察の監視対象から外して貰うという。
「君は来月発足する予定の総力戦研究所に出向する予定だろ。
僕と同じ商工次官、いや商工大臣役だったかな。
その立場で東條サンとも付き合う事になると思う。
その時、今まで陸軍がやって来た事を覆すような意見を出すかもしれない。
いいかい、意見は内容が大事じゃないんだ。
誰が言ったか、どんな人が言ったかが大事なんだ」
「よく分かりません」
「嫌いな人が言った意見に、耳を貸す大器は、世の中そんなにいないよ。
反対意見を言おうものなら、粛清されてしまう。
だけど、お気に入りが言った意見なら、耳が痛いが聞く事もある。
分かるよね?」
「分かります。
しかし、その為に東條大将閣下に媚びを売れ、と?」
「そんな事は必要ない。
でも、売国奴とか利敵行為を働く者と思われないようにするだけじゃなく、
愛国者だとしっかり印象付けないとネ。
内心はどうあれ、そうしておかないとネ。
君は総力戦研究所に抜擢され、イギリスの外交官からも見込まれた。
もう普通の市民と同じじゃいけないんだ。
しっかり身を処さなければいけない。
分かるよネ?」
「分かります」
「では、しっかりやって貰うよ。
君の意見に、もしかしたら日本の将来がかかってしまうかもしれない」
「有難い説教です。
肝に銘じます」
松岡成十郎の人生はこの時、方向づけられた。
九月十四日、海軍より調査隊が出された。
重巡洋艦利根と筑摩の第八戦隊である。
海軍は、商工省から言われるまでもなく、異変に気づき、調査を行う予定であった。
イギリスは商工省の松岡だけに絞ってアメリカ消滅の情報を与えていない。
クレイギー大使が外務省に、駐在武官は海軍にそれぞれ話をしていた。
その他、商社や数年前まで駐英大使を務めた吉田茂という外交官等、ありとあらゆる伝手を使って日本に情報を伝える。
余りの荒唐無稽さに相手にしない者も居たし、深刻に捉える者も居た。
海軍は自分たちの目で確かめる必要ありと、第八戦隊に出動の命を下す。
日本海に面する舞鶴に居た利根と筑摩の2隻は、太平洋の彼方から来た津波の被害から免れていた。
太平洋に面した横須賀や、瀬戸内海の呉では、港からの退避が遅れて被害を受けた艦もあるという。
重巡洋艦利根級は、6機の水上機を搭載し、航空索敵能力に秀でる。
また18ノットで8000海里という高速でかつ長大な航続距離を持っていた。
アメリカ本土まで無補給で赴く事が出来る。
帰路用に油槽船を用意するが、まずはこの2隻を緊急派遣する。
第八戦隊は、元々九月中に海南島に派遣される予定であった。
出港準備が出来ていたのもあって、調査艦隊として抜擢されたという理由もある。
一方、千島列島最北端、幌筵島でもアメリカ調査の準備が進められた。
突貫工事で飛行場が作られている。
長大な航続距離を誇る海軍の九六式陸上攻撃機。
日本の基地から東シナ海を越えて上海等に行った「渡洋爆撃」で有名になった程の行動半径を持つ。
更にこれに燃料タンクを増やし、武装を外した九六式輸送機でアメリカ調査を行う。
同型の「ニッポン号」は世界一周飛行を行った。
この時、根室からアラスカ州ノームまで無着陸飛行を行っている。
よりアラスカに近い幌筵からなら、往復飛行も可能だろう。
九月十五日、日独伊三国同盟締結の是非を問う御前会議の延期が決まった。
調査結果を見る必要があったからだ。
九月二十日、九六式輸送機2機が幌筵に到着する。
燃料補給を済ませ、二十一日には離陸。
そしてアリューシャン列島上空を飛行。
アクタン島までは確認するが、それより東側が消滅した事を確認し、愕然とする。
アラスカ半島という陸地は影も形も存在しない。
同日、第八戦隊もシアトル沖に到着する。
一応入港の意思を示す旗を掲げ、入港を求める無電を放つ。
通信は虚空に吸い込まれ、何の応答も無い。
利根、筑摩は搭載している水上機を全て発進させる。
そこにアメリカ合衆国が存在するなら、領空侵犯で撃墜されるような行為である。
しかし、偵察機は行けども行けども陸地を見つけられない。
北の九六式輸送機、本土の第八戦隊、共に同じ報告を東京に打電する。
『アメリカ大陸を確認出来ず。
引き続き調査を続行するも、消滅の可能性極めて高しと判断す』
北米大陸消滅の報は、新聞を通じて日本を駆け巡る。
この時期、世界各国も同じように北米大陸が消滅したという信じられない事実を報道していた。
全世界に衝撃走る。
日本は中国の利権巡ってアメリカ合衆国とは対立していた。
何度か禁輸措置も食らった。
「排日移民法」なる制限も食らった。
不戦条約を交わしていたが、海軍の仮想敵国とはアメリカの事だった。
だが、多くの日本人はアメリカ消滅で喜んだりしなかった。
神社に行き、多くのアメリカ人の無事を祈る絵馬を奉納した。
新聞がアメリカに天罰が当たったといった報道をしているのに対し、国民は将来の敵かもしれない相手の為に祈った。
一方、ドイツでは祝杯が挙げられていた。
アメリカはイギリスの後ろ盾である。
イギリスを追い詰めるには、アメリカから運ばれる商船を沈めるのが手っ取り早い。
装甲艦やUボートを大西洋に出撃させているのは、そういう理由である。
日本との軍事同盟締結も、アメリカを背後から脅かし、イギリス側に立った参戦を防ぎたいという思惑からだ。
そのアメリカが忽然と消えた。
イギリスの後ろ盾が消えた。
これでイギリスに勝てる!
バトル・オブ・ブリテンを戦う空軍のゲーリング国家元帥等は、そう言ってパーティーを開き、したたかに酔っぱらっている。
禁欲的で神経質なヒトラー総統は、そういう真似はしていない。
ただ、彼も
(これで同じアーリア人であるイギリスとの戦争が終わる)
と期待をしていた。
本命は共産主義国家ソビエト連邦である。
西部戦線をさっさと整理し、ソ連との戦いに専念したいのだ。
その目的は、東方にまでドイツの生存権を拡げる事。
意義を失った日独伊三国同盟について、締結の延期の申し出をヒトラーは快く受け入れる。
フランスの大西洋岸も、謎の津波の被害があった事だし、日本の申し出を断る必要も無い。
このように、各国が政治的、経済的な思惑にのみ目が行っている中、異変に最初に気づいたのはイギリスの漁師であった。
戦争中で、潜水艦や仮装巡洋艦がうろついて危険ではあるが、漁をしないと生活が出来ない。
ドイツの通商破壊が行われている為、漁は食糧確保にも繋がる。
その漁が不漁なのだ。
好漁場として有名なドッガーバンクで、魚が獲れない。
「おかしいな。
ここまで酷いのは初めてだ」
一方、スペインやポルトガルの漁師も、普段の漁場よりも南の方で魚が獲れる事に気づいていた。
北アメリカ大陸消滅と、大西洋と太平洋の接続。
これがメキシコ湾流及び北大西洋海流を消滅させたというヨーロッパの危機の最初の現れであった。
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