光と影、善意と悪意のモザイク
国民移住計画を進めるイギリス。
もっとも、貴族や資本家などは本土に残るのだが。
その上流階級の政治家の会話。
「それでも移住しなければならないとしたら、君はどこに行く?」
「私はバミューダ諸島かな。
中緯度で気候も良いし、過ごしやすいそうじゃないか」
「自分は(英領)ヴァージン諸島かな。
消滅しなかったカリブ海は良いよねえ」
「そういう島々は、貧民どもには渡せないな」
「まったくもって同感だ」
かくしてリゾート地は上流階級の別荘地として、移住対象からは外されていた。
人間、完璧な善意だけの者も悪意だけの者も居ない。
ヨーロッパの白人にはこのような善意がある。
「キリスト教を知らないとは、なんと哀れなのだ。
哀れな野蛮人に、我々が神の教えを教えてやろう」
「文明を知らないとは、なんと哀れなのだ。
哀れな野蛮人に、我々が人類の英知を教えてやろう」
「民主主義を知らないとは、なんと哀れなのだ。
哀れな野蛮人に、我々が進んだ政治手法を教えてやろう」
「貿易をせずに鎖国政策とは、なんと遅れているのか。
哀れな貧乏国に、我々が裕福になる道を教えてやろう」
そして、それを拒否する者には
「親が子供を躾けるように、実力でその蒙昧さを払拭してやろう。
今は腹立たしいかもしれないが、いずれ我々に感謝するに決まっている」
彼等にとっては善意でも、される方からすれば悪意である。
また、時代が変われば自分の価値観の押し付けも悪意となる。
そして、独善的な者には気づかない、他人を自分の思う通りにしたいという悪意が芯に有る。
日本でもこの傾向はある。
アジア主義者の中には、善意の中に知らず知らず、他人を見下す悪意を芯としている者も居る。
「彼等は遅れているのだ。
日本は一等国である。
現在亜細亜で独立している国は、日本と泰国のみだ。
その泰国にしても我々には及ばない。
だからまず我々が列強の植民地となっている地を解放し、
最初は我々が統治してその手本を見せ、
教育を施して彼等の政治力をつけさせた上で、
やがては独立して貰おう」
白人と似た傲慢さのこれは、まだ分かりやすい部類である。
少々分かりづらいのは企画院の官僚たちの「善意」であった。
「このままでは日本は立ち行かない。
方法は2つある。
アメリカ合衆国という市場に物を売り、富を得ずとも済んだ江戸時代に戻る。
もしくは持続可能な経済成長を出来るように知恵を絞る。
前者など誰が望んでいるか。
後者を希望するだろう。
だが、持続可能な成長の為の計画を立案出来る者は、そう多くは無い。
自社のみの繁栄を考える企業家や、選挙によって利に聡い民の審査を受ける政治家には無理だ。
我々官僚が国家の運営方針を決めてやる他に生きる道は無いではないか!」
この難しい所は、主張の正しさにある。
言っている事は間違いではない。
資源に恵まれず、国民の経済力も無い日本は、北米大陸消滅によってアメリカ合衆国から鉄や石油を得られず、かつては英仏のブロック経済から排除された事もあり、バンバン資源を浪費するやり方は身を亡ぼしかねない。
計画を立てて、資源を管理しないとならない。
正しく綿密な計画を立てられる人間など、実はほとんどいない。
官僚が集まって、知恵を集めて、国家が正常に運営される計画を立てて実行するのだ。
その時、目先の利にしか興味が無い国民が不満に思うかもしれない。
だが、これしか生き残る道は無いのだ。
我々は嫌われてでも、この道を進むしかないのだ。
彼等には「自分たちは神の使徒で、愚民を導いてやるのだ」という驕りは無い。
これをすれば嫌われると自分たちでも分かっている。
それでもこうするしかない、その覚悟で動いている。
彼等は自分たちの思想が、共産主義に近いというより、そのまま共産主義であろう事も承知している。
だが、共産主義の何が悪いのだろう?
悪いのは皇帝を処刑するようなソ連のやり方で、そのように各国の君主を打倒しようとテロを繰り返した世界同時革命という思想で、一介の凡夫の癖に国家を牛耳るスターリンのような男を生み出した運用の拙さである。
日本に革命は必要ない。
天皇陛下の下、万民が礼を持ち、秩序に従い、己の職分に励めばそれで良い。
必要なのは、天皇陛下を頂点とする官僚統制の共産主義なのだ。
ここまで割り切ってはいないが、主張を煮詰めるとこうなる。
この思想は、一部の陸軍軍人とも相性が良い。
陸軍の二大派閥の内の「統制派」、現在は主流派である。
彼等は
「国防強化の為に、経済機構などを改革する必要がある」
と考えている。
国防強化=国家総動員
経済機構の改革=統制経済
である。
真に相性の良い考え方同士であった。
さて、理想と打算、善意と悪意が混在し、自分でも整理出来ていない、自分が正しいと思っている者が多い中、岸信介は違っていた。
彼は共産主義者ではない。
むしろ反共産主義者であると言える。
国家社会主義に活路を見い出したものの、それすら方便だと思っている。
自由主義経済を知っているが、それが否定され、そこから排除された日本について思考を巡らす。
彼には邪心があった。
他の凡百と違うのは、これを邪心だとはっきり認識していたところにある。
「官僚主導で日本の政治を動かす。
これは理想のように見えるが、実は自分の野心であるに過ぎんネ。
僕は僕の思うように日本の舵取りをしたいし、その為には官僚主導型が良いネ。
でも、それだって方便に過ぎない。
本当は、官僚をよく制御出来る政治家が選挙で立てられ、官僚の優れた能力を使えば良い。
それが出来るのは僕くらいじゃないかネ?」
こんな思考で、ある意味理想に囚われていない。
いや、本心の部分で
(僕には「理想」なんて大層な物はないのサ。
現実を見て、それに最適な物を選べば良いのだヨ)
そう自覚している。
「強い日本」「他国に侮られない日本」という国家像があるから、理想が全く無い訳ではない。
ただ、彼の思う理想とは「天皇を中心とし、その意思に従う皇道」とか「全ての労働者や農民が報われる社会」とか「五族共栄、天下泰平」のような「大層な物」である。
それは岸には無い。
共産主義も国家社会主義も民主主義も、皇道も統制も自由社会も、その時点で適しているものを選べば良い。
そして彼には、日本史でしばしば登場する政争モンスター、政略マシーンのような面がある。
何かをしたいから権力を手に入れたいのではない。
自分がそれに相応しいから権力を手にし、権力を手にしたからにはきちんと仕事をする。
手段と目的が逆転してはいるが、それを自覚した上で自分を制御していた。
故に、必要とあれば裏切りも行う。
今回行ったのは謀略の類であった。
乞われて東久邇政権の大臣となった強みを活かしたものと言えよう。
ある時、突如内務省警保局保安課、警視庁、大阪府警等に憲兵が踏み込んで来た。
「特別高等警察の○○、貴様を治安維持法違反の容疑で拘束する!」
取り締まる側だった者は驚いた。
そんな心当たりは全く無い。
「憲兵如きが何を言うか。
吾輩はやがて内務省次官にと見込まれておる。
それを前にして無礼であろう!
大体、吾輩が何をしたと言うのか?」
「密告が有りました」
「密告?
密告如きで逮捕出来ると…………」
「思ってますよね?
自分たちが散々にやって来た事です。
お連れせよ!」
このような光景が全国各地で見られた。
連れ去られた者たちは、二度と帰って来なかった。
そして全国都道府県警内の特高に通達が来る。
『逮捕者は真の共産主義者で、帝国を破滅に導く者であった事が判明した。
彼等の指示により、国の為、日本の将来を研究していた若手学者、官吏、知識人が捕縛された。
彼等の目的は、真に国の為になる者に烙印を貼って処罰し、日本を衰退させる事であった。
これは日本弱体化を目論むコミンテルンの指示であった。
今後は斯様な敵の間諜に乗せられた事を反省し、独自の捜査を改め、政府と緊密な連絡の元で引き続き治安維持法護持の為に働く事を望むものである』
つまり、国が「やめろ」と言った人間は捜査出来なくなる。
それを無視してなおも付き纏ったりしたら
「逮捕された特高幹部のようになるが、それでも良いか?」
と脅しをかけたのだった。
発案し、東條陸相を通じて実行させた者の狡猾な所は、これで特高を解体はしなかった事である。
その者は特高は特高で有用だと考えている。
だから、自分が共産主義者だ等と言われないようにする。
さらには自分の制御下に入れたい。
(また企画院事件みたいな目に遭ったら、たまったものじゃないですからネ)
やろうとしている事が共産主義に片足突っ込んだ事であると知る反共産主義者は、自分たちを共産主義者と見做して強引な手法で追い詰めて来る可能性がある組織に対し、共産主義国家的なやり方で鉄槌を下したのだった。
自分に邪魔だったという理由から……。
この粛清は副次的な効果を生む。
東京帝国大学、京都帝国大学の学生たちが万歳を叫び、東久邇内閣を支持したのだ。
彼等は散々に特高に踏み込まれ、学問の自由を踏みにじられていた。
共産主義かぶれの学生運動も盛んになるが、一方で「思想的には共産主義に共感するが、理系の学生だから政治どっぷりではない」ような者たちがやる気を取り戻す。
(学生など、若い内は理想に燃えて共産主義にかぶれる。
それは麻疹のようなもので、通過儀礼だネ。
寧ろ若者はそれくらい情熱的な莫迦じゃないとつまらん。
実際に社会に出て、家庭を持ったり現実を知ったりすると転向する、そんなものだヨ)
こう思った者の思惑通り、熱量の高い若者はすぐに日本の置かれた状況を知る事になる。
それは共産主義だ、労働者の権利だ、世界革命だ、そんな言葉遊びで済むようなものではなかった。
その中の優秀な若手は、やがて自分たちの想像を超えていた危機に際し、立ち向かう先兵となる。
それはある野心的な者の「邪魔する可能性がある組織は潰してしまえ」という悪意から産まれた、地球レベルでより多くの人を救おうという善意の人間たちであった。
お疲れ様でした。
(いや、疲れたのは自分かも)
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