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北の海にて

千島最北端占守島の片岡湾:

海軍による明治二十六年以降の気温データ

2月 平均気温 -4.0℃ 最高気温 +6.7℃ 最低気温 -12.2℃

8月 平均気温 +11.3℃ 最高気温 +25.0℃ 最低気温 +2.2℃

 昭和十六年七月、独ソ開戦を受けて北方警備の為の第五艦隊が編制された。

 樺太、千島、オホーツク海方面を担当し、基地は青森県大湊であった。

 海軍大湊警備府は、稚内や千島列島最北端・幌筵にも通信拠点を置く。

 そこに北極海調査の話が持ち上がり、海軍は北の基地設営にも力を入れる。

 海軍は仮想敵国アメリカが消滅し、

「もうこんな巨大な艦隊は不要なのでは?」

 という陸軍と大蔵省連合との争いに突入していた。

 北極海に脅威があるとなれば、それなりの予算を確保出来るだろう。


「日本が在って海軍が有るのではない。

 海軍が有るから、日本は滅びずに済んでいるのだ」


 そう考える海軍軍人すらいる程、海軍は誇り高い。

 実際、ペリー来航以来海外からの脅威を感じて来た日本を守る盾、そういう意味もあった。

 だが高騰する装備調達が日本という貧乏国の財政を圧迫する。

 海軍が日本の盾として働き、ロシア帝国を撃破して際限なき戦争を終わらせた日露戦争。

 この時ですら戦艦6隻、装甲巡洋艦8隻を調達した事による国民の負担は大きかった。

 日露戦争の主力戦艦「三笠」に比べ戦艦「扶桑」は3倍の価格である。

 「扶桑」級すら上回る戦艦と巡洋戦艦を計16隻保有する「八八艦隊」計画は、その立案に関わった海軍出身の総理大臣・加藤友三郎が潰した。


 海軍の中にも見えている人はいる。

 艦隊が国を食い潰してしまう。

 際限なく軍拡をするのではなく、逆に相手を枠に嵌めて抑えてしまおう。

 ここまでは強硬派の海軍軍人も理解した。

 流石に国家予算の3割を超える艦隊整備費というのは、当時帝国大学以上の難関・海軍大学校を出るくらいの軍人ならどういう事を意味するか分かる。

 問題は「対米6割の主力艦保有が妥当かどうか」であった。

 それが発展して「条約派」と「艦隊派」に分裂してしまった。

 だが「艦隊派」とて軍縮条約を蹴って退席しろ、ではなく「せめて対米7割にしろ、それが出来ないなら今回の条約調印は見送れ」という意見であった。


 話をアメリカ消滅後の今に戻す。

 情勢としては日露戦争の時に近い。

 仮想敵国として巨大艦隊の相手に想定しているのはイギリスなのだが、実際に敵となりそうなのはソ連である。

 だが、強力な太平洋艦隊と、実情は兎も角規模として恐ろしかったバルチック艦隊を持っていたロシア帝国に対し、後継国家ソ連の海軍力は取るに足らない。

……そこまで叩き潰したのが日本海軍だったのだが。

 だが、もしも北極海が航行可能な海域となったなら?

 北の海が温暖化する事で、警戒海域が大幅に増える。

 となると、艦隊を維持する口実が出来る。

 調査結果が出るどころか、これから調査をするというのに、突貫工事で幌筵泊地を整備し始めた。


「敵が居るからそれに合わせた艦隊を整備するのではない。

 艦隊を整備したいから、それに見合った仮想敵国を見繕う」

 という手段と目的が入れ替わった状態であるが、案外気づいている者も少なかった。


 松岡商工省次官補佐、宇多博士搭乗の海軍の測量艦「筑紫」、鉄道省の砕氷船「亜庭丸」「宗谷丸」、そして中央気象台の気象観測船「凌風丸」が人員を乗せて晴海埠頭を出港する。

 先日北米浅海を調査した「宗谷」は、今回は出動しない。

 「宗谷」はオーバーホールに入ったし、12ノットという低速はソ連の近くに派遣するには遅く、拿捕の危険があったからだ。

 速力14ノットの「凌風丸」は幌筵泊地近くの海域を調査。

 速力16ノットの「亜庭丸」も幌筵泊地で待機。

 北極に実際に行くのは、19ノットを出せる「筑紫」と17ノットの砕氷船「宗谷丸」の2隻だけとなった。


「ここが日本最北の島なのか?」

 正確にはその北の占守島が最北なのだが、まあ近い場所に居る。

 幌筵に到着し、下艦した松岡は思わず零した。

 想像していたよりも暖かい。

 北緯50度に位置するこの島は、実は以前からそれ程寒くは無かった。

「海軍の資料によると、2月の最高気温は6.7℃だそうです」

「それは例外的に温かった日でしょ?

 今日はそれなのか?」

「さあ……?

 小生に言われましても……」

 松岡の助手としてつけられた男は、データ検索は得意だが、考察は苦手なようだ。


「海の近くはそれ程寒くないものです。

 特に暖流が流れる海はね。

 欧州なんかは北緯50度といっても、随分暖かいものですよ」

 宇多博士が話し掛けて来た。

 松岡と宇多は、壮行会で出会っているから初対面ではない。

 船旅中は、何もする事が無く船室で船酔いしていた松岡に対し、航行中でも何やら観測をしていた宇多が話す事は無かった。

 給油と食糧積み込みの為、幌筵島に寄港し、船員以外は下船が許可される。

 そこでたまたま気温について話している松岡に、宇多が語りかけたのであった。


「北緯50度と言いますと、世界ではどの辺ですか?」

「コーンウォール、ルクセンブルク、フランクフルト、プラハ……こんなとこかな」

「なるほど、余り寒いという感じがしませんね」

「ところが内陸になるとバイカル湖やハバロフスク、満州の興安省といった場所になる」

「……寒そうですね」

「海という比熱の大きいものの近くというのは大きいよ。

 特に暖流が流れる海は。

 その暖流が日本では強くなり、欧州では止まってしまった」

「なるほど」

「元々日本近海には黒潮が流れていました。

 それが強くなったと言っても、大きな影響は出ないでしょう。

 あくまでもヨーロッパと比べれば、ですが」

「ヨーロッパはどうなるのでしょうか?」

 松岡は科学者ではない。

 商工系の官僚である。

 彼の頭は、気候の変動そのものより、それがどういう影響を与え、資源や流通の行方がどうなるのか、そちらの方に興味がいっている。

 宇多は逆に、科学系に比重が高い。

 だが、話している相手が商工系の官僚で、科学者がウケるような話題とは違うものに関心があるくらいは分かる。

 彼も官僚ではあるのだから。


「今まで欧州は、暖かいメキシコ湾流の影響で、先程言ったように北緯50度、60度でもそれなりの温かい土地で居られました。

 農作物もその温度で穫れるものになっています。

 ところがそれが完全に無くなりました。

 それどころか、この黒潮がぐるっと北極海を周り、冷やされて、それが流れ下ります」

「え?

 という事は?」

「今欧州では、とんでもない寒冷化が起きています。

 私の予想では、日本は平均気温で3から5℃上昇するでしょう。

 しかしヨーロッパでは平均気温で10℃近く下がります」

「はあ、そんな程度ですか……」


 どうも松岡は地球物理学が分からない。

 平均5℃上がると、夏が30℃から35℃に上がると確かに辛いが、冬が氷点下5℃から0℃になるなら過ごしやすくなるのではないか、という認識である。

 ヨーロッパの平均10℃下がるのは、30℃の気温が20℃になるから、農作物が不作にはなるが、それでも何とかなるのではないか、と漠然と考えている。

 横で聞いていて、大声を上げたのは農業・林業・水産業系の官僚である。

 松岡のサポート役で、温暖になるなら南樺太や択捉島、国後島でも農業が出来るようにならないかを調査する担当である。


「松岡さん、分かりませんか?

 温度が10℃も違ったら農作物は壊滅しますよ!

 日本の5℃だって、米が駄目になる可能性があります」

「そんなものかね?」

「そうですよ!

 もっと気に止めて下さい」


 宇多は頭を掻く。

「まあ、今のは仮説だから、その通りには捉えんで下さい。

 実際のところはどうなのかを調べに来たのですから」

 ふうっと息を吐く一次産業系の官僚。

 宇多はまとも首を振って語った。

「出た数字はまだ真に受けなくても良いですが、覚えておいて欲しい事があります。

 平均っていう言葉に誤魔化されないで下さい。

 両方同じ日数だと仮定して、

 夏が30℃から35℃に上がり、冬が0℃から5℃に上がるものと、

 夏が30℃から40℃に上がり、冬が0℃のまま変わらないのは、

 両方同じ平均気温5℃上昇なのですよ」

 松岡は最初

(何を当たり前の事を)

 と思ったが、よく考えてみるととんでもない数字だ

「夏が40℃だって?」

 東京はとんでもない事になる。

……という事は、ヨーロッパは??

 夏の気温が30℃で、冬の気温が氷点下10℃から氷点下30℃になる可能性があるという事だ。

 具体的な数字はこれからだとしても、なるほど、恐れる理由が理解出来て来た。


「教授、その事を欧州は知っているのですか?」

「これから会うエクマン教授は、昭和十五年にはその事について警告を発していました。

 イギリス以外、まともに取り合わなかったそうです」

「イギリスも寒冷化しているのでしょうか?」

「寒冷化しているが、そこはほら、イギリスも島国で海の影響を受けています。

 内陸よりは相当マシなようです」

 メキシコ湾流から北大西洋海流のように、ダイレクトに上がって来る暖流は無い。

 しかし日本近海で、寒流である親潮とぶつかった黒潮の一部が、そのままアリューシャン列島の方を西から東に流れ、イギリス近海まで達すると予想される。

 黒潮の勢いが強くなった為、潮目は根室沖からこの千島列島沖に上がっている為、丁度今居る辺りがイギリスを温める海流の上流に当たる。

 メキシコ湾流からのそれに比べ、低温ではあるが、まだしも暖流と言えるだろう。

「ですが、イギリスの農業はどうなったのでしょう?

 情報を集めると、イギリス連邦の商船が随分活発に動き回り、大量の農作物を購入していると聞きます。

 我が国でも、台湾米の輸出量が増え、商工省では嬉しい悲鳴を上げていたようですが……」

「流石は流通関係の専門家ですね。

 私も農業は専門ではないのですが、イギリスの農業は大凶作になったと聞いています。

 私の専門の水産で言うなら、イギリスにはドッガーバンクという好漁場がありましたが、そこが不漁となったそうです。

 好漁場はスペイン沖まで下がったそうです」


 東京で話を聞いていた時には実感出来なかった。

 日本の北の果て、幌筵島に来てやっと、海流が地球の気候にどのような影響を与えているかを実感出来た。

(これは、北極海航路がどうとかいう問題じゃ済まないかもしれない)


 自分がスケールの大きい問題の中に入っていると、ようやく気付いた松岡である。

 しかし、幌筵島はまだ入り口に過ぎない。

 ここは単なる日本における最終補給地。

 これから行く先が本番であった。

次は21時に更新します。

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