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台風対大日本帝国

ゾルゲ事件前から、日本ではマルクス主義者は活動困難となっていた。

彼等は人員拡充の南満州鉄道調査部(満鉄調査部)に就職する。

この満鉄調査部は、当時最高のシンクタンクだったかもしれない。

一方で左翼からの転向者が多く、憲兵隊からはマークされていた。

昭和十六年十一月、ついに満鉄調査部から花房森・佐藤晴生などが共産主義運動の嫌疑で逮捕される。

日本は彼等を使った気候変動対策をせずに、逆に弾圧していくのだった。

 時を遡る。

 昭和十六年(1941年)二月、この時期には珍しい台風が台湾南部を直撃し、多数の死傷者を出した。

 三月にも台風が発生し、日本占領下の上海で洪水を起こす。

 五月、今度は台風が沖縄を直撃。

 先島諸島に甚大な被害を出す。

 この前兆に対し、東京は鈍感だった。

 外地の話、南国の話、そういう意識である。


 六月から七月にかけて梅雨を迎えた日本は、各地で土砂災害に見舞われる。

 これも東京は鈍感だった。

 昭和十三年(1938年)に阪神大水害という、梅雨前線がもたらした豪雨で六甲山の各所で山腹が崩壊したり、神戸を中心に大きな被害を出した。

 この年は関東各地でも大雨による堤防決壊・氾濫で被害を出し、徳島県では那賀川が決壊した。

 要は変な意味で災害慣れしてしまい、この年の豪雨も「またか」程度で流していた。

 異常な寒冷化の前兆に気づかず「またか」で済ませたソ連を決して笑えない。


 やがて日本は真夏を迎える。

 暑い。

 暑過ぎる。

 殺す気か??


 実際に死人が出た。

 軍事調練で走っていた新兵がバタバタと死んだ。

「苦しい時に水を飲むと根性が身につかない」

 そういう精神論以外に

「手負いの兵が欲しがるからと言って水を飲ませると、血が止まらなくなる」

「汗で大量に水を失った身体で、急に水を大量に飲むと心臓に負担を与える」

「医学先進国ドイツでも、水は一日に1~2リットル以上飲んではならないとされている」

 という理由があって、兵士たちは炎天下水を飲まずに調練を続け、死んだ。


 この時期にはその用語が「ゲリラ豪雨」が発生する。

 足柄川水系の某所で、若者たちがキャムプという遊びをしていた。

 この時期のキャンプ(キャムプ)は本質的には良い事として、

「百姓が育てた野菜を勝手に持っていってはいけない」

「飯盒片手にパンツ一丁で練り歩いくは如何なものか」

「怒声を発し、大声で歌い騒ぐ、まったく自然に対する冒涜だ」

 と批判される者が多かった。


「おめえたち、そんな中州に居ちゃいけねえよ」

「うるせえ、馬鹿! ぶっ殺すぞ!」

「入道雲が出た時は川から離れるもんだ」

「邪魔すんじゃねえよ、殺されてえのか!」

「はいそこの若者! 直ちに避難しなさい!」

「はいはい、避難しますよ(終わる時にな)」

 地元の者や警察の忠告も無視した若者は、僅かな時間で急激に増水した川の中に取り残され、流されていった。


『無謀ナ若者ノ川流レ』

 と新聞は批判的に報じる。

 キャムパー批判に囚われ、誰も「急激な豪雨の異常」に気づいていない。


 そして日本ではゾルゲ事件が起こる。

 新聞報道はされていない。

 丁度この頃、日本を覆っていた小笠原気団が南下、台風の通り道が開いてしまう。

 この気圧の回廊を通り、台風が連打連打と襲い掛かる。


 九月前半の台風は、九州から中国地方を走破し、日本海に抜けた。

 死者・行方不明者合わせて三千人以上。

 その傷を癒す時間的余裕も無いまま、半月後にまたほぼ同じ進路を取る台風が直撃。

 再び多数の死者・行方不明者を出す。

 十月に入ると、台風は中部地方を襲う。

 日本上陸時点で891ミリバールという強力な台風は、伊勢湾から上陸し、揖斐川・木曽川・長良川を氾濫させる。

 水害・土砂災害により六千人以上の死者・行方不明者を出す。

 それからもしばらく台風は来たが、上陸はせずに太平洋に逸れたりした。

 本命は十一月になってやって来た。

 茨城県から福島、宮城、岩手と太平洋沿岸を縦走した台風は、北海道にも上陸する。

 台風への備えの薄い北海道では、船舶が沈んだり、土砂災害で甚大な被害を出した。

 東北地方の被害も甚大である。

 この年、米は豊作で刈り入れも済んでいた事は救いだった。

 そうでなければ、また東北を飢饉が襲った事だろう。

……ただし、青森のリンゴは落ちまくった。


 台風は、季節風の強さからか、長く留まらずに列島を駆け抜けて行った。

 だが、初夏からの雨の多さで地盤が緩んでいた事と、台風の強烈な風雨で各地で土砂災害が発生、交通が寸断される。

 この時期の日本の交通インフラの貧弱さから、孤立する集落が多数出来てしまう。


 天皇は近衛総理を召し出し、対策について下問する。

 天皇は科学者でもある。

 気象については専門外だが、それでも何かを感じていたようだ。

 普段になく、強く総理に対策を求める。

 しかしこの時期近衛は、自身の側近がゾルゲ事件の重要人物・尾崎秀美であった事で苦境に立たされていた。

 彼の政策研究団体だった昭和研究会にも疑いの目が持たれている。

 解散も秒読みであった。

 こういった事で憔悴し切っていた近衛は、天皇の国民救済の諮問に対し、要領を得ない事を言い続ける。

 一言「お任せ下さい」と言えば良いのに、小声で言い訳を呟くだけである。

 或いは「立憲国家なのです、陛下は口を挟まれますな」と言っても良い。

 近衛は中途半端に気候変動の情報を持っていただけに、自分に任せろと言いきれない。

 そして上記のブレーン壊滅もあり、心ここに在らざるような感じだ。

 天皇は割と短気である。

 自身の短気が、かつて田中義一総理を死に追いやったとし、以降自制するようになっただけだ。

 この時、近衛の曖昧さについ

「帝国国民の一大事であるに、お前では荷が重いのか?」

 そう言ってしまった。

 発した直後にこの発言を後悔するものの、出た言葉は元に戻らない。

 近衛は即日辞表を提出した。



 やってはいけない時期に総理大臣の空白を発生させてしまう。

 慰留の声も掛かったのに、政権を放棄して謹慎してしまった。

 仕方が無い、即座に総理を立てなければ。

 次期総理は東久邇宮の方向で調整されていた。

 だが、皇族を総理にする事に内大臣・木戸幸一らが反対する。


「卿たちには国民の危急が分からぬか?」

 天皇陛下の怒気が相当含まれたこの発言で、一転して東久邇臨時内閣が決まった。

 そして誕生の経緯から、天皇の顔色を一々窺う内閣となってしまう。

 天皇はそれを望んでいない。

 一々忖度する癖に、「立憲政治なのだから政府がしっかりせよ」という意向だけは忖度しない。

 だが、最初の時期はそれが功を奏した。


「陸海軍は被災地復興に尽力せよ。

 兵舎を作る技術をもって仮設住宅を作り、工兵は堤防決壊個所の修復を行え」

「被災した県に臨時予算の政府出動を行う。

 また被災者には皇室予算から見舞金を出す」

「行幸を行う。

 ただし被災者に負担をかけぬよう、供回りは少数とし、県による接待は不可とする」

 次々と天皇の意向が形となる。


 一見良い政治であった。

 しかし、万人が納得する政治などは存在しない。

 大日本帝国は貧乏な国であり、予算は限られている。

 その予算の相当な規模を軍事費に割いて、大国である事を維持していた。

 その予算が被災地復興に振り向けられる。


 陸軍はまだ良かった。

 確かに中国戦線の軍は、作戦にストップが掛けられ、補給物資の調達も停止して不満を持った。

 しかし本土において甚大な災害が起きたという事で、兵士たちが復興優先を支持する。

 なにせ、兵士たちは一般市民からの徴兵で来ているのだから。

 そして、陸軍兵士たちは天皇直々の

「自らの郷里と思い、自らの父母と思って、被災地の民の為に働け。

 これを雑事と侮る事勿れ。

 天災に対する戦争と思い、一心不乱に励むように」

 という言葉を賜って、感動して泣き出す者が多発する有り様だった。

 参謀本部で戦争遂行しか頭に無い面々も、兵士が災害復興を望む事から黙り込むしか無い。

 また、東條陸相が参謀本部を宥めてもいた。

 天皇に対して絶対忠誠の彼は、その代理者(エージェント)として東久邇臨時内閣の実質的な指導者となる。


 だが海軍は不満たらたらだった。

 九月の台風で呉基地に甚大な被害を受け、その修復中である。

 古い設計の軍艦には転覆したり、浸水したりしたものがあり、その修理もしている。

 それだけではなく、昨年のアメリカ消滅に伴う津波で横須賀が甚大な被害を受けた上に、海水面の低下で自慢の乾ドックが使えなくなった。

 機能回復の為の工事をしなければならず、その為の予算を確保したい。

 しかし却下された。

 不満が残る。

 そんな中で他人の救済だ?

 軍艦と軍港を整えずして、一体どうして戦争が出来ようか!?


 さらに災害復興に回す予算が増えた事で、金食い虫の海軍予算を削らざるを得なかった。

 井上成美という海軍軍人は

「アメリカという仮想敵国は消えた。

 次の仮想敵国がイギリスだとしても、遠いし、アメリカのような脅威は無い。

 大体、我が海軍は背腹に米英両方の脅威を受けて戦えるように編制されたものだ。

 片方のアメリカが無くなった以上、今のような過剰な装備は不要である。

 良い機会だから、自主的に軍備を減らしたらどうだ?」

 と言ったものだが、彼はごく少数派、かつ嫌われ者である。

 軍縮を巡って井上と共同戦線を張った当時の海軍次官、現在は連合艦隊司令長官をしている山本五十六ですら

「自分自身の考えは兎も角として、連合艦隊司令長官の立場では、補充・補修を受けられないというのは納得出来ない」

 と言って、臨時内閣の予算削減に反対している。

 井上に理解を示すのは、既に予備役となった米内光政、堀悌吉といった者だけだった。


 ただ、山本五十六は立場上反対を表明しながらも、輸送船どころか軍艦まで使用して多くの物資を運搬させたりと、臨時内閣に協力的であった。

「昭和十三年の事だけど、アメリカのある都市で電力不足が起きた。

 その時、空母『レキシントン』が、その発電力を使って町に電気を送ったんだ。

 アメリカ合衆国は消えて無くなったけど、その故事を見習って、アメリカって国が在ったって記憶を残そう」

 とか言って、空母を派遣する。

 ただし、蒸気タービンによって発電を行い、その電力でモーターを動かしてスクリュー推進するターボ・エレクトリック方式の「レキシントン」と違って、日本の空母にそんな発電性能は無い。

 艦載機を全て下し、巨大な格納庫を活かした輸送船としての使用であった。

「自分たちはこんな事をする為に厳しい訓練をして来たのではない……」

 と泣く士官もいたくらいで、エリート集団である海軍軍人の意識はズレている部分がある。


 まだ暫く時間は掛かるが、官民軍一体となった復興支援で、大雨や台風の傷跡は塞がれていく。

……一部の軍人の不満を内蔵したままで……。

次回は三連休という事もあり、15時、18時、21時、24時の4話更新とします。

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[気になる点] 昭和天皇が近衛文麿に自裁を命じなかったところ。 戦後と違ってずっと短気で血の気が多い上に、大災害の直撃を受けた国民の艱難辛苦を目の当たりにして史実以上にブチ切れているであろう昭和天皇が…
[良い点]  読者はこの世界に気候変動要素ONになっているのを分かっていますが、日本の上層部が国家運営やそのシミュレーションにどう気候変動要素を組み込むのか牛歩であるのがもどかしくてそれがとてもいいな…
[良い点] 堀悌吉さんの名前が挙がる架空戦記を読むことができて嬉しい
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