日本はこれから一体何と戦うのか?
独ソ戦を終えたソ連では、欧州方面に移動させていた極東の兵力を元に戻しつつあった。
しかし、一度はドイツによってモスクワまで攻撃されてしまった為、シベリア鉄道はまだ全力を出せる状態ではない。
更に部下から「まだ飢餓なんて起きていない」と言われているが、ウクライナ穀倉地帯の早晩の壊滅が明らかな以上、農民を含めて極東に軸足を移す必要がある。
沿海州や東シベリアは気候変動の結果、温暖化を始めていた。
こうした人の移動、物資の移動でシベリア鉄道は混雑している。
スターリンはモロトフやジューコフらと相談し、一つの方針を決めた。
「準備が整うまでは日本に攻めさせないよう、如何なる手段でも取るべきである」
今後の日本の方針を決める会議を前に、様々な情報を持つ者が意見を言い合う事前会合が開かれている。
これまでにイギリスと関係が深い松岡成十郎商工次官が、対英依存を深め過ぎると危険と説く。
一方ドイツを深く知る秋丸次朗中佐が、ドイツ必敗と経済崩壊を予言していた。
そしてソ連と関係が深い外務省を代表し、東郷茂徳外相が意見を言う。
「ソ連だが、中立条約によって非戦は維持されている。
少なくとも2年は問題無いでしょう。
ソ連との戦争があるものと、これを前提にしないで頂きたい」
日本には大きな方針として、北進と南進とがある。
この方針が注目されたのは、北米大陸が消滅する前であった。
ソ連と戦うべく満州から蒙古へと防衛線を上げていくか?
資源を得るべく米英仏蘭の植民地がある南方へ進出するか?
北進論は、ノモンハン事件の敗北で声が小さくなった。
南進が方針として採用されるところだったが、北米大陸消滅でこれも意味が無くなる。
アメリカ合衆国主体の経済制裁で、資源が得られなくなったからこそ南方資源地帯を目指したのだ。
アメリカ合衆国が消滅した後、イギリスは太平洋側の日本の協力を得るべく、禁輸措置を取り止めた。
資源が問題なく輸入出来るようになった今、特に陸軍は情報の少ない南方に行きたくない。
陸軍は軍服一つを見ても、南方作戦の準備が全く出来ていないのだ。
南方作戦、というか対米戦を考えていたのは海軍である。
その仮想敵国、もしかしたら本当に戦火を交えるかもしれなかったアメリカ合衆国が消えてなくなる。
海軍は敵を見失う。
それが「アメリカ合衆国も居ない以上、現在の艦隊規模は過剰である」として軍縮をしようとした山本五十六らの意見を生み、反発した者による五・二六事件が計画された事に繋がる。
起きてしまえば大恥であったのだが、海軍は上手く水面下での処理に成功する。
その結果、海軍は冷静さを保っている。
冷静な思考ならば、山本五十六や井上成美の意見は過激ではあっても、方針としては合っていると理解出来る。
あえて戦争をする必要も無い。
そうなると軍の存在意義証明の為には、再び北進論が着目される。
それに先手を打って、ソ連とも戦う必要が無いと言って来たのが外務省だった。
「ソ連は東シベリアや沿海州に兵を集めておるが、それは元々そこに居た部隊を戻したまで。
モスクワの佐藤尚武大使がソ連のモロトフ外相と会談し、我が国に対し他意は無いと言質を取っております。
我々には日ソ中立条約を破る気は全くない、という事でした」
外務省からこう言われてしまうと、北進論もどうかとなってしまう。
こうして現時点で、明確に対立する敵が居ない状態で、観念論だけで国の方針をどうするかという話に流れてしまった。
そして結局、何も決まる事はなく、今後の国際情勢の変化を眺め、高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応するという事で何となく落ち着いてしまった。
省に戻った松岡は、上司の岸と反省会を行う。
「まあ飲みたまえ。
君も下戸ではないだろう?」
「はい、人並み程度です。
しかし岸さん、随分と良い酒ですね」
「うん、僕は岸家に養子に出されたんだけど、生家の佐藤家は酒造をしておってネ。
たまにこういう酒を、弟経由で送ってくるんですヨ」
「弟さん?」
「弟も部署は全然違うが官吏をしています。
僕は大臣だから、生家といえど付け届けは良く思われないんですが、兄弟で飲む分には良いでしょうヨ」
ちなみに岸の弟こと佐藤栄作は鉄道省に入省し、全国の鉄道・バス会社の整理統合に尽力していた。
その事を岸が言うと松岡は
「ですが、私が担当している異常気象への対応は鉄道も関係するのですが、会った事がありませんよ」
と首を傾げる。
それもその筈、佐藤栄作は地方の鉄道インフラに関わる事なく、東京地下鉄道、東京高速鉄道を統合して営団地下鉄に一本化させる事に専念していた。
これに先立ち、東京地下鉄道の経営権を巡って創立者の早川徳次と東京急行の五島慶太が争っていた。
企業買収で東急を拡大させていた五島は、株式の取得で優位に立って早川を社長の座から追い落とす。
この直後に佐藤栄作が「私鉄二社の無駄な競争をやめさせ、営団に一本化すべき」として、国と東京による公営としてしまった。
この買収を仕掛けた五島が運輸通信大臣に就任した後に、佐藤は大阪鉄道局長として東京を離れる。
これによって松岡は岸の弟で鉄道官僚の佐藤とはまだ会えていなかった。
「どこも争いばかりですね」
酒が入ったせいか、松岡は軽くボヤきが入ってしまった。
「まあ、そんなモンですよネ。
そういうのを統制する為に、我々のような者がおるんですがナ」
岸の何気ない返事に、松岡の何かのスイッチが入った。
「そうですね。
我々が統制すれば良いのですね」
「そうだよ、君ぃ、分かって来たじゃないかネ。
民間に余り自由にやらせるのは何かと問題が有るのだヨ。
彼等は基本的には自分の利権しか考えないからナ。
自制を彼等に求めても、そりゃ君いかんだろ。
自分で出来んって言うなら、我々がやらねばならんのサ。
自由競争が行き着いた先が、先の世界大恐慌だった。
共産主義は行き過ぎだが、何らかの統制は絶対に必要だと思いますネ。
ケインズの経済学もそうですが、国が何らかの積極策を使って富を吐き出させるようにしないと、富める者は常に貯め込んでしまいます。
国が何らかの関与をするという事、この点ではケインズ経済も共産主義もドイツ・ナチス党のやり方も一緒ですネ。
野放図な資本主義は、統制経済によって上書きされるでしょうナ」
松岡は、やはり酒のせいか饒舌になった岸の高説を聞きながら、考える。
(もっと世界規模に考えてみよう。
自由経済であれ、統制経済であれ、独占状態が発生してその購買側に置かれるのは不利極まりない。
むしろ国の統制が強まれば、「持てる国」英国は資源輸出において日本に常に優越するだろう。
日本から英国に輸出出来る物は?
日本だけでない、アジア全体からでも食糧くらいだ。
あとは精々絹や繊維。
それは英国にとって、他で代替が利くから、全く武器にはならない。
だがこれから先、食糧はドイツやソ連相手になら有力な経済上の武器となる。
ドイツは同盟国だからまだ良い。
食糧を売れば、良質な機械を売ってくれる、共存共栄が成り立つ。
ソ連はどうだろう?
外務省はああ言っていたが、今一つ信用が置けないのは確かだ。
だから友誼に頼った交渉ではなく、実利でいくしかない。
ソ連は、食糧輸出によって日本が優位に立つのを嫌がるだろう。
そうなると自前で食糧を得る為に、満州や支那を奪いに来る。
この気候変動に対処せねばならん状況で、そんなのは真っ平御免だ。
そうか!
日本が英独和平を取り持ち、ソ連にも双方が得になって借りを作らない取引を持ち掛ければ万事解決するのではないか!)
松岡には天啓のように思えた。
その後も酒を飲みながら軽くお互いの理想論を語り合って、大臣室を辞した。
次官室で松岡は酔いを覚ましながら考える。
(理想論かな?
理想論だろうな。
だが、この会合では結局現状維持、今後を注視って事になって何も決まらなかった。
自分が考えたのは国の方針としては良いものではないだろうか。
まずは考えを纏めておこう)
軽くだが酔っているから、精密な思考には自信がない。
だが今、頭は物凄く良く回転している。
思いついた事を全て書き留めておこう。
そうして考えたものが、世界が一丸となって気候変動に対応する、国と国の諍いを無くするというものであった。
それには理想論だけではダメだ。
まずはソ連。
ソ連には食糧を優先的に売る。
彼等のこれからの飢餓を防ぐ。
代わりにソ連から多量の資源を買う。
日本はソ連の食糧という生命線を握る。
代わりにソ連は日本の資源という生命線を握る。
これで双方ともお互いを亡ぼし得るし、お互いから亡ぼされかねない恐怖を持ち、戦争は防げる。
ソ連から資源を買える事は、イギリスの対日優位をも覆せる。
アメリカ合衆国が消滅した今、石油はイギリス及び蘭印からの輸入が多くなっている。
生ゴムや錫やニッケルなどもそちらからとなる。
どうしても売る側が主導権を握る、経済学でいう「独占市場」状態となってしまう。
こうなると価格は売る側が自由に操作出来る。
商売上の競争が無いとこうなってしまう。
故に、イギリスやその影響圏以外からの輸入と、多角化した方が良い。
そうなるとイギリスも、対日で石油を武器には出来なくなるし、ソ連とイギリスとの間で競争が起こり、価格は適正な辺りに落ち着く。
イギリスの問題は、人口を南半球に移す事と、本国用の食糧を安定確保する事。
それにはドイツとの戦争は迷惑。
ドイツは食糧をとにかく得たい。
食糧問題を解決する為には、二つの課題を解決しなければならないだろう。
イギリス同様食糧購入先を確保する事と、人口を海外に移す事。
資源があり農作物生産の拠点ともなる満州なら受け容れ可能だ。
更に極東にドイツ軍がいれば、ソ連の野心も砕けるかもしれない。
「人類同士が戦っている場合ではない。
人類は一丸となって、地球規模の気候変動、生活環境の激変と戦わねばならない。
お互いに足りない部分を補い合い、長所を活かし合わねば多くの犠牲を出すだろう」
等等ノートに書いて纏めていった。
最後の下りは松岡も「青臭い、書生のような物言いだ」と少し恥ずかしい。
松岡は官僚であり、己の分を弁えている。
唐突にこんな理想論を示しても、非現実的、夢想家と笑われるのは分かっていた。
いつか役立つ日の為に、書いておく分には良いだろう。
次官としての仕事時間中は、ちゃんと職務に精励する。
定時が終わり残業も済ませた夜間、執務室で鉛筆を走らせる。
「中々仕事熱心ですネ。
感心しますヨ」
貴方こそこんな時間まで仕事していたのか、とツッコミたい気分を抑え、松岡は上司に
「いえ、仕事なんて言えません。
ただ自分の思いつきを記帳に纏めていただけです」
と答えた。
「ふむ、ちょっと見せて貰いたいが、よろしいですかネ?」
岸はそう言ってノートを見る。
先日の酔っての理想論の語り合いもあって、松岡は快く応じた。
読み進めて岸は一言
「これ、一体全体何なのですカ?」
と聞いて来た。
醒めている時の岸は、理想よりも現実を見ていてノリが違う為に、このノートに書かれているものが一体何なのか分からないようであった。
おまけ:
大学生の深夜トークであるある話。
酔ったり深夜テンションで凄いアイディアが出て来る。
それを覚えていた者が、文章にしてみて、アイディアを授けた者に意見を聞いてみる。
すると、鳩が豆鉄砲を食ったような表情でこう言う。
「俺、こんな事言った?
覚えてねえなあ……」
次は20時に投下します。




