イギリスの判断ミス
統治が極めて上手くいっている蘭印と違い、馬来では問題が起きていた。
昭南を落とし、この方面のイギリス軍を撃破したのは山下奉文将軍の第25軍であった。
東條英機の政敵でもある山下将軍には、五・二六事件での独断専行で参謀本部を追われた辻政信が参謀として付けられていた。
その辻がやらかす。
「華僑を虐殺したと聞いたが?」
「虐殺?
何の事です?
敵の間諜、英国への物資・資金協力者、及びその疑いがある者を処刑したまでですぞ」
「その『疑いがある者』を、貴官は拡大解釈しとらんか?」
「ここは戦場ですぞ。
一々正しいか見極めていては手遅れになりかねません。
疑わしきは斬る、が肝要ですな」
合ってるんだか、間違ってるんだか……。
英ソの裏での協力は、イギリスの情報網の強化に繋がっていた。
日本国内の共産主義シンパによる無自覚諜報活動で、日本の動向がソ連経由でイギリスに入って来ている。
中には軍の動向に関わる情報もある。
かつてゾルゲが構築したスパイ網は壊滅したが、日本の本質は変わっていない。
ちょっと有能な人が居れば、簡単に敵対的スパイ網が作れてしまうのだ。
そして、それに関わる日本人は政府や軍関係者だったりして、彼等の積極的な姿勢と相まって重要な情報が頻繁に漏れていた。
内務省から特高警察の命令権を奪った形の岸信介軍需大臣だが、流石に特高の部下から
「重要情報が漏れている可能性がある」
という報告を受け、捜査の許可を出している。
しかし、岸の経済政策上の同志に無自覚な諜報員が居るし、そもそも岸の統制経済そのものが共産主義一歩手前で自分たちに危険が及びかねない。
更に統制経済の為、かつての企画院の仲間を呼び戻す為に特高幹部を粛清した岸は、共産主義者摘発の操作が自分への報復となって返って来ないかを疑ってもいた。
上がそんなだから、共産主義者の捜査は進まない。
そして、この質の高い情報がかえってイギリスを混乱させる。
東南アジア各地の華僑も使った情報活動で、イギリスは
・日本の強力な巡洋艦部隊と空母機動部隊がシンガポールを基地とした
・日本は艦隊を新たに新設し、オーストラリア方面を担当させている
・ラバウルには大軍を迎え入れる為の準備が進められている
・中国戦線でも日本軍は攻勢に出ている
・ラングーンに日本の大軍が集結している
・ビルマ北部に日本軍の偵察部隊が頻繫に出没している
といった情報を入手していた。
更に日本の最高権力者(の筈)天皇の根源的な感情として
「イギリスとの戦争を本心からは望んでいない。
可能な限り早期戦争終結を望んでいる」
といったものすら入手していた。
「日本の天皇ヒロヒトは、我が国王と親しい。
恐らく彼は戦争をする気は無かったのだろう。
だが、第一次世界大戦の時のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、戦争を望んでいなかったという。
にも関わらず、軍に引きずられるように戦争は起こった。
君主が顧みられる事はなく、誰にもどうする事も出来ないまま戦争に入ったのだろう」
イギリスはこれに関しては、極めて正確な分析を行っている。
更に在野の思想家による煽動と、政府の判断は別物であった事。
国民感情に引きずられて、軍が過激になっていき、政府も仕方なく開戦に踏み切った事。
「である以上、日本は我が国との戦争が長期化する事を望んでいない。
長期化して戦える国力も無いしな。
彼等の目的は、我が連合王国をアジアから追い出す事と、戦争から脱落させる事だ」
ここから判断が狂ってくる。
確かに戦争長期化なんて望んでいないし、アジアからイギリスを追い出せという野の意見も強い。
しかし、だから日本政府が方針としてそう実行しているかというと違う。
政府には定見が無い。
事態に流されてここまで来てしまい、ドイツが言った「インドを攻めればイギリスは降伏する」という事に縋っているに過ぎない。
主体的に動いていなく、事態に振り回された結果、資源地帯と本国とを結ぶ航路の安全の為にニューギニア侵攻を考えたのであり、戦争を終わらせようという積極的な思考からこの方面に軍を進めたのではないのだ。
「新たに動員された兵力は10万人程だと言う。
これは物資を運ぶ船舶の徴用の数値からも妥当な数だ。
そして、これでオーストラリアを占領するには少な過ぎる」
「ラングーンに兵力が集まっているのが確かだ。
目的はビルマ北方、我々が蔣介石を支援しているルート遮断だろう。
日本は我々を倒すまでの戦いをする気は無いが、蔣介石は何としても倒したいのだろう。
一度和平を結んでおいて、再度蜂起したのだから、我々が日本でも潰そうと考える」
「だが、蔣介石の為に我々が血を流す必要まではない。
中国人に頑張って貰おう。
武器だけは気前よく渡してやれ。
あと、我々の教育を受けさせる軍人も増やすのだ。
今の中国軍の戦術では、百年経っても日本には勝てないだろう」
日本陸軍の基本戦闘法は、第一次世界大戦後期のものである。
ドイツ流の浸透戦術といったものを駆使し、歩兵の優秀さを活かして後方に浸透し、後方を混乱させる。
その後、ドイツと違って、兎に角なりふり構わず逃げてしまう敵に対処する為、何が何でも包囲にいく癖がある。
敵対勢力の特性と、地理に合った戦術ではあるが、歩兵でなく戦車や航空機の方に速度を合わせた第二次世界大戦式戦術の国と戦うと勝てないだろう。
その日本陸軍と対する蔣介石軍だが、基本的に第一次世界大戦前期型の戦術、塹壕戦から進歩していないのだ。
人数だけはいる、練度は低い、戦車や航空機の質・量ともに足りていない為、穴掘って「そこを守れ」というのが身の程に合った戦い方なのだ。
細かい事を命じても、兵も下士官も対応出来ない。
だからイギリスは、蔣介石と再度手を組んだ時にビルマに蔣介石軍の将校を、部隊ごと招待した。
そこでイギリス式の軍に鍛え直すのである。
訓練を始めてからの期間が短く、十分に戦闘可能であるとはお世辞にも言えないが、現場で学んで貰おう。
「兵は送れないが、指導教官は送ってやろう。
中国軍を戦えるレベルにするまで指導、場合によっては彼等に指揮をして貰う。
半分捨て石のようなもので、貧乏くじを引かせてしまうが、やって貰う。
無事に帰って来たら、十分に称えられるようにしよう」
かくしてイギリスは
・引き続き東南アジア海域及びベンガル湾での潜水艦による通商破壊
・オーストラリアは戦力増強、ただしこちらからの攻撃はしない
・インドは防衛戦
・中国には士官の派遣と武器支援のみ
・ボンベイも危うい場合、東洋艦隊はアフリカまで撤退
という後退戦略に徹する事とした。
決戦で戦争を終わらせたい日本に、決して応じてはならない。
退くだけ退いて、深入りさせて、物資消耗を強いるのだ。
時が来ればソ連が参戦する。
彼等の都合からしても、参戦せざるを得ないだろう。
あくまでもイギリスの戦争における本命は、対ドイツ戦である。
そこを見誤らないようにする。
東洋での戦争は、無理をして本命に負担を掛けるような事があってはならない。
イギリスはオーストラリア防衛を第一に考えている。
攻めて来たら、オーストラリアの内陸で戦え、と。
まだ日本海軍が珊瑚海やタスマン海を脅かす前に、戦車も多数オーストラリアに送っている。
ドイツとの戦争では全く役に立たなかったが、対日戦なら十分だろう。
こうしたオーストラリア本土の戦力増強と決めてしまった為、オーストラリア軍の度重なる意見具申は無視をし続ける。
オーストラリア軍は
「日本の狙いはオーストラリア侵攻でも、この地での決戦でも無い。
ニューギニアとソロモン海だ。
インドネシアからソロモン海までを抑えて、潜水艦による通商破壊を封じるのが目的である。
そうさせない為にも、ニューギニアで日本軍を迎え撃つべきだ」
総督府を通じて本国に訴えるが、本国は
「ニューギニア等くれてやれ。
潜水艦の進出を抑える事など、日本軍には出来ないだろう。
日本に釣られてはならない。
オーストラリア本土を防衛し、決してニューギニアに打って出てはならない」
この返事以外はして来ない。
イギリスの判断は、大筋においては合っている。
日本は戦線拡大によって、消耗を早めるだろう。
ヨーロッパ戦線に影響を与えないよう、対日戦は消極的で良い。
それと、日本海軍の対潜哨戒能力は極めて低い。
潜水艦を見つけても、ヘッジホッグのような新型の対潜兵器は持っていない。
広大なオーストラリア北方の海域を、潜水艦が出て来られないよう封鎖する等、彼等には出来ない。
こうした判断から、ポートモレスビーはあっさり日本軍に落とされてしまう。
日本軍は海からポートモレスビーを攻めた。
日本の制海権がニューギニア北部にしか及んでいなければ、日本軍は高さ4,000メートル級のオーウェンスタンレー山脈を越える侵攻ルートを採るしか無かっただろう。
しかし、日本軍の目から見て、イギリス・オーストラリアの動きは消極的に過ぎる。
そこで第八艦隊は賭けに出た。
第一航空艦隊に頼んで、第五航空戦隊(空母「翔鶴」「瑞鶴」)を臨時に指揮下に入れる。
この空母機動部隊を使って、オーストラリアの軍港ポートダーウィンを空襲した。
イギリスは、主力の水上艦艇は日本からの攻撃を警戒し、ブリスベン及びシドニー湾の海軍基地に置いていたが、オーストラリア侵攻がもし有った場合に備えて航空戦力と小型艦艇は北部地域に置いていた。
この部隊が空襲を受けて壊滅する。
オーストラリアを圧迫し、イギリス軍を釣り出す為のニューギニア攻略というイギリスの読みは間違いである。
本命がニューギニア攻略で、オーストラリアはその障害であった。
だから、釣り出す為の示威行動と油断していたオーストラリア軍は、無警戒のまま日本の空襲を受ける。
彼等からしたら、順番が逆であった。
ニューギニアを攻撃してオーストラリア軍を釣り出すのではない、ニューギニアを攻める為にまずオーストラリア軍を叩いておくのだ。
日本軍の情報を報告しておきながら、本国から
「釣り出す為の罠だから、絶対に動くな」
と言われていたオーストラリア軍司令部は
「そら、見た事か!」
と文句を口にするが、言ったところで始まらない。
何より痛いのは、通商破壊の為に出撃準備中だった潜水艦を数隻失い、また港湾が破壊された事でしばらくは潜水艦基地として使用出来なくなった事だ。
第八艦隊(第五航戦込み)はダーウィンを皮切り、メルヴィル島、ホーン島、モスマン、ケアンズ、タウンズビルと空襲、或いは艦砲射撃を行い、オーストラリアを混乱に陥れる。
一連の攻撃の戦果報告から
「この方面に有力な英艦隊は存在しない」
と判断する。
この報告から、ニューギニア東部のラエ、サラモアを占領していた日本軍は、山脈を越えずともそのまま輸送船でニューギニア南部まで移動し、そこからポートモレスビーを攻められると判断。
第八艦隊の護衛の元、敵の存在しない海を日本陸軍は進行。
掃海の後、付近の湾から上陸した百武中将率いる日本軍第17軍は、少数の守備兵力しか居ないポートモレスビーをあっさりと落とした。
そしてこの地を拠点に、オーストラリアを牽制する。
もっとも、軍事上は成功であっても、大局的には成功であったかどうか。
想定の範囲を超えている熱帯の巨大な島まで広げた戦線は、やはり日本に負担を強いる。
そしてオーストラリアでは、西オーストラリアにあるパースと、その沖合ガーデン島の海軍基地が無視されている事に安堵するのであった。
おまけ:
新合衆国は現在、政府代表というものが存在していない。
フィリピンの知事、ハワイの知事、キューバの知事が極端に離れ過ぎたこの国の領土を、ほぼ独立採算制で統治していた。
これまで準州だったり、形式上の独立国だったり、独立準備政府だったりしたものが、全て新合衆国の構成地域として「州」とされた。
この3州と、形式上残されたアラスカ準州とで新合衆国となるのだが、ここの国家の代表は国民選挙も行っていないし、まだ存在していない。
3州知事の持ち回りで国の代表という事になっているが、事実上この運用を保証し、意思決定に大きな影響力を持つマッカーサー元帥が国の事実上の代表であった。
そのマッカーサーは、フィリピンのコレヒドール島に籠って戦い続けている。
名目上の現在の新合衆国代表であるハワイ州のスタインバック知事から
「ハワイに撤退した方が良い。
現にフィリピン知事もハワイに避難しているのだ」
と言われているが、マッカーサーは頑として撤退を拒否し続けている。
フィリピンは、彼の父の代からマッカーサー家の権益がある地域なのだ。
ダグラス・マッカーサーは、それ故にフィリピンに拘り続けている。
この点、あまり名将とは言えないマッカーサーであった。




