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始まりの姫と誓約の騎士  作者: 李苑
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漆黒の嵐 下


                 ○


 水塊をぶち当てられて目を覚ました。咳き込む。息苦しくて寒い。

「いつまでも寝てんじゃねえ!」

怒声とともに顔面を蹴り上げられて、冷たい床を転がる。鼻から血が垂れるが、腕が背中で固定されているらしく、どうにもできない。能力も使えないから、インタラプターで拘束されているのだろう。不自由な体を捻り、ようやくしゃがんで前を向く。かすむ目がこちらを見下す佐伯を捉え、ゆっくりとピントを合わせてゆく。

「殺さなかったのかよ」

「舐めやがって」金属バケツを投げ捨てた佐伯に胸ぐらをつかまれ、引き上げられる。「あんだけ人が集まってくれば、騎士団の制服着てるオレが人を殺せるわけねえだろ」

「そいつは運がなかったな」

「くそ」

 壁に叩きつけられ、一瞬息ができなくなった。背中をコンクリートに預けたまま、へたり込む。どうやら佐伯は自分を殺さず、中央庁まで連行したようだ。ここは中央庁の敷地内にある簡易留置所、美緒が放り込まれていたところだ。

 頭上にある鉄格子のはまった小窓からは、まだ冷たい春風とささやかな太陽光が入り込んでくる。

「佐伯、牢屋に入るのはいいけど、囚人を殴るのは倫理違反だぞ」

「倫理? 裏切り者のいうことかよ」愉快げに笑う。「丸一日と半分、おまえ寝てたんだぜ。捕まったのは一昨日。そんなボケナスは知らねえだろうから教えてやるがよ、おまえのお仲間さんは今朝処刑されたよ」

「お仲間?」理解が追いつかない。

「一昨日、おまえと百合華ちゃんが捕まえた異端者ども四人、銃殺刑で、いまごろ棺桶だろうよ」

「あの四人のことか」

 シアと美緒のことではなかったのかと安堵する一方、信じられない思いもする。

「たったの一日二日で裁判が終わるはずない」

「高村さんがやったんだよ。知ってるか、っても知らないだろうな。一昨日の夜、町の近くに大型の冥魔が出たんだ。唐突に、だよ」

佐伯の冷めた目が耀真を射る。口元だけが笑みに歪んでいる。

「こいつは町に侵入した異端者どもの仕業だ。尋問で吐いたんだぜ。自分たちがスフィアを仕掛けた。騎士団がそっちに気を取られている間に潜入して、中央庁の付近に二つ目のスフィアを仕掛けて町ごと破壊するつもりだったんだとよ。その情報が町に漏れてな、翌朝にはデモだよ。町中一緒になって中央庁に押し寄せてきやがった。このままじゃ暴徒化しちまうってんで、高村さんが一昨日捕まえた異端者を始末してガス抜きをしたんだ」

「終わったな」

「あ?」と舌を巻いた佐伯が見下してくる。

「法治国家なら法治国家なりに、罪人は裁判で裁かなきゃならない。たとえ戦犯でも、テロリストでも」

 唐突に髪を引っ張られ、頭に膝打ちを喰らった耀真はのけ反って倒れた。額が割れたかもしれない。

「どの口がいってやがる、この裏切り者がっ!」佐伯は絶叫する。一転、落ち着いた口振りで続ける。「高村さんはすげえよ。どんな問題が持ち上がっても、あの人の決断力と行動力があれば解決できる。これからの世界はああいう人が作っていくんだ」

「闇だよ、そういう人間の作る世界は。わがままなお子ちゃま国家だ」

「下らねえ」佐伯はバケツを蹴り飛ばした。鉄格子に当たり、軽くても喧しく鳴る。「なにがいけない? 秩序を乱す人間を排除してなにが悪い?」

「それをいって、実行するのがおまえたちか」耀真は頭を振った。「なら、エリシオンを裏切ったのは正解だったな」

「なんだって?」

「おまえらみたいな悪魔と一緒にはいられないっていってる」

 佐伯のこめかみがぴくりと波打つ。

 起き上がりかけた耀真の頬を裏拳が撃ち抜いた。口の中が切れたらしく、吐き出した唾に赤色が混じる。それでも目の前の悪魔を睨む。

「減らず口を叩きやがって」

「口が減るかよ、バカが」

 拳を上げる佐伯を見、歯を食いしばったが、振り下ろされることはなかった。ゆっくりと佐伯の肩から力が抜けていく。

「残り短い人生だからよ、好きにいってろ」

 軽く笑った佐伯の目が一瞬光る。直後、耀真は顔面を襲った衝撃にはね飛ばされ、コンクリートの上を転がった。結局、頬を殴られたらしい。

 白黒とする意識がはっきりするころには、佐伯が壁に張りついていた。そのまま壁の中に溶けていく、と、ほどなく牢の外にその姿を現した。

「おまえが次、そこから出るのは死ぬときだぜ」

 守衛室の方へ歩いていく。どうやら守衛室から鍵を借りず、ああやって壁を液状化させて入ってきたようだ。でなければ、こういうことがないように監視する人間が同行することになっている。

 だよな、と自答して、冷たい床に寝そべった。三畳ほどの空間に水洗トイレと水道。やや狭いが疲れを取るのには充分なスペースだ。

 世界に耳を澄ませると、人の叫ぶ声が時折聞こえる。シュプレヒコールだ。佐伯はいったん収まったようなことをいっていたが、世はいまだ混沌の中にあるらしい。

 佐伯を殺しておけばよかったのだろうか。

 全身から力を抜くといくらもせずに睡魔が襲ってきた。意識が遠のきかけたそのとき、首の付け根を柔らかい布地で叩かれる。

「あた」

 何事か、と飛び起きると、枕元にぬいぐるみが転がっていた。黒いクマがうつ伏せになっている。採光用の小窓から落ちてきたようだ。

「誰かいるのか」と外に声をかけても返事はない。ぬいぐるみを拾おうにも後ろ手に拘束されていてはどうにもならない。

 とりあえず、枕にでもしてやろうか。

 倒れ込んで、床に額を思い切り打つ。思わぬ衝撃に体を縮めて身悶える。こんなはずではなかった、とぬいぐるみを探せば、地を這う視線にフェルト生地の二本足が映る。クマの足だ。ぬいぐるみの。二本の足で立っている。完璧な自立歩行をしている。

 クマは短い腕を背中に回し、そこに仕込んであった携帯端末を取り出した。腰元からタッチペンを引き抜き、流暢に操作する。と、ほどなく、端末が通話状態になった。耀真の前、床に置く。

「耀真くん、無事でいるかな?」

「ユーグさん?」端末から聞こえてきた声は間違いない。「なんなんですか、これ」

「そういう能力だ。無機物に命を与え、自由に行動させる」

「誰の?」

「それは察してくれたまえ」とユーグが笑う。「にしても、大事はなさそうだね」

「おかげさまで」乾いた血が顔面の半分を覆っているが。「どうにか生きてますよ」

「では、用件を伝えるよ」とユーグの声は柔らかくも、緊張を帯びる。「姫君と美緒ちゃん、二人は僕のマンションで保護している。しばらくはエリシオンに捕まることもないだろう」

「本当ですか?」だとしたら、それほどありがたいことはない。「話せますか?」

「ああ、話せるとも」

 いくらもせず、耀真、と女性の声が聞こえた。

「シア、シアか?」

「ええ、私よ」通話口の向こうで首肯しているのがわかる。

「よかった、よかったよ、本当に」目頭が痺れ、熱い涙がこぼれそうになる。声が震えそうなのは察せられたくはない。深く息を吸い込んだ。

「耀真は無事なの? 捕まったと聞いたけれど」

「大丈夫、俺は大丈夫だよ」

「助けに行きたいけれど、いまは私も無闇には動けないから」

「絶対に来るな。そこにいてくれ」

 少しの間があってから、シアは「うん」と頷いてくれた。「ユーグになにか考えがあるようだから、私もそれを待つわ。あなたも無理はしないように」

「うん、うん」と何度も頷く。「わかったよ」

 シアのため息が聞こえる。「あなたと誓約したのは、やはり間違いだったかもしれない。あなたを不幸にしてしまっているもの」

「そんなこといわないでくれ」息が詰まって、かすれた声しか出せない。が、力の限りを振り絞る。力んだ腕がインタラプターを軋ませる。「あのときの言葉、覚えてる?」

「あのとき……?」

「俺にはなにもないけれど、胸を張っていえることがある。世界中の人にいじめられても構わない。誰が敵だって、命を賭けて戦い続けてやる、君を守ってみせる。だから……」

「あなたは運命の人だものね」

「うん」

「あなたを信じるわ」

「ああ、必ず……、必ず、もう一度、俺が迎えに行くから」

「うん。待ってるわね」

 うん、と頷き返してから思い至った。「そう、美緒に変わってくれないか?」

「ええ、いいわよ」というのを最後に、電話口の声がシアから美緒に変わる。「どうしたんですか?」と訪ねてくる声はどことなく元気がない。

「美緒か?」

「はい、耀真さんもご無事のようで、なによりです」

「すまなかった。謝って許されることじゃないけど」

「どうしたんです、急に」

「美緒の仲間、あの四人を捕まえたのは俺だから」

 あ、とこぼした美緒は察したらしい。今朝処刑された四人を捕まえたのは百合華と耀真だ。

「本当に、悪かったと思ってる」

「仕方ないですよ。耀真さんたちの仕事は異端者を捕まえることだったんですから」

「でも、俺たちが出しゃばらなければ逃げ切れていたかもしれない」

 うずくまった体が震える。堪えていた涙がこぼれ出し、液晶を打つ。

「俺は、情けないから」

「耀真さんは情けなくなんてありませんよ」

「でも、俺は……」

「耀真さんはあたしたちを助けてくださいました。シアさまのことも。エリシオンの敵になってまで」

「それは俺の勝手だよ」

「それでも、あたしは耀真さんを素敵な方だと思います」

「美緒……」

 呻いた体が前にのめって、額をコンクリートにこすりつけていた。体の節々がいうことをきかない。嗚咽を漏らしそうなのを呑み込んで、なんとか声を絞り出す。

「ありがとう、美緒」

「耀真さん、あたしたちも頑張りますから、絶対に諦めないで」

「うん、俺が行くまで、シアを頼む」

「お任せください」

 それきり、通話の相手はユーグに変わる。

「耀真くん、いまは無理だが、いずれ世間の潮流が変わる。そうしたら助けに行くから、それまでは大人しくしているんだよ」

「わかりました」

「そのぬいぐるみくんと戯れていてくれたまえ」

「せいぜい癒されますよ」

 ぷつっと通話が切れる。耀真は突っ伏したまま、深く、深く息を吐き出した。

人の言葉とは、これほど世界を変える力があるのか。

温もりに包まれた胸の内に熱い光がきらめいている。


                 ○


「どうして会えないんです」

 カウンターの前で思わず声を荒げてしまう。受付の青年は顔を引きつらせて手を振っていた。

「上からの許可が下りていませんので」

「申請は昨日出しています」

「通るはずありませんよ。綾薙さんはお身内の方ですから」

「身内はいけませんか」

「彼は牢外出不可、鉄格子越しに接見するのも、ちょっと……」

「わたしが脱獄の助けをするとでも」

 つかみかかりそうになった手を寸で握り、カウンターに叩きつける。

 アーチ屋根の上で目を覚ましたのが昨日の朝、急ぎ中央庁を訪ねると、耀真が捕まったという。脱獄幇助と異端の罪。驚いてすぐさま接見しようと留置所を訪れたが門前払い。正式に申請して一晩待てといわれた結果がこれだ。

「そうはいってません。ただ許可が下りていないというだけで」

「待てというのでしょう、わかりましたよ」

 感情に流されるまま怒鳴り、留置所を出た。赤煉瓦の並木道は春の陽気に満ちているが、とても楽しんでいられる心境ではない。

 この期に及んでは高村に問い合わせ、もっと上から圧力をかけてやろうとして、いまだ携帯端末が壊れたままなのを思い出す。

あれもこれもうまくいかない。苛々する。

 百合華は脇に刺しておいた短刀を手に取った。革製の鞘に収まったそれは耀真が勉強机の引出しに大切にしまっていたものだ。耀真は時折、この短刀を出しては見つめ、物思いに耽ってもいた。

彼の想いが詰まった大切な短刀。

胸に抱いてから鞘から引き抜き、片刃を透かすように天を仰ぐ。柄は古いもののようだが、刃は切っ先からハバキまで手入れが行き届いている。

 どういう逸話があるのか、尋ねたことはないが、お守り代わりに失敬してきてしまった。

 一度、二度、と刃を振るう。

「このっ!」

 三度目は切っ先に大気を凝集して一気に放つ。歪んだ景色は街路樹の枝葉を跳ね飛ばし、空に舞い上げた。その緑の向こうにあった三角屋根が目に入る。

 耀真のことですっかり忘れていたが、あれはどうなったのか。

 短刀を鞘に収めて腰元に戻すと、並木道を歩んでいった。いくらか気が晴れたように思う。

礼拝堂の前では司祭さまと作業着の中年男性が談じているところだった。百合華が来たのを機に、男性は辞去していった。

「どうしたんです?」と司祭さまに訊く。

「昨日の朝、ここへ来てみたら納骨堂の扉が壊されていたんですよ。いま修理業者の方に相談していたところでして」

「ああ」と驚きの声を上げたが、ほとんど予期していたことだ。耀真が捕まっていて、あの脱獄メガネがまだ逃走中という時点で。あれの封印は解かれ、メガネと一緒に身を隠しているはずだ。あのコートの女も一緒だろうか?

 司祭さまが肩をすぼめていう。

「盗まれたものはないようで、悪戯でしょう。酷いことをするものです」

「そのようですね」百合華も頷く。「なにかお手伝いできることがあれば、いつでもおっしゃってください」

「いや、しかし……」

 口ごもる司祭さまがなにをいいたいのかはわかっている。それをいわせる前に百合華は、それでは、と足早に辞する。耀真の話題が出たら、どんな顔になるかわからない。

 仕方なく帰る道の途中、見慣れたメイド服を見かけた。粛然とベンチに座り、まぶたを八割方閉じている。

「アイリさん」と呟いたのが聞こえたのか、彼女はわずかにまぶたを上げて、百合華を見据えた。

「あら、百合華さん。素敵な陽気ですね。眠ってしまいそうになります」

「でも、まだ朝晩は冷えますから、風邪は引かないようにしないと」

「そうですね」と微笑む。「百合華さんは耀真さんの様子を見にいらしたのですね」

 ぐっと顔を歪めてしまう。訊きにくいことだろうに、直裁に訊いてくる。

「今日はユーグさんはいらっしゃらないんですね」と話を変える。

「そうですよ。別件で自宅に拘束されています」

「拘束、ですか」

「気になりますか?」

「別に、ユーグさんの仕事は……」

「いえ、耀真さんのことです」

 呻いて、ちょっとのけ反ってしまう。

「別に、耀真のことだって。あの人、わたしを捨てて脱獄の手伝いに行ったんです」

「捨てて、なんて、まるで恋人のように」おほほ、と笑う。

「こここここ恋人なんかじゃありません」頬が熱くなるのはどうにもならない。

「ご無事なようですよ」

「会ったんですか?」この人の話はころころと変わる。

「会ってはいません。でも、あの塀の向こうに採光用の小窓がありますので、覗くのは難しくありません」

確かに、高い塀の向こうは留置所の敷地、三階建ての建築物の下に牢があるはずだ。耀真の声が聞ける気がして、耳を澄ませてしまっているのは忸怩たる思いだった。頭を振って、現実に集中する。

「警備の強化を申請しなければなりませんね」

「覗いていませんよ。ただ覗かずともわかることで」

「アイリさんの能力ですか?」

「おほほ」

 またはぐらかされる。

 アイリももう帰るということなので二人で中央庁の表に回る。と、目に入ったのは民衆が寄り集まって作った人垣とその頭上にかかげられたプラカードや段幕。デモ行進の先頭がエリシオンの正面門と警備員にぶつかって、道路を埋め尽くし、横幅も確認できないほど溢れ返っている。

「裏から出ましょうか」

「裏も似たようなものですよ」とアイリがいう。「だから、ひなたぼっこをしていたわけで」

「そうですか」と項垂れる。あれもこれもうまくいかない。苛々が再燃する。

「百合華さんはどうお思いで?」

「デモ自体は構いませんよ。ただ、今回のものはとても過激だから」

 町の平和を守れ、異端者は許すな、根絶やしにしろ。ニュースや言伝、フェイクや出所の不確かな噂を鵜呑みにした民衆は自らの不安を相手の憎悪で補い合い、黒い塊にして、エリシオンにぶつけているだけだ。頭を失った双頭の獣、とはよくいったもので、彼らはどれほどのことを知り、考えているのか。

 エリシオンの教義も率直に受け取れば、彼らと同じようなことを語っている部分も確かにある。だが、我々は生きた人間だ。

「あれは人の暗黒です」

「百合華さんは面白いことをおっしゃいますね」

「ちょっと詩的でしたね」とはにかむ。

「それを肥え、太らせている者がいます」

「それ……?」

「この町に渦巻いている悪意の根源が」

「先導者がいるということですか?」

「どうか惑わされぬよう、お気をつけください」

 アイリはデモの隊列に向かって歩いていく。


                 ○


「やはり来たか」と高村は喝采を上げる。あまりに予定通りだ。「早々に追い返したのだろうな」

 通話口の向こうの男は、はい、と殊勝に肯定する。

「対応したのは部下の者でしたが、藤崎耀真との接見は拒否したとのことです」

「よく伝えてくれた。これからも頼む」

「かしこまりました」

 それきり通話が切れる。

 ちょっと褒めてやれば犬のように付き従う人間は山ほどいる。そういう人間を使えば労せずとも世間を動かすことができるのだ。

「なんと愉快なことか」くつくつと笑う。ようやくあのナナヒカリの小娘より優位な立場に立ったということだ。「この高村を卑下してきたあの綾薙の一族に。わたしの時代が来たということか」

 つい声が大きく出てしまった。この執務室では誰かに聞かれていることもないだろう。が、鋭い冷気に興奮した肌をつねられ、心臓が縮む。

彼女だ。

反射で背筋が伸びて、視線が左右を探った。

「ご機嫌なようね」

背中にある窓辺から女の声が聞こえた。

彼女の気配が執務机を回り、部屋の中央へ流れてくる。応接用のソファーにどかっと腰かけ、レースの傘を折った膝に立てかけた。ふっくらとしたピンク色の唇が舐めるように開かれる。

「私はあの子、綾薙百合華ちゃんのこと、好きよ。純粋で一途なところは病的にも見えるけれど、一つのものを愛し続けることができるって素晴らしいわ」

「さ、左様でございますか」突然のゲストに狼狽えた高村は愛想笑いを浮かべることしかできなかった。手のひらを擦り合わせる。「あの、いつからご覧に?」

「あなたの言動は寝言や一挙動に至るまで、私は知ることができるの。知ろうとは思わないけれどね」

「はあ、愚問でございましたな」ははは、とかたい頬を引きつらせて返す。

背中を冷たい汗が伝った。遠くにいる女の吐息が蛇のように身をくねらせて、背骨に絡みついてくるようだ。

「そんなに怯える必要はないわ」と女がエメラルドグリーンの瞳を細めて、にっこりと微笑む。「あなたのことを怒りに来たわけではないのだから。むしろ、あなたはよくやってくれているわ。私の意思を忠実に実行してくれているもの」

「お褒めに預かり、光栄でございます」と応じた声も震えていた。

「多少のイレギュラーもあったけれど、あなたにしては順調よ」

「これは、手厳しいですな」頭を掻いても、笑みは崩さない。「すでに会見の準備はできております。町の様子も我々の想定の通りに」

「いいわねえ。この上なくうまくいっている」彼女は楽しげに立ち上がった。「これから最終段階に入るけれど、計画を少し変更することにしたの。もう少し派手に行くわ」

「と、おっしゃいますと?」

「ちょっと喋り過ぎたわね、あなたが知る必要はないわ」

「しかし、なにが起きるのか、こちらでも承知していなければ、事態への対応も……」

「あなたが、知る必要はない」

 彼女の深緑色に輝く瞳を視界に入れた瞬間、高村は俯いた。

「出過ぎた真似をいたしました。申し訳ありません」と直角に腰を折る。

「別に構わないわよ」深い吐息をはいた女は、短い髪を耳にかけた。「あなたの仕事は買っているもの。これからも私への忠誠を誓ってくれるわね?」

「そのあかつきには、わたくしをエリシオンの頂点に導いてくださるのでしょうか?」

 女は小首を傾げ、「そうねえ」と唇に人差し指を添えた。

「あなたの頑張りによるわねえ」

 女の言葉に胸が躍る。一兵卒の自分がここまで成り上がってこられたのはこのお方の力だということに疑いはない。そして、彼女の才覚に間違いはなく、言葉に偽りもない。五年以上ものつき合いでそれはわかっている。

「誠心誠意、粉骨砕身、務めさせていただきます」

 エリシオンなど、このお方の前では張りぼてにすぎない。なにが世界の安寧だ、なにが主の教えだ。絶対的な力の前では笑えるほど薄っぺらな言葉だ。

 高村の深く項垂れた頭に、今度は本当に女の吐息が降りかかった。

「期待しているわ」

 咄嗟に上げようとした目に女の瞳の残像がよみがえる。エメラルドグリーンの瞳。その眼差しを思い出すだけで、全身が硬直したように動かなくなった。

「私も、いずれ向こうに行く。もう少しするとこの辺りで面白い見世物があるようなの。それが終わり次第、ね」

「見世物、でございますか?」

「そう。とっても楽しみだわ」

 心底楽しげな声が余韻を響かせて消えていく。それを潮に張り詰めていた部屋の空気が一息に弛緩した。はっとして顔を上げると女の姿は影も形もない。こちらは全身に大量の汗をかき、制服のシャツがぐっしょりと濡れていた。悪態を吐くなど、とてもできなかった。


                   ○


 六年前のことだ。

「くそっ……!」

 ウイスキーを飲み干し、氷だけになったグラスの底でバーカウンターを叩く。

「あいつさえ、あいつさえいなければ……」

 ライバルがいた。しかし、それすら一方的な感情で、向こうはこちらなど眼中にない。有象無象の一人、同僚の一人としか捉えていないだろう。

「くそ、くそ……、どうすればいい」

 自分の底が見えてしまった。自分より賢い人間、有能な人間はごまんといる。自分より低能な人間でも運とゴマスリで周囲の評価を手に入れていく。

 オレにはできない。そう思ってしまった。

 カウンターに伏せた頭をかきむしる。どうしたらいいんだ?

「隣、いいかしら?」

 ふと顔を上げると、藍色のタイトなドレスをまとった女がいた。

 いい女だというのが率直な感想だった。場末のバーにいる女とは思えない。

「ああ、構わないよ」

「ありがとう」

 女は艶やかに微笑んで、隣のスツールに腰かけた。

 適当な世間話をしていると、不意に彼女がいった。

「そういえば、ずいぶんとお悩みのようだったけれど、どうかしたの?」

「いや、別に……」

 気まずく感じた空気を追加したウイスキーで喉に流し込む。

「鬱憤はね、吐き出してしまった方がいいのよ。あんまり溜め込んでおくと毒になるから。今日一夜限りの女になら気も使わないでしょう」

 女の顔を見る。薄い笑みは優しく、凝った内心をときほぐしてくれているようだ。

 みっともなくすべてを話してしまった。彼女は、へえ、そう、と時折頷くだけで嫌な顔ひとつしなかった。

「もう一件行こう」

 一緒にバーを出て、飲み屋街を歩いているときに彼女を誘った。

「ずいぶん足もとが頼りないみたいだけれど、大丈夫なの?」

「大丈夫だ、これくらい」

 ぐっと拳をかかげようとした体がのけ反って、そのままうしろに倒れた。背の低い生け垣のおかげで痛みは感じない。このまま眠ってしまいそうだ。

「ねえ」と夢うつつに彼女の声が聞こえる。「仲間が憎い?」

「憎い? そりゃ、多少は憎たらしいよ」

「もし、明日の朝、起きたときに彼が消えていたら嬉しいと思わない?」

「そんなことがあるわけない」

「答えはふたつにひとつ。嬉しいか、嬉しくないか。どっち?」

 まぶたを閉じても目の前がぐるぐると回っている。脳みそを掻き回されている気分だ。

「嬉しいよ」思考というものがあったのかどうかもわからないが、口がそう動いた。「嬉しいか、嬉しくないか、どっちかなら、嬉しい」

 遠くに彼女の存在を感じる。意識の定かではない頭に彼女の声が流れ込んでくるのが心地いい。

「私が願いを叶えてあげる。契約をしましょう」

「君が願いを叶えてくれるのなら」

 次に意識が戻ったのは明け方だった。自宅のベッドにいた。どう帰って来たのか、あの女の連絡先も聞けなかったな、と考えながら通勤した。その日からだ。

 同僚が一人、消えてしまった。


                 ○


「先日、弥田山東方面に巨大な冥魔が出現したのは周知のことと思う。これほど峰原市の近郊にあの化け物どもが出現したこと、前代未聞の失態である。しかし、その原因はわかっている。異端者が持ち込んだスフィアだ。やつらは悪魔、魔女を信仰し、その力の源となるスフィアを独自に研究している。忌まわしき過去の如く、冥魔を使役することができると思い上がった愚か者どもだ。その愚行の果てがこれだ。町を危険に陥れ、野山を蹂躙する。このようなことは決して看過することはできない。我々はその異端者の仲間を捕らえ、そのアジトの場所を特定した。その場所は町の西側に位置する廃工場や倉庫の中、いわゆる旧市街といわれる一帯の中に広く分布していることがわかった。なんとしてもやつらを殲滅しなくてはならない。許すわけにはいかない。我々は部隊の総力を上げ、異端者どもの根絶をここに誓おう。焼き払い、打ち払い、呪われた血はここで流し切り、断ち切るのだ」

 テレビの向こうで赤いブレザーの男が弁舌を振るう。場所は中央庁新館の礼拝堂壇上、人は第六騎士団長の高村剛健だ。

「あああああ、あの人は本気であんなことをいってるんですか」

美緒は慌てふためいていて舌も回らない。

「嘘です。あたしたちのアジトはこの町にありません。それに悪魔も魔女も信仰していません」

「美緒の知らない悪魔信仰の異端者が、その旧市街にいるのではなくて?」

 窓辺に立っていたシアが訊いてくる。

 ここはユーグが借りているマンションで、階層は確か、三十数階というところだった。リビングの端からダイニングキッチンの端までが一面ガラス壁になっていて、上には青い空、下にはビルディングが剣山のように並び立ち、その合間を縫って蠢く人の息吹がやや霞みがかって見える。

 テーブルの上に二本の足で立っているウサギがポットを手にして傾ける。ユーグのカップに紅茶が注がれ、茶葉の香りが部屋に広がる。

ユーグの秘書をしている女性の能力が、物質に命を与える、というものらしく、ぬいぐるみを自由に動かせるのだそうだ。礼拝堂にあったクマは、彼女のぬいぐるみであり、そこから情報を得たユーグは町中にぬいぐるみ隊を派遣、美緒たちの居場所を探っていたという。

「僕の仕事は姫君をセントラルまで移送することだったんだ」とユーグは初対面の夜に語っていた。「誓約の騎士である耀真くんの力を借りて、封印を解こうかとも思ったんだけれど、勝手にやると角が立つし。のらくら仕事を遅らせながら、どうしようかと悩んでいたところにこの事件だよ。姫の従者を自称するヒエログリフ。そりゃ、礼拝堂の下の様子が気にもなる」

 シアはこの優男をなかなか食えないと評していた。しかし、いまの美緒たちには信じる他にない。

ユーグはウサギに紅茶の礼をいって、んー、と思案を巡らせている。

「僕が知る限り、ここ数日、中央庁で捕まった異端者は美緒ちゃんの一党しかいない。彼らが信仰するのは姫君だ。よってこの演説はフェイクだとわかる」

「そうです。いるわけありません、悪魔信仰など」

「では間違いないわね」シアが腕を組む。「彼は実際やると思う? 焼き払い、打ち払い、呪われた血を流し切る」

「尋常の神経ではやり得ない」

「ですよね」美緒が頷く。

「でも、彼が尋常の神経を持ち合わせていないこともわかっている」

「それって、やるってことですか」

「やりかねないってこと」ユーグは腕を組んでいた。「僕の計画を前倒しした方がいいかもしれないな」

「私たちに手伝えることがあればいいのだけれど」

「姫君にはここで隠れていてもらわなければ困る。雌伏に堪えることもまた立派な策ですよ」

「そうでしょうけどね」

 シアは苛立たしげに窓の方を向いて、それきり黙ってしまった。美緒は肩をすぼめる。

「どうなるんでしょう、これから」

「僕はアイリが戻ってき次第、ここを離れる」

 え、と美緒はユーグを見つめる。

「あたしたち、どうしたら……」

「そのときは君たちに任せるよ。いいようにしてくれて構わないが、くれぐれも無理はしないように」


                 ○


 家に帰るなり、テレビをつけて驚いた。中央庁の礼拝堂で高村剛健が異端者の虐殺を許容、いや、実行するといっている。どのチャンネルをつけても、この緊急速報で一杯だ。

 百合華は綾薙邸を飛び出して、再び中央庁へ向かった。本館エントランス奥にあるカウンターに飛びついて、受付嬢に「あの」と声をかける。

「綾薙百合華です。第六騎士団長にお取り次ぎを」

「申し訳ございません。高村さまは別の会議をしておりますので」

「別の会議? なんの?」

「それはちょっと」

 百合華は財布から一枚の身分証を出した。

「第六騎士団副長として、お訊きします。どなたと会議をしているんですか?」

「えっと……」と受付嬢がいいよどむ。

「会わせろとまでは申し上げません。誰と話しているのかだけお聞かせ願えませんか?」

 カウンターの向こうで唾を呑む気配が伝わってくる。

「第一騎士団長の」

「ユーグ・フォン・ストラトス」

 受付嬢が端正な顔を頷かせる。

 騎士団長の二人が隠密の話をしているなら、口にするのをためらうのもわかる。百合華は身を引いた。「ありがとうございました」と一礼してその場を去る。

「一体、なにを話しているのか……」

まさか、今回のニュースのことか? ユーグが危惧するのもわからないでもない。自宅に拘束されているという話だったが。

「わたしも立ち会えればよかったのだけれど」

 すっかり機を失してしまった。

 エントランス横のレストスペースに向かっていると、うしろから声をかけられた。異端審問官の同僚で、数歳年上のキレイなお姉さんだ。エリシオンの暗部を極めたために人間同士の交流が全くない審問部において、パートナーが異端の罪で逮捕された後輩にも軽々と声をかけられる、とても気さくな方だ。

「百合華ちゃんも待機命令?」

「命令? 別になにも、ああ、そうです。わたし、いまスマホが壊れていて」

「ああ、そうなんだ」とにこやかに手のひらで宙を扇ぐ。「異端審問官は中央庁で待機だってさ。ぜーんぜん気の進まない仕事だからラッキーだけどね」

「なんのための待機です?」

「ニュース。見てないの?」

「高村の?」緊張が走る。「あれ、なにかあったんですか?」

「騎士団は緊急出動したよ。高村さまのご命令だって」

「どこに?」と訊いてから、バカなことを訊いたなと思う。「旧市街の制圧、本気なんですか?」

「そうそう。異端者の逮捕はわたしたちの仕事なのにねえ。騎士団に任せて、待ってろって。勝手なもんよ」

 百合華は話もそこそこに走り出す。外に出て、旧市街の方角。日の暮れかけた西空を見上げる。


                 ○


エレベーターに乗り込んだ。最上階、十七階のボタンを押すと緩やかに扉が閉まり、箱全体が上昇を始める。滑らかな減速の後に開いた扉の先は毛の深いレッドカーペットがまっすぐに引かれた一室で、左右にある木目調の事務机には見目麗しい秘書が座している。右手の秘書が優美に立ち上がり、頭を下げた。一通りの挨拶を済ませて、ユーグはいう。

「高村さんはいらっしゃいますか?」

「はい、こちらでございます」と通されたのはエレベーターからのびる絨毯が繋がっている観音開きの扉、重厚なマホガニー製の扉だ。横には第六騎士団長室のプレートが金属の光沢を閃かせている。

ユーグは横に視線をやって、一面のガラス壁から外の景色を眺めてみた。そびえ立つ摩天楼の合間に転がる膿んだ太陽。

「ユーグさん、緊張していらっしゃるんですか?」

「そういうわけじゃないよ。ただ、夕日が綺麗だな、と思っただけ」

「なにを酔狂なことを。酔って、狂ってるんですか?」

 アイリは自分で笑う。メイド服のまま登山用の大きなバッグを背負うという奇態をしていても、こまめに暴言を挟むことを忘れないのだ。ユーグはいつものことと聞き流して、正面のドアを叩いた。

「開いている。入ってくれ」

中から聞こえた声に応じ、把手に手をかけて押す。アンティークの扉は滑らかに開いた。

秘書室とは違い、全面に真っ赤な絨毯が敷き詰められた一室。中央にはマホガニーのローテーブル、黒革のソファー、奥の執務机は重厚なチークで、壁際の棚類も同等の木材で作られているようだ。そこかしこに置かれている壺や絵画など、調度品も豪奢だが、こちらは真贋のほどはわからない。

奥の執務机に収まる高村は大儀そうにこちらへ視線を向けてきた。

「貴様、まだ日本にいたのか」

「いたんですよ。この国はいま色々と大変なようですから、ご助力しようかと思いまして」

「いまさら、ふざけたことを抜かすな。さっさとエルの姫君をセントラルに移送するんだ。でなければ、なにかしらの責任を取ってもらうことになるぞ」

「なにもご存知ないのですね」

意外な話だ。高村の顔に嘘はなさそうに見える。

「なんだと? なんのことだ?」

「責任の取り方であれば、すでにこうしてまとめてありますよ」

ユーグが右手にあった厚手の封筒を執務机の上にそっと置いた。「ほう」と高村が身を乗り出す。

「面白いことをいうじゃないか、若造」

封筒を乱暴につかみ、中の紙資料を取り出す。一枚、また一枚とめくる高村の顔が徐々に青ざめていく。一枚目、二枚目、三枚目をくり返しめくり、ページの端にかかった指が小刻みに震えた。堪え切れないとばかりに紙束が机上に投げ捨てられる。

「騎士団長不信任決議、それも、第六騎士団長、とあるようだが、これはなにかの冗談かな?」

「冗談ではありません。騎士団長の不信任は元老院か、本人を含む九人の騎士団長の過半数が賛成すれば決定することです。今回は後者によるものですが、結果はそこにある通りです」

「今日はエイプリルフールではないようだが、嘘にしてもナンセンスだ」

「あなたがいままでにしてきた悪事の方がナンセンスですよ」ユーグは眼鏡のブリッジを押し上げた。「数え上げればキリはないが、ここ数日だけでも独断による異端者の処刑、騎士団の私的運用。これでは騎士団長として相応しくないといわれても仕方がない」

「ふざけるなよ」

 高村が激高して机を殴る。勢いで立ち上がった。

「このわたしがどれほどエリシオンのために身を粉にしてきたか、貴様のような若造にはわかるまい」

「魔女に魂を売ってまで奉仕しましたか」

 う、と息を詰まらせた高村は机上の紙束を握り潰した。取り繕うように「なんのことだ?」と吐き出す。

「観念してすべて話した方がいい。エリシオンの幹部たちはすでにある程度知っている。エルの姫君が危険因子だとしても、先に倒すべき敵がいる、と。だからこその不信任決議だ」

「わけのわからないことをいわれても困る」

「僕にはあなたを尋問する権利がある。なんなら拷問といっても構わない」

 うつむいた高村は失笑を漏らし、次いで狂ったように笑い出した。

「いい気になるなよ、若造。わたしは伊達で騎士団長になったわけではない」

「知っているといったはずだ。おまえが魔女の力を受けていることもな」

「ふん。貴様の言う通りだ。そうだよ。そもそも、エリシオンなどであくせく働かなくとも、あのお方についた方が賢明なんだよ。もっと簡単に頂点まで、エリシオンなどという腐った組織ではなく、人類の頂点まで登り詰めることができる」

「哀れだな。やつは人間のことなど毛ほども考えていない。正真正銘、我々の宿敵だ」

「ならばわたしも宿敵になろう」

 高村が腕を振ると握っていた紙束が千々に破れ、宙を舞う。その拳は黒い尾を引き、叩かれた執務机が腕の形に抉られる。ほう、とユーグが感心した息をついた。

「触れたものを無に帰す。それが君の授かった能力だな」

「そうとも。貴様もいまに消してやる」

 穴のあいた机を次の拳で真っ二つにした高村が木片を踏みしだき、ユーグに飛びかかってくる。身じろぎ一つしないユーグに向かって振り抜いた腕が空を切った。高村が前にのめったまま振り向くと、ユーグは立ち位置も、ポケットに手を突っ込んだ姿勢も変えず、佇んでいる。

「やはりそうか。ご先祖さまのいっていたことが証明されたな」

「そんなことのためにわたしはずいぶんと肝を冷やしてしまいました」

「アイリ、証明するためには実際やつの能力を喰らってみる他にないんだから」

「にしても、もっと穏便にしてほしかったですねえ」

「眠たそうな顔をしてよくいうよ」

「わたしは別に……」

 アイリがいいかけたところで、「おい」と高村が怒鳴った。「貴様ら、その余裕を後悔させてやるぞ」

 高村が振った腕がまた空を切った。腕をのばせば届くところで一歩も動かない相手に指一本触れられないのが信じられず、ユーグに向き直って探るように手を振った。するりとユーグの体をすり抜けて、ぎょっとする。まるで幽霊だ。

「き、貴様、いったい何者だ?」

「第一騎士団長、ユーグ・フォン・ストラトス」

「そんなことを聞いているのでは……」

 ひょいっと、アイリが大きなリュックを背中から下ろした。ジッパーを開いて、中に入っていたものを絨毯に並べて、というより、立たせていく。動物のぬいぐるみだ。ウサギ、イヌ、ライオン、種類は様々だが一様に真っ黒だ。頭をもたげて、背筋を伸ばすぬいぐるみたちの異様に高村はあとずさった。

「いったいなんの真似だ?」

「君には抵抗の意思があるようだから、とりあえず拘束させてもらう」

「なに?」と唸った高村のパンツの裾をワニのヌイグルミがつかまえた。彼らの力は見た目によらず強力だ。足は持ち上がるが歩くには苦労する。一体、二体と高村にしがみつくぬいぐるみの数が増えていく。

「なんだ、こんなもの」

 蹴り飛ばそうとした高村の足がぬいぐるみをすり抜けた。

「残念だが、君の攻撃は僕らには届かないらしい」

 うつむいて首を振るユーグが心底残念そうにいう。

 ぬいぐるみたちが高村の体を登り、服を引き、また、ぬいぐるみがぬいぐるみをつかみ、地べたに引きずり倒そうとする。

「なんだ、こいつら、離せ」

 頭まで登ってきたタヌキのぬいぐるみが口の中に手を突っ込んだ。そのままずるずると喉の方に向かい、口中を布地の頭でいっぱいにする。ペンギンのぬいぐるみが鼻を潰し、さらにキツネのヌイグルミが喉も押さえる。

 息もできず、言葉も発せられず、崩れ落ちていく高村の姿をユーグはうんざりしたような表情で見つめていた。こちらにのびてきた手も膝頭を通り抜けただけで、なんの意味もない。

高村の力がこの程度とは、所詮は捨て駒の三下だったか。

 裏切り者の腕から力が抜け落ち、その身も動かなくなる。

「あっけないものだな」ユーグは髪をかき上げる。

「実際、ほとんどなにもしていませんからね」

「その通りか」

 応じながら窓辺へ向かい、ガラス戸を開く。西から吹く風に乗って、喧噪と戦乱の空気を運んできた。家屋が焼ける景色もちらほら目に入る。

「空が慌ただしいな」

「いかがなさいます?」

「次の仕事を急ぐ」


                 ○


 ユーグの部屋にある女性ものの服は相当数のレパートリーがあったが、どれもコスプレの衣装であることは美緒も一目でわかった。自由に使っていいとはいわれているが、これをか、と思う。しかし、主から急かされているから時間と選択の余地はない。

驚いたことに、シアは町の様子を見に行くというのだ。興奮と狂気に浮かれた群衆溢れる町の様子を。

「ここで大人しくしていた方がよろしいのではありませんか?」

「ユーグは任せると話していたでしょ。別にいいじゃない」

「にしても、町はいま酷い状態です。姫さまになにかあれば……」

「私のことは以後シアと呼びなさい」

「ごめんなさい」と俯く。「シアさまになにかあれば、仲間たちにも、耀真さんにも、ユーグさんにも、立つ瀬がありません」

「心配性ねえ。私は一般人くらいが束になってきても負けないし、エリシオンは私の容姿がわからないでしょう」

「あの、耀真さんの同僚の方に見られているかも」

 耀真が捕まった夜のことだ。さらにいえば、ここまでの道中、幾台かの監視カメラに撮影されてもいるだろう。

シアも、むっと唇をかたくする。

「まあ、そのときはそのときね」

「そんな適当な」

美緒は装飾過多の衣装が多い中から適当にピックアップ。ドレスが平装のシアが一般市民に見えるよう、ゆったりとしたシャツに薄手のカーディガン、ショートパンツを合わせて、春色コーデにしてみる。

 着替えが終わって、シアをポラロイドカメラで一写。リビングのテーブルに置いていく。ユーグ曰く、どの服を使ったのかを把握しておきたい、ということだったが、アイリ曰く、コスプレ写真のコレクション、だそうだ。後者が事実なら、犯罪の臭いがする。

 シア一人を行かせるわけにはいかないので、美緒も黒革の上着とジーパンに着替え、帽子を被り、いざ外へ。

「その前にハンカチとティッシュを」

「几帳面なんだから」

「違うんですよ、これはそういうのじゃないんです」

 ともかく、シアの上着のポケットに備品一式ねじ込む。

 そうして外に出た先は片側三車線の太い道路。この辺りは新興オフィス街ということもあって、まだ静閑としていたが、少し駅の方へ行くと、人影がちらほらと、そしてすぐにごった返すようになる。舗道を埋め尽くした黒い人の波は車道にも溢れ出し、車の通行も止めて、プラカードをかかげ、声を上げている。通りの突き当たりにあるのは中央庁。黒ずんだ夕日を背後から受けた黒い巨塔だ。

「これだけの人間が一体なんのために集まっているというの?」

「異端者への粛清を願って」

「そんなことが……」

ここへ来る前からテレビの放送を見、なにが起きているのかは理解していたのだろうが、現実を目の当たりにするまでは呑み込めなかったのだろう。

「報道でも、ネットでも、弥田山に異端者がスフィアを置いたというのは純然たる事実になっていますから。命を失う瀬戸際に立たされて、噴き出した怒りがここに集まっているんです」

「その情報が嘘だというのに?」

「一般の人に、その真偽を確かめる手段はありません」

 信じられないといわんばかりに首を振る。

「人とはこれほどまでに愚かになれるのか」

 集団の一角から女の子が弾き出されるのが見えた。駆け寄ったシアが抱き起こしたのは小学生にも満たないような子供だ。

「大丈夫、君?」

「うん」と幼女は顔を歪め頷く。目尻に涙が溜まっていく。

「迷子でしょうか」

「そうねえ」と、女の子を美緒に引き渡したシアは立ち上がり、空気をすうっと吸い込んだ。「いい加減にしなさい!」

 シュプレヒコールが遠のいていく。美緒たちの周りだけが止んだらしい。人垣の一人、また一人と振り返り、金髪の目立つ少女、シアの方へ無数の視線が突き刺さる。

 なんと目立つことを、と美緒は帽子を目深に被ったまま、幼女の陰に隠れた。シアは、さすが腰に片手をやったまま胸を張っている。

「あなたたち、こんなバカげた真似をしていないで、家にでも帰って家族や友人のためにひとつでも仕事をしてあげた方がずっと人生が豊かになるわよ」

「うるせーよ」と一団のどこかから声が上がる。それを引き金に、文句が波のように押し寄せてくる。

「やつらはこの町のすぐそばにまで冥魔を呼んだんだぞ」

「オレたちは殺されかけたんだ」

「糾弾するのは権利だ」

「エリシオンにはその責任があるんだろ」

 そうだそうだと高揚し、プラカードが踊り狂う。拳が突き上げられる。

「ダメですね」

「話にならないわね」

 シアが項垂れて首を振っている。と、すみません、と声をかけられた。細面の女性がトランクを引いてくる。

「お母さんっ!」

 叫んだ幼女が駆け出して、屈んだ女性の胸に飛び込む。幼女は泣き出してしまった。

「ありがとうございます。まさかここまでとは思っていなくて……」

「別に構わないけど、こんなところに子供を連れてきてはいけないわ」

「夫の田舎に避難する途中だったんです」

「いまのこの町は子供が安心して暮らせるような状態ではないものね」とシアは頷く。「ただ、もうその子を離してはダメよ。大切な人のそばにいられることが一番の幸せなんだから」

「はい」女性は女の子を強く抱きしめる。

「美緒」

 慌てて立ち上がり、「ハイ」と敬礼する。

「私はこれから旧市街に向かうことにした。騎士団とやら、どれほど腕が立つのか試してやろう」

「えっ、しかし、シアさま……」

「ここの雑事はあなたに任す」

 ひょいと軽く跳ねたシアの体は赤い燐光を引いて、暮れなずむ空に吸い込まれていった。


                 ○


次に目が覚めたら、牢の中はずいぶんと暗くなっていた。尋問もなく、食事もなく、長々と眠ってしまったようだ。外から差し込む街灯と空の明かり、室内の非常灯だけが妖しく光る。

休眠状態だった体を動かすのはずいぶんと億劫だった。その上、疲労の溜まった間接が鈍くてかたい。全身をうねらせ、指先足先まで血を巡らせる。細胞レベルで覚醒させる。なんとか動く。

耀真は芋虫よろしく、身をよじって上体を起こした。部屋の隅ではクマのぬいぐるみが壁にもたれかかって動かない。

「おい、クマ。起きろ。まだ動けるんだろ」

 しゃがんだまますり寄って、膝小僧で突く。クマがのっそりと頭をもたげ、立ち上がったから安心した。おそらくアイリの能力だろうが、いつまで続くかわからない。

「起こして悪いな。まだ動けるか?」

 クマがこくこくと頷く。どうするんだ、と問いたげに小首を傾げる。

「脱獄する」

のけ反るクマを見て、耀真はさらに続けた。

「携帯は持ってるな。ユーグさんに連絡を、いや、ユーグさんの自宅かな」

 途方もない疲労に苛まれていたから眠っていたが、脱獄する方法などいくらでもある。例えば、美緒の転送処置を施したクマをもう一度ここに連れてきてもらえばいい。

携帯端末を床に置いてもらい、寝そべって通話口にできるだけ口を近づける。密談ではあるから、あまり大きな声は出したくない。まだか、まだか、と待つが一向に回線が繋がる気配がない。なんだ、どうなってる?

舌打ちした耀真は首を振った。

「ダメだ、全く出ない。なにかあったのかな」

 最悪の考えが頭を過ぎるが、ここでは対処する手段がないから、考えても仕様がない。

「ユーグさんの携帯は?」

 クマが液晶にタッチペンを滑らせる。すぐにユーグの番号が表示されたが、電源が切られているというメッセージが流れるだけだ。

「なにしてるんだ」少し苛立つ。

 仕方がないから次の手段、と一考した頭に鉄の腐ったような臭いが突き立つ。血の臭い。

 探る視線を周囲に送る。守衛室の方からだ。

「隅で寝ててくれ」

 クマが頷くのを認め、鉄格子ににじり寄る。

「おい、どうしたんだ!」と守衛室の方に声を張り上げる。「誰かいないのかよ」

 鉄格子に体重をかけても、びくともしない。世の中うまくいかない。なにが起きているのかわからない。

 格子間に額を埋めて俯いていると、かたい靴を踏み鳴らす音が聞こえてきた。こつこつ、とこちらに近づいてくる。顔を上げる。

「真夜? おまえ、一体どうやって……」

 言葉を失った耀真に端正な顔が微笑みかける。

「私、これから町を焼くことにしたわ」

 は、と間の抜けた声が耀真の喉からこぼれた。

「一昨日の夜、冥魔がこの町の近くに出現したの。仕掛けたのは私。スフィアを使えばわけないわ。たったそれだけで町は恐慌状態」

「近くに冥魔が出たってのは聞いた。おまえがやったのか? というか、隣の部屋はどうなってる? 焼くってなんだよ?」

「なぜこんな近くに大型の冥魔が現れたのか、異端者のせいだ、やつらが呼んだんだ、方法があるぞ」

「おいおいおいおい、ひとつくらい俺の質問に答えてくれたっていいじゃないか」

「この間捕まった異端者にはまだ仲間がいた、そいつらはどうなった。まだ逃げているらしい。見つけろ、殺せ」

「おい、真夜!」体当たりした鉄格子が軋み、音を立てる。が、彼女はまばたきすらしない。

「世論を操るのは簡単。不安の種を落とす、大衆は不安に煽られやすい、人は心地のいい情報を優先する、心地のいい情報というのは自分と同調している情報、不安の同調、不安は重なり合って大きなうねりとなり、世論を作る。そこに解決策を与えてあげる、いかなる手段も認めてあげる、巨大な権威が。人はそれを認め、それに倣う。皆殺しも厭わない。今回は高村に実際処刑をさせてみたけれど、彼の求心力は私の想像を上回っていたわね。意外に支持する人が多かった。いや、なにも考えていないクズが多いのか」

 真夜が声を上げて笑う。

「真夜、いい加減にしろよ」

「私、第六騎士団長の高村とパイプがあるの。彼、結構いい人。第六騎士団を動員して近くに町を焼きたいなと話してみたら、こう提案してくれたわ。場所は旧市街、そこに異端者のアジトがあるということにして出動。一帯を巻き込んでの作戦活動に入る。いまの世論なら難しくないでしょうとね」

「やるはずがない」

「騎士団は意気揚々と出動していったわ。いまごろどうなっているかしら? 高村は失脚しちゃったみたい。私もあとで町の方を見物に行ってくるわ」

「どういうつもりだ?」

「どう、とは?」

「おまえがシアを目覚めさせて、町の不安を煽り、美緒の仲間を処刑させて、旧市街で虐殺をしようという。それをどういうつもりか、と訊いている」

「あなたが欲しい」

「は?」

「シアちゃんの周りには素敵な人材がたくさん集まってくるかと思って、解放することにしたの。そしたら、耀真くん、あなたに出会った」

「なにをいってる?」

「シアちゃんはあなたに存在理由を話したことはある?」

「いや」この世界のすべてを敵にしても戦うことになると聞いただけだ。

「この世界には、人の言葉でいうところの『エルを生むもの』と『冥魔を生むもの』がある」

「『エルを生むもの』、『冥魔を生むもの』」全く聞いたことのない話だ。「なんの話だ?」

「エリシオンの聖典にも記されていない、というより、彼らの知らない真理の話」真夜はなおも続ける。「『生むもの』は根を同じくしているけれど、枝葉を折ればそちら側は衰退していく」

「どういうことだ?」

「『エルを生むもの』を破壊すればエルが、『冥魔を生むもの』を破壊すれば冥魔が衰退していくということ」

「そんなことができるのか?」

 真夜はくっと顎を引く。

「『生むもの』はそれぞれ別の閉鎖された空間の中にある。いまやエルの楽園であり、冥魔の楽園に封じられている。その封印を破るために大量のスフィアがいるのだけれど、五百年前に大規模な争奪戦が起きた」

「聖典にあるエリシオン戦争」

「シアちゃんと人類は冥魔を、魔女はエルを殲滅するためのスフィア争奪戦。あのときの私は確かに未熟だった。敗北を認めるにやぶさかではないわ」

「あのとき、って、まるでおまえ……」

「私はエルを殲滅したい。その力は充分に蓄えた。でも次のミスは許されない。封鎖された敵地に突入し、その至宝を破壊する。もしかすれば、一度入ってしまうとこちら側に撤退することすらできなくなってしまうかもしれない。どうすればいいか、考えたわ。そして、答えはシアちゃんが教えてくれた」

「シアが?」

「私も仲間を作ればいい。仲間を作り、向こう側へ派遣する。成功すればよし、失敗すればやり直す。何度でも、やり直す」

「まだ俺の理解が追いつかないな」

皮肉って笑った目を上に向ける。真夜が口もとを緩めていた。一歩、歩み寄ってくる。

 甘い吐息が首筋を這う。

 背筋が粟立つ。

 なにかおかしい、と感じた喉が蠢き、唾を呑み下した。

「真夜……」

「平気。力まないで」鉄格子の間を抜けてきた手のひらが頭を撫で、頬に触れる。冷たい。指先が耳たぶを揺らす。ね、と耳孔に声が吹き込まれる。「実のところ、旧市街にはスフィアを仕掛けてあるの。大型の冥魔が出現するわ。でも、レベルは高くないはず。騎士団に見つかれば、冥魔もスフィアも一蹴ね」

 けどね、と真夜の言葉で全身が粟立つ。

「私、もうひとつ予測を立てているの。騎士団が旧市街の人間を殺すのに夢中になって冥魔に対処できない可能性。一度頭に血が上った人間が平常心に戻るって凄いストレス。無理だと思うの」

心臓が強く脈打ち、全身を震えさえる。自分の鼻から出る呼吸が浅くなっていることに気がついた。

「でも、それって素敵なことだと思わない? いまの騎士団は全滅するの。あなたをここに閉じ込めた人間も、雑魚と嘲笑っていた人間も。あとちょっと、この狭い部屋で眠っていればいい。悪かったのは騎士団。彼らはクズだった。彼らがあなたを捕まえたのもなにかの間違い。すぐにここも出られる。どう?」

俺はなにを迫られているんだ?

「さあ、目を閉じて。呼吸を楽に。私が叶えてあげる。あなたを自由にしてあげる。心安らかに、思うままの生を過ごせるの」

 目を閉じて、呼吸を楽に。そうするだけで幸福になる。

狭まった視界が真夜の瞳を捉える。深い、緑色に光る瞳。

「さあ」

 問われて、耀真の喉を生唾が落ちていく。空になった口中に震えた声音が生まれて出た。

「ダメだ」

 緑色の瞳が唐突に光を失する。

 自分の答えを噛み締めて、耀真はもう一度口にする。今度ははっきりと。

「ダメだ、こんなところで寝ているわけにはいかない」

「私を拒絶するか」

「これでは胸を張れなくなる」

「なんですって?」と呟いた真夜の顔に純粋な驚嘆が浮かぶ。彼女の人間らしい反応を目にして、耀真は笑った。

「俺は運命の人でありたいんだ」

「運命?」

「その名に恥じない、相応しいといってくれた人と、目を合わせても恥ずかしくない生き方をしたいだけだ」

 真夜は唇を尖らせたままで深く鼻息を吐き出した。次いで、傘を一閃、牢の鍵が破壊され、鉄格子の扉がゆったりと開く。

 耀真は真夜の顔を見据える。

「いずれ脱獄する予定だったのでしょう。手間を省いてあげた」

「俺にどうしろと?」

「あなたも来なさい」

「旧市街へか」

「きっとシアちゃんも来る。旧市街に冥魔が現れれば確実に来る。あの子一人では当然私には勝てない。彼女はそういう性質の能力だから。彼女は負ける。騎士団に捕まるか、住民に捕まるか。いずれにせよ、彼女がことの元凶だと思い込ませるのは簡単。そのあとどうなるかは、ご想像に任せるわ」

「真夜、おまえ……」

「私を止めたければ旧市街へ来なさい」

 楽しみにしているわ、とキスとウインクを投げて、守衛室へ消えていく。

 しんとした沈黙だけが残った。

 ついついとシャツの裾を引かれる。振り向くと、クマが小首を傾げていた。

「ユーグさんとは連絡取れた?」

 クマは首を振る。

「行こう」

 後ろ手のまま立ち上がり、守衛室へ向かう。広くはないそこは四方の壁を血に濡らし、四人ぶんの遺体を無惨なままに転がしていた。どれも腹や頭を半分近くきれいに抉られているから、一目で亡くなっていることがわかる。

「鍵がいる。このインタラプターの鍵が」

 話している間にも、クマは血だまりに落ちていた鍵束を拾って、耀真の目の前にかざした。

「その中にあるといいけれど」

 ひとつずつ試して九本目に正解を引き当てた。久しぶりに前に回した肩関節の具合を確かめる。問題ない。指、手首、肘もかたまっていない。

「サンキューな」とクマの頭を握り潰す勢いで撫で回す。

守衛室の入口を押し開いて、地上エントランスへ。白々とした照明が眩しい。

ここにも誰もいないか。

外にある監視所からも血の臭いがする。無視して門外に出ると、ようやく景色が広がった。東空は濃紺に塗られており、西の地平線を眺めればまだ赤く明るい。地上から立ちのぼる橙色の光が空にたゆたい、波打ち揺れる。

いや、違う。夕日ではない。

「火だ……」

 夕日の明かりではなく、火炎の明かり。町を焼く怨嗟の炎だ。

 街灯の点々と灯る遊歩道をクマと並び、歩いていく。シアの能力が解放されたいま、正面門から飛んでくるシュプレヒコールの強烈さがよくわかる。もうとっくに日も暮れているというのにご苦労なことだ。

 前庭まで来ると、門前に溜まった人数が見えてくる。屋外照明まで設置し、プラカードを振り回して、横断幕を揺らしている。

中央庁本館入口前の短い階段にさしかかり、人が腰かけていることに気がついて、足を止めた。

「百合華……」

「耀真」腰を下ろしたままで顔だけ振り向けていた彼女は再び前を向く。

「なにしてるんだ、こんなところで」

 耀真が隣に立つと、百合華は膝を抱える腕の中に顎を埋めていた。

「エルがね、人間と異なる次元にいる生物なら競合することはないの」

「なんの話?」

「彼女を生かしておけない話」と沈んだ声でいう。「エルが人の形を成して、この世に現れれば? もし、わたしたちと同等の知恵とエルとしての力を持ち合わせていれば? 人類は必ず下となり、いずれは淘汰される。だって、風も水も火も土も操れる彼らはこの星そのものだから。彼らの数が増えることがあれば? 七十億の人がいれば殺し合う者がいる。狩りに興じる者がいる。エルの中にもきっとそういう性質を持つ者が現れる。こんなものは可能性の話だけれど、重要なのは、可能性がある、ということ。人類の繁栄と平和を脅かす可能性があるものは排除するべき。エリシオンはまさに、人類の繁栄と平和のためにあるのだもの。いまの世界の安定だって、エリシオンがあるから成り立っている。誓約者を統治する機関があって、それが冥魔を退治しているから世界の尊敬を集める。でなければ、人類は自分たちと異なる誓約者を迫害し、誓約者は抵抗する。その騒乱の中で冥魔と争うことになる。地獄の始まり。だから、エリシオンの意思は統一しておかなければならない。エリシオンを裏切るということは世界を混乱させることに他ならない」

 百合華は自嘲気味に笑う。

「でも、結局はこの有様。彼女の存在に関係なく、エリシオンのシステムは瓦解し、世は乱れている」

ぎゅっと腕に力を入れて縮こまる百合華。耀真は足元に転がっていた石ころを蹴り飛ばして、歩き出した。正門へ向かう。

「どこに行くの?」

「旧市街に行く」

「あそこはいま、騎士団で一杯だよ。異端者ってレッテルの貼られた耀真が行けば殺されるかもしれない。そういう許可も出てる」

「倒さなきゃならない敵がいる。きっとシアも来る」

「シア? 彼女のこと、シアと呼んでいるの?」

「ああ」と頷く。「命を賭けてでも守りたいと思う」

 耀真は百合華と向き合った。

「俺の命は八年前に陸彦さんに助けられて、百合華に救われた命だけれど、いまは、彼女のために使いたい」

 百合華の赤茶の瞳が悲哀の色を帯びて俯いた。口元は優しく微笑んでみえる。

「耀真は強いね。ひとつのことを選んで、それ以外のすべてを切り捨てていく覚悟がある」

「強いんじゃなくて、外道なんだよ、俺は」

「耀真は昔からそういうところがあった。わたしもそうなろうとした。でも、なれなかった。心が揺れたから」

 立ち上がり、スカートの埃を払う。「これを」と口走って、脇から抜いた革の筒を放り投げてきていた。受け取って確かめると、耀真が引出しにしまっておいた短刀だ。八年前、狩りに使っていた短刀。シアから教えてもらったナイフ投げの。

「持ってきたのか?」

「勝手に漁っちゃった。ごめんね」

「別にいいけどさ」

 鯉口を切っただけで鞘に収め、ベルトに回す。

「ありがとな」

「わたしも行く」

「旧市街に?」

「うん」百合華は困ったように笑っていた。「わたしも彼女に会いたい。本当に危険なものなのか、見極めたい」

 隣に並んだ百合華は垂れた髪を耳にかけ、耀真の瞳を見つめて返す。

「彼女、来るんでしょう?」

「来るよ、間違いなく」

 歩き出そうとしたズボンの裾が、くい、と引かれる。クマだ。丸い手で本館エントランスの方を指している。見ると、一組の男女が駆け出てくるところだった。ユーグとアイリだ。

「どうしたんです、二人とも」

「いや、耀真くんが外に出てるのを見て焦ったよ。まさか自分で脱獄するとは」

「脱獄させられたんです」

「はあ」とユーグは合点のいかない顔をする。

「それより、二人とも、こんなところでなにを? シアたちと一緒じゃなかったんですか?」

「別の仕事があって二人とは別行動をしなければならなくなったんだ。耀真くん、これを」

 手渡された布地の巾着をひっくり返すと、スフィアが五つ転がり出てきた。すぐに袋へ戻して、金髪の瞳を見据える。

「どうしたんです、これ?」

「今回の件、高村を操っていた者がいる」

「高村を操っていた?」百合華が目を剥いて驚く。

「知っています」と耀真が返すと、彼女は絶句している。

「会ったのかい?」ユーグの顔から血の気が引いていく。

「会いました。旧市街へ行くと」

「やはり、陸彦さんの予測が的中したか」

「おじいちゃんの?」と百合華が声を上げる。「一体なんの話をしているんです?」

「時間がないのはわかる。だから話をするのは少しだけだ」ユーグは早口にいう。「強力な敵がいる。高村を操っていた女だ。彼女はシアちゃんの絶対的な敵でもある。陸彦さんは八年前、シアちゃんを発掘したとき、今日のことを予期していた。彼女がまだ生きていて、いずれシアちゃんに接触し、大きな戦いを起こすことを。そのとき彼女は必ず姿を現す。完全消滅させる最大のチャンスだ。しかし、彼女の能力は尋常ではない」

「どういった能力で?」

「完全なる『無』だ。特定範囲のあらゆる物質とエネルギーを消滅させる」

「そんなの、勝てるはずないじゃないですか。近づくことはもちろん、飛び道具もそれに触れる前に消えるってことですか?」

「彼女の結界に触れれば、ね。だから、百合華ちゃんのいう通り、普通の手段では勝てない。だが、いまの僕らには幸運なことに二つ、対抗する手段がある」

「二つ、ですか」と耀真。

「ひとつは僕の能力。耀真くんと百合華ちゃんは知っているだろうけど、僕の能力はこの次元の生物をさらに高い次元、五次元とか、十次元とかに遷移させて、低い次元からの干渉を無視させるものだが、その庇護下にあれば、やつの能力も受けづらくなるし、ダメージも与えられる。すでにやつの子分だった高村で検証済みだから、効果のほどは心配しなくて大丈夫だ」

「もうひとつは俺ですね」

 ユーグがこくりと頷く。

「世界の始まり、まだ宇宙になにもなかったころ、この世は完全なる無に満ちていた。しかし、その中に突如としてエネルギーが生まれたらしい。それがいまの世界を作る礎となった。これは神話とかではなく、数学的、物理学的な話だ」

 ユーグは眼鏡のブリッジを押し上げ、耀真を見つめる。

「耀真くん、君に与えられたのはその原初のエネルギーを操る能力だ。唯一、無から生まれ、無を切り裂くことのできる、無二の能力だ」

「世界を揺るがす原初の力、か」

 昔、シアから聞かされた言葉をあらためてくり返す。

「いいかい、耀真くん。僕の能力でフォローしても奴に致命的なダメージを与えるには至らないかもしれない。とどめをさせるのは君か、姫君の能力以外にあり得ないだろう」

「わかります」耀真は頭を振った。「俺に、あいつを完全消滅させる覚悟をしろということですね」

「酷なことを頼むようだが……」

「いえ、酷ではありません」

 耀真の肺から思いの外落ち着いた吐息が漏れる。

やれる。

「俺がやります」

「耀真……」

 百合華が眉根をひそめていたが、見なかったことにして正面門に向かう。

「車を出そう」とユーグがいう。「歩いていくには、旧市街はちょっと遠すぎる」

「いえ、ちょっと待って」耀真は耳を澄ませる。「声が聞こえる」

「誰の?」と百合華。

「俺の名前を呼んでる。……美緒だ」

 走り出し、正面門に飛びつく。重い引き戸式の鉄門を押し開け、外に出る。デモ隊の前線にいたのはもみくちゃにされた美緒だった。

「耀真さん」と近寄ろうとした彼女を警官隊が取り押さえようとする。

「違う。彼女は関係者だ。退いてくれ」

 耀真は警官隊をかき分け、美緒を胸に抱くと中央庁の敷地に戻っていった。百合華とユーグ、アイリが駆けつける。

「耀真さん、シアさまが……」

「旧市街に行ったか」

 頷く美緒は泣きじゃくっていて、膝に力も入らない。

「美緒、シアを着替えさせたのか?」

美緒が着替えているからわかる。ドレスで外に出すわけがない。案の定、美緒は頷いた。

「その服、美緒が触ってるんだろう? どこかに転送できるように設定してないのか?」

「え」と呟いた美緒が泣き止んで、叫ぶようにいう。「あります。ハンカチに……」

「美緒は俺が思ってる以上に優秀だったよ」

 美緒の頭をぐしゃりと頭を撫でる。


               ○


 燃える、燃える。

 並んでいた長屋やバラックは崩れかけていても人の生活のある場所であった。それが燃え、崩れてゆく。

 どうしてこんなことに。

 東西南北に炎が栄え、吹き付ける熱風は肌を焼く。火の粉と煙が気管支に入り、せき込んでしまう。隣の廃棄物処理工場に白い光が落ちてきて盛大に爆発する。飛び散る金属片から両手で頭をかばい、衝撃波に膝を折る。

「なにしてる、早く逃げろ」

 父に胸倉をつかまれて立たされると、その顔が潤んでいた景色の中ではっきりと見えるようになってくる。

「よし」と父は頷く。「早く逃げ……」

 言葉尻に破裂音が重なり、父は膝から崩れ落ちた。アスファルトの上に倒れる父の姿は上半身と下半身が分かたれ、千切れた肉片の中で手を伸ばしている。

「ひ」と、喉の奥から悲鳴を漏らした体が尻もちをつく。

「貴様は」と父だった肉塊の向こうに立つ赤い詰襟の男がいう。片手にした長棍で地面を突く。「異端者の居場所を知ってるか?」

 知らない。唇はかたまり、尻の擦りながら後ずさることしかできなかった。

「隠し立てするというなら貴様も殺す」

 長棍の先を向けられ、喉を鳴らした。

「し、知りません。異端者なんて……」

「隠し立てするとは、貴様も奴らの仲間か」

 長棍が振り下ろされようとしたそのとき、赤いスパーク光が閃いた。長棍の先を跳ね返された騎士団員は数歩下がり、険しさの増した目をこちらに向ける。

「力のない者に暴力を振るうなどと、恥を知りなさい」

 背中の方で、凛とした女性の声がする。その声が一歩、歩みを進め、騎士団員の前に立った。豊満な金髪をなびかせ、カーディガンの襟を正す姿は美しい。背筋を伸ばして、長棍の先に対峙する。

「騎士団とは、その程度の組織か」

「我々は世界の安定のために戦っている」

「自らが安定を崩していることにも気づけないというのは愚かなものだな」

「異端者がなにをいう」

「なにをもって異端というのか」

「覚悟」

 長棍が振られる。

彼女の全身から赤い光の粒が無数に発し、振られた腕は宙に燐光を散らして残像を刻み、かざした手のひらは赤色の薄氷に似た膜を現出させる。激しいスパーク光を爆ぜさせ、再び長棍を押し返した。

「くそ」

「この程度ではな」

 女性の両手に燐光が集まり、左手は白く閃き、右手には赤い光の玉を握る。

薙ぎ払われた長棍を白熱する手刀で受けて留め、片手にした光球を投げた。詰襟の眉間に直撃して爆ぜて、その体を路面に押し倒した。

「情けない奴」

 赤い炎に覆われる空に白い光が一筋、さっ、と流れてゆく。

「他にもなにかいるな」

 金髪の彼女は空を見上げ、足は肩幅に、両手は胸の前で拳を作る。空を行く筋が旋回し、こちらに向かってくる。人の形をした白い煙だ。それが一直線に向かってくる。対峙した女性の両手に吸い込まれた赤色の燐光がやがて白く輝き、その強さをいや増していく。

 煙と彼女の拳が交錯する。

 瞬間、強烈な爆光が広がって視界を失わせる。頭を抱えて喧騒が去るのを待っていると、「大丈夫?」と声をかけられた。ゆっくりと目を開くと、金髪の彼女の青い瞳がこちらを覗いている。彼女の足元には詰襟を来た男が倒れていて、それが長棍の男とは別の人間らしい。あの白い霧のようなものも騎士団員だったようだ。

「あなた、怪我は?」

「あの」と緊張した声が喉に詰まった。咳き込んでいい直す。「ありません」

「なら幸運ね。でも、火の粉が危ないから……」彼女は自分が着ていたカーディガンを脱いで、こちらに手渡してくれた。「それ、羽織ってなさい。燃えそうになったら捨てていいから」

「はあ」いわれるがままに羽織る。

「しかし、あれね」彼女は長髪を手で払い、整え、苦々しげにいう。「この程度なら十人でも二十人でも、まとめてかかってきて構わないけど、その倒した二十人を運ぶのは手間ね。なにかいい方法はないかしら?」

「車、トラックでしょうか」

 おお、と彼女は天啓を得たように目を丸くした。

「そういえば、大きな車が走っていたわ。あれは人を運ぶためのものなのね」

「たぶん」

「あなたはここにいなさい。焼かれないように気をつけてね」

 彼女は手を振ると、軽く踏み切った。高い空まで跳ねていく。


               ○


「よくもまあ、こんな真似ができるものだな」

 低い軒を連ねる民家は炎を上げて天を焼き、肉の燃える匂いと悲鳴を立ち昇らせる。

 この世の地獄とはこういうものか。

下から吹き上がる熱風に焼かれる獲物の気分を思いながら、シアは手のひらを満月の光にさらした。自分の一挙手一投足に合わせて、赤い光の粒子が飛沫のように拡がっていく。

調子はいい。体は軽く、この子たちは思いの通りに動いてくれる。

車というやつが発する特有の空気振動は覚えている。似た波紋を大気中に探して、すぐに目標を見つけた。街中を走っていた車より二回り大きな、荷台に幌を張ったものだ。幌の中には十人に及ぶ人間が乗っているのも、エコーでわかる。

右手に燐光が集まって、一秒とかからず肥大した光が赤から白に変色していく。

シアは白く閃いた右手をはるか眼下にある道路、大型車の手前へ向けた。紙を引き裂くような音とともに、赤い柱に見える光が地上に突き立つ。光芒が舗装材を溶かし、その下の地層も穿つ景色を目撃したのか、車は蛇行して止まり、前方左右にある扉から二人の人間を吐き出した。深緑の装束で腰を引きながら周囲を警戒する。シアは一人の背後に着地して、男の耳を塞ぐように手のひらをかぶせる。これで一人。膝を折って動かなくなる。

「何者だ!」

 吠えた片割れがこちらに気づき、戦意を向けるころには、シアの指がそいつの頭をさし示している。放たれた光線が音を立てて、敵の眉間を撃ち抜いた。これで二人。

 騒ぎを聞きつけたらしい荷台の人数がわらわらと降りてきた。シアと伏せる仲間を見るや、筒を飛び出させた歪な箱を肩口に添えて、その円筒を向けてくる。どういう意味のあるアクションなのか、シアはちょっと首を傾げる。

「撃て撃て撃てっ!」

 一人の男が叫ぶと同時に他九人の筒先が連続して爆発した。生まれた噴煙と火花を裂いて、飛び出した鉛の塊が音速を越える速度で殺到してくる。それより早くシアは手のひらをかざしていた。光の薄膜が生まれ、鉛玉を弾く。そのたびに赤色のスパーク光が閃いた。

「まさか、鉄砲? だいぶ改良されているのね」

 半数が弾を切らし、半数がリロードの合間を繋ぐために散発的に撃ち込んでくる。が、薄膜を破るには至らない。

 シアは空いている片手を宙にのばす。ひるがえる金髪を取り巻くように赤い粒子の集まりが一つ、二つ……、全部で九つ、それぞれが渦を巻いて凝集拡大し、光り輝く球体になる。

「行け」

それぞれ高速で宙を走り、緩い弧の残像を描き、悲鳴を上げる兵士たちの頭に直撃する。破裂音と爆光は簡単に人間の意識を断ち切った。これでトータル十一人。

銃を盾にして後ずさる最後の一人。シアは音もなく接近し、手刀を一閃、銃身を断ち、回し蹴りを男の胸に、押して倒した。

「他に武器はあるかしら?」

 シアが訊いたからというわけではないだろうが、男は太ももに下げていた小型の銃を掴んだ。直後、シアは足を上げて、銃を蹴り飛ばす。

尻で下がる男は唾を飲み込んだだけで、もう強い気力を感じない。

「もう戦う気がないのなら、少し私につき合ってくれないかしら? 町で倒れている人たちを助けたいのだけれど……」

「誰が、貴様ら異端者どものいいなりに……」

 光球を男の股下に叩き込み、路上を穿つ。

「別に他の人を探してもいいのだけれど、どうかしら?」

「……お、お供させていただきます」

「いい返事ね」とシアは微笑む。

倒れた十一人を荷台に放り込み、トラックの助手席に乗り込もうとした。そのとき、ぐらぐらと地面が揺れた。体が上下するほどだ。

「揺れましたか?」と運転席の男が訊ねてくる。

「そうみたいね。なにかしら?」

 空を見上げていると、遠く、焼け残った建物の間に昆虫の顔が見えた。クワガタか、アリに似た牙を持った顔だけでも、この車と同じくらいにある。トンボに似た羽根をばたばたとはためかせ、飛ぼうとしている。

「あれは冥魔……!」

「あなたはこれで安全なところまで」シアは激しく言い立てて、さらに詰め寄った。「いい? ここを真っ直ぐ行って、すぐに右折、左手三本目の道を左折すると騎士団の人間が二人倒れているわ。それとうずくまっている女の子がいるはずだから必ず助けてあげて。それと、それ以外の人たちもできるだけ乗せてあげて」

「わかりましたが、あなたは?」

「あれを仕留めてくる」

「しかし……」

 男の声は最後まで聞かず、飛び立った。


               ○


 美緒に転送してもらった先は公園だった。遊歩道に点在する街灯が芝生を照らし、短い緑の上には数人の男たちが倒れている。エリシオンの支援部と騎士団員、パジャマや私服の人間もいて、手当を受けている者もいる。天頂はいまだ暗く、火事場は近づいたが、まだ西に遠い。

「シアは……」耀真は視線を振って、金色の髪を探すが、どこにもない。「どこだよ、ここ」

「駅前公園ね」遅れて転送されてきた百合華がいう。

「おいおい、あいつの話と違うな。シアがいないぞ」

「どこかで食い違いがあるんでしょう」

「どこでだよ?」

さらにもうひとつ、緑色の光が生まれ、ユーグの姿形を取る。腰元に長剣を収めた鞘を携え、より騎士らしい姿になっている。

「ユーグさん、これは……」

「彼女だな」とユーグは、そばの街灯の下でベンチに座る若い女性に目を据えた。

「彼女?」

「こんばんは、お嬢さん」

 ユーグが紳士然と話かけると、彼女は細い肩を震わせた。

「どこでそのカーディガンを?」

「これは人からの貰い物、いえ、預かり物で」

「ブロンドを背中まで伸ばした青い瞳の女性では?」

 彼女の瞳がみるみると大きくなり、はい、と前のめりに頷いた。

「そうです、その通りです」

「シアだ」と耀真は喝采した。ユーグが頷き、質問を続ける。

「彼女はいまどこに? 僕らは彼女を助けに行かなければならないのです」

「あの人は冥魔を倒しに一人で行ったそうです」

「まだ旧市街にいるんですね?」

「たぶん」と彼女は首肯する。

「なら急ごう」

 旧市街は目と鼻の先だ。走り出そうとした耀真は、いや、と背中から声をかけられる。

「まだなにかあるんですか?」

「ここから先は車で行こう。幸い、支援部のトラックが止まっている」

 ユーグが指さす方には、確かに、幌にエリシオン実動支援部と白字の行書体で記された大型トラックが停まっている。エンジンは唸り、ヘッドライトは闇夜を蹴散らす。

「でも」と耀真は首を振る。「現場は被災地です。まともな道路があるとは限らないんですから、俺や百合華は走った方が早いですよ」

「耀真くんは大丈夫だと思うが、百合華ちゃんは僕と行動をともにしてもらわないといけない。でなければ、魔女と遭遇した際、百合華ちゃんの身が危うい」

「わたし、そんなに弱くありません」

「強い弱いの話ではなくて、能力の性質の話だ。魔女が本気を出せば、かなりの範囲で通常空間の物質が数分と経たず消滅するはずだ」

「それほどの力が?」百合華は眉をひそめる。

「あると考えていいだろう」

 旧市街を見、芝生を踏みつけた耀真は「じゃあ、こうしましょう」と勢い込んでいった。

「俺が走って先行します。二人はトラックで」

「耀真が一人になったら騎士団に殺されるかもしれないよ」

「時間がないんだ」

「耀真くんがいいなら、その案で行こう」

「ユーグさん」百合華が怒鳴る。

「耀真くんには一刻も早くシアちゃんと合流してもらいたい」

「二対一で決まりだな。俺は行くぞ」

 走り出した背中に、耀真、と百合華の声をぶつけられたが、構わず体のギアを引き上げた。


               ○


飛び立とうとする昆虫型の冥魔は家二、三件ぶんに匹敵する大きさのハエに似た胴体にトンボの羽根、アリの牙を持って、鱗粉を撒き散らしている。鱗粉をふりかけられた家屋や石塀は砂のようにさらさらと分解されていく。

キェェェェェェ

 奇声を上げて、ついにふわりと浮き上がった。

「雑魚の分際で喧しい」

 冥魔の上を取ったシアは両手を向かい合わせ、その合間に燐光を集める。巨大な光球を作り出し、手のひらで押し出すように冥魔へ放つ。光の柱が宙を走り、昆虫の胴を撃ち抜いた。シアが両手を開くと、光柱も二分され、昆虫の体を頭から尻まで真っ二つに焼き裂いた。

 落下を始めた冥魔の体は一息に霧散して舞い上がり、金色の粉雪となって町に降り注ぐ。

「なぜあんなクズがこんなところに」

解せぬことを考えながら、幌の張ってあるトラックを探す。まだ近くを走っているだろうか。

「それほど鈍ってはいないようね」

 聞き覚えのある声、神経を逆撫でする声音だ。

振り向くと、とある家屋の屋根の突端に見知った顔があった。忘れたくても忘れられない顔だ。全身が震え、沸き立つほどの熱を帯びる。

「貴様、生きていたのか」

「この私があんな下らない死に方するわけないじゃないの。もうろくしたわね、シアちゃん」

「気安く呼ぶな」

「私はいま、真夜と名乗っているの。気安く呼んでくれて構わないわよ」

「ふざけたことを抜かす」

シアは片手を振って言葉の余韻を吹き飛ばすと、もう片手に光球を握る。真夜に向けて放った。

フリルの傘を一閃、石突きが光球を両断して爆発する。

「チッ……」

「ま、物騒なこと」

真夜は手で口元を覆う。わざとらしい。

「貴様がこの冥魔を仕掛けたのか」

「そうそう」と軽く頷く彼女にはまだ奥があるのが透けて見える。まさか……。

「この騒動そのものを仕掛けたのも貴様なのか?」

「そうそう。私が第六騎士団を操り、この騒乱を起こさせた。まあ、些細な争いよね。世界中で起きている戦争に比べれば」

「そういう問題なものか」全身に力を漲らせると、体から噴き出す燐光の量が大幅に増す。両の腕に集め、白く輝かせる。「今度こそ、私が葬ってあげる」

「あらあら、力不足のお姫さまが従者もなしにこの私に挑むというのはお笑い草だわ。トンだメルヘンね」

「メルヘンではない!」

 一息に加速して真夜の頭上から右手を一閃。顔面に斬り込む手前で布地の傘に防がれる。剣のように握られた傘の強度が尋常ではない。

「ヌルいのよ、あなたの力は」

「なんですって?」

「その程度の力であるのなら、もう少し寝かせていてもよかった」

 真夜の膂力に手刀が押し退けられる。

空気中に振動を起こすことでバランスを取り、もう片手を薙ぐ。真夜が着ていたコートを裂いたが中身は空だ。コートを脱ぎ捨てた真夜は身を引いたのも一瞬、間合いを詰め直し、傘を振る。布の生地が黒いもやに包まれて、扇状の尾を引いた。

 これは避けきれない。

 切断されたコートに腕を巻かれながら辛うじて展開したバリアは短いスパークのあと、脆くも砕かれた。衝撃で体ごと後退するが、すぐに体勢を立て直す。

「あははは!」と白いブラウス姿になった真夜が屋根を踏み切り、空へ飛び立つ。

「貴様っ!」

指から光線を放ち、腕を振って真夜を狙う。が、ジグザグに飛行する目標は捕まらない。

「逃がしはしない」

「逃げているのではなくて見逃してあげているのよ」

接近しては打ち合い、離れては光線で追撃する。

交錯し、上下左右が入れ替わり、閃いたスパーク光が黒いもやに塗り潰されていく。


               ○


 空に赤い稲妻が走ったのが異変の始まりだった。続けて地鳴りが響き、冥魔が現れ、幾ばくもなく金の雪が舞い降りてきた。

 続けざまに起きたトラブルは一部の騎士団員をパニックに陥れ、戦線は大いに乱れた。

旧市街に出撃していた佐伯もその煽りを受け、パートナーとはぐれてしまっていた。正確には、冥魔を討伐に向かったパートナーと敢えて別れ、異端者狩りを続けようとしていた。

「あっちは人が集まりそうだし、オレはこっちの仕事を続ければいいんだよな。なんたって、第六騎士団長の勅命なんだからサボるわけにもいかないし」

 次の得物はどこか。

 視界を巡らせたとき、遠くの空に人影が見えた。信じられない。赤い夜空を背に、燃え残っている家屋の上を走る一人の男。間違いない。藤崎耀真。

 頭が白熱し、手足がかたまる。かみしめた奥歯が音を鳴らした。

「あの野郎、なんで……」

 体が反射で走り出していた。耀真の行く先を遮ろうとして、間に合わないと断じるや、地面を思い切り蹴り上げた。土中に抉り込んだ爪先がアスファルトを盛り上げて振り抜かれると、小山を作る。目の前の家屋を半分飲み込んで、佐伯の視界から耀真を隠した。

 巻き込んだか? それとも、まだ生きているか? 見える範囲にはいない。

 佐伯は十メートルばかりの小山を駆け上がり、頂上に立って、反対側の麓を見下ろした。耀真がうずくまっている。立ち上がり、こちらを見据えていた。強烈に光るその眼差し。

 頭に昇った熱が溢れ出して、喉からこぼれ落ちる。

「てめえ、なんでここにいやがる!」

「いまはおまえに構ってる暇はない」

 平静な声音。急いでいるふうはあるが、常時の口調だ。

 なぜ平静でいられる?

「おまえが次に牢屋から出るのは死ぬときだって話したけどよ、まさかわざわざオレに死刑を執行して欲しいとはな」

「佐伯、俺はいま無駄に戦いたくない。先に行かせてくれないか?」

「やだね」小山の頂上を蹴り飛ばすと、液化していた石が宙でかたまり、耀真の上に降り注ぐ。ひさしにした奴の腕を叩き、全身をかすめ、いたぶる。くり返し、くり返し、蹴り飛ばす。「無駄な戦いってよ、これから殺される野郎の台詞じゃねえな。するんなら命乞いをしてみせな」

「いまの俺には勝てないぞ」

「なに?」爪先がぴたりと止まる。下がり始めていた溜飲が喉元まで上がってくる。血が沸いてくる。「舐めたこといってくれるじゃねえか。おまえみたいな雑魚が!」

 一息に坂道を駆け下り、右腕を剣に成形。

これで頭をかち割ってやる。

振り下ろした刃が折れ、宙を飛んだ。耀真が軽く振った手刀に断ち切られたのだ。

青い粒子がさらりと宙を舞う。

「なんだと……」

神経を繋いでいないから、右腕を失った感覚はない。上腕のない肘を見ても、頭が理解できない。なにをされた?

 左腕を杭にして耀真の胸元へ。簡単に屈んでかわされる。懐に入ってくる。膝を持ち上げ、脇腹にぶち込もうとした。が、耀真の手刀一閃、太ももが切断された。バランスが崩れる前に、胸元を押され、後方へ転がされる。

 こんなこと、あるはずがない。

 頭を振って、持ち上げた。耀真がこちらを見下ろしている。哀れむような瞳に苛立ちが募る。歯がぎりと鳴る。

「なにをした? おまえの技でオレの岩が砕けるはずがない」

「ダイヤモンドとか、ピーナッツと同じだ」

「なに?」

「縦方向からの負担に強くても、横方向からの負担に弱い。佐伯の手足、というか、作る岩石はそういう構造になってる。いまの俺の力なら簡単にわかるんだ。どこが、その横方向なのか、もな」

「そんなもん、わかるはずがない」

「佐伯、もうやめないか?」

「ふざけるなよ」内臓を吐き出すほどの慟哭。左の拳をアスファルトに叩きつけた。「おまえだけは認めない。おまえみたいなゲス野郎に、負けられるものかよ」

「佐伯、俺は……」

「百合華のことを少しも考えられないてめえに、力でも劣ってなるものかよ」

アスファルトが膨らみ、手足を成形し、胴と接合される。地面と切り離される。

こいつはここでぶち殺す。

「殺してやる!」

 立ち上がった佐伯は腕を広げて、木枝の如く変形させる。枝先は針のように鋭く、耀真を囲い込む。

「ハチの巣にしてよおっ!」

「無駄だ!」

 耀真の手刀が青い光の粒子を振り撒いて、その残像を宙に刻む。針山を尽く打ち砕く。

 こんなことが……。

「歯、食いしばれよ、佐伯」

 目の前に立ちはだかった耀真が拳を握る。


               ○


 火にあぶられた暗い空に光の玉が走り、赤い線を引く。高速で宙を動く真夜の軌道が左右に大きくぶれ、再加速する。後方にぴたりと張りついていた二つの光球は目標の影を追って交錯、爆光に転じた。

 真夜と垂直方向に飛んでいたシアは指先から光線を放ち、敵の進行ルートを塞ぐ。軌道を右斜め上昇に移した真夜の前には光球があり、横軸からも三つの光球が突撃していく。

 急停止した真夜は傘を振り、前方から来る光球を斬った。

 爆光が拡がる。

 煙を上げる光の塊に、光球が一つ、二つ、三つと立て続けに直撃し、その規模を拡大させる。

シアは胸元で両手を向かい合わせにすると、力を込めた。体から漏れ出す光の粒子が手のひらの間に集まり、球になる。そのまま突き出された光の塊は、赤く輝く柱となって爆光を撃ち抜いた。

「手応えがない」

 ビームの照射を止めて周囲の空気を探知する。背後に霧が集まっていることに気がついた。

「こいつ……」

 振り向いたときには黒い影が真夜の形を取る。右手に携えていた傘が振り下ろされようとしたそのとき、遙か上空から隕石然と降ってくるものがあった。隕石はそのまま真夜に直撃し、地上まで突き落とす。

降ってきたのは黒髪の少女だった。腰まである長髪を払い、シアに冷淡な目を向ける。片手にしているのは黒塗りの長棒だ。

「ご無事で?」と彼女は問うてくる。

「あなたは?」

「綾薙の者です。名を百合華と申します」

観察するような目をこちらに注ぎながらいう。

「綾薙の者か」

「わたしはあなたの味方というわけではありません」ですが、と百合華はさらに続ける。「いまは共通の敵を退けるため、力を合わせましょう」

「しかし、あなたの能力ではやつに近づくのは危険よ」

「ユーグさんも来ています。いまは彼の結界の中に」

 準備は万端ということか。

「わかった。ただ、やつは退けるのではなく、ここで消滅させるつもりで戦わなくてはダメ」

 百合華がむっとした顔をする。「わかってますよ」

 二人で街角に降りると、そこではユーグと真夜が向かい合っていた。

「ここまでだな、魔女」

ユーグが声高に宣言する。腰元に携えた鞘から長剣を引き抜き、切っ先を真夜へ向けた。

「ストラトス、高村の件はご苦労だったわね。なかなか面白かったわ」

「おまえも同じ道を辿ることになるぞ」

「どうかしらねえ、こんなメンツで」真夜はやや埃に汚れたブラウスを叩いて、滑らかな髪に手櫛を通す。「私という存在を知っていて、さらに戦いになると察していながら、この場に集まった十聖人の末裔が綾薙とストラトスのたった二人。エリシオンは私が思っている以上に秩序が乱れているわね。残念でならないわ」

「それでも貴様はここで倒す」

 左に傾げた中段に構え、駆けたユーグはその長剣を斬り下げる。切っ先は布地の傘と身をすり合わせてから弾かれ、返した刃が真夜の頭上へ振り下ろされる。それも軽々防がれるが、ユーグの剣さばきは神速といって相違ない。

 ユーグは素早く退き、一歩踏み出したときには流れるような刺突を繰り出している。盾にされた傘を擦過し、続けざまの剣戟を真夜とかわす。

「なかなかやるのね、あの優男」

「ユーグさんは祖父の一番弟子だった人です」百合華はいい、武器を両手に構える。「わたしたちも行きます」

「ええ」

シアは金髪をたなびかせ、空に舞う。全身に力を漲らせ、赤光の強度を上げる。粒子の数を無理矢理に引き上げる。

 風を引き連れて真夜の側面に回り込んだ百合華は標的を間合いに捉えるやいなや斬りかかる。ユーグとの競り合いから大きく退いた真夜の傘に受け止められるも、足腰の屈伸で体重を動かし、二撃目、三撃目と剣戟を交わす。その度に大気がひどく揺れる。

上空に昇っていたシアがレーザーを放ち、真夜と百合華の間に細い溝を穿つ。距離ができたことも顧みず薙いだ百合華の黒棒には真空の刃が巻きついていただろうに、真夜は軽く傘を振っただけでしのぎ、さらには一歩踏み込んで傘を斬り上げる。石突きは百合華の胸を撫でて過ぎた。百合華がかわしたからジャケット一枚で済んだものの、そうでなければ撫で切りにされていた。

ユーグが接近して斬りかかる。真夜は軽やかに身を翻すと、高く跳ねた。シアが放っていた光弾をジグザグに移動してかわし、最後の一弾を斬り落とす。その爆光を抜けてさらに高度を上げると、シアに並んだ。

「ちょこざいな仲間を集めたわね」

「私のしたことじゃない。こんな非道は許さないという思いがさせたこと」

「非道か。それをしているのも人だけれどね」

「貴様がさせたことだろう」

「人にはその素質があるから」

 接近し合って、振った手刀がスパーク光を閃かせる。押されている、と感じて、引き下がったシアは、十に上る光弾を周囲に生成、ゆるゆると停滞させる。

「そんな子供だましで」真夜が声高に笑う。

「悠長なことを」

 再度接近をかけ、手刀と傘を交わらせる。その手刀がチカリと明滅すると、巨大な爆光を押し拡げた。その余韻の中からシアが飛び出し、片手を空に向ける。腕から放たれた赤い光線は瞬く間に肥大し、光の柱となって天に突き立つ。

 敵は光弾の檻の中、今度こそは逃がさない。

「一閃っ!」

 振り下ろされた光柱は爆破の余韻を斬り裂いて、眼下の町に深々と溝を穿つ。

「今度こそ、どうだ」

 肩で息をしながら周囲を警戒する。やつの姿はない。黒い霧の気配もない。

 爆光が収束していく。その中心に人の影が……。石突きを前面に押し出し、衝撃波を巻いて突撃してくる。

「なんて奴」

シアは手のひらを向かい合わせ、力を集中させる。圧縮したバリアを胸元に抱くも、容易く砕かれ、シアの体は高速で落下する。姿勢を制御することもできず、落ちていく感覚の中で、来たるべき衝撃を覚悟したそのとき、ふわりとした温もりに抱き留められた。

「耀真……」

「迎えに来たよ」

「遅かったじゃないの」

「悪い」

耀真は抱えていたシアを路上に座らせ、舞い降りてきた真夜との間に立ちはだかった。

「来たのね、耀真くん」

「あんたにも、悪かったな。ずいぶん遅れた」

「私の方こそ、耀真くんが来るより先にシアちゃんを倒しておくと話していたのに、ごめんなさいね」

 手の甲を口元にやって高笑いを決める。シアが立ち上がろうとしたところで、目の前に耀真の手のひらがかざされる。

「真夜、もうやめないか? これ以上の戦いは無駄だろう」

「耀真」

「いいんだ、シア」耀真はこちらに目をくれたのも一瞬、真夜に据え直す。「ここで退いてくれないか?」

「退かなければどうするというの?」

「俺は真夜を殴らなきゃならなくなる」

眼前で拳を握る耀真を真夜は満足げに眺めていた。

「私、痛めつけられるのも嫌いではなくってよ」

「引き下がってはくれないか」

「くれないわね」

「仕方がない」

 真夜と耀真が双方駆け出す。乱暴に振り下ろされた真夜の傘を耀真は横っ飛びでかわす。真夜の斬り返しは早い。斬り上げ、胴薙ぎ、袈裟斬り、と舞うように繰り出される連撃が耀真の二の腕をかすめた。上着の袖に切れ目が入り、赤い血が噴き出す。鮮血が真夜の桃色の頬に点々と染みを作る。

「あら、意外に脆いのね!」

 さらに乱暴に振られる傘はその石突で耀真の太股を浅く裂く。突き出された先端は脇腹を掠め、血に濡れる。

 あの子は力を使いこなせていないのか? 真夜の斬撃をまるで跳ね返せていない。

「シア!」と横合いから声が聞こえた。百合華だ。屋根を跳ねて、路肩に降りる。「見ていないで!」

 ぼんやりしている自分に気がついた。これではいけない。

助けに入ろうと動き出したとき、真夜と耀真は再び最接近していた。よろけた耀真の頭を直上から傘が狙う。黒い尾を宙に刻む。真夜の顔が愉悦に歪む。

ダメだ。殺される。

「耀真!」

 バチンと音を鳴らして、耀真の腕が傘を軽々受け止めた。

「え」

 声を盛らした真夜の顔面に耀真の拳が抉り込んだ。腰を捻り、膝の屈伸を使って、全身でのび上がるような鉄拳が真夜の顎を撃ち抜き、彼女を体ごと吹き飛ばした。

 手にしていた傘を手放した真夜は受け身を取ることもなく、アスファルトの上を転がる。


               ○


「な、殴った」

呆然とした百合華の呟きにシアも意識を取り戻す。これほど鮮やかに魔女が殴り飛ばされたのを見たことがない。

「躊躇なく、女性の顔を殴るとは……」

 百合華はやや呆れ気味だ。耀真は超然と立ったまま、うずくまる真夜を見据えている。丸まってうつ伏せる真夜の背中が震えている。

「なんだ」とユーグも駆けつけてくる。「なにがあったんだい?」

「それが……」

「あはははははっ!」

 上体を起こした真夜はしゃがんだまま盛大に笑う。ついに狂ったかと思う。前々からずいぶんと狂ってはいたが。

はあはあ、と肩で息を始めた真夜は人心地ついたらしい。ブラウスの袖で口元を拭っていた。唇の端から赤黒い液体がこぼれ落ちる。

「素晴らしい。素敵な一撃だったわよ、耀真くん」

 耀真は探るように真夜との間合いを、一歩、また一歩、と詰めていく。

「迂闊だったわねえ。そうよ、シアちゃんの力を使いこなせないはずないわよねえ。ずっと求めていたのでしょう? 完全に訓練されていて然るべきだわ。あの程度の力では弾かれて当然よね。でも……」

 うっとりとしたように呟く真夜の頬が桃色に染まる。

「あえて片腕を差し出して悔いないその気概と決断力。あなたを求めた私の感性は正しかった」

「真夜、これで退いてくれなければ、おまえを殺すことになる」

「優しいのね」

「俺は鬼にもなるよ」

「いまの一撃で殺しておけばよかったのに」

立ち上がった真夜の足もとから黒い煙が滲み出す。

「来るわよ!」

 シアが叫ぶと同時に黒い煙は猛烈に噴き出して、町を包み、渦を巻く。

「なんです、これは?」百合華が腕で顔を覆ったまま、戸惑いの声を上げる。「指先が痺れてくるんですけど」

「無の領域」とシアは呟く。「高レベルの冥魔が作り出す、内包するもののすべてを消失させていく結界よ」

「魔女の力がこれほどとは……」

 家屋、塀、電柱、樹木に乗用車、町のすべてを浸食していく。町を焼いていた炎、星の光も尽く黒く塗り潰し、アスファルトを剥がして、下の大地を舐めるように削っていく。

 ち、とユーグが舌打ちをした。

「僕の結界もあまり長くは保たないかもしれない。耀真くん!」

「わかっています」

耀真が前屈みになったところで、真夜が「おっと」とおどけた声を上げた。

「ここから先は私と耀真くんのお楽しみタイム。邪魔をされては堪らないわ」

 指を鳴らした彼女の足元にちゃろりと動く影がある。黒い毛皮の、リスに似た小さな哺乳類だ。

「外野諸君の相手は彼に任す」

「そんな小動物……」

百合華が黒棒をかたく握る。と、四肢を強張らせたリスもどきの体が膨らんで、体格も顔つきも肉食獣のそれになる。筋肉は体中に張り出して、噛み合わせた鋭い牙の間からは唾液が滴り落ちている。膨れ上がった肉体といい、豪快なたてがみといい、その生物は黒いライオンといった風情だ。

 百合華はぎょっとし、身を退いた。

「ちょっと厄介かもね」

「雑魚には構わず、あの女だけを狙うわよ」

 シアは軽く浮き上がり、一直線に真夜を目指す。指先の照準は向かってくる獣に合わせ、レーザーを放った。

ライオンに似た巨体が横にずれる。急制動をかけたシアは間合いを取り直して、レーザーで追撃をかけた。が、冥魔は飛び上がってかわし、飛びかかってくる。巨躯に押し倒され、思わず「ひゃあ」と小さく悲鳴を上げる。

「シアっ!」

「耀真は敵に集中しなさい」

手のひらに光の粒子を集め、白熱させる。獣の腹部に拳を打ち込み、爆ぜさせた。

凄まじい爆光に視界を失い、能力による探知も歪む。ただ、覆い被さっていた重石は失せた。その間に地を滑るようにして移動、地面に立って周囲を見渡すが、敵は肉眼に映らない。致命傷は与えていない。やつはまだ生きて、近くを這っている。

 瞬間的に拡げた知覚野で獣の姿を捉える。こちらに高速で向かってくる。

この敵を無視して、遠ざかる耀真と真夜を追うのは難しいか。

 シアは光の粒子を手のひらに集め、そこからはみ出すくらいの玉にして放った。同心円状の衝撃波を拡げる勢いで飛んだ弾は地面で爆ぜ、暗闇の中に飛び上がった獣の姿を浮かび上がらせる。

こちらに来る直線的な動きの先を呼んで、タイミングを計る。

向かい合わせた手のひらの間に小さな赤い球体が生まれ、シアの体から溢れ出る燐光を吸い込んで大きくなる。

獣が地を蹴って飛び上がった。

「消し飛びなさいっ!」

 赤い光柱が夜空を迸る。黒い影は直撃する寸前、身をひるがえしてみせた。宙にいるにもかかわらず、だ。

「うそっ!」

 思わず体を強張らせたシアは頬に鋭い羽毛の感触を覚えた。無性に息苦しくなってその場を離れる。

「なんだってのよ、いったい」

 目の前に黒い帯が引かれ、炎のようにゆらゆらと揺れている。

 一帯を覆う黒い嵐より密度の濃い無の領域だ。自身の能力に守られているシアですら、迂闊に触れるのはためらわれる。

空にのびる帯の先には一羽の猛禽がいる。頭上を旋回していた。

「あいつ、ただ動き回ってるだけじゃなさそうね」

 あれの動いた軌跡は天地の関係なく、黒い炎の帯でそこら中に刻まれている。

こちらを囲い込もうとしている。

 頭上で円を描いていた猛禽が急降下する。地表ぎりぎりになって体を覆っていた羽毛が抜け、下に敷き詰められていたウロコが露出し、トカゲかワニのようになって黒い炎の合間に姿を消した。

目視は困難を極める。エコーロケーションだ。しかし、敵の動きが早い。捉えても、シアの攻撃にタイムラグがありすぎる。

 シアは数センチだけ体を浮かせ、高速移動をしながら、相手の居所を窺った。が、ジグザグに近づいてくる敵に隙という隙はない。ちい、と思わず舌打ちが漏れる。

「調子に乗って……」

 指先から放つ細いレーザーで黒いトカゲを追うが、ちょこまかと逃げられる。その行く先にもう一本のレーザーを撃ち立て、交差させるように地面を穿った。が、猛禽に変身し直した影が金髪をかすめて、シアの後方に抜ける。すぐに振り向くと、黒い猿が鬼の形相で飛びかかってきた。

 咄嗟に光の膜を張ると、スパーク光が上がった。思いの外に重い質量に顔を歪めながら猿の体を押し返す。黒い影は軽々と跳び、またなにかに変身して闇の中に消えていった。

「早いとこ、耀真たちを助けにいかないといけないのに……」

 視界を遮るように、全身を絡め取るように、暗黒の風が吹き荒ぶ。


               ○


「雑魚には構わず、あいつだけを狙うわよ」

 シアの声に耀真と百合華が連動して真夜を狙う。獣を迎撃するために放たれたレーザーは意味を成さず、シアは悲鳴を上げて黒い塊に押し潰された。

「シアっ!」

叫んだ耀真が急停止して振り返る。

「耀真は敵に集中しなさい」

 一方、百合華が打ち込んだ安綱は魔女の前腕に軽く受け止められている。もう片手で刀身をつかまれそうになったところで飛び退いていたが、間合いを詰められ、拳撃、蹴撃、連続する格闘を防ぐのに手一杯だ。

「いけないな」

 ユーグも走り出し、真夜の側面へ剣を打ち込む。牽制でしかなかったから簡単に避けられるのは当然、ユーグは正眼に構えた切っ先を敵に向けた。背中で百合華の挙動を制する。

「百合華ちゃんはシアちゃんの援護に」

「しかし……」

「あれは恐らく僕向きの敵ではない。魔女は僕が」

 話している間にも耀真と真夜が攻防を重ねている。

「でもユーグさんと離れてはわたしが危険では?」

「数キロ程度なら問題ない。息苦しくなったら僕のところへ」

 百合華に戸惑う気配があったが、それも一瞬のことだ。「わかりましたよ、耀真のことお願いします」

 百合華が去ったことをちらと確かめ、真夜へ詰め寄る。耀真の押し込みに身を退く敵の胴を狙った剣先がブラウスを裂く。

「女の子一人相手に男が二人とはね」楽しげに笑う。

「なにが女の子か」

 真夜がステップを踏んだ先には耀真がいる。左右の拳を振るが当たらない。むしろ、彼女の回し蹴りが耀真の頬を直撃した。まだ爪先で踏ん張れているから問題ないのだろうが。

 ユーグは真夜の背後に回り込み、剣を振るう。ブラウスの袖先を断つ。ち、と思わず舌打ちが漏れた。まだ踏み込みが甘い。

「この程度とはね、ストラトス」

「貴様も噂ほどではないな」

「私が本気だとでも」

「なにを」

 ユーグは深々と踏み込んで、腰だめから一気に刺突を繰り出す。が、脇腹をかすめただけだ。まだ。このまま胴を裂く。

 乱暴に振ろうとした刀身が細い二本指に挟まれる。微動としない。直後、しのぎに掌底を打ち込まれ、長剣が折れた。

「くそ」

「外野といったはずよ」

 真夜がゼロ距離に迫る。

 剣は折れてはいるが、刃がないわけではない。この距離であればいっそ短い方が有利。

 ユーグも踏み込み、敵の白い喉元めがけて突き出す。皮膚を薄く裂いた。真夜の拳がみぞおちに沈む。膝が折れかける。だが、まだ生きている。立っている。彼女の胸ぐらをつかみ、喉を裂こうとした。が、腕に力が入らない。膝からも力が抜ける。急激に重みを増した体が地に落ちた。

「惜しかったわね」

 介錯するが如く、手刀が降りかかる。次の瞬間、青い光が眼前を横切った。続いて、耀真の背中に視界が塞がれる。

「無理はしないでください」

「無理をしなければ倒せる敵ではない」

「それは俺の仕事です」

 耀真の爪先が勢いよく地を弾いた。真夜と拳を交差させる。


               ○


黒い帯が縦横無尽、幾重にも重なって、大きな巣を形成しているようだった。

百合華は帯の合間をくぐり抜け、足元に赤い光を見つけた。シアが全身にまとう光のオーラだ。

「いつまで遊んでるんですか!」

 叱咤すると向こうもこちらに気がついて、端正な顔を上げた。やはりどこか作り物めいている。

「これはわたしがやります。あなたは耀真を助けに行って」

「あいつ、ただの雑魚じゃないわよ」

「わたしだって、それほど弱くはありません」

「右から来る」

 右手の炎をかき分けてきた猛禽に百合華は安綱を一閃する。行き違う瞬間、猛禽は断ち切られた翼から黒い霧を噴き出させ、音を立てて百合華の背中の方に転がっていく。

「ほら、わたしにだってこれくらい……」

「まだ終わっていない!」

 シアの怒声に振り向くと、目の前を赤い光線が走り、全身が粟立つ。その向こうでは数歩先まで迫っていた黒い猿が飛び退いている。

「ぼーっとしてないの」

「わ、わかってますよ、そんなこと」

 百合華は安綱を構え直す。四肢を踏ん張る猿に傷口はなく、トカゲに変身した体が闇に紛れた。

「わたしがやるっていってるでしょう。あなたはあの女をやってください」

「百合華といったわね」

「ええ」

「あいつの動きを一秒、いや、一瞬だけでも止められる?」

「え? まあ、一秒くらいなら……」

「なら任せるわよ」

 シアは高く飛び上がった。中空で強く閃く。

「なんなのよ、まったく」

 愚痴った百合華は全神経を目前の闇の中に凝らした。そこから飛び出した薄っぺらな黒い影が滑空して空にのぼる。

「逃さないわよ」

 一声上げた百合華も飛び上がって、懐から引き抜いた扇子を振り回す。巻き起こった乱気流が黒い猛禽をもみくちゃにして地に叩き落とした。

 空から見た地上は黒い炎の海だ。そこに再び下りるのは気が引けたが仕方がない、と百合華も着地する。四方には数メートル程度のスペースしかなく、百合華がいる安全地帯もいずれ呑まれてしまいそうだ。

 おぼろな月光の下。

黒い嵐と炎に紛れた敵を探す。どこにも見当たらない。闇に紛れて不意打ちをしてくるのだろう。標的をシアからこちらに切り替えたらしい。

炎の向こう側、目には見えないところに神経を尖らせる。右、左、前、後ろ。どこから来る?

腰元に安綱を刺し、左手を支えにして右手で柄を握る。足を前後に開いて低くなったその姿勢は居合いの型だ。

「おじいちゃん、お父さん……」

 物心ついたときから磨き上げられてきた剣士としての勘。一秒、二秒、脈拍を聞きながら、それに任せて安綱を抜いた。

 迫っていた獣の頬を削ぎ、喉を深々と斬る。その巨体が慣性に乗って、身をひるがえした百合華をかすめて過ぎた。

 百合華は即座に飛び上がって、眼下に四肢を痙攣させる獣を捉える。宙で一回転した勢いも借りて投じた安綱が衝撃波の白い帯を引いて、黒い獣の腹を射抜いた。地面にはりつける。

「シアっ!」

「下がってなさいっ!」

 赤い光が強烈なほど閃いた。闇を払い、放たれた巨大な赤色の光芒が夜を裂く。黒い獣を包んで霧散させ、大地を吹き飛ばす。夜の空が真っ赤に染まった。

「ああ、わたしの安綱が……」

 特殊な素材でできているとはいえ、あれに巻き込まれて無事とは思えない。

「耀真は無事かしら?」

 遠くに目をやると、鳥の巣の如く張り巡らされていた炎は消え失せ、黒い嵐は止んでいた。


                  ○


漆黒の嵐だ。

 真夜の拳が耀真のかかげた腕を打ち、しならせる。左右からフックのようにくり出され、時折蹴りも混じる。顔面めがけたハイキックを両腕で防いだ耀真の足が踏ん張りきれず、地面を擦って後退する。直後、黒い嵐を巻き込んで小さな渦を作った真夜の拳がみぞおちに抉り込んだ。くの字に折れた耀真の体が宙を飛び、地面で跳ねた。倒れたまま、胃液の逆流を堪えられず嘔吐する。

「なかなかにタフな男。まだ生きているだなんて」

真夜の口元が舟形に歪む。

耀真は胃液の混ざった酸っぱい唾液を吐き出して口もとを拭うと膝を無理矢理に立てた。

腹は穴が空いてないのが不思議なくらい痛む。頭が揺れる。それでも、足腰に力は入る。手も握り込める。腕も振れる。まだ戦える。

「耀真くん、こんなところで死ぬことはないわ。私とともに来なさい」

「誰が……!」

「こんな世界に束縛されているだなんて、つまらないことだと思わない?」

「思わないな。束縛されてるとも思っていない」

「意地を張らなくていいの。もっと自分を解き放ちなさい。不要なものは捨て、気に入らないものは消してしまえばいい。自由って素晴らしいわよ」

 真夜の声が耳を這い、脳みそに染み込む。

「あなたにもあるでしょう? 恨み、つらみ、決して消せない怨念が。私がそこから解放してあげる。それだけの力を与えてあげる」

 怨念?

 黒々としたものが内心に生まれるのを自覚した。渦を巻いて、胸の奥底に熱を灯す。

 八年前の、あのときの孤独に足を掴まれて息ができない。這い上ってくる。

 差し伸べられた真夜の手が指を折って耀真を誘う。

「さあ、私と誓約しなさい。すべての束縛から解き放たれるの」

 喉元に指が触れる。冷たい、柔らかな感触。

「真夜、いったはずだ」

 耀真は緑色の瞳をはっきりと見据えた。

「俺はただ胸を張って生きていたいだけだと。自分に、シアに恥じるような生き方はしない」

 真夜の腕を優しく払いのけると、彼女はよろめくように引き下がる。

「俺の名は藤崎耀真。シアを守る、誓約の騎士だ」

「勇ましい子」真夜が両の拳を開閉し、握り直す。「ここまで生きてこられたのは偶然ではないのね」

 両の手足に力を込めた耀真は知覚を最大限まで尖らせる。震える足を立ち上がらせる。

俺の中に光り輝くものがあるのなら、その輝きをすべて燃やし尽くしてもいい。

「あなたの運命を試してあげる」

 襲い来る真夜の腕に黒い渦がまとわりつく。まっすぐに来るその腕を手の甲で弾き、真夜の懐に入った耀真は脇腹をえぐるように体重を乗せた一撃を振るった。一息早く割って入った真夜の肘を軋ませる。

「やるのね!」

「やってやる!」

 立て続けに撃ち出される二人の拳が群青の燐光と黒い嵐を押し拡げる。余波を浴びた大地は削られて塵となり、無に帰っていく。

「うおおおおおおっ!」

 魂の奥底から溢れ出す力が雄叫びとなり、手足から発する群青の光となる。腕の軌跡を描いた光の残像が真夜の腹部をかすめた。白いブラウスに切れ目を入れる。

 真夜の手が耀真の腕をつかんでくる。無理矢理振り解いても執拗に来る。その手を耀真はつかみ返し、あらん限りの力を込めた。もう片方の手でも力比べになる。

 このまま指を握り潰して、腕をへし折ってやる。

「押し潰してやる!」

「まだ力が上がるというの?」

「うああああああっ!」

 力の抜けた真夜の腕を引いて、白い頬を殴り抜いた。華奢な体がぶっ飛んでいく。

ほとんど同じ速さで宙を駆けた耀真はまだ屈んでいる真夜の頭上から無数のパンチを叩き込む。その合間をぬって、振られた真夜の手刀が黒い塊を放った。それを殴り返している間に浮き上がった真夜が一歩ぶん退き、ふらつきながらも立ち上がった。はあはあ、と肩で息をしている。

「楽しい。これほど楽しい戦いは本当に久しぶり」

「そりゃ、光栄だよ」

こちらはもうぎりぎりだ。あと一歩踏み出せ、と体に命令する。足を動かせ。

 そのとき、遠くの空で赤い光が上がった。長大なレーザーになって町を吹き飛ばすと、夜の空を食い破る。

「シアちゃんには不向きだと思っていたけれど、もう終わっちゃったのね」空を見上げていたエメラルドグリーンの瞳が耀真を映した。「楽しい時間は短いものね。そろそろ逃げなくっちゃ」

「逃すと思ってるのか?」

「この私が逃げられないと思って?」真夜が声高に笑う。「次の一撃は思い切り行くわよ」

 広く町を包んでいた黒い嵐が真夜に凝集し、一際濃く深くなって足もとから噴き上がった。

「いま謝るのなら許してあげる。私って優しいから」

 ゆらゆらと火影のように蠢く闇の陽炎。その向こうに真夜の姿がある。

耀真も握った拳にあらゆる力を込める。自分の想いも経験も成長も。まだ長くはない人生で拾ったもの、与えられたもの。シアから授かったこの希望の光に乗せて……。

爪先で地面を弾いた両者が交錯する。

「撃ち抜くっ!」

 群青の尾を引いて、突き出した拳は疾駆してくる闇を押し退けて、その先にあった肉を撃った。

 闇の断片が無防備になった耀真の頬をかすめ、肩をえぐっていった。傾いた体を支えられず、耀真は肩を打ちつけるようにして倒れる。

 右肩から頭まで顔半分の感覚がない。耳鳴りに苛まれながら盛大に咳き込む。押さえることもできず飛び散る唾には赤いものが混じっていた。

「素晴らしい。素晴らしいわ、耀真くん」

 歪んだ視界に真夜の立ち姿があった。黒い液体で濡れたブラウスの脇腹を押さえている。苦しそうな顔に余裕を張り付けながらこちらを見下している。

「あなたの力がこれほどとは……。本当に惜しい逸材だったわ」

 耀真は立てた膝に手をかけたが、それが滑り落ちて土を握る。

「まだだ……!」

 まだシアの力は使える。青い光が指先から漏れ、握力が戻ってくる。

真夜はとどめを刺しに来る。致死性が高いのは接近しての一撃であり、拳の射程が長いのは能力に一日の長がある真夜の方だろう。

しかし、と思う。

もう一撃。もう一撃、やつに撃ち込んでやる。たとえ腕が上がらず、声も出なくとも、もう一撃、シアから授かったこの力、必ず撃ち込む。

一歩、二歩、間合いを計って近づいてくる真夜は耀真と数歩ぶんの間を開けて立ち止まった。やはりこちらの腕が届かない距離。それでも、耀真は、敵の位置、急所の角度、指先に通わせたシアの力を確かめる。

永遠に思える一瞬。

真夜の腕がぴくりと動いた。瞬間、耀真はベルトに携えていたナイフを引き抜き、指先で加速させて放つ。表面をエネルギー化させるイメージだ。

つんのめった耀真のこめかみを、真夜の拳から放たれた闇がかすめていく。

ナイフは、くるくるっと回って飛び、その切っ先を真夜の喉元に突き立てていた。

「あ……、こ、な……」

 焦点の合わない目をナイフの柄に注いだまま、真夜は膝を折った。

喘ぐように喉を掻き、力を失くした細い体が前にのめって、倒れ伏す。黒い霧になって散っていった。西に傾いた満月に薄くかかり、数秒とかからず幻のように消えていく。幻のように……。


                  ○

 

久しぶりに袖を通した制服の生地はいやにかたく感じた。部屋には鏡など置いていないからブレザーの襟もとを整えるのは適当だ。

「耀真、そろそろ起きるんじゃないの?」

 唐突に開かれたふすまの間からシアが顔を出す。百合華からもらったTシャツとデニムパンツというラフ過ぎる格好だった。

「わかってるよ」

「早くしないと、百合華がまたご乱心するわよ」

「なんだか、あいつ最近不安定だよな」

「生理じゃないの?」

「そういうこというなよ。俺の返す言葉がない」

 カバンを持って部屋を出る。廊下に足を踏み出したとき、ふと部屋の中を振り返った。机の引き出しの最上段にあのナイフはもう入っていない。真夜とともに消えてしまった。

「学校っていうのは一日かかるの?」

「一日、というか、日中かな」

「日が出てる間、ってほとんど一日じゃない」むっと顔の真ん中に目鼻を集めるような表情をする。「観光する約束だったのに」

「約束ってほどのことでもなかったけど。週末にね」

「週末かあ」立てた指を折って、残りの日数をカウントする。「ま、封印されてた年月に比べれば、些細な時間よね」

ゆっくりと歩きながら話していると、廊下の曲がり角からけたたましい足音が聞こえてきた。と思う間もなく、学校のブレザーに身を包んだ百合華が姿を現した。二人のことを見て、顔をしかめる。

「シア、耀真を起こすのはわたしの仕事だっていったじゃない」

「百合華は朝ご飯の準備に忙しそうだったから、私はよかれと思って耀真の様子を見に行ったのよ。それに、耀真はもう起きてたわ」

「起きてればいいって話じゃないの」

「面倒くさいわね」

「居候が面倒くさいとかいうな。こっちは家賃も取らないで寝て暮らしてる居候二人も抱えてあげてるのよ。ちょっと前まで耀真と二人暮らしだったのに……」

「いいじゃないか、百合華。それよりも、急がないと久しぶりの学校に遅刻するよ」

「よくないけどね」歯を見せながらいって、百合華は耀真の袖を引いた。「ほら、早く。もう朝ご飯できてるよ」

足早に歩く二人のあとをシアがうんざりしたようについてくる。

 フローリングの台所の真ん中に置かれたダイニングテーブルの上には、焼き魚、卵焼き、おひたし、味噌汁等、並べられていて、かたわらには割烹着を着た美緒がいた。

「みなさん、もう朝ご飯の準備、できてますよ」

「作ったのはわたしだからね。居候二人のぶんも含めて四人ぶん。家主なのに」

「あたしも手伝ってますよ」

「ご飯を盛ったり、お味噌汁盛ったりでしょ。魚も焼けないんだから」

「そ、そうですけど……」と美緒が肩を落とす。

「百合華はよくやってくれてると俺は思うよ」

「本当? じゃ、ほめてくれる?」

 やや下がった黒髪の頭を撫でると、百合華がくすぐったそうな顔をする。

「そんなことしてないで、朝ご飯を食べるんでしょう?」シアは辟易気味にいう。

「わかってますよ」と答える百合華の声はずいぶん柔らかくなっていた。

 そうして四人がテーブルにつこうとしたとき、百合華の上着のポケットから携帯端末の着信音が聞こえた。眉間にしわを作った百合華が液晶に目を落とす。「係長からだし……」と歯噛みしながら電話に出た。

「これから食事なんですが。人手が足りない? そんな、そっちでなんとかしてください。え? もうこっちに車を送ってる? また勝手なこと……。わかりました、わかりましたから。行きますよ」

 乱暴に通話を終わらせ、立ち上がった。

「というわけで、出かけてきます。そのまま学校に行くと思うから留守番とかお願いね」

「百合華、俺も行くよ」

「無理しなくていいよ。耀真は怪我が治ったばっかりなんだから」

「でも、俺は百合華のパートナーだからさ」

「え? そう?」と呟いた百合華の眉が上がる。「ならお願いしようかな」

 直後に鳴ったチャイムに呼ばれ、黒のジャケットをはおった耀真たちは外に出た。日差しは心地よく、風に寒もない。庭にある木々の緑が光って見えた。

 美緒と並んで見送りに出たシアがいう。

「行ってらっしゃい」

「ああ、行ってくるよ」

返した耀真は先を行っていた百合華に追いついて、並んで歩いていった。


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