漆黒の嵐
滝の中にいるようだった。
たわわに花開いた桜の下を抜けて、新緑の濃い山道に入った直後のことだ。大粒の雨を降らせる雲は昼過ぎの空を突如として黒く塗りつぶし、時折紫色にひび割れる。世界が白黒に明滅し、雷鳴が腹に響く。
今朝、園のテレビに映っていた天気予報は、午後から嵐が来る、といっていた。
冷たい雨に濡れた指先が感覚を失い、膝が笑う。歯が打ち鳴らされる音を止めることもできない。枝葉に裂かれた頬が染みるのは雨のせいか、涙のせいか。目頭が熱くなるのを自覚して、さらに泣けてきた。
しかし、と思う。
しかし、なにより痛いのは今朝殴られた脇腹だし、なにより頭に来るのは朝食に泥が混ぜられていたせいで、いまごろ空腹に襲われていることだ。
そうだ。
蹴り飛ばされることも、耳もとで叫ばれることもなく眠れるのなら、雨風が叩きつけてくる貧相な木陰の方がずっといい。
「そうだ。こっちの方がずっといい」
雨に視界を奪われて道を見失ったとき、ふと目に入ったのが古い洋館だった。一目で廃れているとわかっても風雨をしのげる場所を見つけられたのは幸運だ。
朽ちたフランス窓を開けて入った先はタイルを敷いた長い廊下だった。閑散として、雨風と雷の音だけがある。
着古したシャツと靴下を脱ぎ、力いっぱい絞る。バケツ一杯ぶんの泥水が床を濡らし、黒々とした染みを編み目状に拡げていく。
「珍しいわね」
女の人の声だ。
突如頭の中で響いた。いや、実際耳で聞いたのか、幻聴だったのか、わからない。
周りには誰もいない。耳を澄ませても嵐の音しか聞こえない。
「こっちへいらっしゃい」
また聞こえた。
「そこにいると濡れてしまうから」
歩き出そうとした足がひんやりとした感触を踏む。裸足になっていたことに気づいても、びしょ濡れの靴下を履く気にはなれず、服に袖を通す気にもならない。薄汚れたスニーカーにつま先を突っ込んで、半裸のまま廊下を歩く。
窓はどれも格子しか残っていないから、容赦なく雨風が吹き込んでくる。
反対側の壁に張りつくようにして廊下を歩き、エントランスと思しき吹き抜けの空間に出た。ここにも調度品のひとつも置かれていないが、気品は空気の中に残っている。フロアの両端にある二つの階段。それを上階でつなぐ渡り廊下。一階、階段の間にある観音開きの扉は大広間にでも通じているのだろうか。
階下の扉に近づき、滑らかな木目を手のひらで確かめる。少しだけ力を入れるとゆっくり開いた。
外で雷が瞬く。
部屋の奥にあったステンドグラスの鮮やかな色合いが暗い部屋の床に落ち、その中に人の姿を浮かび上がらせる。
女性のブロンズ像だ。
大人の人と変わらない高さを持つブロンズ像が光のない瞳をこちらに据えていた。嵐の音は遠ざかり、呼吸をするのも忘れて見つめ返す。
豪奢なフリルをあしらった裾の広いドレスをまとい、西洋人を思わせるきれいな顔立ちに柔和な微笑みを浮かべている。豊満な髪は細くくびれた腰にかかり、ふっくらとした頬は触れれば柔らかそうだった。両腕は左右に開かれ、細くて長い指先までぴんとのびている。まるで誰かを誘うように、待ちわびているかのように……。
「お客様ね。こんな嵐の中、ご苦労様だこと」
今度ははっきりと聞こえた。大人の女の人の声なのに、どことなく無邪気な声音。しかし、どこから発したのかは見当もつかない。右を見ても、左を見ても、誰もいない。
「誰? 誰かいるの?」と怖じけたような声が自分の喉から出た。
「目の前の銅像よ」
再びブロンズ像を見上げた。端正な顔は先ほどと寸分変わらず、こちらを見据えていた。
「それにしてもずいぶんと小さなお客様ね」
「八歳だよ。もう三年生だから、そんなに小さくない」
「八歳、ね。まあ、嵐が過ぎるまでゆっくりしていくといいわ。外に出ても遭難するのがオチでしょうから」
どこかに雷が落ちた。命の危険を感じさせるような轟音に身が竦む。
「こちらへいらっしゃい」
頷いてブロンズ像の足もとに腰を下ろした。素肌に触れた青銅がひんやりと冷たい。
「服は……、濡れているのね。乾かしてあげるわ」
「どうやって?」
「私の前に並べなさい」
いわれた通り、ジーパンも含めて、像の前に人の形にして並べた。
「近づいちゃダメよ」と聞こえてから十秒足らず。「もういいわよ」
服に触れてみると乾燥機にかけたようにパリパリに乾いていた。泥も水分が飛んで砂となり、服をはためかせると宙に舞った。
「どうやったの?」と服を着直しながら訊ねた。
「魔法を使ったのよ」
「魔法? 君はいったいなんなの?」
「そうね、相応しい言葉を見つけるのは難しいけど、天使、かしら」
「天使さまなら知ってるよ。エリシオン教会の聖典に載ってる、エル、っていうのと一緒でしょ? 神様の使いで、昔から特別な人たち、誓約者っていったかな。その人たちに特別な力を与えてくださるんだ。それで悪いやつらをやっつけてくれる。異端者とか、冥魔とか」
「難しい言葉を知っているのね」と感心した声音が響く。「そうね。人に力を与えているエルもいるわね」
「でも、あれは人の目には見えないって聞いた。君は違うみたい」
「そうね。私は少しだけ特殊だから」
「特殊? なにが?」
「それはまだあなたには早いかしら。乙女の秘密ね」
「なんだよ」と唇を尖らせて胡坐をかいた。「天使さまなのに、なんでこんなところで固まってるのさ?」
「私はね、人を待ってるの」
「人?」
おうむ返しにして銅像のスカートに背中を預ける。逡巡してから訊いた。
「家族とか、友達?」
「そうじゃないわ」
「そうなんだ」と胸を撫で下ろす。「じゃあ、なに?」
「そうね、これも相応しい言葉を見つけるのは難しいわね」
呟く彼女は迷っているようだった。
「そう……、運命の人、かしら」
「それも知ってるよ。恋人のことだ」
「少し違うけど、私に相応しい人、とか、一緒に困難に立ち向かう人、とかいう意味では同じね」
「その人はいつ来るの? どんな人?」
「あなたは……」と苦笑するような声が聞こえた。「驚かないのね。銅像が話しかけているというのに。それとも信じていないのかしら? どうせどこかで人間が声を出しているんだって」
「信じてるよ。君が人間じゃないって」
「なら、どうして驚かないの? ここに来る人間は時折いても、私の声を聞けば逃げ出すわ」
「僕、人間が嫌いなんだ。人が嫌い」
「あら、まだ若いのに世捨て人のようなことをいうのね」
「なに、それ?」
「この世界に希望も興味もなくなって、自分の内側に閉じこもってしまった人」
ん、と唸って、首肯した。
「そうかもしれない。僕だけしかいない世界に行けたらいいと思う」
「どうして?」
訊かれて、今朝のこと、いままでのことを思い出す。沸々と怒りが湧いてくる。
「嫌な奴らばっかりだから、園の奴らも、学校の奴らも」
「園?」
「なんていうの? 親のいない子供たちが集まって暮らしてるとこ」
「孤児院」
「そう、それ」と手を叩く。「殴ってきたり、蹴ってきたり、服や靴なんかはぐちゃぐちゃに汚されたり切られたり。泥棒してこいとかいって、失敗すると全部僕のせいにされるんだ。親のいない可愛そうな子だから仕方がないって、バカにされて。でも、帰ればまた殴られる。大人は誰も信じてくれないし、助けてくれないし。先生がいっておくとか、口先ばっかりなんだ。仲良くしろとかいわれても、できるわけないよ、あんなやつらと」
「それが嫌になってここへ来たのね」
「あんなところにいたら、僕、いつか殺されてたよ」
立てた膝に顔を埋める。黒々としたものが自分の中で渦巻いて、体の奥に熱を灯す。奥歯を鳴らして、拳を握る。
「あなたは偉いのね」
「偉い?」
優しい声音が信じられず、驚いた顔をブロンズ像に向けた。
「僕のどこが?」
「あなたは生きることを諦めなかったもの。それは偉いことだわ」
思わず体を起き上がらせていた。全身から力が抜けていく気分だ。
「そう」と三度ブロンズ像に背中を預けた。「そうかな?」
「ええ。誇りに思っていいわ。それと……」
「それと?」
「泥棒はもうしない方がいいわね」
「はは、そうするよ」
自分の乾いた声が遠い場所で鳴ったように聞こえる。喉が震えて、鼻の奥が痺れると、目尻が濡れた。
顔を両手で擦って、「だからさ」と張り切った声を出した。昂った感情が音量の調節を難しくする。壁に跳ね返った声を自分で聞いて、また体温が上がる。
「だからさ、疑ってないよ、君が天使さま、エルだってこと。前にテレビで偉そうな人が話してたけどさ、誓約者が特殊な力を使えるのは人類の進化じゃないかとかなんとか。あれの方が嘘っぱちだ」あ、と思いついた声を上げた。「さっきいってた乙女の秘密、わかっちゃった」
「あら、鋭いのね」
「教会の聖典にさ、魔女と戦った偉い人たちの話があるでしょ。なんていったかな」
「十聖人」
「そう、そのジュッセイジン? の話。あれ、すごく有名なおとぎ話だけど、その中にエリシオンの秘密があるんじゃないかって噂があるんだよ。オカルトっていうの?」
「ほう」と彼女は感嘆した。「たとえば?」
「たとえば」とおうむ返しにして、顎を上げた。彼女の顔が見える。「本当は君が魔女で、十聖人に負けたからこんなところで石になってる、とか」
「面白い冗談ね」と彼女が笑う。「私はあの魔女とは違う」
「そう」と頷いて、手元に転がっていた小石を拾って、放り投げた。高い音が連続する。
「僕、藤崎耀真っていうんだ。捨てられてた場所が藤崎って場所だったんだって。名前の方は誰がつけたのかわからない。園長先生か、僕を捨てた両親か」
「ヨウマ。覚えておきましょう」
「君の名前はなんていうの? まだ聞いてない。エルは名前じゃないんでしょう?」
「そうね。でも、私たちに名前はないわ。人間と違って、言葉を必要としなかったの。伝えたい相手に伝えたいと思うだけで伝わっていた。この世界に顕現してから、私にはもうできなくなってしまったけど」
「できないことなら名前は必要でしょう? ないのはおかしいよ」
「私は顕現してからは姫としか呼ばれていなかったから」
「姫って、お姫さま? お城にでもいたの?」いってから思いついた。「運命の人って、王子さまのことだ」
「人間の作ったお話の中には、そういうものが多いみたいね」
彼女は苦笑したようにいう。
「そうだ。君のこと、シンデレラって呼ぼうか」
「シンデレラ?」
「お姫さまっていえばそうでしょう?」
「そうなの? でも、少し長くないかしら?」
「じゃ、ちょっと短くしよう」シンデレラ、と呟いた。「シン? いや、シラの方が、それじゃ語呂が悪いから、シアってのはどう? シアちゃん。名前っぽくなったでしょう?」
ため息のような音を吐き出して、彼女は続けた。
「わかったわ。それでいいから、いまは休みなさい。今日はもう帰れないでしょう」
「今日じゃなくても帰れないよ、僕は」
耀真はゆっくりとまぶたを閉じた。
「僕に帰る場所なんてないんだ」
○
日付や曜日、時間などというものは人の社会でしか意味を成さないのだと知った。
シアと出会ってから何度も日が沈んでは昇った。暮らしに不都合はないし、むしろストレスは減ったように思う。食べ物などを採りに山へ出るときはシアが「行ってらっしゃい」と声をかけてくれる。その優しい言葉に「行ってきます」と笑顔で返せるのは嬉しかった。
二人で暮らす間、彼女は色々なことを教えてくれた。火の起こし方、泥水の浄水法、植物の繊維で紐をゆったりもした。それで動物を捕まえて食料にするのだ。食べられる木の実や草、キノコにもシアは詳しい。
「ちゃんと火を通してから食べるのよ」
「わかってるよ」
昼間に捕まえたウサギをナイフで解体し、こま切りにした肉を鋭利な木串に刺す。使っているナイフは屋敷の中に捨てられていたものを研ぎ直したものだ。その研ぎ方、ナイフの使い方もシアから教わった。
タイル張りの床に土を盛り、土手を作る。その中に落葉と薪を組んで火を起こす。種火はウサギのフンを集め、乾燥させて、木やワラの上で擦れば簡単に起きた。火を囲うように肉を刺した木串を並べ、回転させながらこんがりと焼いていく。
焼けた肉と木イチゴが今日の夕食だった。
「今日はさ、山の天辺まで行ってきたんだ」
「そう。今日は晴れていたものね」
「シアちゃんも一緒に見れたらよかったのに」
「仕方ないの、こんな状態なんだもの。私はあなたが見てきたものの話を聞ければ、それだけで嬉しいわ」
耀真は、あっ、と呟いただけで、それ以上はなにも返せなかった。はにかみながら、昼間の景色をできるだけ鮮明に頭の中に思い描き、精一杯の言葉にする。
「山道は木がいっぱい生えてるから、あんまり景色が見えないんだ。それなのに、天辺に着くと急に青空が広がるんだよ。下にはカラフルな町の景色があるんだ。ここは大きい町じゃないけど、駅とかその周りのビルがとっても目立って、間を米粒みたいな車が行ったり来たりして。あとは、遠くに山がたくさん並んで見えてね、頭に細長い雲がかかってたりするんだよ。白い帽子を被ってるみたいに」
「そう。きれいなのね」と優しく応じた声音がわずかに険を帯びた。「でも、あまり遠くに行くと迷子になってここに帰って来られなくなるわ。気をつけてね」
「心配ないよ。場所は覚えてる」
「世の中はあなたが思っているよりずっと広くて複雑なの」
「そうかな?」耀真は宙に思案顔を向ける。「そうかもしれないね。僕は世の中のこと、あんまり知らない。シアちゃんは色々と物知りだから、きっと正しい」
「まあ、私も絶対に正しいわけじゃないけどね、気をつけなさいよ」
「シアちゃんはさ、僕のこと、心配してくれるんだ?」
「私がいなくても耀真が幸せに生きていけるのなら、私はそれで嬉しいわ。でも、迷っているのなら悲しい」
「そっか。なら僕は迷わないよ。絶対ここに帰ってくる」
「絶対、なんてことはないんだから気をつけなさいといってるの」
シアが冗談めかしていうと、二つの笑い声が生まれて、たき火の明かりが閃くホールに響いた。
食事が終わると、土を盛って作った小山に木の板を立てかけた。研いだナイフの柄を持って、投げる。刃先がくるくると回転して、木板に刺さった。これも狩りの技術で、シアから教わった技だ。五メートルほど離れている獲物にも九割方当てることができるようになったのは、初めのころでは考えられない上達ぶりだ。
ナイフを引き抜き、元の場所に戻って、投げる。軽い音を鳴らして木板に突き立つ。あのさ、と耀真は口ずさむ。
「僕がシアちゃんの運命の人ならよかった」
「ダメよ。私の運命の人はきっと不幸になるもの」
「僕はシアちゃんと一緒にいられるんなら、それだけで幸せだよ」
「私の運命の人は強い力を得るけれど、色んな人からいじめられるのよ」
「どうして?」
「その力は人に望まれていないから。蔑まれ、虐げられ、排斥される。そういう立場に追い込まれてもなお、命を賭けて戦い続ける責任を背負わされる。耀真はそういうの、嫌でしょう?」
放ったナイフの柄が板に当たり、床に落ちる。
「耀真はいまの耀真のままでいてくれればいいのよ」
その声の向こうに彼女の微笑みが見えるようだった。ブロンズの、かたい皮の奥にある微笑みが。
「僕はやっぱり、全然ダメだよ」
「そんなことはないわ。耀真は毎日成長している」
「ううん」と首を振る。「勇気もなくて、胸も張れない」
うつむいた耀真は、かたく拳を握りしめた。
「悔しいんだよ、僕は」
○
ある日、地鳴りに揺すり起こされた。
寝ぼけた体が跳び起きて、ステンドグラスの脇にある嵌め殺しの窓から外を見る。嵌め殺しといってもガラスが割れ切っているから、嵌まっているのは窓枠だけだ。
夜はまだ明け切っていない。紺色の西空に星が瞬き、白んだ東空に赤く熟れた太陽が顔を覗かせている。木立の奥でムクドリの群れが盛大に飛び立ち、森をざわめかせた。
「どうしたんだろう?」
山はいつもと変わらない。
「地震だったらまずいよね。屋敷の脇とか、この辺り、崖が多いから土砂崩れに巻き込まれてもおかしくないもん」
シアに話しかけたつもりでブロンズ像に視線をやった。
「シアちゃんを連れて逃げる方法を考えておかないといけないよね」
いいながらウサギの毛皮で作った薄っぺらな寝床を窓枠にかけて日干しをする。シアの足もとに腰を下ろしても、彼女はまだなにもいわなかった。
「ねえ、シアちゃん、聞いてるの?」
「聞いてるわよ」
冷たい怒気を含んだ声音に体が縮み上がった。彼女が怒りをあらわにしたのは初めてだった。
「……ご、ごめん。僕、うるさかった?」
「ああ、そうじゃないわ」といったシアはいつもの柔らかい調子に戻っている。「それよりも、耀真、急いでここを出なさい」
思わぬ台詞に飛び上がった。丸くした目をブロンズ像に向ける。
「なんで? 急にどうしたの?」
「とても危険なものが迫ってきている。私が目的ではなさそうだけれど、ここも安全とはいい切れないわ」
「とても危険なものって、なに?」
「耀真は冥魔を知っているわね?」
「うん。黒い霧が集まって生まれる化け物のことでしょ。暴れ回って、人も町も滅茶苦茶にするんだ」聞いた話をそらんじている間に悟った。自分が出した結論の衝撃に詰まった喉からなんとか声をしぼり出す。「まさか、その冥魔が来てるの?」
「ええ。いま、東の方の町にいるはずよ」
「東? 僕がいたところじゃないか」
冥魔に襲われた町の映像はテレビで見たことがある。家もビルも姿はなく、瓦礫とひしゃげた骨組みだけが残されて、針山のようになった景色が画面一杯に映し出されていた。ベージュ色の風に包まれた荒野に真っ青な空が映えていたのをよく覚えている。
あれは遠いどこかの出来事だったし、あんなことが起こるのは遠いどこかだけだと当たり前に思っていた。
「なんで冥魔が来てるってわかるの?」
「私は耀真たちがいうところの天使さまよ。それくらいのことはわかる」
再び地面が鳴った。体が浮き上がるほど揺れる。
「で、でも大丈夫だよ。エリシオンの人たちがすぐに来て、やっつけてくれるから。だって、エルの、シアちゃんの仲間の加護を受けてるんだもん」
「だとしても、ここは安全ではないわ。でも、山を越えて隣の町まで行けば、助かる確率はぐっと上がる」
くり返し響く地鳴りに揺らされ、天井から細かな建材が雹のように降ってきた。床に落ちて、パラパラと軽い音を立てる。
「わかったよ。早く逃げよう。どうやってシアちゃんを運ぶかだけど……」
「私はここに残るしかないわ」
「ダメだよ、そんなの」と耀真は声を荒げる。「絶対にダメ。一緒に逃げよう」
「無理よ。あなたが運ぶには私は重すぎる」
「なにか方法があるでしょう? シアちゃんは物知りなんだから」
「それでも無理だといっているの」
「嫌だよ、そんなの」とほとんど叫ぶ。両手に抱えた頭が熱い。掻きむしっても収まらない。「嫌だよ、そんなの」
何度も何度も自分の名前を呼ぶ声がする。うるさい。それどころじゃないんだ、なんとかしなきゃいけないんだ。
「耀真!」と一喝されて、はっとした。顔を上げて、ブロンズ像を見る。
「取り乱してはダメ」と強くいい放たれた声が次の瞬間には弛緩していた。
「私は自分の身を守ることくらいはできる。でも耀真のことまでは手が回らない。だからあなたには逃げてほしいの。二人とも生き残って、耀真にまたここに来てもらうために」
「でも……」
「耀真はここの場所を覚えているのでしょう? 逃げて、生き延びて、また私に会いに来て。私はいつでもここにいる。だって一人では動けないもの」
笑うようにいう。
目頭に熱を感じた耀真は涙が溢れるのを堪えられなかった。床に大粒の雫が落ちる。
「僕、僕は……」
「他人を信じるというのは、とても難しいことだけれど、いまのあなたにはそれができると私は信じている。だからお願い。私を信じて、ここを出て、絶対に生き延びなさい。それがいまのあなたにできる唯一のことだから」
○
木の根がのたうつ山道を蹴つまずきながら駆け登る。心臓の鼓動が耳につく。脈打つたびに全身が膨張収縮をくり返しているようで鬱陶しい。
急がなきゃならないのに体の動きが鈍い。足は上がらなくなってきたし、脇腹も痛んできた。威勢がいいのはうるさい心臓と荒くなり続ける呼吸だけだった。地震のような振動に揺らされ、耀真はそばにあった立木に手を添える。空を覆う枝葉が擦れ合い、ざわめいている。この山も怯えているのだろうか?
「もう少し、もう少しで天辺だ」
自分にいい聞かせて、一歩ずつ踏みしめるように歩く。頂上に出て、そこにある別の登山口を下れば、山向こうの町に出ることができる。
逃げて、生き延びて、もう一度戻る。彼女のもとに。
「僕がいつか大きくなって……」
一端の大人になったら、それなりの家を建ててシアと一緒に暮らすんだ。彼女は重いから普通の木造の家じゃダメだ。石とかコンクリートとか、頑丈なやつ。小さくてもいい。シアと一緒なら。
「楽しみだなあ……」
咳に混じって、そんな台詞がこぼれ出た。僕にはまだやることがある、やらなくちゃいけないことがある。
行程の半分も進んでいないのに体力の尽きてきた体を坂道の上に持ち上げる。頭上の枝葉が途切れ、青い空に変わった。視線を下ろして愕然とする。
いつかシアに語って聞かせた町の景色が一望できるはずだった。
巻き上がる噴煙、崩れゆくビル群、町に張り巡らされていた道路の模様は無残に断たれ、七色に見えた家屋の彩りは剥ぎ取られ、濁った建材の色を露わにしている。茶色の絵の具を塗るように、町の景色が傷つけられていく。
混沌の中心にいるのは黒いもやだ。
球状に滞った黒いもやは耀真が通っていた学校と並んだから、その大きさが推してわかる。ちょうど、一階から五階に相当する屋上までの高さと一緒だった。それがプカプカと浮かんでいる。いや、よく見ると、球体の下部に人に似た足が二本あり、球体が転がるように前進するたび一本ずつ後方に下がっていく。そのくるぶしから下しかない足の裏が地面につかなくなると、もやの中にひっこんで、また前に生えてくる。だいぶゆっくり移動しているから不自然に見えるが、もやの中に人が縮こまって隠れていると、あんなふうに見えるのかもしれない。
いま、球体の側面から二本の腕が生え、緩慢に振られた。一瞬のうちに腕がのびたのか、飛んだのか、球体から撃ち出された黒い塊が学校を呑み込み、粉砕した。町の奥まで茶色の直線が引かれる。同時に地面が揺れて、ふらついた耀真はそばにあった木の幹に手をついた。
学校が吹き飛んだ。瞬きをする暇もなく。今日は何曜日だ? 休日だろうか? 平日でも登校には時間が早いか? そうだ、まだ日が出て間もないはずだ。
一人で結論を出し、町を闊歩する黒いもやを見据えた。
あれが冥魔。世界中の天を漂う黒い霧が凝集して生まれる、最悪の災い。
たとえ、学校に人がいなかったとしても、今朝からいったいどれほどの家が、人が、あの理不尽の犠牲になったのだ?
「嫌だ」と呟いた自分の声が、飛んでいた意識を引き戻した。どれくらいの時間そうしていたのかわからない。釘付けになっていた目を開閉し、開いたままだった口から思いのままの言葉を放った。
「やっぱり嫌だ、こんなの……!」
○
「シアちゃん!」
「耀真! 戻ってきたの?」
飛び上がって窓枠によじ登った耀真はフロアの床に頭から転げ落ちる。這うように駆けながらシアの前に出て、息を落ち着ける間、彼女の声に耳を澄ました。
「どうして戻ってきたの? ここにいてはダメだというのがわからなかったの?」
静かな怒声でも、シアの声が聞けたのは嬉しかった。自然と頬が緩む。その顔が見えたのか、シアに訝しむような間があった。
「なにをへらへらと笑ってるの?」
「シアちゃんの声が聞けて嬉しかったから」と思ったことをそのままいう。シアが戸惑っているのがわかった。その間に渇いた喉へ唾を流し込み、泣いてもいないのに出る嗚咽に構うことなく、声を出す。
「山の天辺で町を見た」
「町?」とおうむ返しにしたシアは、ああ、と察した声を出した。「まさか、それで同情したの? あなたを追い詰めた連中に?」
「違う、違うんだ。そうじゃない」力の限り首を振る。「あんな奴ら、いまだってどうだっていいと思ってる。こんな世界だって、消えたって構わない」
「なら、どうして……?」
「シアちゃんがいなくなるのが堪えられない」
「え?」とシアが息を呑む。
「町が壊れて、人が殺されて。シアちゃんがああなるって考えただけで堪えられない。頭がおかしくなりそうだ」
「二十三人よ」
唐突にシアがいう。
「わたしが封印されて以来、誓約して、誓約しようとして死んでいった人間の数が。いい? 誰一人としてよ。誰一人として数日と生きることすらできなかった。私を解放することもできなかったのだから。きっとあなたも……」
「そんなことはどうだっていい」
耀真はシアの先の言葉を遮り、深く息を吸い込んだ。
「いまならわかるよ。僕にはなにもないけれど、胸を張っていえることがある。誰になにをいわれようと、世界中の人にいじめられても構わない。誰が敵だって、命を賭けて戦い続けてやる、君を守ってみせる。だから、僕を、君の運命の人にしてくれないか?」
耳に痛いほどの沈黙が部屋に張り詰めていたが、シアの慎重な声がそれを破った。
「本気でいっているの?」
「シアが嫌だっていったって、僕はここで君と運命を共にするから」
思わず耀真の顔に浮かんだ笑みは頬の筋肉が疲れていてだらしなかったろう。シアも力の抜けた声を出す。
「私が与える力は、世界を揺るがす原初の力。あなたが思うことの全てを可能にする、神すら恐れる力よ」
「原初の力?」
「聞きなさい、耀真」と投げかけられ、耀真は口とまぶたを閉じた。柔らかな細い指が頬を撫でる。
「私たちエルは人と誓約をして力を与える。でも、私の与える力は誓約者と私、二人が一緒にいることで、その真価を発揮する。互いの波長を合わせて高め合う力」
「波長?」
「いまは難しく考えないで、思うように振る舞いなさい。面倒なことは私がやるから」
「わかった」
「全てが終わったらここへ戻ってきて。それでもう少し練習しましょう。いまの耀真では難しいけれど、慣れればきっと私をこの封印から解き放つことができるから」
「本当に?」
「ええ」と応じたシアの存在をかたわらに感じる。その鼓動を感じる。
「僕、絶対に戻ってくる。約束だよ」
「あなたは素敵な人。私の運命の人に相応しいのかもしれない」
「ありがとう、シアちゃん」
ゆっくりと開いた瞳にいつもと変わらないブロンズ像を映した。あの頬を撫でてくれた温もりは幻だったのかと苦笑する。
「行ってきます、シアちゃん」
「行ってらっしゃい、耀真」
○
爪先で宙を弾くと、スニーカーのソールから青く光る粒子がいくつも撒き散らされる。それと同時に体が加速していく。眼下にあるミニチュアのような町並みは見る間もなく通り過ぎ、耀真は一直線に黒いもやが寄り集まった冥魔へ向かっていく。空を飛ぶ、というより、走っているのだ。足で蹴り出した方向に縦も横も上も下もなく飛び回る。
冥魔が中空にいる耀真を指し示すように腕を生やした。緩慢に振る。黒い波が撃ち出され、こちらに向かって押し寄せてくる。
耀真が横にステップを踏むと、黒い波がすぐそばを駆け抜けていった。遅れてきた突風は顔の前に両腕を交差させてしのぐ。
迎え撃とうとした冥魔が二本の腕を生やし直して、掲げた。同じく開かれた耀真の両腕が青い光の尾を引く。四本の腕が交差する。瞬間、冥魔の両腕が切り落とされた。地に落ちる前に無数の輝く塵となり、宙に消える。
耀真はもやの外側を舐めるように冥魔と行き違う。音もなく着地して、さらに地表を一っ飛び、放った片足の一閃が青い光の尾を引いて、冥魔の片足首を切り裂いた。
オオオオオオオオオオオ
バランスを失って崩れた黒いもやの奥から慟哭が噴き出す。もやが弾けるように拡がって、激しい風を巻き起こし、黒い嵐となって町を覆った。
家もビルも転がっている車も、散弾に撃ち抜かれたような痕を穿たれ、徐々に削り取られていく。
瓦礫の合間に人がいた。いや、気のせいだったかもしれない。二度目にそちらへ視線をやったときにはマネキンの足に似たものが転がっているだけだった。それもすぐに嵐に揉まれて消えてなくなる。
僕にはシアちゃんの力がある、シアちゃんが守ってくれている。負けるはずがない!
嵐の中に黒い球体が浮かんでいた。耀真の身長と同等の直径だろう。それを覆う薄皮が上下に剥けて、下にあった滑らかな白があらわになった。表面を黒い円が回転し、中心で止まる。こちらをじっと見据えている、怪物の目だ。ネコのように瞳孔をすぼめ、耀真を見つめている。
睨み返して拳を握る。
「おまえが……!」
叫んだ耀真は駆け出し、飛び上がった。振り下ろした手刀が青色に閃く残像を宙に刻んだ。
眼球にめり込む。柔らかい球体を真っ二つに断ち切った。
ミイイイイイイイイイイ
甲高い悲鳴がどこかで上がったその瞬間、眼球は霧散して、黒い嵐は高空に舞い上がった。黄金色の雪のような、塵のような、光の粒が、しんしんと町に降り注ぐ。
○
「やった……! やったよ、僕……!」
はあはあとリズミカルな呼吸をくり返し、耀真は跳ねるように山道を駆けていく。
悪いやつをやっつけたんだ。シアちゃんを守ったんだ。僕がやったんだ。
「僕は、シアちゃんの、運命の人に、相応しい、かな……」
疲れた体には空を飛ぶような力は残されていなかった。しかし、一人で逃げていた時とは比べものにならないほど体が軽い。まるでシアが背中を押してくれているようだ。
「待ってて、シアちゃん……! いま、帰るから」
あと少し、あと少しで屋敷の屋根が見えてくる。
「シアちゃん!」
歓喜の声を上げた直後、呆然と足を止めた。
数日過ごした屋敷の姿はそこになく、真新しい土が盛られた小高い丘があった。所々木片や岩石が覗いているだけで、洋館の姿などどこにもない。
なにが起きたのかは瞬時に理解できた。でも、認めたくなかった。
目の前の光景が信じられずに、立ちすくむ。
「そんな……。こんな、こんなことって……!」
土砂崩れが起きたのだ。繰り返された揺れのせいか、それとも、冥魔の攻撃がここまで届いたのか。
頭を抱えた体から力が抜ける。膝を折り、両手で髪の毛を握りしめる。
「これじゃ、これじゃなんの意味もないじゃないか!」
土砂ににじり寄り、思いの限り腕を振る。土の上に手の跡が薄く残っただけだ。力が足りない。
「僕は……、僕は、シアちゃんを守りたかっただけで、シアちゃんと一緒にいたかっただけで……!」
爪を立てて土を掻いた。小さな、小さな穴ができる。掘っても、掘っても、茶色い土だけがそこにある。
両手を拳にして、地面に叩きつける。
「うああああああっ!」
○
駅前ビルの壁に設えられた大型ビジョンは日の光をはね返して白んでいる。辛うじて見える画面には冥魔にやられたらしい山麓が映し出されていた。春の山々は緑の一部が剥ぎ取られ、木枝は折れ朽ち、消し炭となって煙を上げているものまである。すぐにカメラはひるがえって、和やかな雰囲気の集団を捉える。
男女の入り混じった十数人の集団は一様に赤いダブルのブレザーを着込み、その胸には十字に斜め十字を組み合わせたエンブレムがある。エンブレムはエリシオン教会のシンボルである樹木を簡素化したもので、ブレザーの仕様とその色は冥魔討伐を専従とする騎士団専用のものだ。エンブレムの縁を円形に飾る小さな星の数は九ある騎士団の識別であり、六つ星だから六番目、つまり第六騎士団。
「で」
と、ベンチに座った耀真は指先で膝を叩くのを止め、モニターにやっていた視線を隣の女の子に向けた。
「百合華さんよ、その電話、まだ誰も出ないわけ?」
「出ないね」
百合華は観念したように肩を竦める。
彼女は芯がしっかりしていながらも丸っこい声音でいう。小さな五角形の顔は澱みのない黒髪を背中まで垂らし、桃色の肌を備えた華奢な身体を白いセーターと膝丈のスカートで包んだ姿は十六歳の溢れる若さと相まって、一般的に見れば美しい。
「どうすんの? 係長からだろ、その電話」
「もう一回かけてみる」
百合華はリダイアルした携帯端末を耳に当て直す。
「いま、佐伯くんが映ってなかった?」
「はあ?」と耀真は声を上げる。「知らないよ、あんな野郎は」
「そんなこといって。わたしたちと同期で騎士団に入ったの、佐伯くんだけだよ。出世頭」
「出世? 出世とは思わんね、騎士団に入るのが」
「エリシオンは世界を守るため、力を与えてくださるエルを奉り、神とした。すべての命の敵である冥魔と戦うのは最も根源的な使命であり、栄誉である。それを行う騎士団はエリシオンの光」
唄うようにいう。
「バカ野郎。世のため人のため働いてる事務員だって、工事現場の親父だって、すべからく世界の光だ」
「あのね、騎士団がエリシオンの要だっていってるの」
「騎士団に入ることばかりが出世じゃねえっていってんだよ」
耀真はモニターに目を向け直す。
自分が冥魔と戦ったのはあれが最初で最後だった。
あれから八年の歳月が流れている。記憶がセピア色に染まるくらい昔のことのように感じる一方、あのときの高揚感、寂しさや悔しさはいまでも手に取るように思い出せる。
街頭ビジョンの画面が切り替わって、議事堂のような空間を映す。中央の演壇には四十絡みの男が立っていた。ラガーマンでも通用する頑丈そうな体は第六騎士団の制服をまとっているが、先の集団とは左胸に飾った勲章の数が違う。碁盤の目状に、両手の指の数では足りないほどある。
身振り手振りで激しい演説をぶち、聴衆が白熱した歓声を上げる。人通りの多い駅前でもテレビからの声が聞こえてくるようだ。男は日に焼けた髪を掻き上げ、手を振り、歓声に応える。それがまた歓声を呼ぶ。熱狂の渦だ。
「はああ」と百合華が長いため息をつく。「高村の阿呆だ」
「いきなり人を罵倒するんじゃないよ」
「でもねえ、わたしはあの人嫌い。だって強引すぎるもの」
「無法は許さず、容赦せず、異端であれば命乞いをしていても叩き潰せ」
「重戦車のよう」
指を回しているのはキャタピラのよう。
「それでも騎士団長じゃんか。それこそ出世しきった人」
「騎士団長になるばかりが出世じゃないと思うけれど」
「この人は人を罵倒した挙句、人の意見を盗む人だよ」耀真は顔をきつくしかめて見せてから、さらに続けた。「どのくらい強いんだろうな、騎士団長ってのは。陸彦さんとか、ユーグさんとかもさ。本気で戦ってるのは見たことないよ」
はて、と百合華も首を傾げる。
「わたしも見たことないなあ。おじいちゃんもお父さんも、ユーグさんは強いって能力じゃないし。高村にしても」
今度は逆の方に首を傾げる。
「どうだろうねえ。四、五年前くらいから? 急に有名になった気がするねえ。その前はなにしてたのかしら」
「やっぱり騎士団にいたんじゃね? 審問官かしら? 修行してたりして」
「バカくさい」百合華の細めた目には温もりの欠片もない。「それよりもう行きましょう」
「いいのかい?」
「出ない方が悪いんでしょうが。こっちは休日にわざわざ電話してやってるのに」
耳から離れた携帯端末はハンドバックに放り込まれそうになったときに、ブルブルと震える。ちょっと待って、電話だよ、片づけないで、と訴える。唇を噛む百合華。
「壊すなよ」
「壊しません」
深呼吸した百合華は通話に出て、はいはい、と二言三言、言葉を交わす。
「係長、なんだって?」
「異端者が出たから捕まえるの手伝えって」
「どこに?」
「千代橋の方から駅に向かってるって」
「近くじゃないか」
二人がいる駅の東側にある大きな橋の名前だ。ああ、と耀真は膝を打つ。
「さっきからパトカーのサイレンが聞こえるのはそれか」
「は?」と百合華が小首を傾げて耳に手をやる。「聞こえないよ」
「耳が違うからな」耀真は黒のジャケットを叩いて立ち上がった。雑踏が混み合う駅前大通りの先を指でさす。「で、どうするんだ?」
「もちろん追いますよ。わたしたち、異端審問官、異端者を捕まえるのがお仕事ですもの」
駆け出した百合華と一緒に耀真は大通りを走り出した。
○
振られた鉈を屈んでかわし、膝を伸長させる勢いも借りて相手の顎を打ち抜いた。細身の体が飛んで、路上を転がっていく。
「よし」
「耀真、危ない!」
百合華の声がした方に目をやると、車が宙を走ってきていた。放物線を描いて路上に落ちる。衝撃でボンネットが潰れ、遅れて地面に叩きつけられた後輪が何度も跳ねる。なんとかかわした耀真の前にレスラーのような大男が立ち塞がり、その男の岩石然とした拳が目の前を過ぎる。
「うおっ!」
よろけた耀真は勢い余って尻餅をついてしまった。男の足がうしろに振りかぶられる。
咄嗟には身動きを取ることができず、耀真は両腕を顔の前に並べて目を閉じる。来るべき衝撃に備えた。が、何事もない。代わりに頭上を黒い影が過ぎていく。目を開けて振り返ると、男の大きな体が車道を横切って、向こうの歩道まで転がっていくところだった。遠巻きにしていた野次馬たちが慄いて逃げていく。
「いっつも下がってなさいっていってるのに」
目の前に立った百合華が蔑むような視線でこちらを見下ろしていた。右手に持った黒い木刀を肩に担い、左手に持った扇子で口もとを隠している。彼女の背中の向こうには、路上に寝転がった男が二人とボンネットから煙を上げるパトカーが一台。
「邪魔にならないようにはしてた、つもりなんだけど……」
「だとしたら不用心なのよ。もっと周りに気を遣いなさい」
「気だって使ってる」強気にいってうつむいた。「つもりなんだけど……」
それより、と耀真は早々に話題を変えた。「他にも仲間がいただろう」
「いた。女が二人」
「上に逃げていったぞ。まだ追いつける」
道路向こうの空、ビルの上を指でさす。
「逃がすわけないでしょ、このわたしが」
百合華はほんの一歩、道路に踏み出しただけでビルの十階分も飛び上がり、その姿は瞬く間に豆粒になった。屋上の影に消えてなくなる。
「一人で行く奴があるかよ」
耀真も地上を追いかけ、両側がビルに挟まれた狭い路地に入ると跳ねて、コンクリートの壁を蹴る。能力を爪先に伝える。少し浮き上がって、向かいの壁を蹴る。くり返し、時には縁や突起につかまって、屋上に登る。金網フェンスしか遮るもののないコンクリート張りの向こう端で百合華とOL風の女が剣戟を交している。
ベージュのコート、肩口までのびた髪は色素が抜けて白っぽい。百合華より少し高い身長で白桃に似た肌の女はフリルを施した洋傘を振る。百合華の持つ警棒を叩く。
百合華が警棒を横に薙ぐ。傘に受け止められた直後、中段に構え直したと思う間もなく、ショートボブの頭上に振り下ろす。女は右足を軸にくるりと回って回避、そのまま傘を薙いだ。刃先というか、布地だが、百合華はそれを柄の先で受け止め、手のひらを峰に添えて押し返す。二つの得物が交わるたびに空気が揺れ、皮膚が圧迫される。
演舞に近い斬り合いには、ちょっと入り込む余地がない。
金網フェンスを乗り越えて屋上に立った耀真は、どうしたものか、と思い悩んでいたが、奥にもう一人、女がいることに気がついた。寝癖なのか、パーマなのか、わからない短めの髪を手櫛で撫でた彼女は両の肘を抱く。前腕が、羽織っただけのパーカーの下、薄手のTシャツから張り出す胸を下から持ち上げた。文学少女を思わせる顔立ちにメガネをかけた彼女も耀真と同じく戸惑って見える。おそらく、OL風の仲間だろう。
チャンスに間違いない。
耀真は幸い転がっていたコンクリート片を手のひらに包んで、走り出した。
耀真の意図に気づいたらしい、OL風が力任せに百合華を押しのけ、こちらに向き直る。
手のひらに能力を一杯に込めて、コンクリート片を放った。弾丸の如く飛んで、屈んだ女の頭上をかすめる。足止めはそれで充分。百合華が戦闘に復帰し、OL風も警棒の襲来に意識を引き戻さざるをえなくなる。
メガネの女は飛んでいくコンクリート弾を見て、耀真の存在にようやく気づいたようだ。が、もう遅い。
「ちょっと失礼」
「え、なに……」と大人しげな声が耳元で慌てていたが気にせず、耀真はパーカーを引いた。彼女の履いていたスニーカーを薄く蹴り、わずかに浮いた隙を見計らってホットパンツからのびた足の膝裏へ腕を一本回す。もう一本は後頭部へ。俗にいうお姫さま抱っこだ。
「なんなんです、一体……!」
「動くと痛いことになるかもしれんから」
メガネの奥にある茶色い瞳が、ふるっと震える。耀真は一っ飛びにフェンスを超えると、屋上の縁から滑り降りた。一瞬の浮遊感のあと、爪先、足首、膝から腰に能力を伝播させる。と、地面にぶつかる衝撃は消えてなくなり、きれいに着地。間髪入れず、走り出す。国道の方へ。
がっ、と音を立てて、傘が目の前の地面に突き立った。
耀真は思わず、靴裏を削りながらブレーキをかける。間を置かず、OL風の女が落ちてくる。傘の傍でうずくまったのも一瞬、立ち上がり、エメラルドグリーンの瞳を薄闇の中で光らせる。その輝きだけで人を殺せるのでは、と思わせるほど冷たく鋭い。
「小賢しい真似をするのね」
艶やかな美声が耀真の肌を撫でて震わせる。背筋に電気が走る。
続いて女の背後、そこに百合華が降りてきた。警棒を中段に構え、ベージュのコートにその切っ先を向ける。耀真は抱えていた女を降ろしてやって、一歩踏み出した。両の拳を握って、胸元に構える。
うしろの女はしゃがんで震えているだけだ。やはり戦闘向きの人間ではなかったか。あとは、このコートの女さえ倒せれば……。
「はははは」と突如目の前の女が笑声を上げる。さすがにこれにはぎょっとした。
「向こうはまだ警察なんかがいるから、合流されると不味いと追ってきたけれど。狭い空間に押し込めて、前後から挟み撃ちというわけ。誘われてしまったわね」
「投降するなら」と声を上げたのは百合華だ。女も半分だけ背後に顔を向ける。「投降するなら、悪いようにはしません。今後のことにも便宜を図りましょう。その傘を置いてください」
「いくつか、勘違いをしているようだから教えてあげる」女は人差し指を立てる。「ひとつ、私が浅はかにもこんな路地に誘い出されてあげたのは、ただ焦ったからではない。深く考える必要がなかったから。二つ、あなたは私の力を読み間違えている。さっき私にコンクリート片を投げた時に仲間と一緒に逃げるべきだった。自然、死を選んだことになる」
「なにを……」
女の姿が見えなくなった。が、そばには感じる。反射で出た耀真の腕が胸元で十字を作り、能力を最大出力で発揮させる。
「なんと」と狼狽える女の声が聞こえたのが最後だった。視界が激しくぶれ、浮いた体が恐ろしいほどの揺れに見舞われる。目の前が真っ暗だ、と思えば、まぶたを閉じていることにも気づかなかった。開けても暗く、頭の上の柔らかいもの、ゴミ袋を押しのけて新鮮な空気の中に顔を出す。新鮮なはずだが、腐臭がする。
路地の奥では百合華と打ち合った女が大きく飛び退いて、メガネ女のパーカーを乱暴につかんだ。引き寄せ、首に片腕を回す。
「動くな」
OL風の女が一喝し、百合華も動きを止めた。
「うしろの男も。いいわね?」
「一体、なんのつもりです?」
「あなたたちが動けばこの子を殺す」
は、と百合華が頓狂な声を上げる。耀真も耳を疑った。「ちょ、え、あたし?」と人質にされた当人も相当慌てふためいている。
「その子、あなたの仲間ではなかったのですか?」
「そんなに親しそうに見えた? 見えたんならかかってきてもいいわよ。ただ、私は味方だろうが赤の他人だろうが、ざくっと殺す覚悟があるけど。そうなると、この子の素性がどうあれ、困るのはあなたたちじゃないかしら?」
こいつ、マジにいってるのか?
百合華も図りかねているようだったが、じりじりと後退している。
「話がわかるわね」
OL風の女が人質を軽々引きずってこちらに来る。耀真はすれ違う瞬間、傘の石突きを向けられれば身動きが取れなかった。路地の奥に消えていく二人を見送るしかない。
「なんなのよ、あいつ。すっごいムカつく」
百合華が警棒を短く押し畳んで、スカートのポケットにねじ込みながらゴミ捨て場の脇に立つ。耀真は耀真で、ようやく生ゴミの中から抜け出した。
「もう追うのは難しいな。この先はすぐ駅前通りだ。人の通りが多すぎる」
「追ってもあのメガネが殺されるだけだしね。それより……」耀真をじっと睨む。「かなり臭いんですけど」
○
唐突に手を離されて背中から倒れるしかなかった。
「急ぎなさい。追手が来るわよ」
「わかってますよ」
首の付け根辺りを擦りながら応える。立ち上がって、もう歩き出しているベージュの背中を追いかけた。大きな通りに出て、人の波に紛れていく。
「でも、みなさんを助けないと。捕まってしまって」
「いまは無理。あなたも気づいているでしょう。あの彼女、異端審問官の風神、綾薙家の人間よ」
「あの女の人ですか」思わず目が大きくなる。「国内でも屈指の戦士の家系ですよ。あんな美人な感じの人が」
振り向いても、路地は人混みに隠れてもう見えない。
「追ってきますかね」
「来ないという保証はないから、さっさと身を隠さないとね」
「来たらどうします」
「けちょんけちょんにのしてあげる」
「人は見た目によりませんね、真夜さんもそうですけど」
「私は見た目通り、美人で優しいお姉さん」
「あれ、冗談ですよね」
「冗談ではないわ。美人で優しいお姉さん」
「いえ、あたしを殺すっていうの」
「ああ、そっち」と真夜は首を傾げる。「どうかしら? 五分五分?」
「訊かれても困りますよ。それに五分は嫌です」
くくく、と真夜は忍び笑いをしていた。そういう何気ない仕草ですら美しい。
「でもいいじゃい。思いの外貴重な収穫があったわ」
「ありました? ありましたか?」
「気づいていないの? まあ、そうよね」
手の甲を口にやって、唇の端をやや持ち上げる。
「近々あなたにも教えてあげるけど、いまは逃げの一手ね。計画を大幅に変更する必要がある」
○
「ちょっと信じられる? わたしは、係長が手を貸してやれっていうから貸したんだよ。なのに、怒ることないよね。エントランスで会った一瞬で、あれだけの罵声をくり出せるのはある種の技術だよ」
百合華がずばっとうどんをすするのを、耀真はタオルで頭を拭きながら眺めていた。
「仕方ないだろ。パトカーぶっ壊して、敵も逃がして」
「違うね、ああいう能力なんだ。罵声を無制限に、それも短時間で口から吐き出す、という」
「そんな役に立たないのがあるか」
「強力な精神攻撃だよ」
「バカなこというなよ」
タオルを首にかけた耀真は右手のガラス壁に目をやった。緑をきれいに刈り込んだ広い前庭、エリシオンの敷地の前を縦走する太い国道、そこを行き交う彩り鮮やかな車列と人の群れ。
ここは耀真たちが務めるエリシオン日本中央教区庁舎。通称、中央庁。日本にいくつかる教区を束ね、中央教区の職員が所属する場所でもある。特殊な能力を備えた犯罪者、異端者が捕らえられたのなら、まずはここへ送られる。耀真たちが勤める異端審問官は異端者を捕らえるのが主な職務であり、捕えたのなら安全に移送するのも仕事である。というわけで、二人は中央庁を訪れていた。
外観は直方体の鉄筋コンクリート、十七階あるその建物の中には異端審問部を始め、騎士団、広報等事務、関係機関が押し込められており、宿直用の施設も常備されている。百合華が容疑者の移送手続きをしている間に、耀真はシャワーを借りて、臭いを落とし、いまは二階にある大食堂で一息ついているところだ。昼間だから蛍光灯の電源が落ちてやや暗く、昼過ぎだから行儀よく並べられた安物の長テーブルについている人間もやや少ない。
「はああ」と百合華は今日何度目かのため息をつく。「せっかくそれしか着ない耀真のために新しい上着を買いに来たのに、また無駄足になっちゃったよ」
「運命だよ。神が俺にこれを着て生活しろっていってるんだ」
「そんな神さま、いらっしゃいません」
「いいじゃんか、このジャケット。丈夫で、黒いから汚れも目立たない。エリシオンの支給品だからタダ。それにほら、今日みたいにいきなり戦闘になっても平気だろ。戦闘用なんだから」
「ずぼら」
「買い物くらいそのうち出直せばいいだろ。どうせ学校は春休みなんだ。いつでも行けるさ」
「エリシオンの仕事が入りさえしなければ、ね」百合華も頬杖を突く。「今日はあの二人が捕まるの待ちになっちゃったし。首実検係」
「お仕事でしょう。久しぶりの審問官としての」
「仕事だったらちゃんとやってるでしょう。清掃活動、チャリティーイベント、ミサの準備、倉庫整理……」
「上の人は異端審問官のお仕事が異端者の確保だけだと思ってるんだよ。実際、ボランティアするなら地域課とか庶務課とかだろう」
「エリシオン教会というのは、もともと地域の人たちのためにあるんです」百合華は頬を膨らませながら、うどんをすする。「納得いかないなあ」
「別にいいじゃないか、人になんていわれたって。百合華はあの現場にいても、手助けしろっていわれなかったら助けなかったの?」
「ん」と呟いた百合華が宙を見て一考する。「助けたよ、間違いないね」
「ならもっと自信を持ちなよ。百合華は正しいことをしたんだって」
百合華がふーんと重い鼻息を吹き鳴らす。
「なんだよ」
「耀真は昔から変わらないねえ」
「そうかな」
「自分が正義、って感じ」
冗談めかしていう百合華に笑って返した。
「俺がいつも正しいわけじゃないけどね」いつか聞いた言葉だと思いながら続ける。「そういわれるのは嬉しいね」
「そうって?」
「昔と変わらないって」
ああ、と百合華は頷いた。
「けどね、変わったところもあるよ。初めて会ったころのこと、覚えてる?」
「俺のいた町に冥魔が現れて、山の中でのたれ死にかけてたところを陸彦さんに見つけてもらって、百合華の家に引き取られたのは覚えてる」
「そうそう。おじいちゃんが連れてきたときは驚いたよ。血に飢えた狼みたいだったもん」
「そんなふうに思ってたの?」
「それに比べれば、いまの耀真は満腹のマメシバだよ」
「だいぶ腑抜けちゃったなあ、それは」
「でも、だいぶ可愛いよ。まん丸のお腹で、コロコロしてて」
自分でいって想像したのだろう、百合華はひとしきり笑って、目を細めた。
「わたしは、それが嬉しいの」
そんな彼女に思わず見惚れてしまっていたことに気がついた。うん、と頷いたのを潮に、耀真は外の景色に視線を移す。
自分はあのころと比べてどれくらい変わってしまったのだろうか? シアは自分がいなくても耀真が幸せならそれでいいといってくれた。いまも同じようにいってくれるだろうか?
綾薙家に世話になってからもシアのことを忘れたわけではない。耀真が調べたところによると、目玉の冥魔に襲われた故郷は建物の九割が倒壊し、人口の三分の二が死亡、または行方不明になったという。
ここから遠いその場所へ、百合華たちに内緒で行くには何年という時間が必要だった。その間に屋敷のあった場所は、土砂崩れ現場ですらなくなっていて、切り開かれて道路とトンネルが通されていた。シアが埋まっていたはずの土砂すらなくなっていたということだ。
話が違う、私はずっとここにいるといったのはシアの方だったのに。
そう思っても口にすることはなかった。先に約束を守り切れなかったのは自分の方だと耀真は知っている。シアのところに帰るという約束、守るという約束。彼女のせいにして言い訳を並べ立てなければやり切れなかった。
いまもシアのことは百合華たちに話していないし、独自に行方も追っている。しかし、手掛かり一つ見つからない。まだあの道の下に埋まっているとでもいうのか?
もし、と思う。
もし、もう一度彼女に出会うことができたなら……。
○
食堂から出るとエントランスに面した吹き抜けの回廊がある。異端審問部の部屋に戻ろうか歩いていると、背中から強烈な体当たりを喰らった耀真はよろめき、柱に頭からぶち当たる。
こいつ……。
「ははあ」と鼻で笑う声が聞こえる。「修行不足だな」
「佐伯、てめえ」ぶっ殺してやる。
振り向くと同時に振った拳は茶髪の男に軽薄にかわされる。コレの目鼻が意外に整っているのも気に食わないが、顔面にある小馬鹿にしたような笑みはもう虫唾が走る。
「くっそー」
「てめえのヒョロいパンチなんて当たらないぜ」
さらに打とうとしたところで、百合華にのっそりと間に入られたから手を引いた。
「まあまあ、二人とも、それくらいで」
「俺はこいつに一発やられてるんだぞ。殴らなきゃ気が済まん」
「忍耐は無事長久の基、といっていた人もいるし」
「そうだぞう、忍耐が足りないぞう」とうしろにいる人間がおどける。
「やっぱり我慢ならん。殴り抜く」
「まあまあ」と百合華に肩を押さえられる。「ならぬ堪忍、するが堪忍」
「もはやならぬ」
「二人はニュース見た? オレが映ってたんだけど」
「おい、まだ話は終わってないぞ」
「やっぱり映ってたんだ」百合華が歯を覗かせた笑みをちらと向けてきた。
「俺は見てない」
「そんなこというなよ。見てたんだろう、テレビ」
「ニュースは見てた。おまえのことを見てないっていってんだよ。眼中にないんだよ、おまえなんて」
「寂しいこというなあ」
「嘘つき、嘘つき」耀真は指をさす。
「百合華ちゃん、こんな三流、いや、四流は置いといて、オレとコンビ組まない?」
「お誘いは嬉しいけど、わたしはわたしがしたいと思う仕事をするの。ごめんね」
「フラれてやんの」
「黙ってろ、タコ」
「ダマラナイヨ、ふられてやんの」
「こいつ……」
「まあまあ」百合華は右に左に、なだめる声を出す。
「おや」と第四者の声が聞こえた。
声の主はひょろりと背の高い男。西洋人特有の掘りの深い顔立ちを持つ彼は、きれいに整えた金髪を襟足でまとめて短く切り、シャープな輪郭と銀縁のメガネで知的さを演出し、服装はラフでも清潔な赤色のジャケットにスラックス、隣に侍るメイドさんは眠たげでも、高貴な雰囲気を醸し出している。左胸にある騎士団のエンブレムには星が一つ。第一騎士団の証だ。
「なんだか騒がしいと思えば」
「あれ、ユーグさんにアイリさん」
百合華が目を丸くして、耀真も同じ顔で二人の方を振り向いた。佐伯はというと、唇を引き結んで、直立のまま不動でいる。
「耀真くんも、こんにちは」
「どーも」
「なにしてるんです、こんなところで。ヨーロッパから出張ですか?」
「そうそう。出張中」
「ユーグさん、副団長でしょう。みんな困らないんですか?」
「いや、この間、団長に昇進したんだ」
「ならなおさらでしょう」
二人が話している横で耀真は佐伯に袖を引かれる。
「なに?」
「なんでおまえら、ユーグさんとそんな親しいんだよ? あのストラトス家のユーグだぞ」
「陸彦さんの弟子だったんだ。百合華のじいちゃんの。物心ついたときから綾薙の家にはよく来る」
「マジかよ、いえよ、そういうことは」
「知らねえよ、なんで俺がおまえの興味に合わせてお知らせしなきゃなんねえんだよ」
「ファンなんだよ、すげースタイリッシュで。貴族って感じ」
「知らねえし、知りたくもねえ」
隣で百合華は話を進めている。
「またいつでも家にいらしてくださいね」
「うん。僕もしばらくこっちにいる予定だから、いつでも来てよ。マンションの場所は知ってるよね」
「ええ、機会があれば」
「百合華さん」とメイド姿のアイリがスカートの裾を持ち上げてお辞儀をする。肩にかかっていた黒髪が垂れて、真っ白な首筋を撫でていた。「迂闊に連絡をすると、こういうものを着させられることになりかねませんよ。お気をつけて」
ああ、と耀真は思わず声を上げそうになる。そういう趣味があるのは知っていたが、アイリがいつも時代錯誤な服を着ているのはそういうことか。
「違うんだ」発したユーグは平然と金色の髪を掻き上げる。「彼女は僕が薦めた服を自分の意思で着ているんだ。僕のものであっても、僕が無理矢理着せたものではない。断じて違う」
「ご連絡することはないかもしれませんねえ」
百合華は温かい目で、しかし毅然と断る。
「アイリが余計なことをいうから」
「私はか弱い少女を犯罪者の魔の手から守っただけです」
「僕は犯罪者じゃない。可愛いものを愛でても、無理強いはしないんだ」
「なになに? どういうこと?」と佐伯は軽くパニックに陥っている。それで、と百合華が呆れた声で話を継ごうとする
「今日はなんの用だったんです?」
「ああ、そうそう」とユーグは気を取り直す。「僕はね、さっき捕まった異端者くんと面会してきたんだ」
「ユーグさんが聴取ですか? 珍しいですね」
「人を探していてね。彼らが情報を持っているかと思ったんだが」
「そういえば、わたしたち、ほとんど言葉を交わしてないですけど、あの人たち、なに話したんです?」
「ヒエログリフっていう組織の人間だったよ」
「ああ」と呟いた百合華の声のトーンが落ちる。
「俺も名前は聞いたことあるよ」と耀真が続きを引き取る。「エリシオンからは準異端の烙印が押されてるとこですね。エルは神でもその使いでもなくて単に生物であるっていう」
「まあ、おおよそはそうだけれど」とユーグは空中廊下の手すりに背中を預ける。
エルはエリシオン教では信仰の対象だが、一般人にとっては概念でしかない。要するに、人に力を与えるなにかを科学的に解明できないから、エリシオン教の聖典に出てくる精霊の名前を借りているだけだ。とにかく超常的な力を使う人間がいる、なぜかはわからない。とりあえず、エリシオンの聖典にあるエルの力を借りているということにしよう、という具合である。
ついつい、と耀真は袖を引かれる。百合華だ。
「もう行こうよ、ユーグさんも忙しいだろうし」
「そうかしら?」
「それが僕の方でも二人を探していたんだよ」
ユーグは手すりを離れ、二人に詰め寄った。
「わたしたちを?」と百合華が訝しむ。
「あの四人は」と、アイリが口を開いた。「お二人が逮捕なさったとか。ご苦労様でした」
「いえ、大した苦労もありませんでしたけれど」
「なにいってんの」と耀真が笑う。「結構ヤバかったじゃないか」
「いやいや、わたしが本気を出せばなんてことはなかったんだよ。でも、デッドオアアライブじゃなかったからね、手心を」
「強がっちゃって」
「強がってません」
「百合華ちゃんが手こずったなら、相手は相当な強者だね」ユーグはぐっと腕を組んで、一考すると二人に目をやった。「どういう状況だったの?」
聞かれたから手短に話す。
「一人とは戦ったのか」ユーグは顎をつまむ。「百合華ちゃんが苦戦するくらいだから……」
「苦戦していません」
「当然誓約者だろうね。どんな能力かは予想がついた?」
「俺はわかりません」
「わたしも。ただちょっと強いなって感触があっただけです。ほんのちょっとだけね」
人差し指と親指で、ちょっと、の隙間を作ってみせる。
「わからない、わからないかあ」繰り返したユーグはまぶたを閉じる。誰も口を挟めない沈黙がのしかかるが、それを押しのけたのもユーグだった。まぶたを開いて、明るい口調を取り戻す。「まあまあ、そんなところだろうね。二人がともかく無事でよかったよ」
「本当に死ぬかと思いましたよ」
「耀真は思い切り一発もらってたからね」
「死んでりゃよかったんじゃないの?」
「佐伯、おまえ……」
「まあまあ」と百合華がなだめる。
「その女には気をつけた方がいいね」とユーグ。
「その女を探してるんですか?」
「そういう女を探してるんだ。その女かどうか」
「初恋の相手とか?」
「どちらかというと因縁の相手かな」
「第一騎士団長にそういわしめる相手だってんなら、覚悟しなきゃならんですなあ」
「次に会ったときには全力で捻り潰しますよ」百合華が両手できゅっと空気を雑巾のように捻る。
「お気をつけください」と、これはアイリ。「彼女たちはスフィアを所持している可能性が高いです」
「スフィアですか」
耀真が声を高める一方で、百合華は顔をしかめていた。そして、いう。「下らんことです」
「下らなくないだろう。スフィアっていったら第一級の回収物だぞ。なぜかは知らんけど」
ざわ、と空気が騒ぐ。からからと佐伯が笑い声を立てていた。
「おまえマジかよ、一般人ならともかく、エリシオンの人間で知らないやつがいるとは」
「知らないんだからしょうがないだろ」
「百合華ちゃん、まさか……」
ユーグの呆れ顔に百合華は頭を振って見せる。
「みなまでいわないでください。わかってます」そうしてから、端正に頭を下げた。「また綾薙邸にいらしてください。今日は急ぎますので、これで」
いうが早いか、歩き出してしまう。耀真は彼女を追って、エントランスに降りた。
○
エリシオンの門扉はすべての人に平等に開かれる、という原則通り、五百メートル四方に広がる中央庁の敷地は一般市民も昼夜を問わず出入りは自由。少年もいれば少女もおり、サラリーマンが芝生の上で眠っていれば、お姉さんがランニングしているし、老夫婦が散歩してもいる。
赤煉瓦の遊歩道は両脇にケヤキを並べ、陽光を受けた枝葉の影を路面に落とし、描かれるツートーンの模様はきらきらと眩しい。春の香り、芽吹き始めた緑の匂いを運ぶ優しい風は樹幹を撫でて、さらさらとメロディーを奏でる。
きらきら、さらさら。
「そんな中でいらいらしている百合華さんは」
「いらいらなんてしていません」
「だったらもっとゆっくり立ち話しててもよかったじゃんか」
「ユーグさんにも仕事があるでしょう。邪魔しちゃいけないよ」
「俺たちを探してたっていってたけど」
「必要なことは聞いたんでしょ。呼び止められなかったもの」
「そうかなあ」
足早に向かう先は旧礼拝堂だろう。中央庁敷地内には異端者を入れる簡易留置所から道場、ヘリポートや車両基地もある程度整備されているが、最も古い建築物が旧礼拝堂である。日本エリシオン史最初期のものであり、文化遺産としても登録されている。新庁舎に大礼拝堂ができた今日でも中世期の姿そのままを残している。ケヤキ並木の向こうに見える木造の尖鋭な赤い三角屋根がそれだ。
「こんなところになにか用?」
「特に用というわけではないけれど」
百合華は時折意味もなくここの門戸を叩くことがある。
鋲を打った木製の大扉を押し開くと、左右に並ぶステンドグラスから差し込んでくる日が虹色に美しい。梁を巡らせた天井は高く、木床に並ぶ長椅子はほのかに香る。長椅子の合間の廊下を靴音高く歩き抜け、奥にある祭壇へ。そこは、右端に説教台が置かれ、奥には精緻な彫刻で縁取られたくぼみに十字に斜め十字を重ねたシンボルがかかげられている。装飾といえば、たったそれだけの、至って簡素な造りの礼拝堂だった。
百合華は最前列の長椅子に腰かける。耀真は自分の足元から伸びて身長より少しだけ高いステンドグラスの前に立ち、なんとはなく、眺めていた。
「なあ」
「なに?」
「スフィアのことを聞きたいんだけれど」
「改まってなに?」
「訊いてもいいのかなって」
沈黙のあと、百合華はゆっくりと語る。
「スフィアは基本的に丸い真珠のような大きさも同程度の石に見えるけれど、世界中に漂う黒い霧を集めるの。時間をかけて凝集し、冥魔を生み出すことになる」
目を見開いた耀真は百合華をちらと見遣る。表情もなく、淡々と話している。
「冥魔の卵ってことか?」
「そうだね。冥魔同士は共食いをすることがあるけれど、これは冥魔の中にあるスフィアを取り込んで自分の力を高めてるんだって。スフィアの大きさや数によって冥魔の力は増していく」
「それを持った人間たちが町にいるのか」
「でも、最近は科学が発展していてね。スフィアが出す特殊な電波を見つけたの。昔は目視で確認していたスフィアの存在をレーダーで確かめられるようになった。スフィアや冥魔の力がインタラプター、わたしたちが持ってる誓約者の力を封じる腕輪と同じ方法で抑えられることもわかった。だから、箱型、トランク型、ポーチ型、色々と運搬用のものが生まれて、ブラックマーケットにも流れている。そういう容器に入れられていれば霧を集めることもないし、レーダーで見つかることもない」
「だからしばらくは安全だってか」
「古来から、スフィアのあるところで冥魔が生まれ、ないところに人が集まり、町ができた。いまの時代、冥魔の出現はある程度予測できる」
「そうか」とだけ呟いて、耀真は頷いた。冥魔に襲われた町の行く末は骨身に染みてわかっている。砂の色にくすんだ世界。
「あの二人、追わなくていいのかな?」
「いまのわたしたちは待機中だよ。同僚の人たちが頑張ってくれてるもの」
「そっか」
耀真は再びステンドグラスに目を戻す。肩越しに、ちら、と覗いた百合華は組んだ指に顔を近づけ、しめやかにまぶたを閉じ合わせていた。
○
百合華と耀真を見送り、敬礼を崩さない佐伯と別れたユーグはアトリウムの奥にあるエレベーターホールに向かう。それで、とアイリが水を向けてきた。
「なにをしに来たんですか? 逃走者の情報が欲しかっただけじゃないでしょう? 変態アピールですか?」
「君の服のこといってるんなら、間の抜けた問答だな。この国ではコスプレという文化があるから……」とまでいって、相手が聞いていないことに気がついた。話を振っておいて、と驚くが、本題を口にする。「僕は彼らの様子を見たかったんだ」
「特に変わったところはありませんでしたが」
「これから変わるかもしれないだろう」
「そうですかねえ。私にはあの二人の関係がそう容易く変わるとも思えませんが。あ、間違いです。接近することはあるかもしれませんね」
口もとに手をやって、ホホホと笑っても彼女の眠たげな目は相変わらずだ。
「あれが動き出したからね、いつ状況が変わってもおかしくなかったんだ。なにか起きる前に僕の体が空いていてよかったというところかな」
「あのお二人と関係があるのですか? いえ、エリシオンに所属している以上、関係がないわけはないのですが……」
「そうか。君は知らなかったんだな」
意趣返しとばかりに笑って、メイドの顔を覗き込む。険しい視線を正面に据えて唇を引き結んでいた。
「そうだなあ、アイリには話しておいた方がいいかもしれない」
ユーグはエレベーターの前に立って、階上のボタンを押した。
開いた扉の奥に見知った四角い顔があるのを見て、「おっ」と唸り退いた。
「ああ、ユーグじゃないか」
「これは、剛謙さん。ご健勝のようでなによりです。先日の任務も第六騎士団に被害はなかったと聞きました」
「ありがとう。皆がよく訓練をしてくれているおかげだな」剛謙はユーグとの握手もそこそこに、遅れてエレベーターから出てくる取り巻き連中に手を振っていた。「すまない。彼と話があるから、先に行っていてくれ」
エレベーターホールから誰もいなくなるのを待って、剛謙は窓辺に移動した。あとに続いたユーグが塀のような背中を見据えていると、向こう側から「さて」と声が聞こえてきた。四角い顔がちらとこちらに向き、寄ってきた。耳元で囁く。
「いつまでここにいるつもりなんだ?」
凄みを利かせた声音。圧迫しているつもりらしい、とユーグは愛想笑いで返した。
「少々探し物がありまして」
「私情のために命令を無視するつもりか? 九の騎士団長が全員一致で決議したことだぞ」
「そうはいわれましても、わたくしにも外せない用事がありますから」
「あれの輸送より優先する用事があるとはな」嘆息するように剛謙がいう。「前団長の威光はもうないのだぞ」
「承知しております」
頭を下げたユーグを興味なさそうに見下ろし、「頼むぞ」の一言を残した赤い制服が遠ざかっていく。
「ユーグさんにしては上出来ですね」
「いいかい、アイリ。僕は元来腰の低い人間なんだよ」
「ユーグさん」とアイリが優しく微笑む。「腰の高さを測り直した方がいいですよ」
○
「あはは、バカだねえ」
居間にあるテレビを見ながら、百合華が笑っていた。
夕方まで中央庁で待っていたが、異端者発見の報告はなく、しびれを切らして帰ってきた格好だ。
日はとっくに沈み、夕飯も終え、就寝を前にした穏やかな時間の最中。テレビにはバラエティー番組が映っていた。それも終わり、ニュースの時間。日中の、異端者たちの話がピックアップされている。
「これで俺たちも有名人かな?」
「審問官は表に立たない」
事実、審問官が、という具体的な話はなく、ただ捕まったとだけの報道。街頭の声に移る。
「怖いですねえ。この間もこんなことあったでしょう」
「ちゃんと仕事してるのかなあ、なんて思っちゃいますよね。エリシオンは」
「高村さんならやってくれるでしょ、あははは」
などと発し、次いでネットの声に移る。
「ここのところ、様々な反エリシオン組織が力をつけてきた」
「いずれエリシオンと反エリシオンの力上下は反転し、大きな戦争が起こる」
「第三次エリシオン戦争の始まりだ」
などと無責任に不安を煽る。
ピッ、と百合華がチャンネルを変えて、映ったバラエティーをなんとなく眺める。
「現場を知らぬ愚民め。勝手なこといってくれちゃって、まったく」
はあ、と百合華は足を突っ込んでいるコタツに上半身もねじ込むように縮こまった。外に出ているのは小さな頭と赤いドテラで膨れた背中だけだった。
「ねえ、耀真。お茶入れてきてよ」
「自分でやりなよ。俺だってコタツから出たくないんだから」
耀真も真似して縮こまる。いい答えを期待していなかったのか、百合華は落胆した様子もなくコタツの上のミカンを手に取った。皮を剥きながらしみじみいう。
「日が照ってるうちはよかったんだけどねえ、夜になったらこんな寒くなるとは……。なんで台所が遠いんだろ。ここがダイニングキッチンだったらよかったのに」
「ご先祖様がそういうふうに造らせたんだろう」
この家は代々綾薙家の当主に受け継がれてきたものだ。ご先祖様はこの辺りの有力者だったとかで、とてつもなく広い土地を持ち、威厳を形にしたかのような立派な家、というより屋敷か城といった方が相応しい建物を築いた。その建物は改装改築をくり返し、現代でも絵に描いたような日本家屋の姿を保っている。いまは夜だから障子を開けてもわからないが、外は見世物にできるほど立派な前栽で、敷地は白漆喰の壁で囲われている。
先祖代々、綾薙の家を引き継いできたのは百合華の祖父であり、父であったが、二人が亡くなったいま、一人娘の彼女が現当主となり、家主となっている。そして、住んでいるのはいまコタツを囲んでいる二人だけだった。
「もお、なんでご先祖様はこんな無駄に広いお家を建てたのでしょう」
「昔は大勢住んでたんだろう。家族とか、お手伝いさんとか。陸彦さんがそんなこといってたような気がする」
「今度この部屋に冷蔵庫置こうね。はい、あーん」
いわれて開けた耀真の口に、百合華がミカンを一房放り込んだ。噛んだ瞬間、果汁の甘みと酸味が弾けて、口の中で混ざり合う。いいミカンだ。
「ポットも置こうね。そうすると水道も必要か。いっそ本当にダイニングキッチンに……」
携帯端末が鳴った。下にあったコタツの天板が暴れて、二人の体が飛び上がる。
「なによ、急に」と唇を尖らせて不機嫌を露にした百合華が携帯端末を手に取り、画面を見る。その瞬間、鋭く目を尖らせる。「係長からだ」
はい、と努めて穏やかにした声音で通話に応じ、二言三言、言葉を交わして切った。
「例の異端者らしい人が見つかったから、車を寄越すって。わたしたちにも来いってこと」
「よく見つけたなあ、いまさら」
「夜中だし、わたし一人でもいいけど」
「なにを馬鹿な」耀真は笑う。「一人で行かせて百合華になにかあったらどうするんだよ」
「ん」と驚いた眼を伏せた百合華は頬を赤らめて俯いた。「じゃ、一緒に行こうか」
そうして、そそくさと、居間から出ていった。
それから数分で準備を整えた耀真が玄関に行くと、スカートの下にレギンスを履いた百合華がいた。上は耀真と同じ黒のジャケットだ。さすがに戦闘が予測されると彼女もそういう無粋な服を着る。
「耀真、準備できた?」
「できたよ」
「さて、あの女をわたしの安綱の錆びにしに行きますか」
百合華は懐から手のひらサイズの伸長式特殊警棒を取り出した。彼女はその武装のことを安綱と呼んで振り回す。今夜もその例に漏れない。
「相変わらず好戦的だな」
「好戦的なんじゃなくって、世の中の悪を滅したいの」
「そりゃ、高潔なことで」
呆れていうと、百合華は笑う。
家の前で止まった車の音に、百合華も気づいたらしい。
「それじゃ、行きましょうか」
○
耀真たちの住む峰原市は山と海に挟まれた湿地帯を埋め立てて築かれている。古くは小さなエリシオンの礼拝堂だけがひっそりと佇んでいる辺鄙な土地だったそうだが、港が敷かれ、幹線道路が引かれ、工場が建設されて、大きな駅ができた。それでも土地が余っていたことと、都心から電車で一本という立地もあって、近年はベッドタウンと化し、多くの企業もテナントを出している。駅を境に東西で開発地区、旧市街にわかれた典型的な新興都市だ。
開発地区の中に、港湾区という地域がある。とびとびにあった空地と使われなくなった倉庫を潰して、新しい都市空間を造ろうという計画が練られている一帯だ。完成、未完成問わず、ビルが立ち並び、工事中の道路がそこかしこにあり、昼間はツナギの作業着の男たちやサラリーマンが行き交っているが、夜となるとゴーストタウンさながらの寂りょう感に満ちている。そして、いまはエリシオンの実動支援部に隔離された危険地帯だ。
耀真と百合華の二人は非戦闘員の運転手を帰し、ゴーストタウンの真ん中にいた。
「近くに誰かいないかな?」
百合華の問いに「ん」と応じた耀真は感覚を研ぎ澄ませた。そうすることで近くの建物の構造や生き物の影を視覚ではなく、感覚的に捉えることができる。まさに生体ソナー、コウモリやイルカがやるエコーロケーションと似たようなものだ。
八年前、シアに与えられたのは、『波』を操る能力。音を生み、時には消し、衝撃を吸収することもあれば、増すこともできる。遠くのサイレンが聞こえるのも、人が逃げた先を簡単に追えるのも、生体ソナーも、その能力の一部だ。が、しかし、冥魔と戦ったときの爆発力はすっかり失われてしまっている。凡庸な力だ。
「二百メートル圏内で、北に三人、東に五人、西にいるのはここに来るときに会った実動支援部の人とその仲間三人。あとは南に一人いるけど……」
「一人? なんだろうね?」
少なくとも、エリシオンの人間は危険地帯で単独行動をとっていいとは教えられていない。チームで行動するのが鉄則であり、だから耀真もついてきたわけだが、一人というのはトラブルがあったか、それとも……。
「例の女、かな?」と百合華がこちらを向く。
「どうだろう? 敵は複数のはずだけど、単独行動してるかな」
一考した百合華は「行くよ」と決断した。
「あの女は危険だものね。捕まえないと」
「エリシオンの人間でも放っておけないしな」
「耀真」と百合華は神妙な顔でいう。「絶対にわたしの前に出ないで。あの女はわたしが倒す」
「百合華、そんな意地張ってる場合じゃないだろ」
「意地を張ってるわけじゃ……」いいかけて、百合華は俯けた顔を振った。「とにかく、その一人を追おう」
「ああ」
首肯した耀真は走り出し、四車線が交差する十字路を左に折れた。ソナーをくり返しつつ、大通りを駆ける。目標は時折立ち止まりながら移動しているから、距離を詰めるのは容易い。追いつける経路も読めてきた。
「進行方向に先回りして追い込む」
「うん」
百合華が応えるのを聞いて、耀真は歩道の向こうにある路地に飛び込んだ。車一台がようやく通れるくらいの狭い路地だ。主道より街灯が少なく、いくらか暗い。さらにいくつかの角を折れ、とある飲食店の脇に出ると、耀真は立ち止まった。お店は閉店したのか、避難させられたのか、人気はない。
うしろに百合華がついてきていることを確かめて、唇に人差し指を当てる。その指先を飲食店の裏手の路地に向けた。頷いた百合華は耀真の前に出て、冷たいコンクリート壁に背中を預ける。腰に手を回して、愛用の安綱を引き抜いた。太鼓のバチのような形をした棒の取っ手を握ると、黒い刀身が音もなく伸長して、木刀のようになる。
百合華は安綱の切っ先を足もとに垂らし、周りの気配を窺う。そっと角の向こうを覗いていた。
「あのメガネをかけてた方の女だな」探知に映った体の凹凸でわかる、とはいわない。
「あっちの方の女じゃないのか」と百合華が舌打ちをする。「でも捕まえるしかないか」
いうが早いか、百合華は交差点に飛び出した。
はっとした耀真が続くより早く、交差点に暴風が吹き荒れる。
百合華の風を操る能力。
いきなりやるのか、と絶句する。ビルに張りついた耀真は、いまにも耳が千切れそうな暴風の中、百合華とは違う若い女の、声にならない悲鳴を聞いた。
「異端審問官です。武器を捨てて、投降してください。でなければ怪我をすることになります」
強風の中でもよく通る百合華の声に銃声が重なった。耀真は黒髪たなびく背中に向かう銃弾を見た。あれ、と思ったのは一瞬にも満たない間。「百合華!」と叫んでいた。同時に風が地面から吹き上がる。あおられた銃弾は闇の中に消えていった。
「拳銃など無意味です。わたしに近づくことすらできないのですから」
耀真はほっと胸を撫で下ろす。
百合華の力はいつも通り強烈だ。ライフルでもなければどこから銃弾が飛んできても怖くない。
「まだ武器を捨てないのなら、実力行使に移らせてもらいます」
ふと、嫌な臭いが流れてきた。上からだ、と頭上を見遣る。水色の大きなポリバケツが宙を舞っていた。ひっくり返って中身をぶちまける。
「ひいっ!」と短い悲鳴を上げた百合華は懐から扇子を取り出すと、一振り、一気に開いた。思いきり空を扇ぐ。百年に一度の大嵐かというほどの風がビルの谷間を駆け回る。ポリバケツが自らの中身とともに埃のごとく虚空の中に消えてしまうと、嵐が止んで、元の静寂が戻ってきた。
辺りを見回す百合華に耀真は駆け寄った。
「百合華、大丈夫?」
「もうちょっとで生ゴミをかぶるところだった。お風呂入ったばっかりなのに、いや、どっちにしても帰ったら入り直すけど」
「風呂の話してる場合じゃないでしょ。怪我は?」
「ないよ。どこに怪我するような場面があったの?」
「銃を向けられてたじゃないか」
「そんなの当たってないし、当たらないし」百合華は髪を撫でて整える。「それより、あいつ、どこに逃げたの?」
「それよりって……」いいながら、耀真は神経を研ぎ澄ませた。「あっちだ。ビルの中に入っていく」
「さっさと追うよ」
「その前に話さないといけないことが……」
聞こえていないのか、聞いていないのか、百合華はもう走り出している。またか、と項垂れて耀真も続く。「どっち」と訊かれたから「あれ」と指さした。先は建設中のビルで、立入禁止の看板を下げているタイガーロープで封鎖されていた。だが、百合華が安綱の一振りで断ち斬る。
「別に斬ることないじゃないか。下をくぐれば……」
いい切る前に、百合華の背中はビルの中に入っていた。
「まったく話を聞かないんだから」と悪態をつきながらも、百合華を追う。
ビルの中はまだまだ建設途中で、淡い非常灯の明かりしかなかったが、マンションを想定しているのは察せられた。クラシックな木材を基調にしたエントランスは野生の香りがする。奥に駆けていくと、二つの縦長の穴に突き当たる。どうやらエレベーターを設置するための空間らしい。穴の中、二畳ほどのスペースは打放しのコンクリートで、所々からコードが飛び出している。縦穴の中に百合華が顔を突っ込んだ。
「ここじゃないよね」
「こっちじゃないかな」
耀真が右手で示した方には鋼板ののっぺりとした扉がある。開けてみると、奥には階段があった。百合華が警戒した様子で上を覗く。
「五階だな」と耀真がいう。「いま、扉がゆっくり閉まっていくのがわかる」
階段に足をかける耀真の前に腕を伸ばした百合華は前に立って駆け上っていく。
「ちょっと過保護じゃないかねえ」今日は特に。
「そんなことない」という百合華は素っ気ない。「わたしの方が強くて、耀真の方がサポートなんだから当然の布陣でしょう」
「そうかいそうかい」と耀真は鼻で笑う。「じゃ、守ってもらいましょうかねえ」
「うん」と百合華は前を向いたまま頷いた。「わたしが守る」
耀真は眉をひそめるだけにして、彼女のあとを追いかけた。
ほどなく五階に到着し、百合華が慎重に分厚い扉を押し開く。建材の匂いが消えたのは外に出たからだ。開放廊下だ。下を覗くと駐車場があって、上を見れば夜の空がある。ビルの向こうにある繁華街の明かりに照らされ、地平際が白い。
「どこかの部屋に逃げ込んだのかしら」
「この部屋かな」
廊下を歩いて四番目の扉の前に屈んだ耀真は床を探る。一摘まみほど、土が残っているのはエコーでわかった。まだ湿っているから自分たちより少し先にここを通った人間がいる。耀真は部屋の扉のかすかな隙間、その奥に意識を集中させる。呼吸音がひとつ。
「間違いない。2LDK。入って、まっすぐ行った、奥の部屋の手前右隅」
耀真の助言に頷いた百合華が安綱を一振り、金属の扉がひしゃげて部屋の中に転がっていった。身を縮めた耀真は脇に退く。ホント、バカなんじゃないのか。
「奥にいるのはわかっています。投降する意思があるのなら両手を上げて出てきなさい。従わないのであれば、叩きのめします」
それでも沈黙を守る部屋に百合華はため息を吹き込んだ。彼女の呆れ気味の一歩が踏み出されたそのとき、耀真は違和感を覚えた。空気の中にかすかだが、感じたことのないざわつきがある。その原因がなにかと考える前に、百合華に横合いからぶつかった。小さな悲鳴を上げた百合華と一緒になって、廊下に倒れる。
「ちょっ、待って! 急にそんな、いや、嫌なわけじゃないけど……!」
錯乱する百合華の口を押さえて、自分の唇に人差し指を当てる。暴れる百合華の耳元にささやいた。
「なにかおかしい」
「ふがっ」と鼻を鳴らした百合華は耀真と視線を絡めて、大人しくなった。耀真は神経を尖らせる。
「部屋の中、廊下の壁に弾がめり込んでる」
「あいつが撃ったんでしょう?」口を押さえる手を退けた百合華が声をひそめていった。「大した問題じゃないよ」
「いや、もっと入口の近くだ。それも、入口の方向から部屋の方に向かって木製の壁にめり込んでる。部屋の奥からじゃ、跳弾してもあり得ない角度と位置だ。そもそも木製の内装じゃ跳弾しないけど」
「わたしたちの背中の方から撃ったってこと? 狙撃? 外に仲間がいるの?」
「弾が狙撃に使うのものじゃないけど……」
「けど?」と百合華が首を傾げた。
「あいつ、誓約者だ」
百合華の目が丸くなる。「なんで? どんな?」
「あいつの仲間、捕まえた四人とまだ逃げている一人、計五人が誓約者で、あいつだけ違うってのは理屈が通らない。中身はたとえば、手近にあるものを瞬間的に移動させるような」
「瞬間移動?」訝しげな声で百合華がいう。「だったら、もうわたしたち、ハチの巣だよ。ここに銃弾をワープさせればいいんだから」
「なにか制限があるんだろう。もしかしたら、無駄撃ちしたくないだけかもしれないけど」
「無駄にこっちを狙えば、向こうの能力がバレるから?」
「さっき道端でやりあったとき、百合華の正面に女がいたけど、銃弾が飛んできてたのは背中の方からだった。周りには誰もいないのに」
「本当に?」百合華が片眉を下げた。「早くいってよ」
「いう前に百合華が行っちゃったんだろ」さらに耀真は続ける。「ゴミ箱も、店の裏手にあったのを百合華の頭上に移動させたのかもしれない」
「証明する方法はあるの?」
「試してみよう」
耀真は百合華にかぶせていた体を起こし、財布を取り出した。
「どうするの。それ?」
「要するに、部屋の入口に俺たちがいると錯覚させればいい」
ふーん、と百合華が寄り添って、顔を覗き込んでくる。
「近いよ、顔が」
「なに? ヤなの?」
「そういうんじゃないけど」
「キスできちゃいそう?」
「バカ」
百合華のうるんだ瞳を見ないようにして、耀真は財布を放り投げた。部屋のフローリングの上に落ちて、ちょうど人が床を踏み鳴らしたような音を立ててくれた。直後、部屋の奥で発砲音が鳴り、財布の上を銃弾が通り過ぎる。正確には見えなかったが、間違いなく外廊下のどこかからか撃ち出され、今度は部屋の天井を穿った。
「む」と百合華が唸ったのは弾道が見えたらしい。
「なるほど。外廊下から奥の部屋までまっすぐの廊下が続いてるから、そこを歩く誰かの背後を狙うのは目で見なくても簡単なんだ」
瞬間移動の条件も感覚もわからないが、入口から真っ直ぐ伸びる廊下は目印になりやすいのだろう。迂闊に歩けば大気を自在に操れる百合華といえども無傷では済まない。
「小賢しい真似をする」
立ち上がって部屋の前に立つ百合華。
「おいおい、危ない……」
ぞ、といい切る前に、突風が吹いた。同時に百合華の姿が目の前から消える。部屋の奥で壊滅的な音が轟き、女の悲鳴が響いた。
「あいつ、マジか」
風で全身を加速させ、ひと息に部屋の奥まで、文字通り飛んでいったらしい。
百合華の力はいつも自分の想像を上回る。
耀真も短い廊下を抜け、奥の部屋へ。突き当たりの壁は一面を吹き飛ばされ、大穴が開いていた。そこから月の光が差し込んでいるおかげで視界はそれなりに悪くない。
安綱を片手に下げて佇む百合華、首をすくめてしゃがんだメガネの女。
二人の姿が青白く浮き上がって見えた。
上半身を起こそうとした女に百合華が「動くな!」と一喝する。女の自己主張の強い胸が大きく揺れ、フレームレスのメガネをかけた顔がびくりと上がった。軽くカールした栗色の髪がうなじの上で小刻みに震え、顔が恐怖にひきつる。
「さて、小細工はおしまいですよ」振られた安綱が高い風切り音を鳴らす。「銃を捨てて」
「あ! はい、ごめんなさい……」
片手に握っていた拳銃を軽く放り、居住まいを正して、三つ指をつく。拳銃はというと、床上を回りながら滑っていった。
「あの……、あたしは……!」
「喋らないで。弁解は中央庁の方で聞きます。いまはあなたを拘束します」
ジャケットから誓約者拘束用のブレスレット、通称インタラプターを取り出し、ゆっくりと歩みを進める百合華の足もとに女の視線が向く。
なにかある。
「百合華、危な……」
いっている途中に、百合華の体が緑色の光に包まれた。点滅に近い挙動で光が消えると、百合華の姿もなくなっていた。
「百合華!」
慌てた耀真の声に応えるようにどこからか「ああー」と間延びした声が聞こえた。
百合華の声。壁に開いた穴の向こう、それも下の方からだ。どうやら二階か、三階のあたりのベランダに瞬間移動したらしい。
もしかしたらそこから落下しているのかもしれないが、その程度なら無事だろうとたかをくくって、耀真は女の方に向き直った。女はいつの間にか拾った拳銃をこちらに向けている。強い決意をした顔で迷わず引き金を引いた。
咄嗟に手のひらを前面にかざした耀真の手前で銃弾は弾かれ、遠くの床に落ちた。乾いた音が鳴る。
「よく躊躇なく撃てたもんだな」
女が全身を強張らせる。
「いまのは、なにを……」
「全部見えてるんだ。床の上におかしな、空間が歪んでるような場所があるのも」ちょうど百合華が踏んで姿を消した辺りだ。「一メートル程度手前、俺と君の間にある。他にもあるな。壁や天井に。自在に設置できるのか。それに触れるとどうなるのかな? 地雷みたいに、踏んだ人をどこかに瞬間移動させるんだ。行き先はなにかの方法で設定してるのか、それともランダムなのか」
暗に追い詰められているぞ、とほのめかせても、相手は目を丸くしただけで、いまだ拳銃を放さない。
「もう諦めて投降した方がいい。銃弾くらいは効かないんだ」
体の一部だけなら、そこに振動を起こし、衝撃を緩和したり、銃弾を弾いたりすることができる。後者に限ってはタイミングと射線が命取りになるから、百パーセントというわけにはいかないし、連射されるのも困るが。
「射線は見える。弾丸も弾ける。君の能力も読めている。俺の負ける理由がない」とできるだけはったりをかます。
「それでもあたしにはやらなきゃいけないことがあるんです」
刹那、射出された弾丸が身構えた耀真の頬をかすめ、背後の壁に消えていく。
歪な振動を感じた。弾丸をどこかへ瞬間移動させたのだ。
嘘だろと罵る間もなく、正面の銃口が連続して火を噴き、飛び出した弾丸が壁に消えた。次の瞬間、床、天井、周囲の壁から唐突に現れて、こちらを狙う。
緊張に喉を詰まらせ、耀真は腕を振った。
一、二、三、四……。
銃弾を弾き、スライドストップのかかった女の拳銃を見た。周りから弾丸が飛んでくる様子もない。
手に汗握った。
そんなことを気取られるわけにもいかず、いかにも楽勝でしたといわんばかりに脱力した女を見下ろす。
「本当に見えているんですか?」
「だから、見えてるんだよ、俺は。人の目に見えないものも含めて」
ぼんやりとしていた女が、なんと、突然に目尻に涙を溜めて、大粒の滴をこぼし始めた。驚いた耀真は身振り手振り、慌てふためく。
「ちょ、なに? どうした?」
「本当に、本当に、姫さまの誓約者の方が……」
「姫? 姫って誰だよ?」と訊き返した言葉が頭の中で反響し、かつての記憶にはまり込む。彼女は姫と呼ばれていた、と。「シアのことを知っているのか?」
「シア?」と女が眉をひそめる。
「俺がそう呼んでたんだ。名前はないからって。彼女自身は、自分は姫と呼ばれていたって」
女はしゃがんだまま、祈るように指を組んだ。
「全てを話すには時間が……、姫さまがいまどこにいらっしゃるかはご存知で?」
「知らない。何年も前に一度会ったきりだ」
「人には聞かせられない話です。ここでは時間がないだろうから、一言だけ伝えろと真夜さんが」
「真夜?」
「昼間、あたしと一緒にいた女性です。あなたが姫さまの誓約者だと気づいて、色々と考えてくださいました」
「で、なんて?」
「わたしを探せ、と」
「探せ? その真夜って女をか?」
次の言葉は大穴から吹き込んできた突風に遮られた。「ひえ!」と悲鳴を上げた女が部屋の隅に転がっていく。
「やってくれたわね。このメガネ」
五階まで飛び上がってきた百合華が壁の大穴から悠然と入り、フローリングに立った。風を止めて、髪を整える。頭を抱えて小さくなった女に目を据えた。
「今度こそおしまいです」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、百合華。彼女と話をさせてくれないか?」
「なにいってるの?」といった百合華の顔が月の明かりの中でも色を失ったのがわかった。作られた笑顔は空っぽに見える。「なにを話すっていうのよ?」
「人を探してるんだ。百合華には話してなかったけど。その女はその人のことを知ってる。少しだけ話させてほしい」
百合華の歯がきつくかみ合わされる。
「ダメ」
「なんで?」
「ダメだから」
「なんでだよ?」
「なんでもダメなのっ!」
ほとんど叫ぶようにいう。
「ダメだから」俯いた顔からふり絞るようにいって、百合華はもう一度インタラプターを取り出し、女に向き直った。
「あなたには……」と、被告の権利と警告を機械のように朗々と詠じていた。
○
昔、いまは亡き百合華の祖父、綾薙陸彦が話していたことがある。
「いいか、耀真。おまえには強くなれる素質がある。しかし、いくら素質があろうと、力があろうと、努力し、願っても、叶わないものはある。つかめないものがある。それが挫折であり、ときには人を絶望のどん底に突き落とす。そこから這い上がれる人間とくすぶり続ける人間のなにが違うか、わかるか?」
「諦めないとか、負けないとか」
「世の中には諦めなければならないものも、どうしても勝てないものもある。それを知らないから挫けるんだ。立ち上がるには、どうする?」
「どうするって、……どうしようもないんじゃないの? 夢も希望も消えちゃったら」
「挫けた人間に足りないもの。それは、勇気だ」
「勇気?」
「裏切られ、敗北して、諦めても、再び立ち上がる勇気。一歩踏み出す勇気。たとえ、それがいままでと異なる道でも歩き出す勇気。それが、耀真、おまえの中にある素質を輝かせてくれる」
「強くなれる資質を?」
「そうだ。立ち上がる勇気を持て」
あのときは、ありきたりな言葉に思えた。
しかし。
あからさまな別れ道を前にしてわかる。選ぶ勇気が必要だと。なにかを捨てるにも、なにかを追い求めるにも。対極の別れ道を前にして、本当の勇気が試されている。
孤児院から逃げ出したとき、町が冥魔に襲われる光景を目にしてシアの元へ戻ったとき、シアと誓約したとき、冥魔と戦ったとき。どれかひとつでも、自分の中に勇気があった証なら、その光はまだ輝いているだろうか?
○
綾薙邸の居間にあるコタツに入った耀真は屋敷の東側、風呂場の方に目をやって、そこにいるはずの百合華を思った。家に帰るなり、風呂場にこもって、かれこれ、小一時間が経つ。もう深夜だというのに。
「ふああ、いいお湯だった」
吐息を漏らしながら、パジャマ姿の百合華がふすまを開けた。上気した頬を緩ませ、耀真の隣に腰を据えると、腕を引いてきた。
「まだ起きてたんだ。着替えもしないで」
「もう寝てもよかったんだけどね」
「待っててくれたんだ」
「そういうわけじゃない」
「じゃ、寝付けなかったんだ」
「まあ、そうかも」
「不安なら一緒に寝てあげようか?」
「またそんなこといって……」
「こんなこというの、耀真にだけなんだからね」ツンと顔を逸らしてから耀真に向き直った。にこにこと笑ってみせる。「なんてね」
「前言撤回だ。百合華を待ってたんだよ。眠れなかったわけじゃない。だから俺は寝る」
「あまのじゃくなんだから」
立ち上がった耀真に百合華もついてくる。橙色の照明がつり下がる長い廊下を途中まで歩き、立ち止まった耀真はそばの障子を開けて百合華に視線をやった。
「また明日な」
「あのさ、耀真」
深刻な声音に引かれ、思わず体ごと百合華に向けた。彼女の指は耀真の指に絡まり、顔は憂いを含む。
「なに?」
「今夜あったことは全部なかったことだよ」
「なんの話?」
「だから、全部。今夜、耀真が見たこと、聞いたこと、全部」
「百合華?」
「おやすみなさい、耀真」
絡まっていた指先がほどけていく。背を向けて歩き出した百合華はいつもより小さく見えた。
「百合華」とその背中に声をかけると、彼女は黒髪を揺らして振り向く。
「百合華が知ってることを教えてほしい」
「わたしが知ってることなんて、なんにもないよ」朗らかに微笑む。「なにをいってるのか、わからない」
「俺には忘れられない恩人がいる。その人のことを探してるんだ。百合華はなにか知ってるんだろう?」
「知らない」
「なら俺は行くよ」
繋がっていた視線を外し、誰もいない廊下へ踏み出す。「ダメ」とぶつけられて、ジャケットの袖をつかまれる。が、その指先に入る力はほんのわずかだ。
「話を聞けば、耀真はエリシオンの敵になる」
「知ってるんだな」
百合華はうつむけた顔を起こさない。「なにを知ってるんだ?」と問い詰めても。
「俺は前に進みたいだけだよ。それはいまのままじゃできないことだから」
「あれは災いを運ぶ種。だからエリシオンは封じたの。それがわかるでしょう?」
ひび割れた声でいう。
「いいよ」と耀真は頷いた。「俺はエリシオンの、世界の敵になっても構わない」
「なんでそんなこというの? わたしは……」
驚愕に見開かれた瞳に頷いて返し、力の抜けた手を取る。腕からほどく。
「ダメ、行かないで」
「じゃあな、百合華」
○
中央庁の敷地内に簡易留置所がある。急な事件で捕らえられた異端者は大概ここへ放り込まれ、事情聴取などを受け、のちに正式な拘置所へ移送される。
耀真は留置所のそばの暗がりに身をひそめ、壁に背中を預けた。すぐ隣には所内へ繋がる門があり、併設された監視所、上には監視カメラが二台、赤外線で門前を見つめている。六畳程度の監視所には明かりが点っていて、二人の人間がいるのがわかる。
耀真は呼吸を整えて、じっと待つ。
パンッ!
向こうの路地で袋が弾けたような音がする。監視員の二人は事務所から首をのばし、暗い路地の方を見遣る。
「なんだ?」
「なんの音だろ?」
ビニール袋に溜めた空気に耀真の能力を送り、数分ののちに破裂するよう炉端に置いておいただけだ。
会話している横を耀真は音もなく駆け抜ける。監視カメラの赤外線は波を探知する耀真の能力の前では、周辺を光で照らしているようなものだ。どこまで見えていて、どこまで見えていないのかは火を見るより明らかである。後ろ姿なんかは撮影されてしまっただろうが、構うまい。
簡易留置所の中は高い塀に囲まれ、道はアスファルトで固められ、植木のひとつもない。
耀真は正面エントランスを避け、左手に回り、施設の裏手に向かう。エコーロケーションで探ったところ、その辺りに留置所の小窓が並んでいるのがわかった。ひとつ、ふたつ、と、覗くまでもなく、三つ目に人の気配があるのも察せる。鉄格子で仕切られた小窓の横にひざまずいた。
「おい、起きてるか?」
鉄格子の奥にある半地下の小部屋で人の動きがある。隅で縮こまっていた女が戸惑ったようにメガネを直すと、這うようにして小窓の下まで来たのが、エコーロケーションの能力でわかった。
「その声は、あの、もしかして……」
「あんまり大きな声を出すと、すぐに見つかる」人差し指で唇を押さえてみせる。
「わかってますよ」と女が声をひそめる。「どうしてここに?」
「真夜って女の居場所を訊きに来た」
「あたし、知りませんよ」
「おまえの態度が昼間と夜で違いすぎる」
「え、そうでした?」
「昼間はどうしようかとおどおどしている風だったけれど、夜になったら躊躇なく引き金を引き、エリシオンに捕まることも恐れない。これは違い過ぎる。なぜか。やるべきことが決まって、あとの不安がないからだ。真夜にいわれたな? 俺を試せ、捕まっても殺されることはない、必ず助けにいく、と」
女の顔が驚きに染まる。
「図星なのか?」やや信じられない思いだ。「よくもまあ、他人のことをそうも信用できたもんだよ」
「だって、真夜さんはとっても頼りになる人です」
「人に騙されないように注意した方がいいよ」
「騙すだなんて、人聞きの悪い」
うしろの方から女の声がする。悠々と歩道を歩いてきたのは、昼間に百合華と剣戟を交えていた女。薄い笑みを張りつけた彼女はエメラルドグリーンの瞳に耀真を映す。
「あんたが真夜か?」
「そう、お会いできて光栄よ、姫君の騎士さま」
「聞きたいことが山ほどある」
「お話しましょう。五百年前のことから」
「五百年前?」耀真は腕を組んで真夜の声に耳を傾ける。エリシオン教会の人間には馴染み深い数字だ。
「いまから五百年前、とてつもない力を持った誓約者が現れた。『それ』は強大な力をもって、世界を崩壊させようとした」
「知ってる。エリシオンの聖典の内容だ」と耀真が話を引き継ぐ。「『それ』は魔女と呼ばれ、冥魔を操り、全人類に対する戦争を始めた。それを十聖人が討伐し、世界に安寧がもたらされた。エリシオンは十聖人を使徒とし、彼らに力を与えたエルを主として崇めている。十聖人の意志を継いで冥魔を駆逐し、誓約の力を使って混乱を引き起こす者を異端者として裁く。世界の安寧を守ることが最大の使命ってくらいは」
「では、エルの姫君については?」
「エルの姫君?」耀真は知らない単語だ。
真夜は芝居かかった口調で続ける。
「魔女と戦ったのは十聖人だけではありませんでした。人の姿をもって、この世界に顕現したエル。それは女性の形をとっていたことから姫と呼ばれ、慕われていた。姫とその誓約者、さらに十聖人を含めた十一人と一柱は力を合わせ、魔女を討伐する。でも、話はそれで終わらなかった。強すぎる力を持った姫を人は恐れた。次なる戦いが始まった。その果てに、十聖人はエルの姫君を深い眠りの中に封じたのでした」
「姫、封じた?」一つ、一つの単語が重なって繋がり、一つの模様を織りなしていく。「十聖人とともに戦っていた姫君」
「これは事実。人の姿をしたエルはまだこの世界にあって、深い眠りの中にいる」
「それがシアってことか」耀真は呟く。
「シア?」
「俺がそう呼んでいただけだ。深い意味はなくて」耀真は手を振って、いや、と口走る。「それはいい。俺が聞きたいことは三つ。シアがどこにいるのか、あんたたちの目的、俺になにをさせたいのか」
「私たちは彼女の封印を解きたい」
「なぜ?」
「そこは美緒ちゃん」
「美緒ちゃん?」
「あたしです」と鉄格子の中でメガネの女が恥ずかしげに手を上げた。「我々ヒエログリフと呼ばれる組織の人間の大半は、古来姫さまに仕えていた者の末裔です。姫さまの解放は五百年来の悲願ですよ」
「解放ってのは、どうやって?」
「彼女自身の力を底上げして上げれば、自らの力で封印を破ることができる。そのための手段は二つ、スフィアと共鳴させるか、その誓約者と共鳴させるか」
真夜はポケットから小さなポーチを出した。中に手を入れたのも一瞬、「これを」と小さななにかを抜き取って、放ってくる。キャッチした耀真の手のひらにあったのは黒真珠のような鉱石だ。
「そのスフィアを使いこなせるのは冥魔と、この世界に顕現したエルの姫君、その誓約者たるあなただけ」
「俺が?」
「エリシオンは秘密にしている。あなたのことも、姫のことも、スフィアの真の使い方も」
「どうすればいい?」
「握って、あなたの力を使えばいい。それだけで姫君とあなたの糧になる」
「試そう」
耀真は手のひらを握り、力を込める。青く光る粒子が指の隙間から漏れただけで、スフィアは手の内から消えていた。真夜がクスクスと笑っている。
「ね、私のいった通りだった。姫君の場所も知っている。でも、私たちの持っていたスフィアはいまなくなってしまった。献上することはできない。あなたの力が必要。あなただけが姫の封印を解くことができる。私たちと来ない?」
「わかった」
「あら」と真夜は意外そうな顔をした。「美緒ちゃんには簡単に人を信用するなといったばかりだったのに」
「シアが話していたことと話が一致している部分が多い。スフィアに関しても嘘はない。なにより、俺はシアがいる場所を知る術が他にない。あんたの話が真実であれ、嘘であれ、聞いてみたいと思う」
「いい答え」真夜が笑う。
「最後の質問の答えを聞きたい。シアはどこにいる?」
「ここにいる」
「ここ?」耀真は地面を指さした。「ここ、中央庁にか?」
「エリシオンは自分たちの膝元に彼女を隠匿しているの。近々、総本山であるセントラルの方に移されるそうよ」
耀真が沈黙しているのを見て取って、真夜はさらに続ける。
「いつのころかはわからない。前第六騎士団長綾薙陸彦が遠征先で発見したのだという話よ。以来、礼拝堂の地下にある納骨堂、そのさらに下に空間を設け、厚い壁で物理的にも封じてしまった」
「陸彦さんがそんなことを……」シアを見つけたのは、耀真を引き取ったときだろうな、と推察する。
「納骨堂と封印の間を隔てる壁はおそらく、とてつもなく分厚い岩石でできているはず。通常の手段で破壊するのは難しいから、美緒ちゃんの転送能力で壁の奥へあなたを送る」
「瞬間移動の能力か」と呟いて思い至る。「それを使って、さっさとシアの解放に行けばよかったじゃないか」
「行く予定だったのだけれど、途中であなたに会ったから。彼女が誓約者を選んでいるのなら、その人も連れていかない限り、彼女は本当の力を発揮できない。それはわかっているでしょ?」
「俺が一度本気で戦ったとき、俺から生まれた波をシアが増幅して強くしてくれていた。その逆ってことか」
「そういうこと」
「じゃ、早くその瞬間移動で……」
「美緒ちゃんの能力には多くの制約がある」ちらと横顔を半地下に向ける。「お願い」
「いいですよ。姫さまの誓約者さまであれば」
「誓約者さまはやめてくれ。耀真でいい」
「では、耀真さんで」コホン、と一つ咳払いをする。「物や人の瞬間移動は簡単です。けど、あたし自身はできないんですよ」
開いた手の指を一本、一本、折りながらいう。
「転送の出口は面でさえあればどこにでも作れますが、遠いと正確な場所に作るのは難しくなります。だから身の安全が保証できません」
「遠くは期待できないんだな」
「入口は手の届く範囲にしか作れません」
「遠くのものを近くに運ぶのも無理か」
「あと、肝心なのは一方通行ということです。出てきたところからは入れません」
「ちょっと待って」耀真は額に手を当てる。「要するに、ちょっと遠くに手近なものを動かす、くらいしかできないのか? それも帰って来られなくなるって? それで役に立つのかよ」
地下空間、封印の間が完全に密閉されていれば、転移で入れても帰ってこられないということだ。
「そんなことないわ」と真夜。「はい、美緒ちゃん」
「いえ」と美緒が首を振る。「やりたいのは山々ですが、腕輪が」
インタラプターだ。能力者封じの腕輪。捕らえた誓約者には例外なく装着させるものだ。
「これを使え」耀真がポケットに入れておいた鍵を美緒に投げ渡す。「その腕輪、俺たちに捕まってから変えてないなら、それで外れるはずだ」
腕輪を弄る音がしたあと、歓声が上がった。
「外れましたよ」
「なら、よかった」
「あと、ハンカチとかって持ってませんか? あたしの持ち物全部没収されちゃって……」
「あるけど、なにに使うんだ?」
いつも出がけに百合華が押しつけてくる青いハンカチが、今朝からそのままポケットの中にある。それを出して、鉄格子越しに美緒へ手渡す。と、彼女はハンカチの表面に触れた。探知してわかるが、ハンカチの表面には目に見えない空間の歪みが生まれている。
「最後に一つ、出口も入口も、あたしが触れていれば覚えている限りは有効です。耀真さんがそこに触れれば、どんなに離れていてもあたしのところに帰って来られますよ」美緒はぴんと立てた指で宙を混ぜた。「ちゃんと便利でしょう?」
「そうだな」と耀真は唸る。「鉄格子の中からは出られないけどな」
「え、あれ、出してもらえますよね?」
「出してあげるわよ。美緒ちゃんがいないと封印の間に入れませんもの」
近づいてきた真夜に、耀真は場所を譲る。真夜は屈んで小窓に触れると、もう美緒の手をつかんで引っ張り出していた。鉄格子が消えている。
「なにをしたんだ?」
「私の能力は秘密」と美緒を引き上げながらいう。「ちょっと、美緒ちゃん、太りすぎじゃないの?」
「あたしは太ってません。ここ最近、体重変わってないんですよ、頑張ってるんです」
「なら、もともと丸いのね」
「そんなこと、いわんでください」
○
いつまでも一人膝を抱えていじけているわけにはいかない。
耀真と別れてからしばらく経つが、中央庁からコレといった連絡はない。まだ彼の動きがエリシオン側に知られていないのはこちらとしても好都合だ。今回のこと、秘密裏に自らの手で収める。
「あれの封印を解かせるわけにはいかない」
百合華は民家の屋根を蹴って、隣家の瓦を踏む。さらに駆けようとしたとき、携帯端末が鳴った。
いつもと違う着信音で、誰からの発信かはすぐにわかる。緊急の連絡しか取ることのない相手だ。
舌打ちをして立ち止まった百合華は、上着のポケットを探る。取り出した端末を耳に当てたが、髪がやや邪魔でかき上げる。
「どうしました、高村さん」
「お嬢様、よろしいですか?」
「よくなければ出ません」出た声音はだいぶささくれ立っていた。が、構わず続ける。「何事です?」
「大型の冥魔が出現しました。場所は弥田山、東方面」
「弥田山ですか」町の北東、湿地帯を越え、山岳部をひとつ越えたさらに先だ。「なぜ生まれる前に対処できなかったんですか」
最近はスフィアを探知するレーダー等の技術も質を上げてきており、見落とすことなど稀である。
「それは今後検討させていただきます。いまは町の安全を。やつはこちらに向かっているようです」
「騎士団は?」
「出動しますが、お嬢様が先ほどまで別件で出動していたと耳にしましたので、足止めだけでもしていただけないものかと」
「わたしが?」
出動していたのは二時間近く前の話だ。が、運命のいたずらか、再び出動している。
南の方角を見遣る。濃紺の夜空の下、町の光が地上に白い帯を引いている。中央庁の明かりがあるのはその中だ。それとは逆方向の山にいまから向かい、化け物の足止めをしろという。平時であれば、一も二もなく承諾しているところだが……。
「いかがされました?」
通話口の声は焦れているようでも、こちらを試しているのではないか、と勘ぐってしまう。
「わかりました」と声が震えるのを抑えながら応える。「わたしがやります。できるだけ早く騎士団の準備をお願いします」
「ありがとうございます」
お気をつけて、と残して話が切れた。
「くそっ!」と思わず端末を瓦に叩きつけた。こんな不運があるものか。
深い呼吸をくり返し、頭の奥に酸素を運ぶ。苛立ちを腹中に収め、端末を拾い上げた。電源を入れようとしても、反応しない。ゴミになってしまったが、捨てていくわけにもいかない。
ポケットにねじ込み、暗闇にまみれた山岳部へ向かう。
○
二十四時間、エリシオンの鍵は閉じられない。深夜になっても会社員やバイトや塾帰りの輩が近道なのか、行き場がないのか、ともかくうろうろとしているから敷地の中から人が絶えることはない。だから耀真や真夜が人に紛れて遊歩道を歩くのは容易い。ただ、美緒だけが街路灯を避け、こそこそと闇の中を蠢いている。
「怪しい動きしてるんじゃないよ、美緒」
「だって見つかったら捕まるじゃないですか」
「そんな怪しい動きしてたら視界をかすめただけで地の果てまで追われるぞ」
「そうよ、堂々と私のうしろにでも隠れて歩いてればいいじゃない」
「それ、堂々っていうんですか?」
美緒は藪の中から飛び出して、真夜の背中に張り付いた。美緒も背の高い方だろうが、真夜の方がさらに高く、背筋も伸びているから簡単に天然パーマの頭まで隠れてしまう。
「あの、三角屋根が礼拝堂だ」と耀真は暗い空を指でさす。
「計画は次の通り」と真夜が語る。「礼拝堂へ潜入、納骨堂へ下り、地下空間へ、さらに封印の間へは美緒ちゃんの能力で耀真くんを転送。姫君と共鳴して封印を解く」
「そのあとは?」
「第一騎士団長、ユーグ・フォン・ストラトスの下へ向かう」
「ユーグさんの?」
思わぬ名が出てきて驚いた。真夜の二の腕辺りからひょいと出てきた美緒の得意気な顔は頬が溶けそうなほど緩い。うへへえ、と間延びした、気持ち悪い声を上げる。
「まだ日本にいることも、この近くのマンションを借宿にしていることも、その場所も、ちゃんと調べがついてるんですよ」
「エリシオンが姫君の存在を秘密にしておきたかったのなら、見つかったときに破壊してもよかったはず。そうならなかったのは綾薙陸彦が保護したからよ。エリシオン内部では穏健派と強硬派がいがみ合っているようね。姫と共存しようという勢力と、黙殺を続ける、または破壊してしまおうという勢力。で、穏健派筆頭だったのが、綾薙陸彦。その意思を継いだのが、ストラトス家の嫡男、ユーグ・フォン・ストラトス。きっと私たちを助けてくれる。そういう意味でも、知り合いである耀真くんがいると話が早い」
「なるほど」と耀真は襟足を撫でて思案する。エリシオンが姫君の存在を秘密にしておきたかったのなら、その誓約者を殺してしまってもよかったはず。身寄りも友人もいない、世の中の絞り滓に似た子供だ。命を奪うなど造作もない。それを保護したのも陸彦だ。「どうして、真夜はそこまで知ってるんだ?」
「調べたから。これでも頑張ったのよ」薄く笑う。「ちなみに、これは完全に余談だけれど、地下空間を作ったのは第四騎士団に所属している男で、自在に土を操る能力だとか」
「それで穴を掘ったのか」
「彼の美的センスによって作り上げられているというけれど、私は実物を見たことがないから、どうなっているかはわからないわ」
「どうなっていてもやるだけはやるよ」
「どうなってるか、といえば」美緒がいう。「あと四人、昼間に捕まったあたしたちの仲間がいるんですが、どうなったかご存知ですか?」
美緒に訊かれて、百合華が昼間にのした三人の男の姿を思い出す。耀真が倒した一人も入れて四人だが、美緒の仲間だったな。
「昼間のうちはここにいたんだけど、別の拘置所に移されたんだ。ここからちょっと離れたところにちゃんとしたエリシオンの拘置所があって、そこに」
「そうですか、まだ無事なんですね」
「これから裁判だろうから、判決が出るのは早くて一ヶ月、だいたい半年は先だろう」
「脱獄の罪状が追加されてる美緒ちゃんの方が罪は重くなるわね」
「え、あたし、そんなですか」
「これからは逃亡生活の身ね、かわいそうに」
「真夜さんは?」
「私のことを見ているのは耀真くんとそのパートナーだけですもの。写真も映像もないんだから、余裕で逃げられるわ」
「なんか狡いです」と震える美緒を真夜が笑う。
「冗談。上手くすれば第一騎士団長が身の安全を確保してくださるはずよ。それも含めての逃亡ルート」
ああ、と美緒が感嘆する。「さすが真夜さんです」
なるほどな、と耀真も思う。真夜はすべてを見通しているかのように計算づくだ。
「そうでしょう。もっと褒めてもいいのよ」
「その前に目的地だ」
ここの大扉にすら鍵がかかっていない。押せばそのまま開くのだろうが、耀真は張り付いただけで、動きを止めた。
「どうしたんです?」と美緒が首を傾げる。
「いや、中に誰かいたら問題だからさ。いま探ってたんだ」
「そんなことできるんですね」
「うん。ちなみに誰もいない」
耀真の能力を使えば、さび付いた蝶番が軋むこともない。
右手のステンドグラスから差し込む傾いた月明かりは礼拝堂の闇と折り重なって縞模様を描き、耀真たちを祭壇の方へ誘うようだった。
「ふあああ」と感嘆を漏らして、木床の上に足を踏み出す美緒。そのブーツの音が軽く音を立てる。耀真も先に進もうとして、一人がついてこないことに気づき、振り返った。真夜は大扉の外に立ち、空を見上げている。
「どうしたんだ?」
「私はここで外れるわ」
「外れる? なんで?」
「さっき美緒ちゃんも話していたけれど、他のメンバーが気になるわ。ちょっとそっちを見てこようかと」
「おいおい、あいつと二人きりかよ」
「あいつ」と美緒が点にした目を振り向ける。
「もうこっちは私がいなくてもなんとかなりそうだし、あとは耀真くんの知恵と勇気に任せるわ」
「なんだそれ」
「またね」と笑ったのを最後に、真夜が駆けていく。扉の外に駆け出しても、すでにコートの裾すら目に映らない。
「なんという女」
「本当に行っちゃいましたね」隣から外を覗く美緒がいう。「二人きりですか」
「そうだな。仕方がない」
「あいつ程度の人間ですが、よろしくお願いいたします。誓約者さま」
「悪かったよ、ぞんざいないい方だった」手を振って礼拝堂に戻る。
こつ、こつ、こつ、と二人の靴音が光と闇の間を行く。ひんやりと冷めた空気に肌を舐められて昼間との差異を思い、昼間のことを思えば百合華のことも思い出す。木材の香りに惹かれて長椅子を眺めてみれば昼間にはなかった黒いクマのぬいぐるみがあるのに驚く。美緒も気づいたらしく、駆け寄って抱きしめていた。
「可愛いですね。忘れ物でしょうか」
「そうなんじゃないか」
適当に応え、耀真は祭壇の右手奥に向かう。そこには溝のようなスペースがあり、下へ向かう階段があった。ステンドグラスから落ちるカラフルな月明かりのおかげで七色に彩られている。
「あれですね」と耀真を追い越して駆け出した美緒の裾をつかむ。
「そのぬいぐるみ、どこまで持っていくんだ?」
「え?」と首を傾げる。「これは失敬」
美緒はヌイグルミを元の場所に座らせて布地の頭を撫でる。「またお会いましょう」と念じるように口ずさんでから、階段を弾むように降りていった。
耀真がふと振り返ると、クマの黒いプラスチックの瞳と目があった。
動いた? いやいや、まさか、そんなはずはない。つぶらな瞳は、ぎょろぎょろと光って見える。
「耀真さん」と声をかけられ、耀真は階段の方へ意識を戻す。美緒は奥にある古びた木戸に飛びついていた。把手に下がった南京錠が大きく揺れている。
「さすがに鍵がかかってますね」
「開けられそうにないな。ピッキングとか、できる?」
「できませんよ、そんな泥棒みたいな真似」
「クマを窃盗しかけたのに?」
「別に、窃盗しかけたわけじゃありません。ただ抱えていて安心してぼんやりしただけです」ひょいひょいと人差し指を振り回す。「それで、これからどうするんです? さっきみたいに耀真さんを中に送りますか?」
「ダメだ。南京錠だから内側からでも開けられないし、さっきの話を聞いた限り、美緒には封印の間の前までは来てもらわないと」
「ならどうするんです? 鍵を探しに行きますか?」
「いや、鍵の場所がわからないし、時間もかけたくない」
「このあと用事でもあるんですか?」
「美緒が牢屋にいないのがバレると騒ぎになるじゃないか」
「あ、そうか」
「そりゃ、そうでしょ」と耀真は美緒の前に手をかざした。「少し離れてて」
美緒があとずさったのを認めて、耀真は扉に手を添えた。この程度なら壊すのは難しくない。
「なにしてるんです?」
「構造を探ってる。頑丈なところ、脆くなってるところ。X線回折ってのと原理は近いのかな」
「なんです、それ?」
「勉強してくれ」
いいながら木戸を一蹴、古びた扉は音もなく真っ二つに割れ、それぞれ南京錠と蝶番にぶら下がっていた。
「すごいですね、さすが姫さまのお力です」
「どれもオマケみたいなもんだよ」
扉の奥はさらに下へ、階段が続いている。目で見えるのは月明かりの余韻に照らされた頭の数段だけだが、下へ、下へ、と伸びているのは明らかだ。
足を踏み出そうとする耀真の腕を美緒が捕まえた。
「なに? どうしたの?」
「暗くてなにも見えませんよ。懐中電灯とか持ってきた方がよくないですか?」
「俺には関係ない」なくても周囲の様子はわかる。
「あたしにはあるんです」
「時間がもったいないっていったじゃないか。そのまま裾につかまっててよ、引っ張っていくから」
耀真が階段を降りていくと、美緒も恐る恐るというふうについてくる。
「クマさん持ってきていいですか?」
「ダメ」
つづら折りの階段は一階分とは思えないほど深かったが、いずれ終点が見えてくる。湿った臭いのする石畳の広間だ。七メートルほどもある天井を支えているのは、碁盤の目のように規則正しく並んだ石柱。三、四人で囲ってようやく指先が触れ合うだろう太さのそれが縦横に数十と並んでいる姿は、さながら古代の神殿のごとき壮観さだろう。エコーの感覚に捉えるだけでは、やや惜しいものがある。
柱の間には木板が段々に渡されており、壺や箱が納められている。内容物は推して知るべしだが、これだけの空間にみっちり同じものが封じられているというのか?
考えても詮ないことだ、と耀真は軽々歩き出した。途端、美緒が腕に抱きついてきて、ぎょっとする。二の腕が胸の谷間に埋まる。
「な、なにしてるんだよ」と叫んだ耀真の声が大きく反響する。
「もう少しゆっくり歩いてくださいよ。あたしにはなにがどこにあるのかわからないんです」
「ちゃんと引っ張ってあげてるじゃないか」
「耀真さんにはわからないんです、この恐怖が。しかも納骨堂ですよ。なにが出るか……」
「とりあえず、あんたの情けなさは存分に出てるよ」
「情けなくありません、情けなくないんです」
腕にこもる力が強くなる。そのぶん胸の感触が強調される。
「ちょっと……」
「なんです? まだバカにするんですか?」
「バカにしてたわけじゃ……、いや、やっぱりなんでもない」
美緒の顔があるだろう方から意識を逸らした。ともかく、いま重要なのは封印の間に続く道がどこにあるか、だ。
「別の部屋に通じる道があるんだとしたら、まず壁だろう」という推測のままに石壁沿いを歩いていく。
地下空間の全容はようとして知れないが、やはりというべきか、歩みを進めるにつれて木板の上にある箱壺の密度は減っていった。もはや木板すら設置されていない。元々あった広大な地下空間を納骨堂に流用しただけのようだ。
「ここ、なにかあるな」と耀真は足を止めた。
それまでのっぺりとしていた壁の一角に、凹凸が刻まれている場所を見つけた。絵画をモチーフにした彫刻らしい。ルネサンス期の奇才、ジェイコブスが描いた美術の教科書にも載っているほど有名な宗教絵画だ。複雑に絡み合う樹木の枝葉を額縁に、薄い布を羽織った人や羽の生えた子供、太陽らしい球体が上部に刻まれ、光の筋が幾本も降り注ぐ。
額縁の下は足元、上は耀真の身長の倍ほどで、幅はだいたい四歩分。
「どうしたんです?」と美緒が身を揺する。
「レリーフってやつだ。なにか怪しい」
構造を調べる限り、レリーフの奥にもそれなりの空間があり、レリーフ自体は壁と分離しているから、押せば隙間から忍び込めるが、どうも押して動かせるとは思えない。高さと幅は前述の通り、厚さは一メートル近い岩石である。どこかに開くための仕掛けがないことも探知でわかる。
「これが噂の封印の間につながる扉か」耀真は顎を擦る。「どうやら真夜の話は本当だったみたいだな」
「疑ってたんですか?」
「信用できないだろ、あんなの」
「あんなの!」
扉の向こうにはさらに下へ向かう階段があるのもわかったが、果てまでは耀真の感覚で捉えることができない。
「ちょっと耀真さん……」と非難の声を上げる美緒の言葉を耀真は「ここだ」の一言で制した。
「ここの先に階段がある」
「なんですか、それ」美緒は眼鏡を直している。闇に目が慣れてきたらしい。「ただの壁にしか見えないですけど」
「大きなブロックだな。爆弾でもないと開けられない」
「爆弾、あるんですか?」
「あるわけないでしょ」
美緒の腕を振り解いて扉を押してみる。やはりびくともしない。「無理だね」と改めていって、暗闇で立ちすくむ美緒に視線を送る。
「美緒の力で扉を飛ばせないか?」
美緒が扉に触れる。「無理ですね。重すぎます」
「仕方ないな」耀真は頭を掻いた。「予定通りだ。ここから先は俺が一人で行くよ」
「え? では、あたしはここに置いてけぼりですか? ここ、納骨堂ですよ」
「そういうなよ。シアのところまで行けないってわかったらすぐに戻ってくるから」
「行けたらどうするんです?」
「連れて帰ってくる」
う、と呻いた美緒はため息に答えを乗せた。
「耀真さん、気をつけてくださいね」
○
一瞬の瞬きの間に、耀真はレリーフの向こう側に立っていた。
「本当に瞬間移動なんだな」
一頻り感嘆して、先にある階段に足をかけた。古い埃とカビ、日を浴びていない空気の湿った臭い。通路は人二人が並んで歩くのが一杯だろうか、高さにしても跳ねれば届くほどである。緩やかに曲線を描き、螺旋の軌道で下ってゆく。
真夜の話は真実。ならば、この下にシアがいる。
光もなく、音もない、無の世界。その下にシアはいる。
自分の乱れた脈動と浅い呼吸の音、古い埃の臭いだけがある世界。
一歩、一歩、乾いた石階段を踏みしめて、下っていく。足元の感覚も歪んでくる。身体が横になっているような、逆さまになっているような、上下左右がままならない。いま、自分は、まっすぐに歩けているのだろうか?
拡大させた知覚の先に、階段の底が見えてきたときには息が止まりそうになった。
ここに、この先にシアがいる!
浮き立った気持ちに促されるまま、一段飛ばしで階段を駆け下りていく。
階段に代わって現れた廊下、さらに先にあったのは装飾の施された壁だった。
「これは……」と呟いて愕然とした。上にあったのと変わらない重厚な石の塊。それが行く手を遮っていた。
なんとかならないかと壁の中、さらに先まで意識を飛ばす。
人の手には余る岩塊、その向こうにあるのは、がらんとした一室だった。奥には祭壇のようなものがあって、人の形をした像が……。
「シアちゃん?」
裾の広いドレススカート、左右に開いた両の腕、宙に固定された長い髪。
間違いない。片時も忘れたことのないシアの姿が、そこにある。
「シア、シアちゃんっ! 俺は……!」
殴っても、殴っても、レリーフはびくともせず佇んでいる。
どうすればいい? どうすれば……?
頭が回らない。いつの間にか呼吸が荒くなっていた。目頭が熱くなる。鼻先がツンとして涙まで込み上げてきた。あのとき、土砂の上で味わったあの屈辱。
「俺はまた……!」
膝が床に落ち、握りしめた拳に力がこもる。
「もうやめておきなさい。あなたの方が怪我をしてしまうわ」
はっとした耀真は扉に貼りついた。
「シアちゃん? シア……」
ああ、そうか。
自分たちが意思を伝え合うのに声はいらない。目だっていらない。そういう感覚は邪魔なんだ。
まぶたを閉じて、壁に手を添えた。落ち着いてみれば、手に取るように壁の向こうの景色が見えてくる。シアの言葉だって鮮明に聞こえる。
「大きくなったのね、耀真」
「八年だよ。それだけあれば人間は成長するんだ。特に子供は」
「そう。そうよね」
「ごめん、ずっと待たせて。君のところに帰れなかった。約束、守れなかった」
「私の方こそ。ずっとあそこにいるつもりだったのに、できなかったものね」
「それは僕がちゃんと守れなかったからだ」
「どうか、自分のことは責めないで。私はあなたがこうして会いに来てくれたことがとても嬉しい」
「でも、またこうして君に触れられないでいる」
「いいのよ。今度は私からあなたに会いに行くから」
「え? でも……」
「私が出す波長に合わせなさい。できる?」
「やるよ。やってみる」
いつも以上に感覚を研ぎ澄ませる。
音や風、光など、波という物理現象は無数にあるが、いま感じているものはどれとも違う。感じたことのない、いや、八年前に冥魔と戦ったあのとき、自分の中で高鳴っていた鼓動。あれを思い出させる。
「シア……」
額に触れるレリーフの冷たさ。彼女の名前を唇だけで呟いて、寄せてくる波を増幅させる。シアの元へ還っていく。
響き合っているんだ。
温かい感覚が心の奥へ注がれるように満ちていく。それがなにかはわからないが、きっとシアがくれたもの。
「シアちゃん」
声にした直後、壁の向こうのシアが顎を引いたような気がした。
「よくやったわ、耀真」
「なにを……?」
「下がっていなさい。危ないわよ」
考えることもなくあとずさった。次の瞬間、目の前の暗闇が赤く膨れ上がる。
飛び退いた耀真が先刻までいた場所へ、壁が溶岩になって流れ落ちたのだ。
「うおっ!」と呻き、這うようにして階段の下まで逃げる。そうして振り返ると、溶岩の上に一人の女性が浮いていた。灼熱の溶岩が生む真っ赤な光に照らされた彼女の豊満な長髪がはためき、ゴシック調のドレスが揺れている。顔が上がり、二つの瞳が輝きを放ってこちらを見据えていた。
「シア?」
「ええ。この姿じゃ会ったことがないからわからないかしら」
駆けた耀真がシアに飛びついた。彼女の柔らかい胸に頭が埋まる。
「シア!」
「ちょっと、抱きつくのは構わないけど、まだ足もとが熱いわよ」
耀真を抱きしめたままシアは浮き上がり、身を翻して階段の下に立った。
「シア、僕……、僕は、君に……」
「もういいの。あなたは最善を尽くしてくれた。いまも私のことを思ってくれている。それだけでも充分だわ」
「ん、うん。ありがとう、シア」
胸から顔を上げた耀真は自分の足で自分を支える。少し下にあったシアの大きな瞳を見つめて、精一杯笑ってみせた。
「ただいま、シア」
「おかえりなさい、耀真」
○
かかげた安綱の切っ先には巨大な球状の陽炎がある。空は波打ち、月は輪郭を歪める。
「これで、決め!」
振り下ろすと、足元にいたゴリラ似の冥魔が悲鳴を上げる。直後、吹き荒れた暴風にその悲鳴もかき消され、黒毛の肉体すら削られ、ひしゃげられていく。
風船の割れるような破裂音を最後にゴリラもどきの姿は粉砕されて、その粉は金色の雪となって宙を舞う。ちらちらと沼地に降り落ちる。
「子供だましとはこのことね」
百合華は高空からゆるりと下降してきて、膝をクッションに遊歩道へ着地する。
ゴリラ似の冥魔を目視確認したときは五メートル近い巨体に驚きもしたが、交戦してみればなんということはない、殴る蹴る噛むしか能のない雑魚だった。特にかたいわけでもないから数度の斬撃ののち、必殺の一撃で楽に消滅させられた。
「さて……」高村に討伐済みの電話を入れようとして、携帯端末が死んでいたことを思い出し、耀真を追わねばという使命も思い出す。「騎士団の人たちには無駄足を踏んでもらうことになるけど」
百合華は助走をつけて踏み切ると、空高く飛び上がった。全身に受ける風を操り、姿勢を制御、中央庁方面へ弾丸然と滑空していく。障害物があると危険だから普段は使わないが、緊急事態だ。これならいくらもせず、目的地にたどり着く。
と、たかをくくっていたら、上空から黒い帯が落ちてきて、眼前を裂いていった。
「なにっ!」
翻した身がバランスを崩し、一気に高度が下がる。なんとか姿勢制御を行い、アーチ状の屋根へ軟着陸できた。
「どこからなにが来た?」
「そんなに急いで、どこへ行くのかしら」
人の影がある。ベージュのコートのショートボブ、片手にしたフリルの傘をステッキ代わりにくるりと回す。
「昼間の女か」
「真夜というの。以後、よろしく」
「よろしくするものか」
一喝とともに走った百合華は布地の傘と斬り結ぶ。
「なにをそんなに怒っているの?」
「おまえたちが耀真をたぶらかしたか!」
怒声を上げた全身に力が漲る。周囲の大気が唸りを上げる。合板の屋根が軋んで剥げ出し、些細な塵もつぶてとなって宙を駆る。二人を中心に渦を巻く。
「おまえは殺す」
安綱の周りに大気が凝集し、景色を歪めている。
「いい。その執念と気迫」と真夜が感嘆する。「だが、ね」
真夜が二歩、三歩と後ずさり、百合華が食い下がる。全身で体当たりするような刺突だ。真夜は白っぽい髪先を大気の渦に乱されただけでかわし、身体を入れ替えて刃を交える。
傘が振り抜かれ、百合華がのけ反る。下がった右足で上体を支えていたが、斬り返された石突きが濃厚な大気を裂いて、安綱を跳ね上げる。黒い警棒が宙を舞った。からからと音を立て、アーチの上を転がっていく。
風の勢いが徐々に弱まり、ぴたりと止まる。
「くそ」
それでも飛びかかろうとする百合華の喉元に、石突きが突きつけられる。
「思っていたよりもいい素質を感じたわ。いずれ素晴らしい戦士になる」
「なにを……!」
女の懐に飛び込んだ百合華は傘の取っ手をつかんだものの、カウンター気味に喉輪を食らってしまった。呻いた体が軽く宙に浮く。
「う、ぐう……」
「惨めな女。力もなく、男に捨てられ」
「おまえっ!」
振り上げた爪先は女の顎先をかすめただけだった。風をまとわせるほどの集中力がない。
もう一撃、あらん限りの力を込めて風を呼び起こす。手の内にまとめ上げて、この女にぶつけてやる。
いまにも放とうか、というところで、ぞんざいに放り投げられ、受け身を取ることもできず、合板の上を転がった。繋ぎ目の凹凸をつかんでとどまり、しゃがんだまま咳き込んだ。息はできる。だが、手に集めた風はすっかり散ってしまっていた。
「愛しの耀真くんのところに行かせるわけにはいかないわね」
「別に愛しいことない」
「そんな強がって。あなたの胸の内は手に取るようにわかるわ。恋慕、嫉妬、憎悪、悲嘆、焦燥」
自分の体温が上がるのがわかる。睨んで返すと、女はクスクスと嘲笑を浮かべていた。
「恥じ入ることはなくってよ。その素直で一途なところは充分に美しい」
安綱は屋根の凸部に引っかかっている。遠目に見つけた百合華は四肢で屋根を弾き、武器を拾った。女に向かって駆け出す。最上段から打ち下ろした安綱は斜になった女をかすめただけだった。
傘の柄と一緒になった真夜の拳に軽く押し退けられた百合華は間に合わせ程度にしか警棒を振ることしかできなかった。真夜は肘を引いて、傘を水平に構える。
刺突。早い。
重い刺突が捌こうとした安綱のしのぎに直撃する。足が斜面を離れ、合板に後頭部をぶつけた。
こいつ、安綱のしのぎを敢えて狙ったのだ。生かされたということか。
息が切れていることを自覚した四肢が急激に重みを増す。間接の動きが鈍い。
「殺しはしない。あなたにはまだやってもらうことがたくさんあるから」
女の高い笑い声が空に響く。
「しばらく眠っていなさい。絶望の中でね」
○
美緒が従前触れていたハンカチを開いた。
その表面にある空間の歪みに触った途端、周りから嫌な臭いがなくなって、空気の質も軽くなった。暗室なのは変わりないが、広い納骨堂に出たのだ。
「耀真さん? どこです? 帰ってきたんでしょう?」
わたわたとした美緒の声が聞こえる。腰を引きつつ、手を振り回し、忙しなく首を左右にやっている。
「ここだよ」と耀真が一声かけて暴れる手をつかんだ瞬間、美緒が抱きついてきた。柔肌の感触に男の体温ががんと上がる。
「バカっ! くっつくな」
「怖かったんですよおっ!」
「わかったから離れてくれ」
メガネの顔面を押し返していると、暗闇の中からかすかな笑い声が聞こえた。
「仲がいいのね」
美緒の動きがぴたりと止まる。
「耀真さん、もしかして……」
「ああ、連れてきたよ」
美緒の声が引きつる。
「へ、あの、え、あ、あたし、どどどどうしたら……」
空気を吸うこともできないらしい。苦し気に喉を掻きむしる。
「落ち着きなさい」と耀真がその背を擦る。けほけほと彼女は咳き込む。「耀真さん」と狼狽え、抱きついてくる。キリがない。
「さっさと出るぞ、この野郎」
「置いてかないで」
「置いて行ってないだろ」
一人とお荷物のあとをシアはのんびりと行く。三人は月明かりのある礼拝堂まで無事帰還。ステンドグラス越しの月明かりの下、ゴシックドレスのシアを見つめ、美緒は大泣きに泣いてしまった。
「うおおおーー、ご先祖さまの悲願がついに、あたしは……!」
膝から崩れ落ちる。
「生きててよかった」
「大袈裟ねえ」とシアは眉をひそめる。
「ほら、美緒、泣いてる暇ねえぞ」と耀真は彼女の背を擦る。
「ところでその娘は?」
「ヒエログリフって組織にいる子で、名前は」
「如月美緒と申します。代々姫様に仕えていた者たちの末裔であります」嗚咽を漏らし、袖で目元を拭いながらいう。
「仕えていたって、本当に?」シアは信じられないと顔だ。
「うちの家にはそう伝わっております」
「そのためにこいつも散々な目にあってるんだ。本当かどうかはともかく、本気ではあるんだろう」
「そう」とシアは空を仰いで腕を組む。「まだ私のために行動してくれている子たちがいたとは……」
一通り思案に暮れてから腕組を解き、笑顔を向けた。
「感謝しなくてはいけないわね。あなたたちの献身に」
「もったいないお言葉で」とまた号泣する。
「おいおい、そんな時間ねえってば」耀真は美緒の腕を肩に担いで立ち上がる。「さっさと逃げて、ユーグさんとこ行かねえと」
「ユーグ?」とシアが首を傾げたのは当然だろう。
「エリシオン教会第一騎士団長ユーグ・フォン・ストラトス。俺の知り合いなんだ。いまはシアを守る立場にいるんだと」
「ストラトス」シアは繰り返す。「ストラトスか」
「どうしたの?」
「ううん」と首を振る。「わかった。耀真を信じる」
中央庁の敷地の中、道なりに植えられた垣根に身を隠して、見廻りに来た人間をやり過ごす。なにやら彼らの目がぎらついている。
「警備が強化されてるみたいですね」癖毛に木の葉を絡ませた美緒がいう。
「脱獄したのが見つかったかな」
「脱獄したの?」シアが目を丸くする。
「美緒がね」
しかしながら、さすがに堂々と歩くわけにはいかない雰囲気だ。シアのゴシックドレスもずいぶん目立つ。
「あの、あたしの能力でさっさと逃げようとかいわないでくださいね。あたし、置いていかれることになりますから」
「いわないよ」と耀真がいうと、美緒の瞳が輝いた。
「耀真さん」
「追い詰められたときの切り札にとっておく」
「耀真さん……」美緒の眉が寄せる。
「二人とも、おしゃべりはそれくらいにしなさい」
シアが静かにいう。
白い街灯の下に出るとシアの全身を飾る色彩の鮮烈さはよく見えた。金色の髪に、黒のフリルをあしらった緋色のドレス、雪を欺く肌には仄かな朱が差し、きらめく海のような青い瞳が真っ白な眼の中で左に右に転がっていく。滑らかな真紅の唇を蠢かせていても、造形は彫像のようで現実味が薄くなる。
「もう大概の道は封鎖されてるのでしょうね。急いでもしょうがないし、ゆっくり行きましょう」
垣根に隠れながら、敷地を囲う二メートル近い鉄柵のそばまで来る。柵の上にあったボックス型の監視カメラを認め、耀真は着ていたジャケットを脱いだ。美緒に渡す。
「これをあれの前に飛ばして引っかけてくれ」
美緒の「なるほど」という一言の直後、ジャケットが耀真の手元から消え、監視カメラに引っかかり、レンズを覆った。
続けて、耀真は一帯に意識を飛ばして、誰もいないことを確認してから柵を一気に登った。上にとどまり、シアを引き上げ、柵の向こうに下ろす。続けて駆けてきた美緒も同じように柵の外に送ると、ジャケットをレンズから外して飛び降りた。身だしなみを整えながらも、さっさとエリシオンの敷地を離れる。
「ここ、変わった森の中かと思ったけど、石の建物? 人の造ったものだったのね」安っぽい看板とネオンサイン、慰め程度の街灯しかないビルの谷間に入って、シアが感嘆する。「すごい力だわ」
「シアは外でなにが起こっていたのか、まったくわからなかったんだね」
「封印されたままでも色々な建物を巡ったけど、結局は壁の中だったからね」
「それなら、これが一段落したら観光でもしたいね」
裏路地を駆けていく。
「どこかで表通りを抜けないといけないな」
ユーグのマンションまで、どうしても大通りを渡らなければいけない。
「もう夜も深いし、大丈夫ですよ」美緒は平気な顔でいう。
「ならいいけど」
○
繁華街を先輩のうしろについて歩いていく。
「別になにもいねえっすよ、こんな街中」
「文句をいってないで警戒しろ」
大型の冥魔がいるとの通報を受けてからすぐ、騎士団は出動の準備をしたが、いざそのときになってみると冥魔の反応がなくなっていた。理由は不明。対応を迫られた騎士団は隊を二つに分けることにした。現場の調査に向かう部隊、人的被害を防ぐためのパトロール部隊。もしかすると、小型化、または全く姿を変えて町に潜伏しているかもしれない。
つまらない仕事を任されたものだ、と佐伯は頭を掻いた。
先輩の無線が鳴り、はいはいと通信する声が聞こえる。佐伯はまた注意されるのも面倒かと形ばかり周囲を見渡している。
「もう終わりだ」と先輩が口を開く。
「なにがっすか?」
「現場の部隊が冥魔の殲滅を確認したそうだ。警備は解くんだと」
「なんにもしてねえっすよ、オレら」
「なにもしてなくても、仕事は終わりだ。帰還するぞ」
「わかりましたよ」と最後に首を巡らせた佐伯の目に見知った顔が映った気がした。あれ、と思う。
「どうした?」
「知り合いがいたみたいで、失礼します」
「おいおい、帰還するんだって……」
「仕事は終わったんでしょう」それじゃ、と手を振って走り出す。
○
「待ってくださいよ」
「大丈夫か、美緒」
耀真とシアが並んで立ち止まると、一足遅れて美緒が追いついてきた。膝に手を突いて肩を上下させている。
「お二人とも早いですよ」
「それほどのスピードは出してないよ」そんな全力疾走していては、街中で目立つこと請け合いだ。
「無意識のうちに速度が上がっていたのかもしれないわね。耀真は私のそばにいるから」
「ああ」共鳴し合って、能力が上がってきているのだ。
「少しペースを落としましょうか」
シアが青い瞳を四方にやる。いまは周りに人がいないから一息入れるには丁度いい。
「そのユーグが住んでいるところまで、あとどれくらいあるの?」
「いままでのペースで行けば、四、五分ってところかな」
「もう少しかかるわね」美緒に目をやる。「美緒、行ける?」
「はい、ご迷惑を……」
「誰か来る」足音を耳にした耀真はエコーロケーションを展開し、真っ直ぐこちらへ向かってくる人影を捉えた。
「急ぐわよ」とシアが走り出す。二人の足音は消しているが、美緒が如何せん、ばたつく。スタミナがないせいか。
追手もその音を手がかりにしているらしく、すぐに目視圏内に追いつかれてしまった。
「あれ、あいつ」耀真は思わず立ち止まる。
「どうしたの?」
「知り合いだ」向こうも立ち止まったのも認めて、耀真は手を振った。「佐伯」
「耀真、おまえ、こんなところでなにしてやがる」
「なにしてって、俺が町を歩いてちゃ悪いかよ」
「そいつら、誰だよ?」
ん、と耀真はうしろに意識をやる。シアと美緒が目を丸くして、二人のやり取りに見入っている。どう答えたものか。
「急いでるんだ、今度話すよ」
「百合華ちゃんはどうした?」
「どうもこうも、家にいるんじゃないか」
「おまえが単独行動? いや、いやいや、知ってるぞ」額に手をやる。「その、メガネの女。確か、中央庁に、さっき捕まってた女じゃないのか? 百合華ちゃんが捕まえたって、見たんだよ」さらに、佐伯は言葉を続ける。「もう一人、捕まってない、逃亡中の女がいるって話だったな? その金髪の方か?」
「佐伯」
「耀真、てめえ、裏切ったのか?」
「違う。色々あるんだよ。ともかく、いまは行かせてくれ」
「百合華ちゃんは知ってることか?」
彼女の名前が出てきて、息を呑む。重くなった雰囲気を察したらしいシアが「耀真」と声をかけてくる。
「シア、先に行って」
「でも……」
「俺はこいつと話がある」
「行かせるかよ」
低く唸る佐伯の前に耀真が手のひらをかざし、制す。
「早く」
シアは逡巡したものの、美緒と視線を交わし、路地の陰に隠れていった。
「正気かよ」と佐伯が唾を吐く。「エリシオンを裏切るのか?」
「エリシオンは重大な秘密を隠している。百合華はそれを知っている。でも俺には教えてくれなかった。だから自分で探すことにした。それだけだ」
「彼女を裏切ってまで知りたいことかよ」
「おまえが百合華を純粋に信じてるように、俺にだって信じていることがある」
拳を握った佐伯の奥歯が軋む。
「なんで、おまえなんだよ? おまえみたいな屑が、百合華ちゃんの……、そばにもいてあげられないおまえが」
「わかるよ」耀真は眉間に皺を寄せる。「俺は屑だろうよ。百合華のことは幸せにはできないだろうし、そばにもいてやれない。でも、俺は前に進む」
「くそ」と佐伯が地団駄を踏む。「ぶっ殺してやる、おまえはここで」
飛びかかるように詰め寄る佐伯が思い切り右足を振り抜いた。アスファルトが波打ち、大波のようにせり上がり、乗用車を跳ね飛ばし、周囲の鉄筋コンクリート壁まで巻き込んで圧し潰す。結果、二メートル大の岩塊を街中に作って、路端に影を落とす。
土塊を液体のように操る、それが佐伯の能力。蹴り出されて盛り上がった岩塊の重圧は中心部から末端かけて数トンにもおよぶが、幸い、耀真はその丘陵の下にいない。すでに佐伯に接近しており、生まれたての土波を飛び越えて佐伯と交錯、その頬を殴り抜いていた。
「やってやるっ!」
左右のジャブを繰り出し、佐伯の顔面を打ち抜く。前に出ようとした佐伯の右足を見、右の脇腹に拳を抉りこませる。続いて左の脇腹、顎にアッパーを入れ、さらに左頬を抜く。耀真の能力は敵の臓器までを直接揺さぶり、脳をかき回す。常人であれば直ちに立っていられなくなる
これで!
ぐっと全身で弾むように右足を跳ね上げ、かかとで佐伯の鼻先をぶち抜いた。
「どうだ!」
ざ、と音を鳴らして、佐伯の足が踏ん張った。
そんな……。
「腑抜けてやがるぜ」
佐伯が踏み出した大股の一歩、同時に一閃された右腕が鋭く耀真の掲げかけた右肘に触れる。ぴっ、と肉が裂け、血が噴き出す。
「こいつ……」
腕に片刃の剣が生えている。アイボリー色の刀剣を右腕に携え、振り上げ、襲い掛かってくる。身構える耀真。ひび割れた佐伯の顎を見、なぜ自らの拳が通っていないのかを理解した。
こいつは全身を岩石で覆っているのだ。
屈んで、刀剣をかわし、拳を握る。顔面に喰らわせてやろうとした瞬間、佐伯の額にある角を見た。ぎょっとして身をかわす。さらに振られた佐伯の左腕はただの岩塊であったが、耀真のあばらに直撃して骨を軋ませながら吹き飛ばした。
立て。と自らに命じる。すぐさま受け身を取って、佐伯に駆け寄る。足元が波打ち、盛り上がる。背中で壊滅的な音が鳴り、降り注いでくるのはコンクリ片。
「来いよ、耀真!」
「ぶちのめす!」
一本角の鬼面となった佐伯を睨み、顎に力を込める。
ありったけの力を。
佐伯の左腕はドリルとなって突き出され、首を傾いだ耀真の頬をこする。横合いからくる右腕の刀剣は屈んでやり過ごし、さらに一歩、足を踏み込む。ありったけの力を込めた拳を佐伯のみぞおちに叩き込んだ。
唾を吐き出して、前にのめる佐伯の体。一歩、踏み出しただけで、自らを支える。
「効かねえぜ」
振り絞った声音に応じたように、跳ね上がる佐伯の膝。耀真はかろうじて顎の下に手を敷いて、膝打ちの衝撃を和らげた。
跳ね上がった頭がくらくらする。衝撃のせいか、先ほどから鼻につく異臭のせいか。ああ、油の匂いだ、と考えた頭が先ほどエコーで捉えた佐伯の肉体の異常を思い出す。手足がないのだ。肉の手足がなく、土くれを接続して代替し、自在に変形させている。切り落としたのか、事故なのか、元々ないのか、いずれにしても、その衝撃が耀真の集中を途切れさせる。
俺はこいつのことをほとんど知らないんだな。
ふらつく耀真にゆらりと揺られながら近づいてくる佐伯の影。
「ぶち、殺してやるぜ」
「佐伯」耀真は膝を折って、地面に伏せた。両手の人差し指を触れない程度に近づける。「どうしても行かせてくれないのか?」
「いまさら命乞いかよ。みっともないぜ」
「俺はおまえを殺したくない。だからいってる」
「オレはおまえを殺したいけどな」
駆け出そうとした佐伯を認め、耀真は両人差し指の間に力を込めた。ばち、と火花が散る。足元には、佐伯がスクラップにした乗用車から流れ出るガソリン。そして車はやつの背中にある。
車体が爆ぜて、榴弾のごとく飛んだ部品が佐伯を直撃、右手足を引き千切り、炎がその身を焼いていく。
「うおおおおおっ!」
耀真は地面に触れて、土を一握り、暴れる佐伯の顔に投げつけた。
「土でもかぶってな」
何事かを察したらしい佐伯の足元が抉れ、身体が地面の下に沈んでいく。
油の火は水では消えないが、空気を遮断すれば当然消える。
この隙に逃げてしまおう。
走り出した足がけつまずく。たまらず、這いつくばるが、足が動かない。見ると、土中から生えた手に足首をつかまれている。奥にきらめく双眸がある。
「この野郎……!」
突如のびあがってきたのは石刀だ。のけ反った耀真の頬をかすめる。拘束を振り切った足を急がせ、一歩、二歩下がった。しかし、砂塵を巻き上げて迫る佐伯の勢いは凄まじい。片腕が耀真のみぞおちにえぐり込む。まだ成型されていない岩塊だったのは幸いだ。
「ぐっ」と呻いた耀真は膝を折る。
「てんめえええっ!」
悲鳴とともに襲い来る回し蹴りもただの岩塊だった。側頭部を叩かれて、耀真はアスファルトの上を転がる。
ぼんやりとする意識の中で佐伯が近づいてくるのがわかる。薄ら笑いを浮かべた男の目に光はない。
「おしまいだな……」
吐息を吐き出し、腕を振り上げる。
が、その腕がぴたりと止まった。
人のざわめきが聞こえる。
○
「こっちです」
ビルの谷間を走り抜ける。太めの道路に出て東方面へ。閑散としているから、すれ違う人の目はどうしてもシアを向く。
「あまりに目立ちますね」美緒が切れ切れの吐息でいう。
「そんなことを気にしている場合ではないわ」シアが奥歯を鳴らす。「耀真を置いてきてしまって」
「そうでしょうけど」
急に立ち止まったシアに腕を引かれた美緒は前にのめった勢い、肩が脱臼しかけて止まった。
「怪しい人影がある。隠れるわよ」
「怪しい?」
「身のこなし、足の運び、歩くという所作のひとつひとつが、戦い馴れている人のそれだわ」
シアに手を引かれるまま、ビルの隙間に滑り込む。そこから通りを眺めていると、第六騎士団の制服がいくつか行き過ぎる。
「なんでそこら中に騎士団が……」耀真の知り合いも騎士団員だった。
「見つかって咎められない可能性は薄い気がする」
「もう少しなんですけど」次の交差点を斜めに渡れば、あと百メートルほどだ。
うーん、とシアが唸っていると、通りにパールホワイトの高級車がぴたりと停まった。後部座席から男性が一人、降り立ったのを見て、美緒たちは背中を壁に密着させる。
男は誰かを探しているようで、顔を左右にやり、足元に手を差しのべた。その先に、膝丈に満たない大きさの、黒く蠢く塊がいる。
確かめようと上体をわずかに乗り出した美緒の目が男のそれと合う。
「あの、見つかってしまいました……」
「全く、ドジねえ」シアが嘆息する。
「君たち」と声をかけられて、ぎくりと身が震える。いま出ていくと騎士団に見つかるに違いない。
「あのあの、あたしたちはですね、怪しい者ではなくてですね……」
「エルの姫君とヒエログリフの方だね」
男は思わぬことをいう。シアも美緒もまばたきして顔を見合わせる。
「耀真くんはどうしたんだい?」と男が続ける。「一緒じゃないのか?」
「耀真はいま知り合いと話をしているわ」とシア。もうビルの壁から離れ、美緒を退けると、路地を塞ぐように立つ。「あなたは何者?」
「申し遅れました」男は丁寧に腰を折る。「第一騎士団長、ユーグ・フォン・ストラトスと申します」