グラシェ・デパート(1)
白銀の鎧の魔物は、夜を徹して歩き続けた。
巨人の如き威容のためか、魏姉妹が触り心地の良い掛け布にくるまって眠った夜の間にも、魔物が襲って来ることはなかった。
ソフィアが言っていた『憧れのスローライフ』はとっくに実現しているのかも知れないと、イーディスはぼんやり眠いままの頭で考える。
「きれい……」
早起きしたルーチェが声を上げた。
朝焼けが雲の群れを染め、遠くの山々を包み込んでいる。
朝だ。
麗しき"ディッシュ・コラル"の秋は、春のように温暖な空気に満ちている。
名も知らぬ魔王と妃の逸話はきっと、実際にあったことなのだろう。
さんざん遠回りして夫婦になり、土地を開拓しながら楽しく暮らしたという二人。
大陸全土の土地を現金一括払いで買い取ってしまった究極の大胆さは別として──互いを思いやる穏やかな心が、ゆっくりとした生き方を許容する大陸の空気となって残っているのだ。
都市部の賑やかさも、美しい丘陵や森林や小さな町の群れにも、等しく価値がある。
当然、目の前の大きな大きなお城みたいな建物にもだ。
イーディスがルーチェを抱き上げると、白銀の巨人は大地に手をゆっくりと差し伸べた。
美しく均された道に降り立つ。
ルーチェが短く礼を言いつつ巨人の足をこつんと叩くと、巨人はまた小さな人形の大きさに戻って荷物入れに収まった。
「やっと着いたね」
「うん。楽しみ楽しみ」
期待を込めた口調で「一緒に歩こう」と言うルーチェを道に降ろし、手をつないで歩く。
おしゃれなスーツを着こなした係員の案内を受け、いよいよ『グラシェ・デパート』の門扉を通り過ぎた。
高級なケーキの生地みたいなやわらかい色合いの、巨大な建造物だ。
かつて流れていた小川を挟んで南北に存在していた商店街が、一人の優れた道具屋の出現によってまとまり、すべての人材と財産を投じて一つのデパートメント・ストアを作り上げた──と観光ガイドに書いてあった。
その道具屋の繁盛記『ドジっ子道具屋の出納記録』も絶賛発売中とのことなので、まず係員に書店の場所を確認した。
係員は「西館三階にございます」と一瞬の迷いもない案内をしてくれる。
「お店を全部覚えているんですか?」
「はい。このデパートが大好きなので覚えてしまいました。大抵の係員が私と同じかと考えておりますが」
「やっぱりすごい社長さんなんですね、ティラミスさんって」
「そうですね。お店に関しては天才的なところがあろうかと思います。自慢の社長です」
お店に関しては?
女性係員の言い様を気にして、ルーチェが遠慮がちに尋ねる。
「お店にいらっしゃらない時は……」
「かわいい人、ですね。容姿もそうですけど……ちょっと天然で」
大陸で随一のデパートを作り上げても、未だに砂糖と塩を間違えて仕入れたり、何もないところで転んでしまったりするらしい。
繁盛記のタイトルどおり、いわゆる『ドジっ子』なのだろう。
店のみんなのアイドルなのだと言う女性係員の顔には、上司の陰口を言う時に特有の陰険な表情などまるでない。
愛嬌たっぷりの社長と同じ仕事に取り組めることを心の底から喜んでいるのが、見ているだけでも分かる。
そんな明るく柔らかい笑顔を、ごく自然に浮かべている。
一組の客に一人、必ず係員がつく決まりだと言う。赤毛の係員は「ネリネと申します」と改めて一礼した。
「かつての街をご案内するように、楽しくお買い物をお手伝いできればと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます──イーディス様、ルーチェ様」
「どうして、あたし達のことを?」
「私の兄と妹が『金暁騎士団』でお世話になっていまして。優れた人材をお二人も、ご紹介いただいたとか」
「ええ、まぁ……」
それにしても世界は狭い。
『金暁騎士団』がデパートの成長と共に勇名を馳せるようになったことは知っていたけれど、ギルドの人員の家族が働いている事までは頭になかった。
「私が申して良いかは分かりませんが……『金暁騎士団』はもともと、この店から繋がる古代文明の遺跡を探検するために作られたギルドでして」
関係が深いのも当然だと言いたいようだった。
本当に世界は狭い。
2021/1/27更新。