大事件
それから二日間、洋上の旅は何事もなく行き過ぎた。
イーディスは、思い出したように船に襲い掛かって来る魔物を撃退する時間以外は、ずっとルーチェにつきっきりだった。
一緒に勉強したり食事を摂ったり、眠ったりした。
ルーチェは魔法を楽しそうに学習し、身体強化などの補助魔法を習得した。
何の変哲もなく思える日だったが、間違いなく貴重で楽しい旅の時間であった。
航海の五日目に、それは起きた。
早朝の甲板でくつろいでいた時、不意に視界を濃霧が覆った。
同じく甲板に出ていた他の客を素早く誘導して退避させ、来るべき何事かに備える。
聞こえる。
雷のごとき轟音が、対面からいくつも聞こえる。
威嚇射撃だ。ただし、数発だけこちらに狙いを定めている。
視界を遮る濃霧を切り裂き、砲弾が迫る。
イーディスは大弓を連射してこれを撃ち落とし、被害を避けようとした。
いくつかを海へ落としたが、砲弾の破片や火薬が、船を覆う魔法の結界に衝突して火花を上げる。
もと姫騎士は舌打ちし、城をも揺らす大声を響かせた。
「後退! 全推進力を挙げて後退!!」
だが、敵も素早い。小型の船体を逃げようとする客船に衝突させ接舷すると、すぐに軍服を着た集団を乗り込ませた。
「所属と階級を言えっ!」
イーディスは警告を発しながら大剣を構えた。
無言で斬りかかって来る三人を素早く打ち倒し、相手の注意を引きつける。
その間に『爽海亭』の数人が甲板に上がり、攻撃魔法での援護を開始した。
相手もすぐさま拳銃やライフル銃で応戦し、銃弾と砲火が飛び交う。
甲板上はさながら戦場のような雰囲気に様変わりした。
魔物と違って統制がとれ、連携も緻密そのもの。相手は人間の軍隊、あるいは海賊と考えられる。
「でも、何かおかしい……」
イーディスの間近に転移して現れたルーチェが首をひねった。
手近な敵兵の脚をひっかけて転倒させ、魔法で麻痺させると、帽子と覆面を素早くはぎ取る。
「……!」
敵兵には顔がない。
イーディスも打ち倒した何人かを確かめたが、どいつもこいつも同じだった。
頭髪は質の低いカツラ、断ち割ってあらわにした骨組みは錫、身体の部品に至ってはテキトーな木材と来ている。
試しにわざと隙を作って、敵に肩を打たせてみる。
その手にした鋭利に見える武器は、欠片ほどもその威力を示すことはなかった。子どもが用いる木の剣みたいなものだ。
人間でも魔物でもない、この敵は一体!?
「……“魔の幻影を吹き払い真実の姿晒せ、荒れよ狂風、汝は是、蒙昧の霧を裂く刃なり! ゲイル・リッパー”!」
ルーチェが早口で詠唱を終え、魔法を発動する。
一陣の突風が戦場を駆け抜けた。
魔力のある者には蒼い衝撃波が奔る様を見る事が出来ただろう。
幻影を作り出す魔法に対抗するべく編み出された『対抗術式』だ。
『爽海亭』の数人を相手に優位戦を展開していた敵兵は、ネジが止まったかのように動きを止め、ガラガラと崩れ去った。
離れようとする敵の艦艇に向けて、イーディスが走る。
おもちゃの兵隊の頭を一息で飛び越え、館長室の扉を蹴破った。
「あーあ~、バレちまった。やっぱりすげぇな、あんたら」
藤の安楽椅子を揺らしながら煙草を吸っていた青年が立ち上がり、振り向く。
男は随分とやつれて見えた。
頬がこけ、鋭い目にも活力がない。
黒髪は全く手入れされておらずボサボサで、ひょろ長い長身に絡みつくように背中まで伸び放題になっている。
「どういうつもりです? 武装していない観光船に攻撃を仕掛けるなんて」
イーディスは大剣を鞘に納めつつ、冷静に尋ねる。
「怒りを面に出さないタイプか。そういう人が一番、怖えぇや。余計な事しちまって悪かったな」
悪びれもせず、男は軽く会釈をした。
「ラウロだ。あんたは」
「……イーディス」
「イーディスさん。俺の話、聞いてくれるかな」
「お伺いします。玩具の兵隊を退かせてくれるなら、ですけど」
ラウロと名乗った男が口笛を吹き鳴らすと、小型艦艇のあちこちからガラガラと音がした。
館長室の屋根が一瞬で崩れ去り、船体も小型の釣り船ほどの大きさになってしまった。
もともと艦艇など存在しなかったのだ。
玩具の兵士は全部、壊れてしまったらしい。
2021/1/4更新。