敗北
……なーんてことが、つい昨日、あったんだったかしら……。
と、イーディスは青空を見上げながらぼんやり思う。
『勝者! ヴェインローゼ公爵領・男爵! ジーク=ヴェインローゼ閣下!』
同盟国から魔法で一時的に移し替えた武術会場では、万雷の拍手とともに、試合の勝利者を告げる第一公女シャルロットの声が響いている。
『五大公国』のうち一国、ローゼンハイム公国の正式な後継者が選定されたことを国内外に示し、また記念する御前試合。
新たな王の護衛を一手に引き受ける近衛騎士団の選考会も兼ねており、公国と親交のある国と地域から広く選手を募集した、公国の威信をかけた一大イベントであった。
各国各地域より手練れの戦士・騎士が出場する大会であったが、ローゼンハイム公国内は『姫騎士』イーディスが優勝するだろうという憶測で持ち切りだった。
年齢の問題があって騎士の叙勲を受けていないと言うだけで、イーディスの実力は公国では飛び抜けて高かったからだ。
彼女の義理の父であるローゼンハイム公国王も、これまで誰より近くで妹姫の面倒を見て来た姉姫の勝利を疑わなかった。
御丁寧にも私費で新たな魔剣を作らせ、今日この日を以って、妹姫の近衛騎士として叙勲を与えることを楽しみにもしていたのだ。
だが……。
イーディスは、敗北を喫した。
それはもうこっぴどく、『姫騎士』という通称も名誉も形無しの、徹底的なまでの敗北だった。
若きヴェインローゼ男爵の戦闘能力はイーディスの才覚をはるかに超越し、努力すらも軽く踏みにじるような凄まじさであった。
思い出したくもない、わずか三分弱の決勝の戦いが、姫騎士の脳裏をよぎる。
一撃で銀の全身鎧を砕かれたかと思うと、一度も振るわないままの短槍を叩き折られた。
最も得意とする剣術で反撃し、少しは見せ場を作ることも出来た。
だが、美貌の男爵はイーディスが攻撃に出ていた間、誰にも気づかれないように手を抜いていやがっ──もとい、手加減をしてくれていた。
ほとんどの時間を、木偶人形のように立ち尽くしていただけだった。
あんなものは剣試合じゃない。男爵閣下の俊敏で獰猛な戦いぶりを、ただ見せつけられるばかりだった。
ああ、ああ。
どうして負けてしまったのだ。
国内最強などと呼ばれているのを知っていたから、調子に乗ってしまっていたのだろうか。
男爵閣下は何も語らず、一度だけ右手を挙げて観衆に応えると、風のように身を翻して闘技場を去って行った。
この後の大会の進行を観客に伝え終えたシャルロットが近づいてきても、イーディスは起き上がれなかった。
敗者を憐れむように跪いた美しい第一公女が、ごく小さな声で問いかけて来る。
「このままでいますか。それとも助け起こしましょうか、イーディス」
「すみません、姉上。イーディスは今、欠片も動けません。何をされたかも分かっていない状態です」
「聞きたい?」
「魔法でボコられたかなー、くらいは分かってます、大丈夫」
鍛え上げた身体は悲鳴を上げてはいるものの、既に超回復の兆しを見せていると分かる。
男爵の細剣から発せられていた黒い波動は、推測にすぎないが、肉体よりも精神を攻撃し、破壊するためのものだったのだろう。
「それより、お義父様……怒ってるわよね?」
「そりゃもう。耐えていらっしゃるけど、時間の問題ね」
親子の感情を抜きにしても、この場で何らかの処分を言い渡されても何の不思議もない。
魔法で拡大された、義理の父の咳払いが聞こえた。
シャルロットは瞬時に『転移』の魔法で姿を消してしまう。
薄情なのではない。普段はちょっとばかり賭け事が好きな、優しいお姉様だ。
公王を補佐する副官として、彼の決定にいささかも反抗しないと言う意思を示すために、そうしたのだ。
国じゅうの期待を一身に受けながら無様な姿を晒した騎士の処分に、家族の情が入り込んではならない。
姉も、父も、そして自分も。
職務上のことだ。
イーディスは素早く考えごとを終わらせて、父の言葉を待つ。
「イーディス=シャロン=ローゼンハイム! 騎士として再び立ち上がり王の言を聞くか? 甘んじて武門の恥の誹りを受け、横たわって父の慈悲を待つか!?」
イーディスは動かない。
もう、身体はちっとも痛くない。
でも、だから、動かない。
──おとうさんって呼ばせてくれたことも、ないくせに。
2020/11/16更新。
2020/11/18更新。