怪魚釣り
一日が経過した。
──とイーディスが知ったのは、給仕の少年が上品な盛り付けの朝食を運んで来てくれた時だった。
まる一日も!
しかも二人して!
眠りこけてしまっていたのだ!
ルーチェと二人で大急ぎで朝食を食べ、甲板に出てみた。
近くで椅子に座っていた貴族らしい人に何もなかったかを尋ね、危険なことはなかったよと返答されて、ようやく一息つくことができた。
手近な椅子に腰かけて休んでいると、真っ黒に日焼けした若者が「釣りでもしてみたらどうだい」と声をかけて来た。
一昨日のイーディスの戦いを遠くから見ていたそうで、腕前に免じて釣り道具を安くしておくとのことである。
イーディスは彼から新品の釣り道具を二揃え買い取った。
異世界で作られた釣竿の詳しい使い方を教わってから、ルーチェと二人で船の左端に立った。
「俺さ、違う世界から来たんだ。釣竿見りゃ分かると思うけどさ」
並んで釣り糸を垂れる若者が、ぽつりぽつりと語り始めた。
「機械技術が発展した世界、でしょうか?」
「そう。世界を繋いでくれる役所に頼んでね。釣り三昧で暮らしてみたかったんだ」
「異世界渡航局ですね。よく存じています」
『転生』や『転移』『召喚』など、世界の仕組みそのものに干渉する事象を扱う『異世界渡航局』の支部は、ローゼンハイムにしか存在していない。
もとの世界ではあり得ない大冒険や、活躍の場を求めてこの世界にやって来る“転生者”は、まずローゼンハイム公国の門をくぐることになるのだ。
ルーチェとの授業は結局うやむやになってしまったが。
イーディスの第二の故郷ローゼンハイム公国は、異世界からやって来た“転生者”が基礎を築いた国だ。
長らく未開の魔境だった現在のローゼンハイム領をあっという間に平らげて、『彼』はまた別の世界へと去って行った。
その英雄が兵器や武器に関する情報のほとんどを伝えなかったため、『彼』が残した異世界の文化や技術がローゼンハイム公国の“特産品”になった。
政略結婚によって諸外国に広がった公国家の血脈とともに、その文化や技術も少しずつ世界に浸透し始めている。
「へぇー、色々知ってるんだな。話が早くて助かるけどさ……っと、お嬢ちゃん引いてるぜ!」
「あ……は、はい!」
青年の警告を受けたルーチェが急いで釣り糸を巻き上げようとするが、
「何これ……すごい力!?」
掛かっている魚が巨大なのかどうか、釣竿は少しも動こうとしなかった。
イーディスは急いで黄金の腕輪を身につけると、ルーチェの加勢に入った。
「お姉ちゃん!」
「任せて!」
義妹から釣竿を受け取ると、釣り糸を一気に巻き、力いっぱいに釣竿を引く。
巨大な魚影が水面を今まさに突き破ろうとしている。
大陸沖の漁場には、やたらと大きな魚が泳いでいるとは聞いていたが!?
「“力”でわたしに勝てると思うなっ!」
暴れ回る大魚を強引に甲板へ引き上げると、イーディスはすぐにナイフで獲物をシメた。
因縁も怨みもないが、おお魚類よ、お前達は美味い──。
「でかすぎるだろ常識的に考えて……」
褐色の肌の若者が頭を抱える。
大きな豪華客船の甲板でなければ、とっくに壊れているだろう大きさと重さの大魚である。
桜色の鱗は海水をまとって淡く輝き、小さな虹を生み出すかのようだ。
「わたしは魚類に詳しくないのですが……食べられそうでしょうか?」
「あー、こりゃ鯛の種類だろうな。こんなでけぇの見たことねぇが──早速、味見と行くか」
若者は刃渡りの長い得物を取り出すと、見事な手つきで魚の鱗を削ぎ落した。
三枚におろした美しい白身の一枚分を形よく捌いて、調味料と共にその場にいる客に供した。
うまいうまいと快哉が上がる。
気を良くした若者は船に専属のシェフを呼び出し、他の客も集めて会食を開いた。
「あんた漁師になってみねぇか? 俺が居た世界の船を使えば、きっと食うに困らねぇぜ」
機嫌のいい若者に持ち掛けられたイーディスは、巨大な鯛の刺身をおいしそうに食べる義妹の表情をひと目見るなり、彼の提案に必要な金額を若者に尋ねた。
2020/12/25更新。