南へ!(5)
黒龍は翼をひとつ羽ばたかせてイーディスから離れると、力を振り絞るように急降下し、捻くれたクジラみたいな魔物に突撃を見舞った。
凄まじい衝撃が魔物の口を開かせる。
黒龍は飲み込まれる寸前だった金髪の少女を見事に救出した。
小さな身体を大切に抱えたままゆっくりと上昇すると、召喚者をイーディスに預けて姿を消して行く。
──ぐおわあああ!
一方、陽気な咆哮を上げた捻くれクジラは、どうやら『邪眼』の魔力を喰い尽してご機嫌らしい。
イーディスに攻撃を仕掛けることなく、大きな波しぶきを立てて海に飛び込んだ。
のたのたと泳ぎ去るのを、もと姫騎士は呆然と見送るしかない。
「またやっちまった……」
目の前の戦いに注意を向けすぎるのが悪いクセだと、七番目の義姉ティータが言っていたのを苦々しく思い出す。
先ほどの戦いの目的は、『邪眼』の魔力の暴走からこの少女を救い出すことではなかったのか?
あの変なクジラが『食事』を最優先しなければ、どうなっていたか分かったもんじゃない。
騎士らしくも戦士らしくもなくうじうじ悩んでいると、捻くれクジラが海面に顔を出した。
イーディスが投げ捨てた斧を頭にのせている。
──落とし物だぜぇ
「うるさいわね。さっさと城とやらに帰れば?」
──いらねぇんならもらってくけどなぁぁ
「要るに決まってるでしょ」
膝の上で寝息を立てる少女を起こさないよう、静かに右腕を伸ばして斧を魔物の頭の上から回収する。
どうしても気分が晴れなくて、緩慢な動作になった。
──なんだぁ、しょげてんのかぁ?
「反省会してたのよ、一人で」
──最後の連携はぁぁ、良かったと思うけどよぉぉ。おれァ、たーんと魔力食えたからなぁぁ!
「あんたは食欲でできてんのか」
イーディスが黒龍に隙を作り、魔物はその隙に召喚者の魔力を一瞬で吸収し尽くした。
それだけのことだ。連携なんてもんじゃない。
少女をわざと飲み込まなかったのも、『命までは取らない』という言葉を、律儀にもこの魔物が守ってみせたというだけである。
今は怒る気力も何もない。
イーディスには少しばかり軽口を叩くくらいで精一杯だった。
──八割はそうだなぁぁ。生きるために食うのァ、おれらもお前らも変わんねだろぉぉ
「そりゃそうだけど。……世界の魔物がみんな、あんたみたいに陽気だったらいいのになって思うわ」
──そうじゃねぇからぁ、おもしれぇんじゃねぇかぁ。戦った後のメシはサイコーだぜぇ!
「初めて気が合ったわね。で……連れてくの? この子」
──気に入ったのかぁぁ?
「そんなとこよ」
──あんだけ拒まれるんじゃあ、連れてってもしょうがねぇやなぁぁ
「そう」
──面倒でも見てやるこったなぁぁ。取引ならまだいいがよぅぅ……子捨ての片棒担がされるなんざぁ、おれだって気分のいいモンじゃねぇわなぁぁ
「……あんたは一体何なのよ。人間の味方なの、敵なの?」
──世の中ァよぅ、嬢ちゃん。白黒つけられるコトばっかりじゃねぇんだぜぇぇ。おれだって忘れてるだけで、もとは人間だったりするかもよぉぉ?
「そうなんだ。一口に魔物って言っても、色々あるみたいね」
──おうよぉ。おれ様みてぇに位の高けぇ奴にまた会いでもしたら、インタヴューでもしてみるこったなぁ。嬢ちゃんは多分、強敵に縁があるぜぇ
「ははっ……笑えない冗談ねぇ」
──そろそろあの船が戻って来る頃だぜぇぇ。面倒はごめんだなぁぁ。おれァ引き上げるとすっかぁぁ
「うん。あ、もし他の人を酷い目に遭わせでもしたら、海の底まで追いかけて叩き潰すからね」
──おお怖わぁ。せいぜい“条約”でも守ってひっそりと暮らしますよぉぉだぁ
魔物は巨体をぷいと背けるように振り向かせ、勢いよく海に潜る。
凄まじい速さで泳ぎ、海底へと消えて行った。
『浮遊』の魔法で海面近くにふわふわと浮いたまま、イーディスは再び考えに浸る。
膝の上の少女はまだ目を覚まさない。
推測にすぎないが、『邪眼』の力を爆発的に発現させたのは今日が初めてだったのだろう。
良い環境で育てられてこなかったことは、先ほどの言葉から十分に想像がついた。
……自分には、この子のために一体何ができるんだろう。
イーディスはシエルと過ごした日々を思い返しながら、少女の丸い頬っぺたを静かにくすぐる。
2020/12/15更新。