銀の樹の迷宮(2)
「弱くたっていいじゃないですか。勝手な大人が何を言おうと、構わなければいいんですよ。あなたを愛する人たちがあなたの近くにいる、それより大事なことがありますか?」
正論を振りかざす人が好きではないし、できればそうなりたくないとイーディスは思っている。
だが今に限っては、この正しさが義姉を励ますと信じたかった。
「ええ、そうね。そうよね……」
でも、とハイネが言葉を切る。「まずは逃げた方がよさそうだけどっ!?」
弾かれたように、イーディスは植生に覆われた床を蹴立てて走り始めた。
後ろから、得体の知れない恐ろしい気配が追って来るのがわかった。
単純に追いかけられるのが一番怖い。奥へ向かい階段を下り続ければ逃げ延びられるとは限らなかったが、そんな事を警戒している余裕があろうはずもない。
迷宮のどこをどう駆けずり回ったか、もうわからない。
何枚の扉をくぐり、何度階段を降りたか、もう分からない。
ただひとつ、恐ろしい気配から逃れるためには、目前にした最後の扉を開くより他なかった。
さしもの最強の騎士も、殴ったり蹴ったり斬ったり撃ったりできないものには弱い。
「すごく嫌な予感するけど、進む?」
「転移魔法を何度か試してますがだめですね、封じられているようです」
「じゃあ……開けるね」
イーディスの腕の中から降りたハイネが、厚い扉に手を触れた。
扉は音もなく、静かに開いた。恐ろしい気配も消えてしまった。
広い部屋の中央のあたりに、黒い影がうずくまっている。
槍のような得物を支えにして、眠ってでもいるのだろうか?
漆黒の闇の塊のような影が、ハイネリルクの姿を認めてか、ゆらりと立ち上がった。
大きな影だった。戦士の彫刻もかくやと言うほど筋骨隆々とした立派な体格を、頑丈な鎧が包んでいる。
兜はつけていない。
だから、凄まじい笑いを浮かべた口許だけが、いやに鮮明に見えてしまった。
「お……お義父様!」
ローゼンハイム城のロビーに堂々と飾られた全盛期の現公王の肖像そのままの姿であった。
黒い姿の王が矛を構える。
モウ オマエ モ イラナイ ナ ──そう口許だけを動かした。
「義姉様!」
凄まじい速さの突撃を、全身の力を奮ったイーディスが受け止める。気合を込めた蹴りで牽制し、相手を遠ざけた。
何度か手合せをしているから、公王の好む戦法をよく知っている。中距離武器による突撃とクロスボウによる射撃を複雑に組み合わせた、巧妙なアウト・ファイティングだ。
イーディスは義姉を守ることに専念した。
反撃を行わずに次の相手の動きを予測し、万全の態勢で防ぐ。
漆黒の姿を物理的に殴れるのかどうかも測りかねていたし、決してハイネを傷つけさせるわけには行かなかったからだ。
「……っ、ぅ、ぁ」
ハイネは激しい呼吸を繰り返し、義妹たる騎士の後ろでうずくまってしまった。
昔のトラウマを喚起されてか、少しも動く事が出来ないようだ。
仕方がないじゃあないの、と、彼女の泣き声がイーディスの耳にも鮮明に聞こえる。
子どもが産めないのは私のせいじゃない、私は悪くない。
食べられなかったんだから普通に育つわけないのよ、どうして私が責められなきゃいけないの……。
かすかな声で、何かに抗うように一人で話し続けている。
イーディスはすぐに義姉を抱き締めてあげたかったが、そう考えると姉妹の間を邪魔しようとする黒い影がうざったくて仕方なかった。
養父のことは嫌いではない。嫌いでいたって仕方ない。
確かに厳しさだけが目立つ人だけど、彼なりに悩んだりしながら娘たちに寄り添おうとする姿勢だって見せていたのだ。
外見を似せているだけだ、戦い方を真似ているだけだ。目の前にいるのは自分の知っているお養父様ではない!
もと姫騎士は獣の呼吸音とともに、目前の影に跳びかかった。
義姉に攻撃を向ける暇もないほど攻め立て、相手に防戦を強いる。
そうしておいて、気力を載せた声を放つ。
「義姉様! わたしの大好きな、ハイネリルク様っ!!」
義姉がはっと顔を上げるのを、義妹は気配だけで読み取った。
「お忘れか!? あなたはあなたで居ることが大事なのだ! 弱いなら誰かに頼ればいい、守ってもらえばいい! それを責めるような者はそもそも、可憐な花を嫌う捻くれ者の苦虫に過ぎん! あなたを愛したいと思う者達が居る限りっ! 誰もあなたを否定することなどできはしない!」
2021/2/25更新。




