高校野球
無謀だと分かっていながらも、硬式野球をやりたい一心で硬式野球部に入った。現実は厳しく、自分の無力さ、埋められない実力差を見せつけられた。それでも辞めようとはしなかった。野球が全てだったあの頃、退部は死と同じものだったからだ。
新型ウイルスのお陰で、夏の定番であるイベントはもちろんのこと、インターハイや甲子園も中止となり、学生達は涙を流した。
学生の大会が中止になっているのに、我々大人の大会は中止にならず開催されている。市の大会とはいえ、気が引ける所もある。
私はソフトボールチームに所属しており、只今ソフトボール大会の真っ最中だ。結果はボロ負け。三打数ノーヒットと良いとこなしだ。
たかがソフトボールと舐めてかかると痛い目を見る。体力の衰えたおじさん達も元高校野球児が多く、若者はつい最近までバリバリ野球をやってました。というメンツも少なくない。
高校まで野球をやっていたが、レギュラー所か、補欠にすらなれずに三年間の高校野球生活に幕を降ろした私が通用する訳が無いのだ。
野球部での日々は、苦く苦しい思い出ばかりだが、特に夏は辛かった。
甲子園の出場をかけた地区予選。その時期は無論ベンチ入りメンバー中心のメニューとなり、ベンチに入れなかった部員は補助に回ることになる。
ベンチメンバーの発表で俺は名前を呼ばれなかった。テレビでは俺の様にメンバー外になった部員は、悔しさで涙を流していたが、俺の目からは涙は流れなかった。指導者からの扱いからして、メンバーに選ばれないのは分かっていた。評価を上げようと自分なりに足掻いてはいたが、所詮実力主義の世界。仕事が出来ないものにはとことんシビアだ。
最もメンバー入りの可能性が低い俺が涙することは、この野球部を舐めている行為に当たると思ったから、涙を流してはいけないと思った。むしろメンバーから外れて清々しい気持ちだった。これからは補助に徹しよう。それだけでも存在価値を見出だせるとおもった。
選手では無くなったその日から、練習は楽になった。もうランニングもハードな練習もやらなくて良いのだ。する必要が無いからだ。ひたすら球拾いに徹した。
大会の為にホテルへ同行する日は、出された料理を残さぬよう、メンバーが残した物も食べた。そんな俺に付けられたあだ名は「残飯処理係」だ。
試合前のシートノックのボール渡しに参加することすら光栄に感じた。自分の居場所を、自分の役割を見つけるのに必死だった。
試合後に「お疲れ様です」と同級生や後輩の荷物を持つのは屈辱的だった。心の奥ではさっさと負けてしまえ。と思った。
周囲の期待も虚しく、三回戦で敗退。俺の辛い青春は終わった。終わることを望んだ筈なのに、涙が止まらなかった。悔し涙ではなく、俺を散々コケにしたメンバーが、こんなに呆気なく負けてしまったことに対する怒りだったのだと思う。
俺はこの野球部では全く存在価値を見出だせなかったが、カードゲームに例えると、デッキのコンセプトに合わなかった為に使われなかったカードなのだ。と自分を慰めた。
多くのメンバーが大学、就職と進路を決める中、俺は専門学校へ進学した。野球部の連中から見ると俺は変人だったと思う。今のチームはそんな俺を受け入れてくれるし、人数不足もあって、試合に出れないと悩む必要も無くなった。心から野球を楽しめる。とても幸せだ。