【お母さんの栗ごはん】
わけもわからない焦燥感で壊れそうな心を抑えつけるために、わたくしはわたくしを思い出した。
わたくしは、美しい。
そう、わたくしは美しい。誰よりも、何よりも美しい。だからこそあくまで優雅に、あくまで華美に在らなければならない。わたくしらしくない振る舞いは決してしてはならない。惨めで無様な醜態を晒してはならない。わたくしはわたくしらしく。わたくしはわたくしが望むままに。わたくしはわたくしが導くままに。わたくしは、わたくしとして在らなければならない。
……わたくしって、誰?
ぎしりと喉が絞められて一瞬息が止まる。こほっと軽く咳き込んで、息を吸い込んでからお盆をリビングに運ぶ。あくまで優雅に、あくまで華美に。
「うっひょー栗ごはん! 栗ごはん!」
「すみませんッ!! 腹がッ!! 減ったので味噌汁だけでも先にッ!!」
館長さまのせいでまたもや餓死寸前であるらしいどれいさまが味噌汁をがぶ飲みするのを傍目に、料理をローテーブルに並べていく。豆腐とわかめの、おそらくは朝食の残りであろう味噌汁。おそらく昨日の夕食の残りであろう栗ごはん。それに、メインディッシュの焼きさんま。最後に、肉じゃが。
「どれいくん、だいじょうぶ? おみそしる、おかわりいる?」
「いただきますッ!! すみませんッ!!」
「あ、ではわたくしが行ってまいりますわね」
そう言いながら自分の席に栗ごはんを置いた拍子にお米が指についてしまって、それを舐め取りながらキッチンへ戻る。白だしでしょうか? 出汁がよく染み込んでいて、栗の風味もたっぷり纏っている美味しい栗ごはんです。これは、食べるのが楽しみですわね。
何をしているの!? わたくしがそんな行儀悪い真似するわけないでしょう!? わたくしの体で醜い真似しないで!!
がつんと、わたくしの怒鳴り声が鼓膜の奥で響き渡る。
ぎゅっと喉が本格的に締まって息ができなくなって、思わずシンク台に手をついてしまう。そう、わたくしは美しい──だからあくまで優雅に、あくまで華美に。
わたくしは、美しい。
「だいじょうぶ?」
「っあ」
「あっ」
つゆりさまに背後から声をかけられてびくりと肩を跳ねさせた拍子にお茶碗を滑らせて味噌汁を零してしまった。血の気が引く。
「も……申し訳ございません! すみません、ごめんなさいぼうっとしておりました──」
「そんなことよりも、やけどしてない? だいじょうぶ?」
零れた味噌汁を拭おうとするわたくしの手を取って、つゆりさまが心配そうに囁く。わたくしの手を握る、つゆりさまのあたたかく、ふわふわとした手。
爪先は指先よりも短く綺麗に切り揃えていて、指の一本一本もわたくしのように華奢ではなくほどよく肉がついていてやわらかい。手のひらはふわふわもちもちのおまんじゅうのようにしっとりふっくらとしていて、わたくしの手が焦げ付きそうなほどにあたたかい。
焦燥感が募る。
焦れて焦れて、焦げ付くような感情で喉がひりつく。
どうしようもなく苦しくて、今にも何かが弾けてしまいそうに痛い。
わたくしは、こんな手知らない。
知らない。わたくしは知らない。このあたたかく、やわらかな手を知らない。そう、いつだってわたくしの手を握っていたのは。わたくしの肩を掴んでいたのは。わたくしの頬を撫ぜていたのは。わたくしの髪を梳いていたのは。
「あ、ああ……あ、あ」
息ができない。
何故? どうして? なんで?
なんでわたくしは、このあたたかい手を、知らないの?
なんで──わたくしが知っている手は冷たくて、爪先が赤くて、鋭く伸びていて、美しいの?
なんで──わたくしの頬を撫ぜるあの手に、この手のようなあたたかさが少しも感じられないの?
「うああ……ああ、あああ……」
あたたかな手が背中に回る。あたたかな胸が、顔に押し付けられる。だいじょうぶ、とやさしい声がわたくしの鼓膜をしんしんと打つ。
知らない。
わたくしは、知らない。このあたたかい体を。あたたかい声を。あたたかい──〝母〟の姿を。
「何故──なぜ、あなたがわたくしのお母様ではないのですか?」
ぼろりと涙が零れ落ちた。
わたくしは、こんなに優しい母の姿を知らない。