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自分図書館  作者: 椿 冬華
第二幕 「わたくし」の章
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【お母さんの味噌汁】


 館長さまが最初に見つけた分岐点。那由多分の一の分岐点。桜田つゆり改め──黒錆つゆり。この世界の〝わたくし〟黒錆どれみの母君。

 その人が、わたくしたちを見つめて微笑んだ。


「おひさしぶり、げんきだった? かんちょうさん」

「ああ。今日はいないようだな、〝ワタシ〟」

「どれみちゃんはおともだちのところにとまりにいっているの」


 ゆーちゃんさまの柔和な空気をさらにまろやかに、それでいて何処か焦れるような、奇妙な心地にも陥るあたたかなご婦人。

 第一印象は、そんな感じでした。何度も渡界しているからなのか館長さまともお知り合いのようで、わたくしたちが〝わたくし〟であることもご存知でいらっしゃるようでした。


「何だ、また来たのか。見ない二人もいるな」

「やあ、黒錆彰人(あきひと)


 さいはて荘の前庭。

 落ち葉を掃除しておられたご婦人──黒錆つゆりさまの元に、眼光の鋭い殿方がやってきました。こちらは〝わたくし〟の父君にあたる黒錆彰人さまとのことでした。つまり、つゆりさまの伴侶さまでいらっしゃるのですね。


「えぇっと……初めまして、柊どれいと言います」

「初めてお目にかかります。どうぞ、メイドとお呼びくださいませ」


 わたくしたちの自己紹介につゆりさまは優しく微笑み、これから昼食なのだけれど一緒にどうかと誘ってくださいました。

 腹いっぱい食べてきたばかりなのですが、そこは館長さま。満腹感があっという間に消え失せました。どれいさまなんか〝腹が!〟とお腹を抱えました。またですか。


「よかった! どれみちゃんもだれもいないのにおひるごはん、つくりすぎちゃって。ぜひ、たべて!」


 どうぞ、とさいはて荘の中に案内してくださるつゆりさまのゆっくりとした足取りに合わせてゆっくり歩きながら、心中を占める奇妙な焦れた感情に想いを馳せる。

 つゆりさま。

 ゆーちゃんさまの柔和な空気をさらにまろやかに、それでいて何処か焦れるような、奇妙な心地にも陥るあたたかなご婦人。

 そう、何処か焦れるような……奇妙な、焦燥感。つゆりさまとお話していると……わけもわからない焦燥感で、そわそわと落ち着かなくなる。

 同時に、耳の奥で声が響く。

 あくまで優雅に、あくまで華美に──甘えという甘えを全て排除し切って美しく在れ。そんなわたくしの声が、ぎいんぎいんと鳴り響く。まるで……つゆりさまに対する奇妙な焦燥感を、封じ込めようとするみたいに。


「あら……古いかと思いましたが、新築ですのね」

「ええ。くずのつるにおおわれたせいでふるくみえちゃうけど、すうねんまえにたてなおされたばかりなの」


 さいはて荘の、管理人室だという一階角部屋にお邪魔させていただきましたところ、葛のつるに覆われた外観からはおよそ予想できないほど真新しい内装に行き当たって、少々驚きつつも温かみのある木目調の室内に好感を抱く。

 リビングに入れば御子のおもちゃと思しきミニカーや人形が散乱しているのが見えて、それにも何故だか胸が焦れる。リビングの奥にはベビーベッドがあって、見てもよいかと聞けばいいと返ってきましたのでちらりと覗いてみたところ、とてもかわいらしい赤子がぷうぷうと寝息を立てて眠っておりました。なんて愛らしい。


「いまよういするから、ゆっくりして」

「あ……でしたらお手伝いいたします。一応メイドをやらせていただいている身ですのでお役に立てるかと」

「ほんと? ありがとう! じゃあ、おねがいしようかな」


 屈託のない、心の底からの歓喜とわたくしへの感謝に満ち溢れた笑顔にじりじりと、焦れる。焦れて、胸が痛くなる。ぎしぎしと、体が軋む。

 わけもわからない焦燥感を封じ込めながらつゆりさまとともにキッチンに入り、お鍋を温め直したりごはんをよそう作業に入る。わたくしがやることなすこと、逐一逐一つゆりさまはありがとうと本当に嬉しそうに礼を述べてこられて。

 心が温まり嬉しくなるのに、それをはるかに凌ぐ焦燥感で何故だか冷や汗が流れてしまう。


「おみそしる、あじみしてくれる? ちょっとこいかも」

「はい。小皿、お借りしますわね」


 はやる心と、さざめく焦燥感を抑えつけて小皿に温めた味噌汁をとって、口に含む。いりこだしに合わせ味噌のオーソドックスな味噌汁。少々塩分が強く、水を足したほうがいいかもしれないと考えながら──どうしようもない焦燥感で、思わず咳き込んでしまう。味噌汁が、気管に入ってしまったようです。


「だいじょうぶ?」


 つゆりさまがわたくしの背をあたたかく、ふわふわとした手でさすってくる。ほんとうにあたたかくて、ほんとうにやさしい──わたくしの知らない手。

 焦燥感が、強くなる。


「だ……大丈夫、ですわ。少し気管に入ってしまっただけですので。少しお水を足せばちょうどいい按排になるかと」

「そっか。じゃあそうしよっか」


 わたくしが咳き込まなくなったからかつゆりさまの手が離れていく。それに追い縋って引き留めたくて仕方なくて、そんなわたくしの、わけのわからない感情にまた、焦燥感が募る。


「めいどさんはおうちでもおりょうりするのね」

「え……あ、はい。どれいさまと館長さま、それにもうひとり……執事さまのお世話をさせていただいております」

「そっか。じゃあめいどさんはみんなのおかあさんなんだね」


 息ができなくなる。

 息ができなくなるくらいの、焦燥感で涙が零れそうになる。けれど涙を零せば、何かが弾ける気がして、堪える。涙をひとしずくでも流せば──何かが、破裂する気がする。何かが……壊れる気がする。


 なにかが、おわるきがする。


 水を注ぎ足された味噌汁がぽこぽこと沸騰するのを傍目に──わたくしはただただ、手のひらに爪を食い込ませて堪えていた。




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