第十一自我 【とある世界の自我】
第十一自我 【とある世界の自我】
異変に気付いたのは渡界した直後のことだった。
ざり、ざり、ざりざりとブロックノイズで歪む世界に館長さまが目を見張り、そしてため息を零した。
「──また滅びたか」
どれいさまが怪訝そうな顔をする。その間にも、ブロックノイズはどんどん強くなっていって世界が形を保てなくなっていく。
かろうじて掴み取れる情報を読み解くに、ここはどこかの田園風景が広がるのどやかな場所だと思われます。しかしノイズに次ぐノイズで空は砂嵐のように荒れて不明瞭になり、山々は出現したり消失したりはたまたさかさまになったりと不安定で、道ばたを流れる川も隆起しては陥没し隆起しては飛散しを繰り返していて不定形です。
ちりちりと、肌が焦げるような感覚を覚えて思わずどれいさまに縋る。
「どういうことだ? 何があったんだ?」
「滅んだだけさ」
「だけって……とんでもないことじゃねえか!! アレだろ? ダンジョンの世界みたいに消えるってことだろ!?」
どれいさまの言葉で、あの何も認識できない虚無を思い出してぞくりぞくりと体が震える。
「大したことはない。この世界はすぐ滅ぶ」
「──え?」
「この世界は特殊でな。少しの分岐ですぐ世界が滅ぶんだ」
「は……はあ!? なんっ……それどういうっ……」
「まあ、簡単に言えばマルチエンディング型アドベンチャーゲームのようなものだ。ただし正解の分岐以外世界滅亡に繋がる、ハッピーエンドしか許されない世界だがな」
館長さまの言葉の意味がわからなくて、けれどなんだかとてつもなく恐ろしいことを言っているようでもあって、わたくしとどれいさまは凍り付いたように硬直してしまう。
「いい機会だ。世界のお勉強タイムといこうか」
「え? ──のわっ!?」「きゃあっ!」
突如地面が抜け、世界が闇に包まれる。一瞬、またあの虚無かと身構えたけれど──闇をきちんと暗く、黒く、影に包まれた闇だと認識できる。虚無ではない。
そのことにほうっと安堵しつつ、未だ掴んだままのどれいさまの腕をそのままに、フリーフォールしているような浮遊感に包まれている体をよじって館長さまを探す。
わたくしたちのすぐ真上……真上、でいいのでしょうか。わたくしの髪が館長さまのほうに流れているので真上、でいいと思いますが……。
ともあれ、闇に包まれた、闇しか見えない世界だというのに不思議とわたくしたちの姿ははっきり視認できていて、真上で薄い笑みを浮かべておられる館長さまもよく見える。わたくしたちは落下に従って髪や服が流れていっているというのに、館長さまはまるで地面に佇んでいるかのように髪も服も何も変化せず、わたくしたちから遠ざかることもなくただただそこで制止していた。
「館長! ここは──」
「〝世界の根〟が根ざす場所だとでも思っておけばいい。アレだ、アリの巣観察キットみたいにわかりやすく解説してやろうと思ってな」
館長さまがそう言い切るのと同時に、闇しかなかったそこにひと筋の白い川が生まれる。──いや、川ではない。はるかな上で生まれた白い筋道はいくつにも枝分かれして、その枝分かれした筋道がまたいくつにも枝分かれしていって、やがてわたくしたちのいるところにまで到達するころには幾千、幾万もの筋道が広がっていた。──根っこ。そう、これはまさに根そのもの。
「〝世界の根〟……これがひとつの世界の、いくつにも分岐して存在する無数の世界線ってことか?」
「その通りだ」
〝世界の根〟──なるほど、分岐点で世界線が分かれ、根も分かれていくということですわね。では、この白い根っこは世界そのものということになるのでしょうか。
「そう。そしてひとつの世界を一滴のしずくとするならば、大海原ほども世界が存在する」
その言葉と同時に、ぽつりぽつりと新たな白い筋道がはるかな彼方で無数に生まれ、それらから流れ落ちるように根が伸びていく。幾十、幾百、幾千、それどころか幾億、幾兆もはるかに超える根が伸びていくものだから視界があっという間に白く染まっていく。
「これが一般的な世界と、世界線の仕組みだ」
真っ白に染まった世界で館長さまがやはり、薄く嗤う。
「ダンジョンの世界の時も言ったが、世界が滅ぶなんてことはそう起きない。当たり前だ──人類が滅ぼうと惑星が爆発しようと宇宙が終焉しようと、世界は続く」
では、世界滅亡の基準は何なのか?
「世界が弾けて消え失せ、虚無に呑まれて時間という概念が消え失せる。それを滅亡の基準にしている。──こう言えば世界滅亡がそうあることではないとわかるだろう? 宇宙だってビッグ・バンに始まりビッグ・クランチで終わると言われているが、それさえ世界滅亡とは言わんのだ。その先が存在する世界の方が多いくらいだ」
ビッグ・バン──宇宙の始まり。
ビッグ・クランチ──宇宙の終わり。大爆発で生まれた宇宙はやがて、大収縮により消えてしまうと言われています。けれどそれさえ、世界の終わりかというとそうでもない。何故ならば、宇宙の外に何があるのかをわたくしたちは知らないからです。
「ちょっと待て……ビッグ・クランチで宇宙が消えた先も存在する世界が多いって、まるでそれを観測していたような……」
「したからな」
「は……」
「じっくりざっくりきっかり千五百憶年ほど」
「は……はあ!? ……はあ? はあ!? 待て、四百年じゃ」
「そりゃ図書館内の経過時間だ。世界によって時間の流れが違う上に過去にも未来にも行くのに図書館の時間を弄ってなかったらお留守番している執事が寂しさで死ぬだろう」
さらりととんでもないことを仰る館長さまに、けれど何故だか納得できてしまう自分がいた。あの館長さまがたかだか四百年しか生きていないなんて、ありえませんもの。
「ワタシの正確な年齢知りたいか?」
「いや……いい。理不尽歳でいいもう……」
「そうか? まあ誕生日のロウソク用意するの大変だしな」
「そこか? そこなのか?」
どれいさまの疲れたようなツッコミを締めにして、館長さまが次のステップに進まれた。
「さて、本題だ。一般的な世界の仕組み、それに滅亡というもの。それを知ったわけだが、その上でもう一度言おう。地球系列平行世界第一種 №9321はすぐ滅ぶ世界だ」
その言葉を呼び水に、ひと粒の黒い点がはるかな彼方で生まれる。それは先ほどの白い筋道のように流れ落ちて、やがて枝分かれする。
「最初は一般的な世界と同じだった。それが変わったのは、〝さいはて荘〟という場所が作られてから」
黒い筋道が二又に分かれる。おそらく、さいはて荘という場所が作られた世界線と、作られていない世界線。
作られていない世界線は先ほどと同じように、普通にどんどん枝分かれしていく。
それに対して、作られた世界は。
「……え?」
作られていない世界と同じように幾十にも幾百にも枝分かれした根が、唐突にぷつりと途切れる。そして下に流れ落ちていくのは、一本の根っこだけ。
その遺った一本がまた、幾十にも幾百にも枝分かれして──また、一本だけを残してぷつりと途切れる。
其の繰り返しで、さいはて荘が作られた世界線は数珠繋ぎのように、ところどころ枝分かれして途切れた根っこの塊がある一本の根として下に下に伸びていく。
──簡単に言えばマルチエンディング型アドベンチャーゲームのようなものだ。ただし正解の分岐以外世界滅亡に繋がる、ハッピーエンドしか許されない世界だがな。
館長さまのお言葉を思い出す。
正解しか許されない世界。不正解の選択をしてしまえば、滅びが待っている世界。
「面白いだろ? ──そんでワタシがこの世界を見つけたのは、ちょうどこの分岐点だった」
下へ下へ、けっして幾十にも幾百にも幾千にもならない一本だけの筋道がある一点でまた、分岐する。分岐する。分岐する。分岐、分岐、分岐、分岐、分岐──……
「……え? ここだけ……世界線が多くないですか?」
とある分岐点での枝分かれがこれまでの比にならないくらい……幾千や幾万どころではない。分岐しすぎて根が絡んで、真っ黒な塊にしか見えなくなってしまうほどの多すぎる分岐点──しかしそれでも、やはり途中で途切れずに下へ伸びるのは一本だけ。
「初めてこの世界に行った時も滅びかけててな。じゃあ滅んでない世界線行くかって移動しても、その世界線も滅びかけててな。はあ? ってなりながらまた移動しても滅びかけてて」
大抵、滅びかけた世界に当たったとしても世界線をずらすだけで滅ばない世界線を見れるのだそうです。けれどこの世界だけはどんなにずらそうとも滅びの道しかなかった。どんなに世界線を変えても駄目だったと語って館長さまは嗤う。
「世界線を万ばかり見ていよいよおかしいぞって思ってな」
「遅いのか早いのか、スケールがデカすぎていまいちわからん……」
「だから過去へ遡って世界が滅ぶに至る分岐点を探すことにしたんだ」
世界が滅ぶに至る、分岐点。
「分岐点はすぐ見つかった。この世界における〝ワタシ〟──黒錆どれみの母親、黒錆つゆり──旧姓桜田つゆり。それが生き残るかどうかの瀬戸際、それが分岐点だった」
〝わたくし〟の母となられるその御方は体がたいへん弱い御方であるらしく、あめりか? という国で手術を受けておられたようです。その手術は絶望的に成功率が低く、医師も手術に失敗して死亡しても訴えないという宣誓書にサインがなければ手術しないと申し上げたとのことでした。
「つまり……その〝僕〟の母親が死んだら世界滅亡直行コースだったってことか?」
「ああ。滅亡する原因は様々。だが根源にはこの桜田つゆりの生死がかかっていた。どう足掻いても滅亡を引き起こす原因を止められるのが桜田つゆりしかいなくてな」
「だから……館長さまは探したわけですわね? 〝わたくし〟の母君が生き残る世界線を」
「そういうことだ」
なるほど、と頷く。正直、理解できたかと言われると微妙なのですけれど。
「それで……どれくらい巡ったのですか?」
「那由多」
「え?」
「生存率、那由多分の一」
那由多分の一。
十の七十二乗分の一。
1/1000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000。
「…………」「…………」
ぶわりと白い世界が白い鳩の大群となり、黒い根も鴉の大群となって飛び立って停止していた思考が驚きに弾かれる。
飛び立った鳥の大群の下から青々とした空が現れて、ずっと身を纏い続けている落下感そのままにひたすら落ち続ける。
「さすがに骨が折れたんでな。それ以降、飯テロ世界の〝正解〟はこうやって探すことにしている」
ぷかりと水滴が現れ、流れるようにわたくしたちを通り過ぎて上へ消えていく。それで終わることなく、次から次へと水滴が現れて上へ流れていく。ぱらぱらと雨のように幾十、幾百、幾千もの水滴が流れていく。落下していくわたくしたちと違って静止しているからか、わたくしたちの横を流れていく水滴が線になることはない。まあるい水のしずくのまま、上へ流れていく。
「この水滴……ひとつひとつが世界線になっているのか」
「え?」
言われて、よく目を凝らすと確かに、水滴のひとつひとつ──中に、何かが閉じ込められているように見える。山の見えるのどやかな田園風景──先ほど訪れたあの場所、でしょうか。
「こんな風に駆け巡りながら正解を探すことにしている」
そう言いつつ、館長さまはやはり薄い笑みを浮かべてそこに佇んでいるだけで、周囲を見回そうともしない。けれど──見えているのでしょう。見えて、視えているのでしょう。
空を落ちながら、流れ去っていく水滴の雨を眺めてぎゅっとどれいさまの体に身を寄せる。ずっと落ちていたせいかどうにも体が冷えて、少し寒い。どれいさまはこの摩訶不思議な光景をカメラに収めるのでお忙しいようですけれど。
「ん、アレか。見つけたぞ〝正解〟」
そう言い終わるか終わらないかのうちに、わたくしたちのはるか下方にあった水滴のひとつがぶわりと巨大化して、目を見張る隙さえ与えられることなくわたくしたちは、水に落ちた。
身構えも何もしていなかったものだから水をまともに呑み込んでしまって咳き込む。けれどごぼっと水が出るばかりで息を吸えない。苦しい──と、思った次の瞬間にはまた空を落ちていた。
「ゲホッ! ごほっ! けほけほっ」
「げふぁげはっ……おいこら館長! 大丈夫ですかメイドさん」
いつの間にかどれいさまから離してしまったらしい手をどれいさまがしっかり掴んでいて、恨めしげに館長さまを睨みつけていました。今度は館長さまもわたくしたちと一緒に落ちていて、館長さまの黒く長い、蓑虫のようなおぐしが上に流れている。
それから、ようやく下を見やる。
山々に囲まれたのどやかな田園風景──先ほど渡界した場所とそっくり同じ場所が広がっていました。けれど先ほどと違い、ブロックノイズによる歪みはどこにもない。
「さーて疲れたしメシ喰うぞメシ」
またもや、そう言い終わるか終わらないかのうちに視界が変わって、がくんっといつの間にか地面に付けていた足裏で脚を支えきれず膝を折る。どれいさまは無様にも転げ回り、館長さまも同様に転げ回った。何をしておられるのですか。
「ここは……」
「いだだ……あぁ、パン屋の近くじゃないか」
どうやら例のパン屋と食堂がある町中、のようです。軽く見回してみますが、特に目に付く目立った特徴はない。猫の世界や龍の世界で目にした高層ビルもなければ、観光客が集いそうな華やかなシンボルもない。凡庸で素朴な、本当にただ人が住んでいるだけの町……に見えます。
「あれ? きみたちまた来てくれたんだね」
その時でした。〝元王様のパン屋さん〟なる看板を掲げている小さなパン屋から、執事さまをはるかに凌ぐ、縦にも横にも大柄な男性が出てきました。柔和そうなお顔がたいへん印象的で、にこにこと毒がなく屈託のない笑顔を浮かべてわたくしたちの元へ歩み寄ってきた。
「やあゆーちゃん。また来たぞ」
「お久しぶりですゆーちゃん」
「嬉しいよ。──もしかしてそちらが〝メイドさん〟かい?」
着の身着のまま図書館から渡界して参りましたから、メイド服のままのわたくしを見て殿方──ええと、ゆーちゃんさまが本物のメイドさんだと嬉しそうに笑う。
「すごいねえ、おうちにメイドさんがいるって。ぼくも昔は使用人たちに囲まれていたけど、ひっつめ髪で灰色のワンピースにエプロンが基本だったから、こんなに華やかじゃなかったなあ」
「使用人に囲まれてたって……」
「ほらぼく、元王様だから」
「ああ(笑)そういう設定でしたね(笑)」
「設定とかじゃなくて。かっこわらいつけないでよ」
──いえ、王族であったかどうかはともかく元々高貴な出身であったのは間違いないかと思われます。わかりづらくはありますが、立ち振る舞いや足運びのひとつひとつがとても洗練されていて、〝教育〟された人間のそれだとわかるのです。
「え、マジで」
「そう言うきみもそうだよね。相当厳しい礼儀作法教育だったでしょ?」
相当厳しい礼儀作法教育。
わたくしらしく振る舞いなさい! わたくしがそんな醜い真似をするわけがないでしょう!?
がつんと脳を揺さぶられるようなわたくしの怒鳴り声が響いて、一瞬めまいに意識が飛ぶ。
「ゆーちゃん、今回はどんな新作パンがあるんだ?」
「ん、今は秋だからね──栗や梨、葡萄を使ったパンがあるよ。キノコを使ったキッシュもあるし」
「よーし買いに行くぞ柊どれい! メイド! そしたらもろみ食堂でメシだメシ!」
「あれ? きみって柊どれいって言うんだね」
「あっはい。柊どれいって言います」
仮にも兄妹として通しているんだからフルネームじゃなくてお兄ちゃんとか呼べよ、とどれいさまがこっそり館長さまを小突く。館長さまが小突き返しに頭突きした。取っ組み合いの喧嘩になった。何をしているのですか。
「こらこら、兄妹喧嘩はやめなね。しっかしどれいくんか~。名前まで似てるんだねえ」
「似てる……」
「うん。うちの魔女っ子にね。きみら、雰囲気がすごく似ているんだ」
──魔女っ子というのはおそらく〝わたくし〟のことでしょう。確か、パン屋と食堂の主人は〝わたくし〟がいるさいはて荘に住んでおられるのでしたか……。
……さいはて荘。
選択を誤れば、滅ぶ世界線。
そっとゆーちゃんさまを窺う。柔和な表情が印象的な、大柄な殿方。話し方もとても穏やかなもので、安心する優しい声色。きっと町の人々から好かれていることでしょう。
──けれど、わかる。
この殿方は既に終わっている。
終わったのを、そのまま生き永らえているような。
「さいはて荘はそういう場所だからな。本来ならばその人生に終止符が打たれるような、世界に否定されるような人間ばかりが集まっている」
おそらくはゆーちゃんさまに聞こえない声で、館長さまが嗤いながら囁く。
その存在自体が世界にとって害悪にしかならず、世界が自己防衛本能で抹消してしまうような方々。
それを迎え入れるための場所として〝さいはて荘〟が作られ、だからこそ正解の選択肢以外は滅ぶ世界線になってしまったのだと。
「……そのような御方には、思えませんけれど」
本来ならば既に終わっている存在。
本来ならば、既に死んでいる存在。
終わっているはずなのに終わらず、死線の上で生き永らえている存在。
──そういう御方なのはわかります。なんとなく、わかります。わかるのですけれど……とても世界に否定され、世界が正当防衛で抹消するような害悪な存在には視えないのです。
「正解の選択を辿った世界線だからな」
「……それは、つまり」
「世界にとって害悪になる筋道を辿った世界線は滅んでいる」
「……そういうことですか」
〝さいはて荘〟──それはつまり、この殿方のように世界にとって害悪にしかならず、世界が滅亡を防ぐべく──自分の死を前にして敵の喉元に喰らいつき足掻く生きとし生けるものの如く、血液中にある免疫機能を司る白血球の防衛プログラムの如く、世界の滅亡という自分の〝死〟を避けるために滅亡を引き起こしかねない異物を排除しようとする世界の防衛システムから身を守るための場所。
実際……館長さまによれば、さいはて荘が作られていない世界ではこの殿方たちさいはて荘の住人はひとり残らず死んでいるそうです。
そんな、世界にとって害悪にしかならない存在を守るために作られた場所、さいはて荘。
だから──この世界線は、正解しか許されなくなってしまった。一歩間違えば世界を滅ぼす存在を生き永らえさせてしまっているのだから、一歩間違えば滅ぶ世界線になってしまった。
言わば、世界の敵が住まう場所。
「そういえばメイドさんはメロンパン好きなんだってね。いつも大量にお買い上げ感謝、だよ。はいサービス」
ほどよく焦げたパンのよい香りで充満した小さな店内で、ゆーちゃんさまがにこにこと、とても世界の敵には見えない優しい笑顔でわたくしにメロンパンを差し出してきました。礼を述べて受け取り、ワタシもワタシもとせがむ館長さまを無視して口に含む。
焼きたてほこほこの、熱で少し融けた砂糖がざらつくくま型メロンパン。
メロンの旬は過ぎているのでメロンの果汁は残念ながら練り込まれていませんでしたが、それでも甘く美味しくてあたたかい気持ちになる。
「──とても美味しゅうございますわ、ゆーちゃんさま」
「ゆーちゃんさまって。ほんと面白いなあきみら」
からからと楽しげな笑い声を上げるゆーちゃんさまにつられて、わたくしたちも笑う。
その後、新作のパンを含め幾つものパンを購入したわたくしたちはそのまま隣のもろみ食堂へ向かい、少し遅めの朝食にすることにしました。ここで食べるからと渡界する前に何も食べてこなかったのです。
もろみ食堂の主人であらせられるもろみさまという気風のいい同年代くらいのご婦人とも気持ちよく交流させていただきましたが、ゆーちゃんさまと同様何処か終わってしまっている雰囲気に満ちていて、こんなにも気持ちよく優しい御方ですのに、となんとも言えない心地になりました。
もろみ食堂では日替わりスペシャル定食なるものをいただきました。秋の食材をふんだんに盛り込んだ定食で、天ぷらの盛り合わせが非常に美味にございました。お芋の味噌汁がなんとも安心する味で、豆ごはんと非常に合うものですからついつい、おかわりしてしまいました。
本当に、もろみさまもゆーちゃんさまもいい御方で、お二方が提供する料理もたいへん美味しくて──館長さまがこの世界を行きつけにする理由がわかった気がしました。もっとも……正解を選ばなければ滅ぶ世界、という特殊性が行きつけにする第一の理由だとは思いますが。
それから食堂を後にしたわたくしたちは、さいはて荘に向かうこととなりました。
世界から敵と見做され、排除されるはずであった者たちが安穏とした生活を送るための場所──さいはて荘。
凡庸で素朴な町を抜け、二十分ほど歩道もない車道を歩いたところで館長さまが飽き、ワープしました。
そよそよと、車道ですらないあぜ道を涼しい風が吹き抜けていく。風に導かれるように視線を滑らせると、それがそこにあった。
田園風景に溶け込むように静かに佇んでいる三階建ての、築何十年経っているのか考えるのすら恐ろしい、葛のつるに覆われた建造物。正門には〝さいはて荘〟と、古めかしい字体で看板が打ち付けられている。
季節は秋。
紅葉に色付き始めている山からひらりひらりと枯れかけの葉っぱが流れてくる。それに呼応するように、わたくしの髪もそよそよと靡く。
目の前に立つのは、わたくし。
誰よりも何よりも美しく、完璧なわたくし。
あでやかな赤い唇が弧を描いて、わたくしを褒める。
あざやかな赤い爪を飾った指先が、わたくしの頬を撫ぜる。
つややかな赤いドレスが緩く巻かれた二本の黒いツインテールに呼応して、揺れる。
──愛しいわたくし。美しいわたくし。愛しているわ、わたくし。
心の底から愛おしそうなわたくしの声が、しんしんと響く。同時に、ぎじりぎじりと体が見えない糸に絞められて、息ができなくなって軽く咳き込む。
体が、求めている。
体が──終わりを求めて、悲鳴を上げている。
──成程。
これは確かに、〝死〟に最も近い場所ですわね。
【世界】




