【スライムづくし】
スライムのガワ部分、つまり体積の九割以上を占める水分を封じ込めるための表皮部をまな板に広げて短冊状に切り揃えていく。スライムの本体にあたる、手のひらで包めるほどのアイスブルー色の核はまとめてボウルに入れ、卵黄と絡めてから片栗粉をまぶす。
体積の九割を占める水分はまとめて大鍋に入れて煮込んでいるところなのですが、先ほどはただの透明な水にしか見えなかったそれが薄いモスグリーン色に変わっていて、水というよりはアメーバのような液状だと解説しておられた館長さまのお言葉を思い出しつつドラゴンの血をひとしずく垂らす。そうすればモスグリーン色が一瞬鮮やかな血色に染まって、けれどすぐ色が抜けて落ち着いたオレンジ色になっていく。ほわりとオニオンスープのような香りも漂って来て、不思議な心地になりつつ蓋をし直す。
「ずいぶんスライムを狩ったのだな」
「ええ。帰還直後に仕込みたかったのですけれど誰かさんのせいでこんなに遅くなってしまいましたわ」
「帰ってこないのが悪い」
開かない扉を前に涙する〝わたくし〟たちを前に、どうすることもできず──〝滅ぼしてやろうか〟という館長さまの愉しげな問いかけに〝わたくし〟がかすかに頷いたのを機に、館長さまが図書館へ帰還するための魔法陣を展開し──世界はあっけなく滅びました。
分岐しますから、わたくしたちが訪れなかった世界線は今もかろうじて残っている、でしょうけれど。
何かが砕けるわけでも焼き尽くされるわけでも闇に呑まれるわけでも全てが白く染まるわけでもなく──本当にあっさりと、何もかもがなくなってしまいました。
ええ、なかったのです。てっきり世界が滅ぶ時は闇に呑まれるのかと思っておりましたが──その闇さえも、世界の一部なのです。世界が闇に包まれただけでは、まだ〝闇〟が残っている状態ですから世界が滅んだわけではないのです。
世界の滅び、それ即ち虚無。
本当に、何もなかったのです。
地面がない。空がない。太陽がない。空気がない。真空さえない。重力がない。無重力さえない。概念という概念自体ない。──〝色〟さえない。無色という色さえない。
気が狂うかと思いました。
本当に、何もないのです。認識できないのです。
闇を見ればそれが黒色で、暗くて、湿っぽくて、影だと認識します。光を見ればそれが白色で、明るくて、眩しくて、光だと認識します。
けれど、虚無の中ではその認識能力が働かないのです。何を見ても〝何か〟だと認識しないのです。〝何もない〟と認識することさえ、できないのです。確かにわたくしはそこにいるのに、わたくしがいる場所を認識できない。それどころかその〝認識できない〟にじわじわとわたくしが喰われていくような。
気が狂う直前に館長さまの魔法陣に包まれて図書館に帰還しましたが……あのまま、あと数秒でも長くあそこにいたならばわたくしは、間違いなく廃人となっていたでしょう。
どれいさまなんか、大粒の涙を流しながら食堂の床に這い蹲って嘔吐しておられました。……わたくしも、似たようなものでしたが。
直後、般若の如き憤怒に身を焦がした執事さまに抱きすくめられてベッドに連れ込まれたのです。それから丸々一日……まあ、執事さまとしてはわたくしが精気補給できずにあんな状態になったのだと勘違いしたのでしょうから仕方がないのですけれど。
それにしても。
恐るべきなのは、あんな狂った空間にいて小揺るぎひとつしないどころか、精神崩壊しかけているわたくしたちを見下ろして薄い笑みを浮かべておられた──館長さま。
ああ、まっこと〝魔女〟ですわ。
「お刺身にしてみました。ひと口どうぞ」
スライムのガワを何の加工も加えず冷水で締めたものをお醤油に絡めて、執事さまの口元に運ぶ。イカっぽいな、と執事さまが実においしそうに食べておられたので、不味くないと判断して口に入れます。
「おい」
ツッコミが入った気がしましたが無視します。
お醤油をつけたスライムのお刺身──スラ刺しとでも呼びましょうか。スラ刺しはお醤油の色しかついていない透明なこんにゃくのようで、こうなってしまうともうスライムだとは思えません。群れで出現してどれいさまを圧死させようとした危険生物なんですけれどね。
ぱくりと口に含むとまず、お醤油の塩辛さが口内に広がる。それはそのままに、スラ刺しをぎゅっと前歯で挟んで噛み切る──ああ、確かにイカに近い食感。ほどよく弾力があって、けれど歯を立ててぶちりと表皮を裂けばあっさりと千切れてしまう。んん、味もイカに近いような、イカよりも薄いような……食感を楽しむ食材ですわね。もっと細く切って麺にするのもよいかもしれません。
次に、スライムの体液を煮込んだスープを小皿に移して執事さまに差し出します。胡乱なお顔をされましたが笑顔で封殺します。渋々、小皿を手に取って味見してくださった執事さまによれば野菜を煮込んだスープのようだということでしたので、自分でも味見してみました。
なるほど、確かにオニオンスープに様々な野菜を入れて煮込んで、水で薄めたような味がします。これをベースにさらに味を加えれば美味しく仕上がりそうですわね。スライムの体液というのは元々胃液のような役割を担っていて、非常に強い酸性なのです。体に植物や鉱物、時には動物の死骸を取り込んで溶かすのでいろいろな栄養分が詰まっているのでしょう。それにドラゴンの血──あれはアルカリ性で、スライムの体液を中和するのによいとのことでしたから、いい具合にさっぱりとした味わいになったのでしょう。
「コカトリスの脚を入れて朝まで煮込むことにしましょう」
「この核とやらは揚げるのか?」
「ええ。どんな味なのかわからないのでとりあえず、館長さまに言われた通り揚げてみることにします。残りは、その揚げ物の味を見て調理方法を工夫することにしますわ」
「ふぅむ。こうして見るとスライムも生物であるなあ」
ええ。ただ見づらくなっているだけで胃袋も腸も肛門も生殖機能もあるモンスターのようでした。あのダンジョンにおける清掃員のような役割を担っていて、死骸や排泄物を消化して清潔に保っている重要なモンスターなのだと館長さまが教えてくださいました。
「いいクッションになるからと館長さまがスライムの死骸に腐敗防止と清浄、時間凍結の魔法をかけておられましたわ。ほら、そこの」
「ああ……なるほど、これが本体であるか」
ダイニングテーブルの、館長さまの椅子に置かれているアイスブルー色の丸いクッションを持ち上げて執事さまがなるほどと顎をしゃくる。
「ふむ、確かになかなかよいクッションだ。ベッドにひとつ欲しいところであるな。腰の下に敷けばよさそうだ」
「貴方、まだやるおつもりですの? 丸一日わたくしに吸精されてよく元気ですわね」
サキュバスであるわたくしは人の精気をエネルギー源とします。肌に吸い付いたり口付けによる経口摂取でも精気は補填できますが、最も効率よく補填できるのが夜の契り──まあ、要するに交尾行為ですわね。
「……ありがとうございます」
「ん?」
「わたくしがサキュバスだと知って、わたくしを死なせないようにしてくださっていたのでしょう?」
「まあ、それもあるが……我輩とて愉しみたい。〝我輩〟を愛でられるのだ──この上なく最高であろう。互いに損がなく、至高でしかない」
「……ええ、そういうことにしておきましょう」
ダンジョンの世界から帰還した直後の、あの怒りと焦燥で歪んだ執事さまのお顔はとてもとても、自己愛と快楽に溺れた人間の目ではございませんでしたけれどね。




