【マリファナッツ】
どれいさまがぎょっとした顔で、白い豆を取り落とした。
「マリファナ?」
「そう。名付けてマリファナッツ」
「うまくねえよ」
館長さまが食することを禁じた白い豆。
それを前に、館長さまが実に天国らしい食べ物だと笑う。
「執事とメイドはわかるか? マリファナ」
「いいえ……危険なものなのですか?」
「ああ。恍惚とした幸福感を得られる魔法の豆さ」
「──! なるほど、麻薬であるか」
「その通り。主に天使たちが退屈しのぎに食べる豆だな」
麻薬。
その単語を聞いてわたくしにも、このマリファナッツというのがどういうものなのかわかりました。確か、〝バッド・ラック〟と呼ばれる薬が法律で禁止されておりましたわね。ペガサスの涙とバジリスクの毒で作られた、この上ない至上の幸福感を得られる代わりに二度と正常な状態に戻れなくなる依存性の高い麻薬。
──わたくしは大丈夫よ。だって、わたくしは美しいもの。
「っ」
脳裏をよぎったわたくしの声に、体が震える。慌てて口元を抑えて、無意識に上がってきた呼吸を整えにかかりながら、思考する。今のは──わたくしの、過去? わたくしがかつて──口にした、言葉?
わたくしは、一体。
一体、何を。
「か……館長さま」
「ん?」
「わ……わたくしたちの体は、図書館に堕ちた時点で館長さまが再構築されたものだと……仰いましたよね?」
「ああ。お前たち三人は元の世界から魂だけが弾き飛ばされて〝枠外者〟となっている。その上で、偶然か必然か──ワタシの創り出したこの図書館に堕ちて、ワタシの魔力が肉体を再構築した形だな」
以前にお伺いした説明と同じで、わたくしは再確認するように頷きながら次の問いを、震える声を抑えて投げかけました。
「再構築の際……肉体の損傷も、再生するのですよね? その……どれい、さまも」
「んん、そうだな……ひき肉がミートブロックに再生してるものな」
「ひき肉言うな!! ……どうしたんですか? 何か、思い出したことでも?」
どれいさまが心配そうに顔を覗き込んできましたが、わたくしはゆるく顔を振って応えるしかできませんでした。
「た……例えば、元の体が薬漬けだった場合……とか」
「…………ふむん? …………そうだなあ。…………どうだろうなあ。柊どれいを見てみろ。過労死寸前の社畜まんまだぞ。だからどの程度再生するか、ってのは難しいところだなあ……」
言われて、どれいさまを改めて見やる。
確かに──館長さまほどではないにせよ痩せぎすで、目の下には深い隈が刻み込まれております。図書館に初めて来られた当時から何ひとつ変わっておられません。
「多数のセーブデータの中から魂の器として成立する最新のデータをロードしたって感じだろうな」
「喩え方」
「だからメイド。例えばお前が薬物狂いだったとしたらその痕跡が体のどこかにあるはずだぞ」
言われて、自分の体を見下ろしてみる。傷ひとつ、くすみひとつない陶器のような──美しい手。
「まあどっちみち元の体がどうかなんて元の世界を見つけなきゃわからん。ここじゃあ肉体の状態と健康状態は直結しないからな。見かけはともかく心身ともに最善であれるようワタシが停滞させている」
そう──この図書館に来てから体調を崩したことがございません。常に健康状態は良く、たとえ食糧不足で数日ひもじい思いをしたとて、お腹が空く程度で飢えるほどのことはございませんでした。
それらはひとえに、館長さまが健康状態をある一定の幅で維持できるようコントロールされているからでしょう。
だから、わたくしが薬漬けだったかどうかも……元のわたくしを見てみなければ、わから、ない──……
「……嫌です」
「メイドさん?」
「──嫌です。わたくしを──知りたくない」
わたくしが、怖い。
「わたくしは一体……〝何〟をしたの?」
美しさへの固執に反して存在する自分への嫌悪感。
これは、なぜ? 気になるけれど、知りたくない。怖い。すごく、怖い。
世界をひとつ巡るたびに、新たなわたくしを知っていくのがどうしようもなく怖い。
「だが、楽しいのだろう」
執事さまの低く、掠れた声が震え俯いているわたくしの鼓膜を静かに揺らす。
「楽しい間は続けてよかろう。楽しくなくなったら帰ってくればよい」
「…………」
〝楽しい〟──その通りにございます。渡界先から帰っては執事さまに連れ込まれるたびに、ベッドの上で執事さまに毎回、何十分も何時間も語ってしまっていますもの。見たことも聞いたことも、感じたことも味わったこともない新鮮な世界に加えて、そこで自由きままに暮らすわたくしらしい〝わたくし〟の在り方。それに……館長さまとどれいさまの、コントめいたやりとり。いろいろ、色々。
「…………」
気付けば、震えが止まっておりました。ああ……わたくしってば、現金ですわね。
そう……楽しい。だから、渡界をやめたいとは露ほども思わない。わたくしを知るのは怖いけれど、それ以上に楽しい。楽しくて、仕方ないのです。
「そーいう〝楽しい〟をもっと口にしたってバチは当たりませんよ。まあ〝僕〟だから言わなくたってわかりますけど」
どれいさまがマリファナッツを館長さまに押し付けて無に帰すよう命じながら、わたくしに笑顔を向けてくる。
言われて、気付く。そういえば──自分の感情を口にすることを、そして態度に出すことをよしとしていなかったように思います。何故か、単純です。
〝美しくないから〟
──わたくしは、美しく在らなければならない。だから、余計な行動や感情は慎まなければならない。
でも。
──でも。
ここには、〝わたくし〟しかいないのだから。ほんの少しだけなら……いいかもしれない。
きしりと、体が軋む。




