【氷河マグラシステーキ】
「もー果てには行かん!! この国は、技術力がなさすぎるんじゃ!!」
国民の集いの場にもなっている珊瑚の花畑で、海そのものの髪と尾びれを揺蕩わせながら〝わたくし〟が唄いました。
その眼差しに、つい三日ほど前に垣間見えた失墜の昏さはもうございません。姫君は心の底から楽しげに、面白そうに笑っておいででした。
「だからな、わらわは留学することにした! ここよりはるか南にレイシュルド王国という技術大国があるという! ちょうどレオンハルト兄さまがそこに留学しておるからな、わらわも行くのじゃ!」
「それがようございますよ、姫さま。生身で果てを目指すなんて無謀過ぎたんです」
「んだんだ。レミリナ様が盲たとお聞きした時はえれえ心配したでよ」
「フン! 盲たぐらいでわらわが引いてたまるか! 海神もわらわに諦めるなって光をくださったことじゃしな!」
姫君は尊大な、それはもう館長さまそっくりの誇らしげな顔で、綺麗に微笑まれます。ああ──そうです、わたくしが見たかったのは……これなのです。
海そのものの神秘的なおぐしが海のさざ波に揺れ、海そのものの幻想的な尾びれが海の揺らぎにそよぐご様子はまっこと、魅入らずにはいられないものでした。現に、どれいさまが隣で無心にシャッターを切っております。
「おい聞いたか! 末の姫全快祝いで宮殿を開放して立食パーティーやるそうだぞ! 次兄と次姉のシェフコンビが料理を振る舞うそうだ!」
「あーそうかい」
「共感能力のない男は嫌われるぞ!」
興奮のままに叫び、憤慨のままにどれいさまに尾びれビンタをなさる館長さまをよそに、わたくしはただただ、姫君に魅入ります。
わたくしがしたことは正しかったのか、間違っていたのか──未だにわからないままです。おそらく、わたくしのしたことは〝余計な手出し〟であり、〝干渉〟でしかないでしょう。所詮、わたくしたちからしてみれば他の世界に住まう〝わたくし〟のひとりに過ぎないのです。この〝わたくし〟だって──立ち直りこそしていますが、同時に〝立ち直れなかったわたくし〟の世界線も生まれてしまっているのです。
世界を渡り歩くとは、そういうことなのです。
館長さまのような享楽主義者でなければ。
どれいさまのように、割り切っていなければ。
──世界に、みだりに干渉すべきではないのでしょう。
「……けれど」
けれど、少なくとも。
「……あの〝わたくし〟の笑顔を拝見することができて……大変、ようございました」
そう零して、ふうっと息を吐き出そうとして、代わりに水が排出されました。心なしか、ため息……ため水? が、熱いような気がします。
「思い詰めすぎですよ。ホラ、うまいもん食べてリフレッシュしましょう」
「ええ。そうでございますわね──ではどれいさま、わたくし少々疲れましたので宮殿までお運びなさいませ」
「命令ときたか」
文句を言いつつも、わたくしと館長さまを背中に乗せて器用にイカ足で泳ぐどれいさまに、エールの意味も込めてぺちぺちおしりを尾びれで叩いて差し上げましたら何故か怒られてしまいました。エールですのに。
◆◇◆
氷河マグラシステーキというのはここよりはるか北に生息する、体長三十メートルほどもあるアザラシのような生き物の肉を火山のマグマにさっと遠し、表面が焼けたところで昆布に包み、溶岩で熟された鍋の中でじっくり燻すのだそうです。
「うっっっめぇ」
「おい柊どれい! まずワタシに食べさせるべきだろうが!! 柊どれいのくせに生意気だぞ!!」
おふたりのいつものコントは置いておいて、切り分けられた氷河マグラシステーキを魚卵で作られたソテーに通し、口元に運ぶ。かりっと燻された表面が歯に割られると同時に、柔らかくとろかされた肉が滑るように歯から舌先になだれ込んできて、あまりの柔らかさにほうっと恍惚のため息を漏らしてしまう。ため水……いえ、もうため息でいいですわ。
「美味しゅうございますわぁ……」
「!! おい柊どれい!!」
「はいはいはいはい慌てんなってほれ」
「もぐもぐ! うまい!!」
「もっと味わえ!!」
本当ににぎやかな方々ですこと。
「こちらの氷河マグラシ……というお肉は売っておられるのでしょうか? できれば、執事さまへのお土産にしたいのですけれど」
「高いけどあるよ~。高級食材を取り扱ってる〝オーロラホール市場〟ってとこでごく稀に扱われているんだけど、今日はあるみたいだよ~」
わたくしの言葉に、大柄な……それはもう実に、三メートルくらいあるのではないかというほどに大柄な男性の人魚が声を掛けてきました。親切にも市場の場所まで教えてくださった御仁にお礼を申し上げて、館長さまに行きたい旨をお伝えします。
「王子お墨付きの市場なんだ。きっとうまいもん盛りだくさんだ! 買いまくるぞ!」
「王子?」
「さっきの人魚、レミリナ・オーロフィクシャーの兄のユリティス・オーロフィクシャーだぞ。宮殿シェフをやってる」
「まあ! ではこのステーキをこしらえられた御方なのですね」
でしたらもっとお話をお伺いすればよかったですわね。それにしても、姫君といいこちらの王族は民と触れ合うことに躊躇がないのですね。
「僕たちが妹に似てるってのもあるでしょうが、そもそもああいう性格みたいですね。ほら、おばちゃんたちにむっちゃ囲まれてる」
「いいですわね、あのような優しい兄君がおられるのは」
兄。
──わたくしには、おそらくいないのでしょう。兄、弟、姉、妹──どれを思い浮かべてもいまいちぴんときませんし。
「どれいさまも随分いいお兄様だったとお見受けしますわ」
「そ……そうですか? そうだと……いいですね。先に死んじゃったのはちょっとアレですけど」
ええ。死んでしまわれたことは抜きにして、本当にどれいさまはいいお兄様だったのだと、あの時──どれいさまの妹君、めぐりさまを拝見して思いました。どれいさまのことを心から想うめぐりさまのお姿に……かようにも互いを想い合う家族が存在するのかと、感銘を受けたのを覚えて、憶えております。
──わたくしの〝家族〟は一体、どのよう、な──
わたくしは、美しい。
つきりと全身に走る軋みと、熱を帯びた吐息に少し息苦しさを覚えて、思わず胸元のタイリボンを握り締めてしまう。
仮初の蒼玉──
海のどんな青よりもずっと、わたくしらしい偽りの輝き。