第二自我 【海に沈んだ自我】
第二自我 【海に沈んだ自我】
「準備はできたか?」
起伏の薄い体を革のケープで包み、けれど下はパンツ一枚という変態的な恰好で──おまけに、いつも通り腕を拘束しているものだからさらに変態度は上がる──館長が問いかけてくる。
「なんでこんな格好になる必要があるんだ!?」
対する僕も、パンツ一丁である。
パンツ一丁。そう、パンツ以外全部剥ぎ取られた。執事さんに。
「これから行くのは溶液基盤系列世界──海の中だからな。濡れるだろ」
「貴様が着ておるのは我輩の服だ。我輩の服を濡らされてたまるか」
「海中の世界となりますと、洋服の調達は難しそうでございますわね」
「ぐぅ」
今現在、僕に手持ちの服は少ない。元々身に着けていたものに執事さんから借りたスーツ(身長が違いすぎるせいで丈を詰めているけど)、それにメイドさんが取り急ぎあつらえてくれた何枚かの下着、それだけだ。
「雑用さまがお戻りになられるまでには簡易な洋服一式、仕立てておきますわ」
「……ありがとうございます」
「代わりにお土産、期待しておりますわよ」
優雅に微笑むメイドさんに僕は曖昧に頷きつつ、館長に向き直る。
ここは中央間の食堂──食堂としては使っていないが、食堂だ。二十、三十人余裕で入れそうなほどに広く──わずか四人しかいない図書館においては無用の長物でしかない食堂だ。
そのど真ん中に、パンツ一丁の僕と下半身露出魔の館長がいるというわけである。なんのプレイだ。
「さて、行くとしようか──〝ワタシ〟」
パンツ一丁で項垂れている僕のどこを見て準備完了と取ったのか、館長がとん、と足を広げて仁王立ちになる。
そして高らかに、唄い出した。
── 牝鹿の 太陽を みーつけましょ ──
── わたしの 故郷を さーがしましょ ──
── ぬいぐるみの お茶会を ひーらきましょ ──
館長が一句一句、高らかに唄い上げるのを賛美するように、館長の──〝僕〟の周りを光のしずくが舞う。十、百、千としずくの氾濫が沸き起こって、視界が黄金の如き眩い輝きを放つ玉蜀黍色のしずくで充満する。
呼吸を忘れるほどの、美しい光景だった。まさに光の景色、光景。光の洪水。光の渦。光の濁流。それらが、館長の唄に合わせて食堂中を舞う。
しずくはやがて雨粒になり、ぽつりぽつりと床に落ちる。ばちゃり、と手が輝く水を弾く。水だ。光り輝いているけれど感触は水そのものだ。体を打つ光の粒も雨粒そのもので、僕の体を伝って床に溜まっていく。
降り注ぐ光の雨粒が水たまりになってきたことに慌てて立ち上がる。と、そこで気付いた。
執事さんとメイドさんのところには光の雨が降っていない。
光の雨は、僕と館長目掛けて集中豪雨の如く降り注いでいた。水たまりも食堂全体に広がるなんてことはなく──僕と館長の足元で留まっている。
輝く水はやがて僕らのくるぶしを乗り越えて膝を呑み込み、腰を呑み込み、胸元にまで水深が達していく。館長は既に首元まで呑み込まれていたが、その表情に焦りはない。
焦るのは、僕だけだ。
「おいっ、〝僕〟──」
ばちゃばちゃと水を手のひらで掻く。輝く水から抜け出そうともがく。けれど何故か僕らを包み込もうとしている輝く水の中から抜け出すことができない。僕らを静観している執事さんとメイドさんの元へ、行けない。
「がぼっ」
輝く水が口の中に入り込む。もう、館長は見えない。僕の顔も、どんどん輝く水に呑み込まれていく。足を蹴る。手を動かす。ごぼり、ととうとう顔の半分が呑み込まれる。ごぼりと泡が口から、鼻から、気管から、肺から、全身から排出されていく。それと入れ替わるように輝く水が容赦なく圧し入ってくる。
ごぼ、と咳き込む。苦しい。痛い。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しいなんてもんじゃない。痛い。痛い。逆流してくる水が鼻から口から気管に肺に全身に。痛い痛い痛い。痛い痛い痛い痛い痛い──……
電車の音がする。
「──おい、いつまでもがいているつもりだ」
とても聞き馴染む〝僕〟の声にはっとすると同時にひときわ大きな泡がごぼりと肺から排出されて、同時に痛みから解放される。
光の氾濫は、いつの間にか消えていた。
代わりに──青々と広がる世界が、そこにあった。
「……え?」
「溶液基盤系列世界第二種 №1894、海底の世界」
くるり、と夕暮れを彷彿とさせる橙色の鱗が美しい尾びれをはためかせて一回転する〝僕〟がそこにいた。
……え? 人魚?
「海底の世界とは言ってもこの世界に海上は存在しない。果てしなく海水が広がる、海水のみで構成された世界だ。そしてここに住まう〝ワタシ〟は、人魚族だ」
「にん……ぎょ……」
「人間のままこっちに来るわけにはいかないからな。適応させた──お前も今、人魚だぞ」
「え? ──のあああぁあ!?」
下半身がタコになっていた。
「ぬああぁあああ!?」
焦ってばたつかせた手に同調するように足が──タコの触手が、うねうね蠢く。気持ち悪い! 感覚が──なんというか、感覚がおかしい。左脚と右脚が何本もぶら下がっていて、それも全部ゴムのようにぐにゃぐにゃになった感じだ。気持ち悪い。ものすごく不安になる感覚だ。
「なんでこんなっ」
「ワタシと同じようにしてもつまらんと思ったからな。タコにしてみた」
お前のせいか!!
館長は〝人魚といえばこれ〟の容姿をしている。蓑虫のような髪は海中のせいかふわふわと揺蕩っていてとても神秘的だし、耳の代わりにひれが生えていて、それがまたよく似合っている。魚種はわからないが──とても長く、肉付きのいい下半身を見るになんとなくイルカっぽい。橙色だし、鱗あるけれど。拘束している腕は革のケープで隠していて見えていないから、人魚としてそれほど違和感のある恰好はしていない。
それに比べて僕のこの姿よ。
上半身素っ裸。下半身タコ。以上。
「さて、〝ワタシ〟を探しに行くとしようか──行くぞ、〝ワタシ〟」
そう言ってひらりと身を翻して警戒に泳ぎ出した館長を、僕は慌てて手足をばたつかせながら追う……追う……追えない!! どうやって泳ぐんだこれ!?
待て、待て置いていくな館長!!
◆◇◆
溶液基盤系列界第二種 №1894──ここにいる、魂を同じくするが違う〝僕〟はレミリナ・オーロフィクシャーというらしい。
セル=ウマノ族、この世における人間族──僕らから見たら人魚だが。ともかく、セル=ウマノ族によって統治されているオーロフィクシャー王国──そこに〝僕〟はいるようだった。
タコの八本の脚にもどうにか慣れ、右脚四本と左脚四本をそれぞれ一本として扱い、まとめることでもがきつつ館長を追った僕は──美しい海底王国に出逢った。〝海上〟が存在しないという海の世界、その底に沈む王国──貝殻の王国。
こう言ってはなんだが、タコ足になるという悲劇に見舞われてなお、異世界へ渡った自覚の薄かった僕に〝ここは異世界〟だと強烈な自覚を与えてくれるほどの、美しさだった。
そう、海の中にいきなり放り出されたというのに僕はやはり、どこか他人事な心地でいた。記憶を失うというのはこういうこと、なのだろうか。頭の中はいつでもぼんやりと霞がかかったようで、はっきりしているのは目の前にいる〝僕〟が僕であるという事実だけで。
僕は何をしたいのか、僕はどうありたいのか、僕はどんな人間なのか──それを考えようとする気さえ起きない、ぼんやりとした思考のまま館長についていっただけだった。
館長の不思議な魔法を目の当たりにし、その魔法を浴び、異世界に渡ってみせてもなお晴れることのなかった僕の意識を、その景色は強引に割り開いてきた。
衝撃的だった。
記憶がなくても、わかる。
むしろ記憶がなかったからこそ、なのかもしれない。
体が全力で、全霊で叫ぶのだ。魂が咽び泣くのだ。記憶のない空っぽな心に、形容しがたい感情が満ちる。〝こんな美しさは見たことがない〟なんて薄っぺらい言葉で形容したくない──むしろ、言葉で形容しようとすること自体がとてもつなく嫌でたまらなくなる。
それほどの、衝撃だった。
はるかな海の底だというのにそこだけは真珠のように明るく、近づくにつれてその輝きが貝殻によるものだとわかった。
街ひとつ呑み込まんばかりに巨大な白亜の貝殻、それが群青色の海底に沈んでいたのだ。そして街ひとつ呑み込まんばかりに、と形容はしたが形容ではない。比喩でも誇張でもない。現実だ。
白亜の巨大な貝殻、その殻に守られるように──白亜の王国が広がっていた。貝殻を素材としているのか、貝殻特有の虹色の輝きを持つ真珠層が建造物の外観に形成されている。けれど貝殻の王国を満たす真珠の輝きはその建造物群からもたらされているものではない。
王国の最奥部、貝殻のもっとも奥まった区域。そこ聳え立つ真珠を溶かし込んだような白銀の宮殿。それから零れ落ちる真珠色の輝きが街全体に広がり、真珠層の外壁に反射して王国全体を照らしているのだ。
とても美しい、光景だった。
右手が無意識のうちに何かを掻き抱こうと胸元に手を伸ばして、けれど宙を掻いたところで館長に尾びれでビンタされた。そうして我に返った僕は今──館長とともに、王国の中にいる。
「すごい──すごい。僕たち、本当に異世界にいるんだな」
「楽しそうで何よりだ──〝ワタシ〟」
その感覚、ようく覚えておけよ──
そう続けて館長はくるりと優雅に一回転して、街を見回すべく上へ向かった。それに倣って僕もタコ足で必死に水を掻いて上がっていく。街の中央部にちょっとした広場があって、珊瑚の花畑が広がっているのが見えた。
巨大な、大開きの二枚貝の中に鎮座するこの王国は一見、無防備のようであったが王国外周を武装した人魚たちが見張っていた。僕らは王国入り口から正式な客人として入国手続きを取った──どうやって身分証明をしたのかは知らない。問うても〝魔女だから〟としか返ってこなかったし、その答えで納得できてしまう程度には館長はとても不思議な〝僕〟だった。
──僕にも、〝僕〟のような〝何か〟があるのだろうか。
ふと、そんな疑問が出てくる。初めてのことだった。僕についてそういう風に考えるのは、初めてだった。
客観的に僕を見てみるに、おそらく現時点において何の特徴もない。執事さんやメイドさんを見て〝我が強い〟と感じたけれど、じゃあ僕はどうなのかというと──おそらく何もない。誰かが僕を見ても〝どんな人〟なのか形容に困る。その程度には、僕の特徴は薄い。
元々そうなのか、記憶がないからなのか──
「人魚姫のお出ましだ」
ふと、館長がおもしろそうに声を弾ませる。その視線の先には、珊瑚の花畑。そして珊瑚の花畑の上で踊るように泳いでいる──〝僕〟。
〝僕〟だ。
遠目にでもわかる──あれは間違いなく〝僕〟だ。館長と出逢った時、メイドさんと出逢った時、執事さんと出逢った時と同じ。一瞬、鏡に映る僕だと勘違いしてしまうあの感覚。
「あれが……この世界の〝僕〟?」
「ああ。オーロフィクシャー王国の末の姫、レミリナ・オーロフィクシャー姫──〝ワタシ〟だよ」
レミリナ姫。
海そのもの。
──そう呼称するしかないほどに、その〝僕〟は海と同化していた。海に揺蕩う髪は海流に揺らめく水影とともに色がさざめいている。青色なのか水色なのか黒色なのか緑色なのか、はたまた橙色なのか赤色なのか──ともかく、色が揺蕩っているのだ。髪だけじゃない──尾びれのほうもとても不思議な色をしていて、まるで海が具現化したようだった。
顔の造形は──メイドさんに少し、似ているかもしれない。メイドさんよりは幼い顔立ちだから、館長をもっとふくよかに、目の下の隈も取り除いて健康的にすればそっくりかもしれない。
「わらわ、今日こそ〝果て〟に行ってみせるのじゃ!」
珊瑚の花畑を縫うように泳ぎひらめきながらレミリナ姫は弾むような声を上げる。その声に、広場に集っていた他の人魚たちが口々に制止の言葉を投げかける。
「おやめなさいよ、レミリナ姫さま。〝果て〟には何もありゃしないんですから」
「そうだよ姫さま。上に行ったって冷たく暗い世界が広がっているだけで〝果て〟なんてありゃしない」
「それどころか体が凍えて、ひれが凍り付いてひび割れて、呼吸もできなくなって死んじまう」
「いいや、きっと〝果て〟にはわらわの知らぬ何かがあるに違いない。今日はの、貝をたくさん持ってきたのじゃ。中凍層のシャティーンをな、これで手懐けて〝果て〟へ連れてってもらうのじゃ」
レミリナ姫は夢見る乙女のようにうっとりと頬を紅潮させながら唄う。唄う。夢を、唄う。
「溶液基盤系列界第二種 №1894──レミリナ・オーロフィクシャー」
同様に館長も、唄う。
彼の人は夢見る。
果てなき大海の果てを求めて、夢見る。
真珠の甘やかなおくるみを破って、未知の世界を夢見る。
「この世界の〝ワタシ〟も外の世界を夢見るか」
「この世界の〝僕〟も……?」
「一見ひとつに見える世界も、無数に枝分かれしているんだ。そこかしこに分岐点が存在する。そしてその分岐点の先には全く別の世界が存在する」
館長が以前訪れた別の世界、〝溶液基盤系列界第二種 №12〟も、レミリナ姫という〝僕〟が存在する世界であったらしい。この世界と違うのは、行動力。
「№12の〝ワタシ〟はずっと宮殿の中にいた。外の世界を夢見つつ、大海の果てにある未知なる世界を夢見つつ──されど王の言いつけを守り、外に出ない姫だった」
けれどここ、№1894のレミリナ姫は違う。外を夢見て、未知の世界を夢見て、けれど閉じこもることはしない。諫められようと窘められようと、聞き入れることはない。
「面白いだろう?」
「ん……」
面白い、というのはよくわからないけれど。
でも僕が考えている以上に〝世界〟というものは広く、際限がないのだとわかった。僕の知っている世界なんてあの図書館と、そしてここだけだけれども。
「会いに行かないのか?」
「基本的には観察だけだ。──〝ワタシ〟とまみえてみろ。びっくりするだろ」
そりゃ確かに。
びっくりする。〝僕〟が目の前に来たらびっくりする。僕もびっくりした。いや、びっくりはしてないな。ぼんやりとした混乱があっただけだ。
「ワタシたちの任務は至極単純、姫のストーキングだ」
「ド直球」
「舐めるように、しゃぶるように、隅々まで愛撫するようにじっくり観察しろよ」
「変質者じゃねーか」
「そのくらいしないと〝ワタシ〟とワタシの共通点と相違点は見つからんよ」
そう言われて、思い出す。
そういえばこれは〝僕〟を探すための旅だった。ありとあらゆる世界にいるという〝僕〟を見て、知って、分析して、僕を探していく。──なるほど、こうやって〝僕〟を記録していくのか。
「──でも、お前はまだ見つけていないんだな」
「まあな」
さて、と館長の尾ひれが大きく水を扇ぐと同時に波が生まれて、僕の体が吹っ飛ばされて館長の体が遠ざかっていく。何をする。
「さっき、街にワタシが以前行った世界にはなかったレストランがあったんだ。行くぞ」
「は? レストラン?」
「異世界といえばこれだ。異世界の見慣れぬ料理! この世界はどんな料理があるか──心躍ってやまないな! なあ、〝ワタシ〟!」
「いや、待て。〝僕〟は──レミリナ姫は?」
「そんなの後だ!! それよりも、この世界の〝食〟を知ることの方が大切に決まっているだろう!!」
館長が〝自分〟を見つけられない理由がわかった。
そういえば、書庫に並んでいる本にもやたら料理の記録多かったな……。
◆◇◆
〝パール・パール・パール〟という(見たことない文字だったのに読めた。と、いうかそういえば言葉もわかっている。館長の魔法か?)レストランの、いわゆるオープンテラス。机はあるが椅子はなく、代わりに尾びれや触手を絡ませて固定することのできるY字型の止まり木……のような何かがあった。
「ご注文はお決まりですか?」
「この店で一番人気のメニューは?」
「それでしたら、〝貝の溶岩ムニエル〟が当店の看板メニューでございます」
「じゃあ、この〝てりやきマグラン〟Aセットふたつ」
「注文しねえのかよ」
今は魚な気分なんだ、としれっと言ってのける館長にフグをそのまま人魚にしたような、ふくよかな人魚が大笑いしながら注文を受け付けてくれる。
「魚食べたい」
「魚……魚、魚ねえ……」
──共食いにならないのか? と、店内にいる人魚たちを見回す。レミリナ姫のような海そのものの美しい鱗には及ばないが、どの人魚も色鮮やかで綺麗な尾びれを持っている。
「種からして違うからな。例えるなら、同じ哺乳類でも人間は牛を食べる──この例えで、理解できるか?」
わかる。
わかるということは、僕の世界はそうだったということだ。
「ふむ、お前の世界もワタシの世界も地球系列平行世界なのは間違いない──問題は、無数に枝分かれして存在している平行世界のうちどれかということだな」
──と、その時だった。
街を泳ぎ交う人魚たちがざわざわと、とある一点を指差して口々に悲鳴を上げたのは。
人魚たちが指差すのは、王国を包み込む貝殻よりもはるか遠く、高き天。──この世界に、天はないだろうけど。
優しくあたたかな真珠色の輝きに包まれる王国から一歩、抜け出せばそこはとても冷たく暗い群青色の世界が広がっている。館長によれば、上に行けば行くほど暗く──凍えるような水温になっていくらしい。逆だな、となんとなしに考えたところでまたしも〝僕〟について知る。そう、逆──僕の世界には海上がある。空があって、海面があって、海面近くはあたたかくて、海の底に行けば行くほど冷たく──暗く、重くなる。そう、そんな世界だ──〝当たり前の常識〟ではあるけれど、今の僕にとっては〝僕〟を知る貴重な情報のひとつだ。
こういう風になんとなしに考えることひとつひとつ、注視したほうがいいかもしれない。
それはともあれ。
人魚たちが指差すはるかな天。
そこではひとりの人魚が、揺蕩っていた。
彼の人は夢見る。
果てなき大海の果てを求めて、夢見る。
真珠の甘やかなおくるみを破って、未知の世界を夢見る。
夢見るままにその身を凍てつきし濃縹色の闇夜に身を沈め浸す。
はるか遠く、高きに臨む果てを追い求め縋り伸ばした手は、凍てつきし刃に切り刻まれ紅煙の軌跡を描きて堕つ。
ゆらりゆらりと海を揺蕩いながら、血煙を置き去りに堕ちてくる人魚姫を遠目に、館長の唄声が響く。
ふわりと、右腕が胸の前で宙を掻いた。手に届くはずだった感触がなかったことに思わず胸元を見下ろして、薄く肉付きの悪い胸板しかない胸元に不思議な心地に至る。
──僕は今、何をしようとした?
「夢破れ海底に堕つ、か。この世界の〝ワタシ〟もなかなか面白い」
だが、と館長は口を三日月型に歪めて嗤う。
「同情も同調も憐憫も懸想も何もない。残念ながらワタシに、〝ワタシ〟のあの執着めいた渇望はないらしい」
そうだろうか。
〝僕〟を探し求めてやまない館長はある種、〝果て〟を夢見るレミリナ姫に通じるところがあると思うのだけれど。
そんなことを考えながら、海を揺蕩う人魚姫を見上げて──やはり、右手を胸元で彷徨わせた。
【渇望】




