【思い出の味】
「思い出の味、ですか?」
わたくしたちの居住区にあたる北館の共用スペース、談話室にて館長さまが差し入れてきたそれを前に、わたくしは首を傾げる。
机の上に置かれていますのは何の変哲もない、ただの水にございます。ええ、水ですわね。ガラスのコップに入った水ですわ。水、ではないのかもしれませんけれど……とりあえず、見た目はただの水ですわね。
「何でまたいきなり味噌汁を……」
「え?」
味噌汁、というのはミソ・スープのことです。どれいさまと館長さまがたいへん好まれているスープで、週に一度はお作りします。海のもので出汁を取りますので、潮の香り漂う不思議な味わいなのです。けれど……これが、味噌汁にはどうにも……見えない、のですけれど。
「どれいさま、頭がおかしくなりましたの?」
「いきなりなんですかメイドさん」
「メイドに同意であるな。どう見てもアップルパイではないか」
「は?」
──いけません、思わず醜い声が出てしまいました。
「ごめんあそばせ──執事さま、おボケになられたのでしたら早急に館長さまの手当てを受けていただいたほうがよろしいのではなくて?」
「何を言っておるのだ貴様は……」
と、そこで執事がふん、と鼻を鳴らして館長さまに視線を向け、そういうものなのかと問いました。それに対する答えも至極端的。──そういうものだ。
「これは〝思い出の味〟と言ってな。深層記憶領域に根付く食べ物に変化するナノテクトホログラフィだ」
「ほ……ホログラム? でも、匂いとか……確かに、味噌汁だぞ。これは……そう、そう──」
母さんの、味噌汁。
そうぽつりと呟いて、どれいさまがぎゅっと唇を噛まれました。そのひとことで、こちらが一体どういうたぐいのものなのか理解して──わたくしは思わず、眉を顰めてしまいました。
「……趣味が、悪うございますわよ」
「くくっ。柊どれいが脱ニートした記念にコレは悪趣味だったか?」
悪趣味も悪趣味──ああほら、どれいさまが泣かれてしまったではありませんか。
家族に対する思慕、というのはわたくしにはよくわかりません。記憶がないから、というのももちろんありますが……それ以上に、〝家族〟が一体どれほど尊いものなのか、どうにも掴めないのです。
けれど、どれいさまは……〝わたくし〟はご家族のことを心の底から愛しておられる。それは、わかります。〝わたくし〟ですから。だから……どれいさまが悲しまれると、わたくしも胸が締め付けられるのです。
……同時に、やはり、どれいさまが羨ましくなるのですけれど、ね。全てを失ってしまわれたどれいさまが……心の底から、羨ましい。
「いや……大丈夫です。ありがとうございます、メイドさん。僕は大丈夫──もう、大丈夫ですから」
「……どれいさま」
「──ああ、やっぱり母さんの濃い味噌汁だ。懐かしいな……この味、再現できるようになりてえな……」
どれいさまには味噌汁に見えているという水をひと口啜って、どれいさまはまた、涙を零す。悲しみ──いえ、これは……何の、感情でしょう? 込み上がってくるような……わたくしにはよくわからない、感情。
「執事さんにはアップルパイに見えてるんでしたっけ……食べます?」
「要らん」
そんなもの不要。
そう言い切って、執事さまは仰々しくソファに座って足を組んだ。ご自分を何よりも寵愛しておられる執事さまは、だからこそ自分を知る必要はないと館長さまの自分探しの旅に同行しません。
そんな執事さまの、思い出の味……アップルパイ。一体、どのような思い出が詰まっておられるのでしょうか。
「じゃあ、メイドさんは?」
「え? あ……えっと」
──わたくしの思い出の味。
見た目は、水。
「──……」
一応促されるままに、ひと口含む。舌先に載るのは、やはり冷たく清らかな無味無臭の水。
「水……ですわね」
「水……ですか?」
「ええ……コップに水が入っているだけですわね」
これは、一体どういうことなのでしょう。どれいさまの味噌汁と、執事さまのアップルパイ。これらは……なんとなく、ご家族とか、恋人とかの思い出からくるものだって聞かなくても察せますけれど。
わたくしの、この水は。
……一体、どう解釈すれば。
きしきしと、体が軋んで息がしづらくなる。見えない糸に首を絞められているような軋みで、体が動かなくなる。どっどっと心臓がはしたなく早鐘を打って、得体の知れぬ──わたくし自身への恐怖で、叫び出しそうになってしまう。
けれど、ぎゅっと胸元で握り込んだ拳の中にサファイアのタイリボンがあって、その輝きがほのかにわたくしの心を落ち着かせてくれ、どうにかほうっと息を吐き出すことができました。
「…………」
どれいさまが、そんなわたくしをじっと見つめているのが、視線を向けずともわかる。けれど、何となくどれいさまにそれ以上聞かれたくなくて、思わず館長さまに弾むような問いかけを投げかけてしまいました。
「館長さまには、どのように見えるのですか?」
「うん? ワタシか? コンビニ弁当だ」
「は? コンビニ弁当?」
「ああ。それはそれは胸やけするような匂いを放っているな。ちっともそそらん。食べたくない」
こんびに弁当……と、いうのがどういうものなのかは存じ上げませんけれど……館長さまにとって決して〝もう一度食べたいもの〟ではなさそうです。執事さまのように天邪鬼で拒絶しているようには、見えません。
「天邪鬼ではない。単純に、そんなプログラムで記憶を探られても腹立つだけであるからな」
「くくっ。革新的な食べ物だと思うがなあ。まあ味覚を舌先で再現しているだけだから〝食べている〟ワケじゃあないが」
どこか、技術の発展した世界の食べ物でしょうか。
記憶のないわたくしたちから、どこまで正確に記憶を読み取れるのかは存じ上げませんけれど……でも。
「……よかった、ですわ」
「ん、よかったって?」
「……わたくしに思い出の味がなくて、よかったと思ったのです」
水。
それが思い出の味。疑問こそありますけれど──かえって、安心してしまいました。これでもしもケーキとかシチューとか出てきようものなら……きっと、二度とそれらを作れなかったでしょうから。
ただの水で、だからこそわたくしには何もないのだと……安心、してしまったのです。
「……わたくしは、わたくしに何かがあるのが怖いのです」
炎を見て感じる原始的な、魅了される恐怖とは全く違う──不気味でおぞましくて、吐き気を催す恐怖。
「──でもそれ以上に、知りたいんじゃありませんか?」
「え?」
「〝僕〟が、僕のように死んでいるかどうか」
思わず、息を呑んでしまいました。
わたくしのどれいさまに対する──決して吐露してはならぬ、羨望。それに、気付いていたのですか。
けれどどれいさまのお顔に不快さはかけらもなく、それどころか愉快そうに笑ってすらおられました。
「大丈夫ですよ」
どれいさまはゆるりと立ち上がって、ぐしゃりと館長さまの頭を掻き回しながら穏やかに微笑み、言葉を紡ぐ。
「ここには僕らの〝魔女〟がいるんだ。何があっても、館長がどうにかしてくれますよ」
何故ならば魔女だから。
そう言って笑うどれいさまは、確かに魔女たる〝わたくし〟と同じ〝わたくし〟にございました。