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自分図書館  作者: 椿 冬華
第二幕 「わたくし」の章
47/138

第一自我 【わたくしという自我】




 じが【自我】

 (self イギリス・ego ラテン)

 ①〔哲〕 認識・感情・意志・行為の主体としての私を外界の対象や他人と区別していう語。自我は、時間の経過や種々の変化を通じての自己同一性を意識している。身体をも含めていう場合もある。↔他我↔非我。

 ②〔心〕 ㋐意識や行動の主体を指す概念。客体的自我とそれを監視・統制する主体的自我とがある。 ㋑精神分析の用語。イドから発する衝動を、外界の現実や良心の統制に従わせるような働きをする、パーソナリティーの側面。エゴ。→超自我


 出典:広辞苑




 ── 自分図書館 ──


 第二幕 「わたくし」の章


挿絵(By みてみん)




第一自我 【わたくしという自我】




 わたくしは、美しい。




 朝はいつだってまどろみの中に響き渡るわたくしの声で目覚めます。

 気怠い体を起こせば、わたくしの長く黒い髪とともに、シルクのシーツが肌を滑り落ちていく。素肌には(いささ)か冷たさが過ぎる空気に肩を震わせ、シルクのシーツでわたくしのしなやかな裸体を包む。

 それから、隣で薄く胸を上下させているわたくしに視線を向けました。けれど、すぐわたくしではないと思い直します。〝わたくし〟ではありますけれど、わたくしではありません。わたくしはこんなに骨張った体ではございませんし、背丈も高くございません。一応、図書館に降り立ってから三百年以上経過しておられるようですけれど……おそらくは五十代半ばであろうと自称なさっておいででした。わたくしは百五十を既に過ぎているとは思うのですけれど、なにぶん、記憶がございませんのでわかりませんわ。驚いたことに、隣で眠っておられる〝わたくし〟の中では、人間の平均寿命は百にも満たないそうなのです。信じられないことですわね。そう思いませんこと?

 ──ええ、わたくしには記憶がございません。

 あれは、今から百年ほど前のことでしたでしょうか。ふと気付けば、こちら──〝自分図書館〟にいたのです。わたくしが誰なのか、一体どこから来たのか、今まで何をしていたのか……何もかもを忘れている状態で、呆然としておりましたのを〝わたくし〟たちにお救いいただきました。

 ええ、こちらでお眠りでいらっしゃる、見た目は二百七十代半ばですのに五十代半ばと恥ずかしげもなく自称なさる、白髪混じりの髪と口髭をお持ちの壮年男性は〝わたくし〟なのです。

 最初のひと目は鏡に映ったわたくしなのだと認識し、けれどすぐわたくしではないと理解する程度には、〝わたくし〟でいらっしゃいます。

 わたくしは女で、〝わたくし〟は男ですけれど、確かに〝わたくし〟なのです。

 その時でした。ちゅんちゅん、と枕元の目覚まし雀が朝を告げて歌いました。館長さまよりいただいた機巧(からくり)にございます。朝も昼も夜もないこの図書館において、わたくしに朝を告げてくださる大切な小鳥ですわ。

 爪先を床に降ろして、細心の注意を払って重心をなだらかに滑らせながら立ち上がる。髪のひと房ひと房、決して無駄な揺れを許してはいけません。髪がひと房、肌を滑って零れる動きさえ、意識しなくてはなりません。シーツが体に沿って皺を作るさまも、決して乱れがあってはなりません。

 あくまで優雅に。あくまで華美に。

 重心ひとつ、決して揺らしてはならない。足運びひとつ、決して油断してはならない。




 わたくしは、美しい。




 わたくしの声がしんしんと響く。

 ええ、わたくしは美しく在らなければなりません。何故? 思い出せません。思い出そうとすれば、きしきしと体が軋んで──どろりと、沼にでも浸かったように体が重くなって足運びが崩れてしまいそうになりますので、極力考えないようにします。

 洗面所に入ったわたくしはやはり、優雅さひとつ零すことのないよう、シーツを手のひらから流れ落ちる水のように落として、バスルームに入りました。温めていないバスルームの中はとても冷えていて、ぶるりと肌を震わせそうになって──美しくない震えは許してはならないと、自制する。あくまで優雅に。あくまで華美に。

 館長さまにお願い申し上げて特注で作っていただいた、肌に無理な圧力をかけない水圧で細やかな水を噴出するまんまるのシャワーヘッド。それから流れ落ちるお湯を全身に浴び、乾いてしまった汗ごと、ゆうべの情事の名残りを洗い流す。きしきしと軋む体が瓦解してゆくようで、心地よさに酔いしれます。腰がかすかに甘い疼きを訴え、けれどそれさえも洗い流してしまいます。新しい朝を迎えるならばやはり、清い体で。

 ふう、と心地よいシャワーにひと息吐いていますと、ふいに無遠慮にドアが開け放たれて、わたくしの優雅なるシャワータイムに濁りが生じてしまいました。些か不満そうに唇を尖らせて、粗忽にもレディーのシャワータイムに入り込んできた〝わたくし〟──執事さまを睨みます。

 わたくしの視線をどう取ったか、執事さまはわたくしの顎を乱暴に掬い上げて口付けてきました。ああ、と甘い疼きに満たされてゆく体に思わず声を上げるわたくしに、執事さまの口角が吊り上がったのが見えて、少し腹立たしくなります。


「不躾ですわよ、執事さま」

「別によかろう? 〝我輩〟が入っている浴室に入ることに、何の遠慮が要る」


 わたくしよりもずうっと声が低く、ほどよく枯れて渋みのある〝わたくし〟の声が鼓膜を心地よく揺らします。どれいさまのお声よりもやはり、執事さまのお声のほうがわたくしの耳には落ち着きますわね。


「もう出るのか?」

「ええ。朝食のご用意をしなければなりませんもの」


 執事さまをバスルームに残して、洗面所で茹だった体を丁寧にバスタオルで拭っていく。それから髪をひとつに纏め上げて、磨き抜かれた洗面所の鏡に映るわたくしをじっくり観察して傷やくすみがないか確認する。縁に装飾のひとつもない至ってシンプルな鏡ではございますが、わたくしの姿を忠実に映し出す歪みひとつ傾斜ひとつ濁りひとつない鏡はたいへん気に入っております。

 それから館長さまに揃えていただいた特注の化粧水と乳液、クリームで肌質を整えていく。これは何があっても決して欠かしてはならない、日々の習慣にございます。美しく保つためには相応の努力がなければ。美しく在ること、それはわたくしにとって必要不可欠な、生命線と言っても過言ではない──酸素のようなものなのです。

 何故?

 わかりません。それだけは、わかりません。わかりませんし──思い出したいとも、想いません。おかしな話でございますわね。美しく在りたいと願う女の本能、それだけでしょうに──わたくしの心は、美しく在ることを掘り下げたくないと拒絶するのです。

 きしきしと、体が軋む。


「──ふう」


 ため息ひとつ、美しく。

 肌質を傷付けぬランジェリーで身を包み、髪を一度ほどいて丁寧に乾かしトリートメントしてから、また纏め上げて今度はメイド服で体を仕立てていく。ヴィクトリアンメイドと呼ばれる、装飾の少ないクラシカルなメイド服だと館長さまよりいただきましたが、わたくしの美しい体をより美しく魅せてくださるすばらしいものだと思っております。コルセットで固定した体のラインに沿って皺ひとつ、美しく見えるよう身に包んでいけば次は、メイクです。

 過度なメイクは肌を傷めてしまいますので、あくまでわたくしの美しい顔が引き立つメイクを。こちらも館長さまに質のよいものを揃えていただきましたので、たいへん肌に馴染んでようございます。

 もちろん、指先も忘れず美しく仕上げます。料理をしますのでネイルはいたしませんが、爪先ひとつ丁寧に磨くだけでも美しく仕上がるのです。

 メイクが済みましたら最後にヘアセットして、わたくしが完成いたします。髪型はいつだって側頭部から長い長い、縦に巻いたロールを垂らすツインテール。他の髪型にしないのか、と問われたこともございますが、いつだってこの髪型です。この髪型が、わたくしを美しく魅せる最上の髪型なのです。何故? ──さあ。

 けれど、わたくしは美しく在らなければならないから。

 美しく在らなければ。美しく。




 わたくしは、美しい。




 ホワイトブリムを頭にセットしてようやく準備が整ったわたくしは──最後に、クリスタルの宝箱を手に取りました。中から取り出したのは、サファイアのタイリボン。サファイアを模した色合いをしているのではなく、真にサファイアの宝石で造られているタイリボンにございます。確か、単一物質系列世界でございましたか──館長さまとどれいさまが宝石で構築されている世界に渡られ、その折にお土産としていただいたものです。サファイアの宝玉を中心部に携えて、サファイアのリボンが大きく花開いているそれは──わたくしのこの美しい肢体を曇らせ、覆い隠してしまうほどの存在感。光にかざしてもいないのに爛々と煌めいていて、実に目立ちます。

 〝仮初(かりそめ)蒼玉(サファイア)〟──このサファイアのタイリボンにどれいさまがそう、名付けておられました。

 わたくしは美しい。この美しさを魅せるべく、わたくしは努力しなければならない。だというのに──どれいさまよりこのタイリボンをいただいた時、わたくしは心の底から、安堵してしまいました。

 わたくしの存在感を曇らせてくださる、あでやかなサファイア。

 ──何故、なのでしょうね。

 そんなとりとめもない思考をよそに、タイリボンを胸元で花開かせたわたくしは立ち上がり、洗面所を後にして優雅な足運びで朝のおつとめに向かいました。

 ──申し遅れました。わたくし、ここ〝自分図書館〟でメイドをさせていただいております。名前は先述した通り、覚えておりませんのでどうぞ、メイドとお呼びくださいませ。

 先ほどの殿方も同様に、ここで執事として働いておりますから〝執事さま〟とお呼びしております。かの〝わたくし〟もまた──わたくし同様、記憶がないのです。


「館長さま、おはようございます。朝でございますよ」

「んぁー」


 わたくしの部屋から十数メートルほど離れた部屋、そちらで眠っておられる主人(あるじ)を起こすのがわたくしの一日における、最初の仕事にございます。

 巨大な、天蓋付きのベッドが中央部にひとつ。その周りを(ひしめ)く、大量の万年筆と紙。──文字通り、犇いております。ええ、決して散らかってはいないのです。なんせ──宙に浮いておりますから。しゃっしゃっと万年筆が紙上を滑る音に紙が擦れる音で充満しているそこを縫うように、あくまで優雅にあくまで華美に、滑るように移動してベッドに近付く。

 ベッドでは黒い(みの)(むし)がのたうち回るように足を投げ出していて、やはり一瞬鏡に映ったわたくしだと誤認したのちに、〝わたくし〟だと認識します。

 のそりと、〝わたくし〟が起き上がって


「──おはよう、〝ワタシ〟」


「ええ、おはようございます──〝わたくし〟」


 この御人こそ──この〝わたくし〟こそ、ここ自分図書館(ジブントショカン)の館長。




 魔女にございます。




「今日の調子はどうだ? 〝ワタシ〟」

「ええ──変わらず、体が何かに締め付けられるように軋みます」


 館長さまもわたくしや執事さまの例に漏れず、記憶をお持ちでいらっしゃいません。だからこそ館長さまは〝自分〟を探すべく、世界と世界の狭間に〝自分図書館〟を創り上げ──ここを拠点に、ありとあらゆる世界を渡り歩いて〝自分〟を記録しながら自分探しに努めていらっしゃいます。

 ええ──ここは世界と世界の狭間なのです。意味がわかりかねるかと思いますが、こればかりは慣れしかないと思い、呑み込んでくださいませ。

 館長さまによれば、ひとつの世界を一滴のしずくとするならば、大海原ほども世界が存在するのだそうです。一見同じように見える世界でも多岐に枝分かれしていて、しかも果てなく枝分かれし続けて新たな世界が生まれ続ける──途方もない話ですわよね。しかも、世界にはそれぞれ、魂は同じくするけれど違う〝わたくし〟がいるのです。

 同一だけれど一致ではない。

 わたくしと執事さま、館長さまは〝わたくし〟です。間違いなく、〝わたくし〟なのです。けれど、住まう世界は全く違います。生まれも違えば環境も違い、性別どころか種族さえ違うことも珍しくはない。けれど、確かに〝わたくし〟なのです。

 ──不思議でございますわよね。


「朝ごはんは何だ?」

「ホットケーキを焼く予定でございますわ」

「ほっとけーき!」


 わっほう、と両足を伸ばしてはしゃいだ館長さまはそのままの勢いで跳ね起き、ぶるぶると猫人(ねこびと)のように頭を震わせる。ほうぼうに伸びた館長さまの髪に触れて、シャワーを浴びられてはいかがかと提案します。面倒くさそうに拘束された両腕を揺らす館長さまでございましたが、臭いことを伝えるとしずしずとバスルームへ向かってゆきました。

 今日も今日とて、館長さまの腕はみっつの錠に拘束されています。あれが外れたのを見たのは、この百年の内で──たったの一回。

 館長さまが何故拘束を解きたがらないのか、ご自身でもわからないと仰っておられました。だからこそ記憶を取り戻すべく──〝自分〟を知るべく、館長さまは世界を渡り歩き続けておられる。

 

 四四九年目 〇八ヶ月二三日 〇六時間〇六分


 館長さまの部屋を後にして向かったキッチンフロアにて、ほとんど柱と同化しているダークブラウンの木目調が実に趣深い振り子時計を確認します。わたくしの常識とは違う時の刻み方にも慣れてしまいました。不思議ですわよね、かように六十分でひとつ時間、二十四時間でひとつ日、三十日でひとつ月、十二月でひとつ年とカウントするだなんて。

 けれど、四つの月で時を知るよりも確実かもしれませんわね。体感的には、一日の過ぎ方はわたくしの常識とさほど変わらないように思います。

 こちらの時計は館長さまが〝ふと気付いた〟時よりずっと時を刻み続けているとのことでした。四百年以上経ってなお衰えぬのは、ひとえに館長さまが魔女だからなのでしょう。執事さまとわたくしが不変でいられるのも、ひとえに魔女たる館長さまの庇護下にいるからなのでしょう。

 世界を渡り歩くばかりか世界と世界の狭間に自らの領域を創り上げてしまえるほどの、万物に干渉し万事を変異させ、事象を司り現象を(とろ)かせることのできる魔女。

 ──わたくしの常識からも、執事さまの認識からも、そしてどれいさまの見識から見ても館長さまは理不尽かつ、例外的かつ論外的かつ除外的かつ、不条理かつ不合理な存在です。理不尽さえ捻じ伏せる理不尽。それが、〝魔女〟──そう、館長さまを……あの〝わたくし〟を初めて目にした瞬間、理解してしまいました。

 想いを馳せつつも、手はきちんと動かします。あくまで優雅に。あくまで華美に。美しく、しなやかに。流れるような手つきで。無駄のひとつさえ許さず。冷蔵庫から、ホットケーキの材料を取り出して手早く準備をしていきます。ふわふわ粉という、館長さまがつい昨日まで渡っておられた世界──確か、単一物質系列世界のひとつ。地面から家々、花々に木々、獣たち、そして人間さえも──全てが白い綿のような物質で構築されている世界、と仰っておられました。

 その世界ではいかに柔らかく、を至高としておられるらしく……料理には常に、よりふわっとした仕上がりにするふわふわ粉なる材料が使われているそうでした。それを館長さまがお土産としてくださいましたので、早速ホットケーキに試してみようかと思い立った所存にございます。

 ──ちなみに、館長さまが世界を渡られる頻度は週に一度、多くても二度といった具合にございます。渡られる先の世界は本当に多種多様で、物質の全てが食べられるという可食物質系列世界、生活の基盤が水や海水、マグマなどの溶液内にあるという溶液基盤系列世界、館長さまとどれいさまの常識によく合致しているという地球系列平行世界──本当に、多種多様なのです。面白うございますね。

 そんな多種多様な世界への渡界は館長さまただひとりで行われております。──以前は、もうひとり……〝わたくし〟が同行しておられたのですが、今は……。




「何がどうしてこうなったんですか、〝僕〟」




「!」


 噂をすれば影、とは少々違いますけれど今まさに想いを馳せていた〝わたくし〟──(ひいらぎ)どれいさまがキッチンフロアの出入り口で茫然とわたくしを見つめておいででした。

 柊どれい。彼も、この〝わたくし〟もまた──〝自分〟を失った状態で今から一年半ほど前にこちらへいらっしゃいました。そしてわたくしたちの中で唯一、〝わたくし〟を探す館長さまの旅に同行し──半年前に、〝わたくし〟を取り戻しました。

 それ以来、どれいさまはずっと自室に(こも)っておられました。


「おはようございます、どれいさま。ちょうどよろしかったですわ。何とかしなさいませ」

「成程、早速雑用押し付けるあたり相変わらずですねメイドさん」


 何があったのかって、ふわふわ粉を混ぜたホットケーキの生地を焼いたところ、キッチンフロアの半分以上をふわっとしたパンケーキで埋め尽くしてしまったのです。それはもう、見事にみちっと。


「これはまた壮観な」


 どれいさまはそう言いつつ、胸元にぶら下げておいででした──確か、かめら、という機械。それを構えて、かしゃっかしゃっと、何回かボタンを押されました。


「シャッターを切る、って言うんですよ。メイドさんの世界にはカメラ、ないんですね」

「映像を記録する装置でしたらメモリーズランプというのがございますわ」


 メモリーズランプというのはわたくしにとっては常識なのですけれど、どれいさまにはどんなものなのか想像もつかないらしく、首を傾げられました。世界が違えば常識も違う、本当に不思議でございますわね。


「──もう、大丈夫なのですか?」

「……ええ。すみません、ありがとうございます。毎日……食事を用意してくれて」


 今から半年前。どれいさまは、全ての記憶を取り戻しました。


 自殺したという事実も含めて、全てを。


 どれいさまは元の世界で既に死亡しておられました。死亡し、魂だけがこの図書館に落ち……館長さまの潤沢な魔力によって肉体を再構築されたのだろう、と館長さまは推測してらっしゃいました。

 どれいさまが全てを取り戻した時、どれいさまの手元には何も残っていませんでした。自らそれを手放し、死を選んだどれいさまは──二度と会えない家族のことを想い、嘆き咽び悲しみ……自室に籠ってしまわれたのです。

 食事だけは毎食欠かさずお運びしておりましたけれど、どれいさまのお顔をまともに拝見するのは実に……半年ぶりのことにございます。


「おかえりなさいませ、どれいさま」

「……! ……、…………ただいまです、メイドさん」


 わたくしの言葉に、何故かどれいさまが一瞬だけ泣きそうな顔をなさって──けれどすぐ、綻んだような笑顔になりました。


「なんだこの有様は。貴様のせいだな、どれい」

「いきなり僕のせいにすんなこの野郎」

「うまそーなにお──なんじゃあこりゃあ!? おい柊どれい! 何をした!」

「僕のせいじゃねえ!! あと驚き方わざとらしいぞ、館長」


 ぞろぞろと入ってきた〝わたくし〟たちに〝わたくし〟は──どれいさまは、若干のぎこちなさが残るながらも、半年前と変わりないご様子でお得意のツッコミをなされました。このツッコミがない半年は実に、笑いの不足した日々にございました。


「僕はお笑い芸人じゃねえんだけど? 〝僕〟ども」

「地味は地味なりに存在価値があるのだと我輩は学んだぞ。貴様の価値を認めてやったのだ、嬉しく思え」

「思わねえよ」

「あと、色がどうにも足りなくてなぁ」


 執事さまはそう言ってつややかに舌なめずりし──どれいさまと、全力の追いかけっこを始められました。執事さまの自分好きにも困ったものでございますわね。


「コレはもうこのまま食べるしかないなぁ」

「さようでございますわね。ふわふわ粉をひと匙入れただけだったのですけれど」

「ふわふわの威力侮っていたなぁ」


 どれいさまが執事さまに迫られているのを肴に、わたくしと館長さまは早速椅子をパンケーキのそばに置きまして、はしたなくも仕方がないので手づかみでホットケーキを食することにいたしました。

 ふわっとしたホットケーキはどちらかというとスフレチーズケーキに近い食感で、少しもぱさついておらず大変美味にございました。食は味覚のみにあらず。食感もまた、食の極みなり。──いつだったか、館長さまが力説してくださったのを思い出しつつ、もふもふとホットケーキをいただく。


「館長、このカメラだけどさ」


 執事さまを肘でどつきつつ、どれいさまが強引に館長さまの前に躍り出てきました。もっきゅもっきゅと鼠人(ねずびと)のように頬袋を膨らましていらっしゃる館長さまはお食事を止めぬままに、ぷかぷかと浮かしておいででしたホットケーキをどれいさまの口に押し込みます。


「モゴォ!」

「どうだ、うまいだろう?」

「もごっ……うん、うまい……んぐっ、それで、館長!」

「カメラをどの世界でも使えるように。あと、現像ないしはデータ管理できる環境を自室に」

「ぇあ? あ、ああ……そう、そうなんだ」


 言いたいことを先んじて言われてしまったからか、どれいさまは若干もつれつつもその通りだと頷いて、改めて同様のお願いを館長さまにされました。カメラをどの世界でも使えるように……それはつまり。


「──僕も世界巡りに同行していいか?」

「ヒャッホー! 雑用係戻ってキタァッ!!」

「おい」

「──無論、ワタシの旅なんだ。〝ワタシ〟がいて当然」


 茶化した回答を返したかと思えば次の瞬間には感情の読み取れぬ、薄い笑みを浮かべて心の底から愉しげな声を上げる。──本当に、館長さまは読めぬお方です。〝わたくし〟であるというのに──こうも、読めないのは逆に不気味で、けれどやはり〝わたくし〟なのでそういうものだと納得してしまう。まっこと、不思議にございます。

 けれど、今はそれよりも。


「……また、旅に出られるのですか?」

「ん、ええ。ハイ。……いろいろ、ありましたけどね。でも……」


 ──死んだものは死んだのだからしょうがない。

 死んでなお、何の因果か僕の人生はこうして続いてしまっている。

 それなら、僕の人生がどこまで続くのか。そして、僕の人生が続く要因になった館長がどんな結論を出すのか。


「それらを、カメラに収めていきたいと思ったんです」


 死してなお続いてしまった人生。

 なればと、どれいさまは続く人生に意味を見出したいのだそうです。


「ありとあらゆる世界を。ありとあらゆる情景を。ありとあらゆる〝僕〟を。──そして、〝僕〟が〝僕〟を探し求めるさまを──撮りたいんです」


 そう思ったらいても立ってもいられなくなって、自室を飛び出したのだとどれいさまは語る。語られる。

 そのお顔に、ご自分の〝死〟を自覚なさった時の名残りは色濃く遺っているように見えます。死ぬ寸前の容貌のまま、再構築されているとのことでしたので……過労死寸前であったというどれいさまの顔色が悪いのは当然なのですけれど、何と言いますか……。

 死んだ人間とは、こういうお顔なのかと思ってしまうのです。

 達観されている……、と申せばよろしいのでしょうか……。

 そんなどれいさまを見つめておりますと、無性に──むしょうに。むしょうに、こころがかきみだされるのです。

 そう、こころが、ざわめくのです。半年前……どれいさまが既に亡くなられていると判明した瞬間も、そうでございました。〝わたくし〟が既に死んでいることの衝撃と、(くら)い顔をする〝わたくし〟への憐憫の念──そして、そして。全てを失ってしまわれた〝わたくし〟への形容しがたい、形容しがたい……。




 ()()




 そうなのです。

 わたくしは、〝わたくし〟が既に死んでいることを、どうしようもなく羨ましく思ったのです。同時に、期待も生まれました。もしかしたらわたくしも、〝わたくし〟のように既に死んでいるのではないかと。

 きしり、と体が軋む。……こんなことを考えている時はいつだって、体が軋む。何かに締め付けられているような感覚で、息ができなくなる。

 ……わたくしは。


 わたくしは。




 ──わたくしは、美しい。




 ああ、と吐息のような声が零れてしまってそっと口元を手で押さえる。幸い、どれいさまがたには気付かれていなかったよう──いいえ。館長さまは、お気付きでおいでですわね。

 いつだって、そうです。何かを考えようとすればいつだって……わたくしの声が、脳内で響き渡る。高くつややかで、色艶を帯びたあでやかなわたくしの声。

 けれど、何故でしょう。


 この声が、怖い。




 【恐怖】


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