第十二自我 【僕という自我】
第十二自我 【僕という自我】
柊どれい。
一九九六年二月二十九日生まれ。
株式会社伝々虫通信のコマーシャル広告課営業グループ勤務。
出身は埼玉県の大宮市。
家族構成は母、柊つららと父、柊彰と僕、そして妹、柊めぐりの四人。
趣味はカメラ。高校時代にバイトして貯めたお金で買い、妹がプレゼントしてくれたケースに仕舞って大切にしていた。
享年二十五歳。
──〝記憶が戻った〟というよりは、〝電車に轢かれた〟ような感覚とともに取り戻した〝自分〟は、死んでいた。
「…………」
〝自分図書館〟の、机も椅子も設置されていないただの広間でしかない食堂。
そこで床に膝をつき、項垂れている僕にメイドさんと執事さんが寄り添っている。僕らの前では館長が魔法を展開して僕の世界を捜索してくれている。
地球系列平行世界なのは間違いないにしても、その数は星の数よりも多い。僕の情報を元に探しているが、もう二時間以上経つ。
「…………」
僕の人生は、大学を卒業するまでは凡庸を絵にしたようなものだった。
ちょっと抜けていておせっかいな母さんと、厳しいけれど優しい父さん、それに気が強くておませな妹めぐりと一緒に平凡で幸せな生活を送っていた。いじめられることもなく友だちと泥んこになりながら駆けずり回って、中学生になればちょっとエロいことに興味を持ってエロ本を友だちとコソコソ回し読みして、高校生になればバイトに精を出して趣味を謳歌して。
高校時代が一番輝いていたと思う。学校が終わったらコンビニでバイトをしてお金を貯めて、ずっと欲しくてたまらなかったデジタル一眼レフ、キャノン、CYANONのFOSシリーズXⅨモデル。十万近かったそれを買った時のあの喜び。
最初に撮ったのは、おませな顔で家を背景にポーズを取るめぐり。
お兄ちゃんが写真撮ってくれた! と、大喜びで母さんと父さんにカメラを見せに行っていた。そのあと、めぐりがこっそり貯めていた貯金でカメラのケースをプレゼントしてくれた時は思わず涙ぐんでしまった。めぐりが貼った黒猫のステッカーがいかにも少女漫画っぽいタッチでちょっと恥ずかしかったけれど、同時に世界でたったひとつしかないケースにも思えて、愛おしかった。
大学は特に何も考えず文学部に入った。必死で勉強していわゆる〝いい大学〟には入ったけれど、そのあとは特に何も考えずサークル活動に精を出していた。写真部に入って、サークル仲間と旅行しながら写真を撮る日々だった。単位を落とさないように、講義は真面目に受けていたけれど代返頼んでサボったこともある。
特に波乱があるわけでもなくサークル活動で青春して、三回生の半ばごろには就職活動で精神を削られるようになりつつ、四回生の半ばで株式会社伝々虫通信の三次新卒採用枠に潜り込めて、家族で喜んだ。
株式会社伝々虫通信は大手広告代理店で、名だたる大手企業の広告は大半がこの会社によるものである。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、インターネットと様々な媒体で広告を出すだけに留まらず、映画やドラマの企画を立ち上げたり、展覧会やグッズショップなどの展開活動も行う。
大学時代、風景写真のコンクールで銀賞を貰ったこともあってカメラに関する仕事をしたいと考えていた僕は、自分の撮影技術を利用して他人のイメージを再現できたらと思って株式会社伝々虫通信のデザイナー部門に応募した。
受かった時の喜びはよく覚えている。家族でお祝いにいいレストランへ食べにいったものだ。めぐりもすごいすごい喜んで、自宅ファッションショー開催して僕に撮れって言ってきたっけな。
あの頃は、楽しかった。幸せだった。
それが──変わったのは、入社してすぐのころだろうか。
「…………」
新入社員として、研修というよりは洗脳系の自己啓発セミナーのような厳しい合宿を経て、僕に与えられた仕事は営業だった。
デザイナーの仕事がしたいと言えば最初は誰しもが営業から始まると言われ、それを信じて営業として先輩や上司に怒鳴られながら駆けずり回った。
勤務時間は朝の九時から夕方の十八時まで。休憩時間は十二時から十三時。
それが守られたのは最初だけだった。
一週間経った頃には必要だから朝六時に来るよう言われるようになり、帰る時間もずるずる伸びていくようになった。しばらくの辛抱だからと言われて辛抱しても、それが元に戻ることはなかった。
最終的には朝の五時から夜の一時まで働くようになり、睡眠時間はほぼなかった。死ななかったのは、限界を超えるギリギリのところで一日休みを与えられるからだろうと思う。
休みも、採用時は土日祝日が休みだと言われていたはずだったが、蓋を開けてみれば休みは甘えという社風であった。
体調を崩すのも甘え。弱音を吐くのも甘え。眠いのも甘え。
ただしパワハラは厳禁。
コンプライアンス研修だけはきっちり、きっちり行われていた。パワハラ、セクハラ、過労死、その他諸々──定期的にコンプライアンス勉強会が行われていた。
その上で、会社は僕らに言う。
〝これは強要ではない〟と。
早出も残業も、確かに〝強制ではないけれど必要だからね〟と付け加えるように強要ではないことをアピールしていた。
だから、パワハラにはならない。
むしろ──パワハラだと指摘する側が、悪役に仕立て上げられた。異常な労働環境を変えようと立ち上がった社員は何人もいた。が、全ては社員の自律的な遺志のもとに行われていることであり、決して強要ではないしパワハラには該当しない──帰りたいのならば帰ればいい、我々は止めない。そう、集団に囲い込まれながら上から見下ろされる形で言われるだけだった。
帰りたいなら帰ればいい。止めないよ? 好きにすれば? 我々は決してパワハラなんてしていないし? 君以外のみんなは頑張ってるけどね!
──直接的な表現は、決して使われなかった。
僕に対しても、そうだった。
〝お前なんていなくても〟の跡に、いいとか誰も困らないとか続けばパワハラとして訴えられただろう。けれど、決して続かない。
続くのは、いつだって〝おっと、これ以上はパワハラだな(笑)〟だった。
「…………」
今思えば、逃げればよかったのだろう。
立ち上がった社員たちが労基なり警察なりに訴えても、会社の大きさゆえに大して問題にはならなかったけれど。退社していっても次の就職先がなかなか決まらないようだったけれど。
それでも、やりようはあったのだろう。
実際、退社した社員たちによる被害者の会が立ち上げられていた。それも、潰されそうになっていたけれど。でも、あの当時はネットでも会社の体質が問題視されるようになっていたから、やりようはあったはずなのだろう。
辞めさせてくれなくともバックレて逃げればよかったのだろう。次の就職先が見つからない嫌がらせに遭うとしても、逃げればよかったのだろう。退職していった社員たちに連絡を取るなり、あるいは家族に連絡を取るなりすればよかったのだろう。
今なら、いろいろ考えられる。
けれど当時は、考えられなかった。
逃げたいと思考する余裕さえなかった。
逃げたいと考える余裕がありゃ、電車になんて飛び込まねえよ。
「……いや」
ほんの少し余裕を与えられたからこそ、体が吸い寄せられたんだろうと思う。
あの日、いつものように朝五時から働いて、自称パワハラにはならない言葉を浴びせかけられて、食事を摂る暇さえなく動けと命じられ続けて、けれど何の気紛れか──夕暮れ前に、今日はもう帰っていいぞと優しい声を掛けられた。
体はひどく重くて、一歩足を踏み出すたびに胃から何かがせり上がって来そうで、けれど早く帰れた喜びに気分は高揚していた。地下鉄に乗り込んで、乗り換えて地上ホームに上がったところで多くのサラリーマンを見かけた。
定時に退社するサラリーマンたちを。笑顔で、健康そうで、幸せそうなサラリーマンたちを。
足の裏に感じる凹凸の感触がひどく痛くて、ビルに反射する夕日が眩しくて、そんな時に電車がまいりますというアナウンスが流れた。
別に飛び込もうだなんて意識はしていなかった。
飛び込み自殺する人間のせいで電車が遅延するたびに、死ぬならひとりで迷惑かけず勝手に死ねと憤っていたものだが、当事者となった今ならわかる。
飛び込むつもりで飛び込んだ人間なんて少ねえんだ。
飛び込むつもりなんかなかったけど、飛び込んでしまった人間が──大半なんだ。
死のうと思ったわけじゃない。生きたくないと思ったわけでもない。疲れたと思ったわけではない。
ただ、飛び込めると思ったから飛び込んだだけだ。
そこに意味なんてない。意志なんてない。意識なんてない。意義なんてない。意表なんてない。意図なんてない。意気なんてない。意欲なんてない。意力なんてない。意地なんてない。意中なんてない。意見なんてない。
ただ、飛び込んだだけだ。
「……僕は、死人なのか?」
「そうだろうな──〝ワタシ〟の世界で〝ワタシ〟は死んだ。それは間違いないだろうが、今〝ワタシ〟はその世界から弾かれている。死人とは、また違うかもしれん」
僕の問いかけに〝僕〟が答える。
魔女たる〝僕〟でも、世界から弾き出された死人というのは初めてらしい。
「そもそもお前たち自体が特異だからな。本来、魂はその世界の中でのみ完結する。たとえ死んだとしても循環するなり転生するなり成仏するなり、その世界の中でしか魂は動けない。これは理だ──だが、お前たちは世界から弾かれてここにいる」
と、そこで館長の目がすうっと猫のように細くなる。
「執事、記録しろ。地球系列平行世界第二種 №2299に新規追加、名前は柊どれい──既に死亡済み」
「畏まった」
執事さんがさらさらと、胸元から取り出した手帳にメモを残す。いつものように僕を茶化してからかう気配は一切ない。メイドさんも、いつもと同じ微笑みを浮かべてはいるけれど口を開かず、ただ静かに僕に寄り添っている。
「開くぞ」
館長の手が閃いて、いつもの派手な演出は何だったのかと思うくらいあっさりと異世界への扉が出現する。音もなく開いた両開きの扉の先に見えるのは、見慣れた僕のマンション。駅前でコンビニも近く、乗り換え一回、三十分ほどで都心部に行ける好条件のマンション。
ああ、と吐息のような声が零れる。
「──〝ワタシ〟、渡ってみろ」
「館長さま」
咎めるような、メイドさんの声が隣から飛ぶ。けれど僕、はのろのろと立ち上がって扉に向かった。扉の向こうは雨が降った後なのか、地面がしっとりと濡れている。煙が充満したような曇り空で、往来する人々の顔もどこか優れない。
手を、扉の向こうに伸ばす。
──けれど手は、見えない膜に阻まれた。
「──やはりか。執事、渡ってみろ」
「御意」
執事さんがかつりかつりと寄ってきて、僕の背後から手を伸ばす。僕の手が見えない膜に阻まれて通れないそこを、執事さんの手がするりと抜けていく。
「なるほど、大体理解した」
「……世界から弾かれてしまった魂は戻れない──そういうことですかな?」
「概ね。つまり〝ワタシ〟──柊どれい。お前は人間だが同時に死者であり、そして世界から弾かれた〝枠外者〟でもあるというワケだ。ま、ワタシなら魂を元の世界に通してやることはできるだろうが」
〝枠外者〟
枠から外れた者。
なるほどと、思う。
「魂は原則その世界内で完結する。〝異世界が存在する世界〟も含め、魂は絶対にその世界から──枠から外れない。お前が枠を外れたきっかけは〝死〟だろうが……宝くじを百億回連続で当てるよりも低い確率だろうということは間違いない」
そして、と館長はさらに続ける。
「メイド、執事。お前たちも同様に──柊どれいと同じように死んでいるかどうかはわからんが、既に枠から外れている」
「…………そうなのですね」
「まあ、我輩は別段気にせんがな。──だが館長。〝我輩〟の話の通りならば肉体はミンチになっておろう? だが今ここにある〝我輩〟の体は何ともない」
そう言いながら腰に手を回して艶めかしく手を蠢かせてくる執事さんに、けれど僕はいつものように拒絶する気になれなかった。それどころか──今は、〝僕〟に傍にいて欲しかった。
僕は既に僕が死んでいることを自覚した。
家族はどうしているのか。母さんは。父さんは。めぐりは。とても平凡でとても普遍的で、けれどとても優しくて幸せで、僕を心から愛してくれていたあの三人はどうしているのか。
それに、今ここにいる僕は何なのか。僕という存在は何なのか。僕は僕であると自覚しているようで、実は僕ではないのか。僕という自我は、一体何処にあるのか。
たまらなく──不安で仕方ない。
だから、こうして〝僕〟が寄り添ってくれているのは──ひどく、安心する。僕という存在が曖昧でも、〝僕〟という存在は確かにそこに在る。
「……弾かれた先が、この図書館だからだったかもしれん」
「この図書館?」
「普通、世界から弾かれたら魂は消滅する。世界の外側には虚無しかないからな。例え弾かれた先が他の世界でも、適合しなくて抹消される。だが──お前たちは、偶然か必然か、ワタシの創った図書館に落ちた」
ここ、自分図書館は館長の創り出した領域だ。
世界と世界の狭間に、虚無しかない狭間の隙間にひとつの世界をねじ込むほどの力を持つ魔女による、ひとつの領域。
「ここにはワタシの魔法が満ちている。意識したことなかったが……弾かれてここに落ちたお前たちの魂を、ワタシの魔法が勝手に補填したのかもな」
「……成程。で、あれば我輩が三百年近くここで生きていられているのも納得いく」
「推測にしか過ぎんが、まあ大方その通りだろう」
と、そこで館長が僕に向き直る。夜を煮詰めたような目が、僕をまっすぐ見上げる。
「──どうする、柊どれい」
どうする。
どうすれば、いいんだろうか。
わからない。
僕は既に死んでいる。自殺した。飛び込み自殺した。電車に轢かれた。世界から弾かれた。
僕は、どうすればいいんだろうか。
「お前は渡れないが、ワタシならば渡れる──この扉は開いたままにしておくから、こっちからでも世界の様子を見れるぞ」
様子を見れる。
そう言われて、とりあえず思い浮かんだのは扉の向こうに見えるマンションの、僕の部屋のことだった。
「じゃあ、とりあえず部屋に行ってみるか」
そう言うが早いか、館長は散歩にでも出かけるような軽やかな足取りで扉を潜り抜けていった。
歩道を進んでいく館長に合わせて扉も移動する。が、道を行き交う人々は扉の内側にいる僕らに見向きもしない。
こつり、と靴音がして横を向いたらメイドさんが立っていた。足音を立てず歩くメイドさんには珍しい、ヒールの音だった。また視線を扉の向こうに戻す。
マンションはオートロックのエントランスをカードキーで通らないと居住エリアに行けない仕組みだ。が、館長にそんなもの関係あるわけがない。普通に開く自動ドアを通り抜けてエレベーターに乗り込んだ館長に合わせてピッと六階のボタンが点灯する。
六階。
六階、六〇五号室。そこが僕の部屋だ。
チンッ、という小さな音の直後にブザーが鳴ってドアが開く。エレベーターを降りた館長の視界に、ちょうど部屋から出てきたひとりの女性の姿が映る。
「めぐり!!」
僕の喉を突いて絶叫のような言葉が出る。気付けば、見えない膜に阻まれるのも構わず扉に縋っていた。
六〇五号室、まさに僕の部屋から出てきたのは僕の世界でただひとりの妹、柊めぐりだった。目元の泣きぼくろがチャームポイントな、ポニーテールがよく似合う気の強い妹だ。
けれど今、館長の視界の先にある妹は僕の記憶にある妹よりも痩せているように見えた。顔色も悪く、目も赤く充血してしまっている。泣いたのか、目元も鼻先も赤い。
「──おにいちゃんっ!!」
ふと、館長の存在に気付いためぐりが叫んだ。絶叫だった。めぐりの目が驚愕に見開かれて、もつれる足で転びそうになりながらも必死に館長に駆け寄ってきて──けれど、館長に縋るか縋らないかのところで、僕じゃないことに気付いて止まった。
──痛々しい、様態だった。それに──久々に聞くめぐりの声は、とても掠れていた。
「……すみ、ません。間違え……ました」
間違え、ました──そう繰り返し言って、そこで耐えられなくなったのかめぐりのまなじりから大量の涙が溢れ落ちる。
「めぐり……!!」
とめどなく涙を流すめぐりにいてもたっていられなくなる。
けれどめぐりに伸ばそうとする手は、薄い膜に阻まれる。弾かれる。──拒絶される。
「めぐり……!!」
声さえも膜に阻まれてめぐりには届かない。
呆然としたようにただただ涙を流すめぐりに、僕は何もできない。何もできない。何もできない。何もできない。何もできない。何もできない。何もできない。
しゃりん、と音がする。
何の音かと怪訝に思った矢先に、館長の細い腕がめぐりの体を抱き込んだ。
館長の腕を拘束していたみっつの錠が、消えていた。
「──ワタシで悪いな」
それはめぐりに対してなのか、あるいは僕に対してなのか。
めぐりを抱きしめる館長の顔は見えない。館長に抱き締められためぐりは一瞬目を張って、すぐ弛緩したように顔をくしゃくしゃに歪めてなき咽び始めた。
執事さんとメイドさんが、僕に腕を回してくる。僕も、泣いていた。
届かない手に、届かない声に、どうしようもない後悔に──涙を流していた。
そうだ、そうだった。
何故僕は、めぐりのことを忘れていた?
いいや、忘れていたんじゃない。飛び込む時の僕に思考なんてなかったんだから忘れるという行為さえ存在していなかったんだ。
でも、でも、でも。
でも。
あの時少しでもめぐりのことを思い浮かべていたならと、思う。
父さんを、母さんを。
少しでも頭の片隅によぎらせていたなら。
どうして、僕は飛び込んでしまったんだ?
どうして、僕は逃げなかったんだ?
どうして、僕は相談しなかったんだ?
どうして、どうして、どうして──
それからしばらく、僕とめぐりは泣き続けた。
めぐりには館長が。僕には執事さんとメイドさんが。
寄り添ってくれる温もりを糧に、温もりに縋って、温もりに甘えてひたすら泣き咽んだ。
涙がようやくひと筋にまとまってきたころには、すっかり扉の向こうに見える空が紺色に染まってざあざあと雨が降っていた。
「──ごめん、なさい」
ぽつりと、めぐりの口から謝罪が添えられてふたりの体が離れる。俯いているめぐりの表情は窺えない。しかしかすかに見える濡れた赤い鼻先と、噛み締めすぎたせいで真っ赤に腫れあがってしまっている唇が痛々しい。
「……いいや、大丈夫さ。……柊めぐりだな?」
「え……は、はい……何故、わたしの名前を」
「──兄からよく聞いていたよ」
館長の静かな、鼓膜に馴染むくらい静かで凪いだ声はめぐりにもよく響いたようだ。めぐりは驚くことも焦ることもなく、落ち着いた表情でかすかに目を見張る。
そして、何処か縋るような顔で館長に再び縋った。
「もしかしてっ! 兄の、彼女さんですかっ!?」
「まあ、そんなところだ」
嘘吐け。
──だがまあ、めぐりがそう勘違いするのも無理ないだろうなと思う。なんせ、〝僕〟だ。兄である柊どれいではないが、柊どれいとよく似た雰囲気を持つ異性なのだ。これが他人であれば家族だと勘違いしただろうが、生憎、めぐりは僕の妹だ。親戚の顔くらい知っている。
それなのに、兄によく似た雰囲気の異性が目の前にいるんだ──兄と親密な関係にあったと思っても仕方あるまい。
「っ……やっぱ、り……あの、兄と……なんだか雰囲気が似てて……」
「よく言われる。そう言うお前も……よく似ているな。柊どれいと」
「……兄妹なので。あの……すみません、寒いですよね。中に……中、に」
「……ああ」
めぐりに連れられて、かつて僕が暮らしていた部屋──六〇五号室の中に入っていく。
中は、当時のままだった。
十二畳の洋間にベッドやソファ、テレビにテーブルセット──男の一人暮らしにしては贅沢な空間が、そこにある。
寝るためだけにしか使っていなかったこの部屋は、とても綺麗だ。テレビさえ、新品のままだ。冷蔵庫の中だって空で稼働している意味がない。かろうじて、カーテンレールに掛けられたハンガーとワイシャツが、生活感を漂わせている。
「ごめんなさい……何もなくて」
「いいや」
「……何も、ないですよね。あの……すみません、お名前は」
「名前なんてないさ。──魔女、そう呼んでくれればいい」
「え? ま……魔女、さんですか?」
「ここに来るのは今日が最後だからな」
「あ……」
いきなり何メンヘラくさいこと言ってんだてめえ、と思ったけれど──続けられた館長の言葉に、めぐりが沈痛そうに表情をしかめた。
「……そうですね。もう一年……経ちますもんね。だから、お別れを」
「そんなところだ」
「そうですか……ありがとうございます。兄を、好いてくださって」
「あいつのツッコミはもはや空気のようなものだな。何だかんだ甘えれば甘えさせてくれるし、文句言いつつも付き合ってくれる」
「──ふふ。本当に、兄と親しかったんですね」
自分が死んだ後、家族や友人はどんな反応をするだろうか。
そんな想像をしたことがある。泣いてくれるだろうか。すぐ忘れられるのだろうか。あいつは美化するだろうな。あいつにだけは葬式に来てほしくねえな──等々。だが実際、目の当たりにすると、想像は想像でしかなく妄想にすぎなかったって痛感する。
めぐりは笑って館長の話を聞いている。けれどその目から、涙は止まっていない。むしろ──館長の話を聞いてひと筋しか零れていなかった涙に支流が生まれ、顎に溜まった涙が下に水たまりを作っている。
こんなの──辛いだけだ。
ひたすら、後悔しかない。
もうやめてくれと館長に叫びたい。けれど、めぐりをこのまま放っておきたくもない。どうすればいいのかわからない。どうしようもないってわかっていても、どうすればいいのかわからない。僕は死んでいる。どうにもならない。でもわからない。どうしたらいいんだ?
ひたすら、後悔だけが僕の身を苛む。
「あ──そうだ、魔女さん」
「ん?」
止まらない涙に服の裾を濡らしていためぐりがふいに思い出したように立ち上がって、僕のクローゼットを漁る。確かあそこには。
「これ──ご存じですか?」
「──カメラだな。柊どれいお気に入りの。妹からケースをプレゼントされたのが嬉しかったと言ってたな」
「そうなんです。これ、兄のカメラで」
めぐりが持ってきたのは、僕の一眼レフだった。
高校時代にバイト代を貯めて買った、大切なカメラ。めぐりから貰ったケースも含めて──僕の大切な、宝物。
「──よければ、貰ってくださいませんか?」
「……ワタシにか?」
「……魔女さんに、というか……えっと、こんなこと言われても困ると思うんですけど……魔女さんを見ているとどうしても、兄を思い出すんです。ですから……このカメラは兄が持つべきだって、魔女さんに渡すべきだって……」
「…………いいだろう。安心しろ、〝ワタシ〟がそのカメラでいっぱい撮ってやるよ」
「は……はい! ありがとうございます、お願いします……」
館長の手に、僕の一眼レフが渡る。
〝僕〟に、一眼レフが戻ってくる。
何故だか、虚空感に染みていた右手に、ずしりと馴染んだ〝自分〟が帰ってきた気がした。
「……やっぱり、魔女さんが持っていると……なんだか、らしいなって思います。不思議ですね……」
「──奴は〝ワタシ〟であり、ワタシもまた奴だからな」
「ふふ……そんなに、ラブラブだったんですね。知らなかったなあ……お兄ちゃんったら、わたしにくらい教えてくれてもよかったのに」
ぷう、と頬を膨らませて拗ねて、それからめぐりは真剣な面持ちで館長に向き直る。
「あの、兄の死因について、魔女さんは」
「……パワハラと過労ゆえんの自殺だと聞いている」
「……はい。あれから一年……時間はかかりましたが、ようやく伝々虫通信が労働基準法違反容疑で法人として書類送検されました。パワハラの方も証拠を残してくださっていた方々のおかげで刑事告訴に至れることになりました」
それを聞いて、この一年間めぐりが──いや、おそらくは父さんと母さんも。家族が僕のためにどれだけ動いていたのかを、悟る。
そしてまた、後悔に苛まれる。
謝罪したくても、感謝したくても、もう僕の声は届かない。〝僕〟を介してかろうじて届けることはできるけれど、それは僕のものじゃない。
僕はもう、めぐりたちのところに帰れない。
「……ようやくスタートラインに立てた、というワケか」
「はい」
「……悪いな。ワタシも付き合うべきなんだろうが」
「いいえ。魔女さんには魔女さんの、人生がありますので。それに……なんとなくですけれど、魔女さんはこれから……遠くへ行かれるのでしょう?」
「ああ」
館長の言葉に、めぐりは弱弱しいながらも凛とした笑顔を浮かべた。
「──兄と一緒に、どうか素敵な写真を撮ってくださいね」
「ああ」
その言葉を別れの挨拶にして、館長は僕の一眼レフを手に僕の部屋を去った。
あまりにもあっけなさすぎてまた会える気さえしてしまう、別れだった。部屋を去っていく館長に合わせて視界が移動していく扉に、僕は思わず妹の名を叫んで縋る。まだ、まだめぐりを見ていたいと──妹から僕を離さないでくれと、薄い膜を叩く。叩く。叩く。叩く。けれど僕を拒絶する薄い膜は音さえ立てない。ただ静かに。ただ絶対に。僕を拒絶して、やまない。
「──通れないからそこをどけ、〝ワタシ〟」
部屋を出て六〇五号室のドアを閉めたところで館長が僕と視線を合わせて、言う。執事さんが背後から僕の体を抱き込んで扉から引き剥がした。
僕が扉から離れたのを見計らって館長が、扉を渡ってこちらに戻ってくる。戻ってきた館長の背後で、扉が閉まっていく。扉が。扉が。僕の世界への、扉が。めぐりとの──接点が。
「〝僕〟──」
命乞いにも似た、いいや。命乞いそのものの懇願が僕の喉から振り絞られる。
けれどそんな僕に、館長は凪いだ目しか向けない。
「ほれ、お前のカメラだ」
館長の細く、痩せ細った手から一眼レフが僕に渡る。僕の一眼レフ。大切な、一眼レフ。でも僕が本当に大切なのは。
「〝僕〟っ──」
僕に一眼レフを手渡して役目は終えたとばかりに再び腕をみっつの錠で拘束した館長に、僕はなおも縋る。涙はずっと止まらない。震えも止まらない。とても寒い。とても──怖い。
「──何だ?」
またもや、館長の凪いだ目が僕をまっすぐ見つめる。
凪いだ、感情のない──〝魔女〟の目が。
魔女。
そう、魔女だ。
館長は、魔女だ。
「頼む、頼む──僕をまたあの世界にっ……生き返らせて「無理だ」
僕の言葉を館長は呆気ないほどに呆気なく切り捨てる。
「前にも言っただろう──魔女たるワタシとて、死んだものを蘇らせることだけはできない」
絶対に。
そう付け加えて、館長は蹲るように座り込んでいる僕に視線を合わせて膝を折る。僕と〝僕〟の視線が、逢う。
「お前の魂を強引に戻してやることはできる。だが──それは蘇らせることではない。その世界に満ちる魂の器にお前を戻してやるだけに過ぎない──戻ったとて、お前は二度と妹には会えんよ。また人間に生まれるとも限らない輪廻転生の輪に入るだけだ」
〝僕〟はなおも、語る。語りかける。
「死んでも蘇る存在というのは世界によってはなくはない。が、それはあくまでその世界固有の事象のひとつにすぎない。完全なる〝死〟を迎えたいのちはな──ワタシでも、どうにもできないんだ」
だから〝死〟と呼ぶのだと、〝僕〟は語る。語る。語りかける。
「当たり前だろ? 死んだらそれで終わりだ」
語る。語る。語る。語りかける。
〝僕〟が立ち上がる。僕を通り過ぎて、僕の背と対になるかたちで歩き去っていく。
去り際に、〝僕〟はまた語る。語る。語る。語る。語りかける。
「〝死んだ人間は二度と戻ってこない〟」
ありふれて聞き飽きた言い回しが、今の僕にはとても痛い。
痛くて、悲しい。
痛くて悲しくて──後悔しかなかった。
当たり前のことだった。
死んだ後には何も残らない。
【後悔】
◆◇◆
後味が悪い? それが〝死〟だ。
第一幕 「僕」の章 完
これにて「僕」の章完結です。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
次は「わたくし」の章に続きます。